拾弐
向こう岸へ足を踏み入れた瞬間、一気に空気が変わった。元々、静寂に包まれた森だなとは思っていたが、ここはそれを更に神聖化した場所なのだということが肌で伝わって来る。
幻想的なものは大概見つくしたと思っていたが、風もないのにふわふわと煌びやかに光を放ちながら揺らめくベールは、優しく俺を迎え入れてくれているかのようだった。
こっちへ来いと、呼ばれているような気がして枝垂れ柳とベールを掻き分けて進んでいく。と言っても、俺が通るその場所から、次々にそれらが引いて道を開けてくれてたんだけど。
最後のベールが視界から退いて、そこに待ち受けていたのは……台座に体を預けて寛ぐ、銀色の獅子の姿をした獣だった。
この獣が放つ、王者の品格。それを見れば、この獣が聖獣の王ディザイアなのだということは疑いようがなかった。
不思議と、郷愁の思いがこみ上げる。何故そう思うのかは分からないが。
ディザイアは、しばしこっちを見つめた後、静かに口を開いた。
「運命に導かれし者よ。天の光が満ちる頃、閉ざされていた門が開かれる。彼等を導け。彼等が待っている」
世界を救いへと導く最高の預言者の預言。
しかしその内容は、運命に導かれし者よとか、彼等とか、誰のことを言っているのかよく分からないものだった。ただ淡々と予言したかと思うと、急に体がふわりと浮いて、来た方向へと押し返されていく。
え、ちょっと待って!! まだ何にも俺のことを教えて貰ってないと口にするより早く、心を見透かしたかのようにディザイアは言った。
「最善の選択の先に、お前の求めていた真実がある。向き合う心を養えば、自ずと答えは見えて来るだろう」
そうは言っても、こんなに答えを求めているのにまだ見えて来ないじゃないかと懇願にも近い思いでこの空間の外へと押し返される寸でのところで踏ん張ろうとしたけど……そのまま、外に弾き出されてしまう。
その瞬間、ディザイアの声が聞こえたような気がした。
「待っていたぞ…――」
最後の方は、よく聞こえなかった。
弾き出されまいと踏ん張った分だけ、体の重心は前に行く。それが意味するところはつまり……
「わわわ!!」
こける。見事に。前に倒れないよう体を逸らせたせいで、バランスを崩し間抜けにこける。
痛いやら恥ずかしいやら情けないやらで、ただただ居たたまれない。誰もいないならまだしも、ここにはウルヴォロスさんがいるわけで……
蹄の音で、彼が近付いて来るのが分かる。
「大丈夫か」
「……はい」
恥ずかしいので、出来ればスルーして欲しかった、です。って、逆にここで、気遣いの言葉も何もなく平然とされたら、それはそれで反応に困るが。
痛いですという態度を取るのも恥ずかしくて、何でもないかのように立ち上がって汚れを叩く。その間も視線を感じるのが何とも言えない……
若干、穴が開くほど見られているような気がする。決して自意識過剰ではない、と言いたい。
「王は、何と言っていた?」
あぁ、それが聞きたかったのかと合点が行く。聖獣の王が、わざわざ聖獣の森の外の人間を呼び出してまでも予言をすることはまずない。いつも予言を告げる際は、身近にいる聖獣を呼びつけて行うらしいからな。
だからこそ、その内容への関心も非常に高いのだ。それも、破滅の預言を告げた後の預言だからこそ尚更。
「えぇっと、確か……『運命に導かれし者よ。天の光が満ちる頃、閉ざされていた門が開かれる。彼等を導け。彼等が待っている』と、後は」
「天の光が満ちる頃、だと?」
「え、はい。確かにそう言って」
その後に言われた言葉ももう一度言っておいた方がいいのかなと思って口を開こうとしたが、それより早く、ウルヴォロスさんの眉間に皺が寄った。いや、あくまでも声の特徴的にそういう顔をした気がした、という感じではあったが。
何かに気付いたのか、ハッとしたウルヴォロスさんは、俺の項辺りのマントをガシッと咥えたかと思うとそのまま俺を上にぶん投げた。体が宙に浮いたから投げられたんだと認識したわけだが、その直後、彼の背中に跨る形で落下した際、落ちた拍子に顔を強か打ち付けた。痛い!
なんか、人間で言うところの項の所にある首の骨だろう突起物にガツーンッと打ち付けたみたいなんですけど!! 思いっきり骨だったから、痛いんですけど!?
それについての謝罪が欲しいとか以前に、一体何事なんですかってことの方が重要である。背中に乗れってことなら、そう言ってくれればいいのに……いや、どうやって乗ればいいか分からなかったけども。
馬って座高高いから、その背中に乗ろうと思ったら足がつりそうだし、そこまでして置きながら結局乗れなさそう。
とか思っている間に、何を思ったかウルヴォロスさんは、凄い勢いで走り出す。それも、首にしっかりしがみ付いてないと振り落とされちゃうぐらいの勢いで……怖いよ!!
速いし振り落とされそうだし風が強くてあんまり目を開けてられないし、そもそも何でこんなことになっちゃってるのか、説明してくれません!?
まるで新幹線に乗っているかのように、周りの風景が流れて行く。ただ一つ違うのは、快適な空間の中で、何の恐怖感も浮遊感もなく過ごせない、まるで安全バーのない絶叫マシーンに乗ってるかのような状態だということ。殺す気ですか!?
誰か助けてくれと思うや否や、聖獣の森の外が見えて来る。やっと、やっとこれで解放されると思ったのに……シュレンセ先生を始めとする皆さんの驚き顔が、一瞬にして通り過ぎた。
何故止まらない!? 馬は走り出したら止まれないって言うけど、それってホントの事だったんですか!?
いや、だとしてもこれは酷い! どうしてこうなってるのか説明してくれ!!
それ以前に、せめて魔族さん達みたいに俺の体を安定させる魔法とか使ってくれないだろうか? ホントもう無理ですから!!
風に煽られるマントやら衣服、そして体。そのすべてが俺から握力を奪い、緊張感と恐怖から手が汗ばむ。
俺はこのまま振り落とされて死ぬんだ、そう思った瞬間。ウルヴォロスさんと俺の距離は、離れていって……いや、でも待てよ? なんで、ウルヴォロスさんの正面が上下逆さに見えている?
ていうかこれ、慣性の法則とやらで俺だけ前に吹き飛ばされてるってやつじゃ?
「っ!?」
いっっつぅ~!! 頭、後頭部が!!
背中からいったから、息が詰まる。下草がたくさん生えてない所だったら、確実にもっと痛かった。下草に感謝!! じゃなくて!!
ウルヴォロスさんは、一体何がしたかったんだろう。ていうか、ここは何処だ。
辺りを見渡して、すぐに気付いた。ここは……
「潤しの源泉…?」
夢現界と幻想界を繋ぐ門のあった場所。未だ門は消失したままだが、確かにここが『潤しの源泉』だ。
周りの風景も何もかもが懐かしい。門がない以外は、何も変わらない。
でも、何故だろう。何かに誘われるように、門のあった石段へと向かう足が止まらない。
呼ばれている、気がした……
月の明かりが、石段をまんべんなく包む。次第にそれが淡い光となって石段自身を発光させ、まるで白いホタルのようにふわりと漂いながら上へ上へと向かっていく。
石段に両手をついて深呼吸。声が、聞こえてくる。ユニゾンが。
次第に頭がぼんやりしてきて……
頭の中で響き渡る『声』のままに、言葉が口をついて出てくる。
「目を覚ませ――の聖水よ」
淡い光達が門の形となって集まった。そこに、勢いよく吹き上げてきた水が門のとなって現れる。美しいユニゾンが歓喜の歌を歌い、淡い光は次第に消えていく。
消える最後の瞬間……
”心より感謝を”
『潤しの源泉』消失時、俺を助けてくれた声と同じだった。
ぼんやりとしていた意識が、ふっと覚醒する。俺は今、何を?
気付けば、『潤しの源泉』が前と変わらぬ姿でそこにあった。まるで自分が自分ではないかのような、不思議な感覚。一体何がどうなっているのか。
ただただ、不可解な状況に薄ら寒いものが競り上がってくる。この状況に置いて、唯一頼れるものがあるとすれば、俺をここに連れてきた張本人だけ。
少なからず、こうなることを予見して俺を連れてきたに違いないとウルヴォロスさんを振り返るが……彼もまた、唖然と門を見つめるばかりだった。
「まさか、そんなことが……」
その呟きを最後に、口を噤んでしまう。結果が分かっていて、俺をここに連れてきたわけではないのだろうか?
ディザイアの預言を聞いてすぐにここにきた、ということだけは間違いない。少なくとも、ディザイアの預言はここを指示していた、ということなのだろうか。
運命に導かれし者、というのが俺のことで、天の光が満ちる頃、が今だとするなら、閉ざされていた門が開かれる、が『潤しの源泉』を意味し、彼等を導け、彼等が待っている、というのは水の精霊達のこと? だとして、何故俺が?
尽きない疑問に、頭がパンクしそうになる。
こんな時、無性に思う。無力と無知が、こんなにも苦しいなんて、と。
ふと、地面を見つめていた視線を上げた。傍に、誰かの気配を感じたから……
「スヴェン、さん?」
何故ここに? 彼は、しゃがんだままの俺を立たせてくれて、そして『潤しの源泉』を見つめながら言った。
「魂が、君を護っている。導き、育ててる」
相変わらずの表情のない顔で彼は、でも、と俺を見つめた。
「いつか、記憶に呑まれる。鍛えなくては、消えてしまう」
「!?」
思わず息を呑む。消えてしまう、の言葉の意味が『俺』であると、その眼が雄弁に語っていたから。
真剣な瞳が、その言葉に真実味を与える。簡略化された物言いの中に込められた言葉の重さをそこから感じた。
でも、何故? ならば、何故?
「教えて、ください。俺は、どうすればいいんですか?」
口が渇いて、上手く言葉が出て来ない。それでも必死に、彼に尋ねた。
もう何度も問うた言葉。何度も何度も、疑問に思ったこと。
何故俺なのか、何故誰も教えてくれないのか。俺の事なのに、誰よりも俺自身が何も分からない。
悔しさともどかしさで、どうにもならなくなる。答えが欲しい。
俺の気持ちを察したのだろうか、彼は目を逸らさずに言った。だったら、と。
「試してご覧。魔法を」
「え、でも……」
俺の魔力は、不安定なんじゃないのか? 強力な魔力な上に未熟だから、魔法を使えば制御を失う可能性があるからって、それでずっと魔封じをかけられていたのに?
不安が過ぎる。あの時みたいに、また力が暴走してブラックウルフを呼ぶようなことになったら……
不安を隠しきれず、スヴェンさんを見つめる。けれど彼は、大丈夫だと言わんばかりに大きく頷いた。
怖いという気持ちは勿論ある。だけど、少なくとも彼が傍にいれば、何かあってもそれを止めてくれるような気がした。
不思議なことに、不安とは裏腹に心は穏やかなのだ。意識的か無意識か、言葉が、口をついて出て来る。
「魔窟に揺らぐ陽炎……魔物も屠る闇の焔……伏してその姿、我が前に現せ……獄門の炎狼!!」
揺らめく黒炎が現れたかと思うと、その炎が獣の姿となって出現した。
その姿は、あの時のブラックウルフそのもの。数歩近付いて来たかと思うと、その場に膝を折って頭を垂れる。何故か、あの時とは打って変わって、大人しく従順だった。
いや、それ以上にさっきの詠唱呪文、黒炎を呼ぶための呪文のはず。それなのに、何故俺は、最後に獄門の炎狼と言ったのか。
どういうことなのかさっぱり分からなくて、思わずスヴェンさんを見上げた。彼は、ブラックウルフを見つめたまま、何も言わない。
その代わりに答えてくれたのは、ウロヴォロスさんだった。
「詠唱呪文は、本来魔力を具現化するためのものではない。その者の魔力に合わせて、それに見合う精霊や化身を呼び出すためのもの。故に、現在使われている呪文はすべて中途半端なのだ。化身の名を呼ばず、己の魔力を糧に魔法を行使する。そのためのものへと変わってしまった」
だが……と、彼は俺を見つめた。真意を探れぬはずの彼の瞳が、今は悟れてしまう。
それは、俺自身も思うことだったから。
「お前は一体何者だ?」
失われた呪文を知っているのは何故だと、その瞳は語っていた。




