拾壱
あれからすぐに、シュレンセ先生の魔法で幻文書図書館の玄関前から聖獣の森まで転移させてもらった俺とカヴァリエーレさんとリッターさん。護衛だから俺から離れられないんだとしても、聖獣の森って……彼等に取っちゃ、鬼門みたいなものだろうに。
俺が悪いわけじゃないけど俺のせいだからなんか申し訳ない。
てか、カヴァリエーレさんとリッターさんはいいとしても、クウィンシーのことはどうしよう。聖獣の森には魔族は入れない。でも、俺からあまり離れられないように魔法が施されているクウィンシーはそうもいかないわけで……
急に景色も雰囲気も変わって驚いているのか、肩の上で右へ左へとせわしなく行ったり来たりして落ち着きがないクウィンシー。魔族の侵入を拒む聖獣の森の存在よりもそっちに意識が向いていてくれるのは有難いものだが。
正直、クウィンシーを肩に乗せているだけで伝わって来る威圧感が想像以上で、言葉もない。まるで、闇の深淵に引き込まれてしまいそうなこの嫌な感じは一体なんなんだ?
ただの森ではないことは初めから分かってはいたけど、魔族の皆さんからしたらこんな不気味な森だったのかと気付かされた。
俺、今からこの森に入るの? マジで? 嫌だなぁなんて思っていたら、未だ混乱しているクウィンシーをシュレンセ先生が抱き上げて離してくれた。
重々しい息苦しさが消えたのはいいのだが、急にシュレンセ先生に抱き上げられたクウィンシーは、クゥっと鳴いては不思議そうに俺とシュレンセ先生を見ている。
「この子のことは私に任せて下さい。私の傍にいれば、この子は君から離れていられますから」
「大丈夫ですか? こいつ、暴れるかもしれませんよ?」
家にいる時だって、俺がトイレに行っているだけで暴れまくって大変だから。暴れるかもと言った俺に、シュレンセ先生はキョトンとする。
「この子がですか? 私の所に居る時はいつも大人しいですけどねぇ」
マジか。今まで、授業を受けている間にクウィンシーの健康診断を行ってもらってたけど、確かにその時、いい子にしてましたよって言われて、シュレンセ先生はクウィンシーのやんちゃっぷりもその寛容な心で広く受け止めてくれているんだとばかり解釈していたが……本当に大人しかったのか。
じゃあ何故、家にいる時はあんなに……ちょっと落ち込む事実である。
そんな、マジかーな気持ちも、森の中から出てきた人物によって終了した。その存在感と同じように低くて重い足音が近付いて来たから。
「ウルヴォロス、お久しぶりです。今日は大介くんをよろしくお願いしますね」
にこやかなシュレンセ先生とは裏腹に、一瞬にして場の空気が凍る。澄んだ水も、光も届かないほどに深ければ濃く冷たく感じるものだが、彼の瞳が正にそう。何物も寄せ付けない冷たさがそこにあった。
ブランシェの父にしてユニコーン族の長、ウルヴォロス・ピュンター。相変わらずの近寄りがたさを放っている。
「お久しぶりです。シュレンセ殿」
二言三言、シュレンセ先生とウルヴォロスさんは話した後、その深い瞳を一瞬俺に向けて彼は聖獣の森へと入って行った。
ついて来いと目で言われるがまま、俺は皆と別れてウルヴォロスさんについて行く。って、いくらなんでもついて来いぐらい言ってくれてもいいじゃないの、とは言えなかった。
聖獣の森に入ってからどれぐらい経っただろう。会話もなく、ただただ彼の蹄の音と草木の揺れる音が響いていた。
よくよく考えれば、彼の息子を家で預かっていながら、俺の方も彼の方も特別、お世話しますお世話になりますな会話は一切なかったなと今更ながら思う。それをしに来てくれたのは、ブランシェの叔父であるペガサス族のアルフレート・ヴァルトさんだ。
人間世界への興味から夢現界への興味へと変わり、今ではドゥルーシア学園の生物教師だと言うのだから驚きである。
人が大好きだと言うのは疑いようもなく、気さくで豪快な彼はすぐに母と仲良くなっていた。まぁ、母さんはベネゼフとも仲いいから。
時々、休日の昼間に騒がしいなぁと思って一階に行くと、普通にベネゼフがお昼食べてる姿を拝見することがあったから……いやあんた、何してんだよ人ん家で。びっくりしたのは、それから数日後にはベネゼフと共にベネゼフの奥様だという方までいらっしゃったことだ。
主人がいつもご迷惑おかけしていますと非常に日本人的な対応をして下さっていたのは初っ端だけで、すぐにうちの母と仲良くなって、優雅ながらも陽気な性格でご飯まで作って頂いたという。
これぞ本物の貴族階級と言わしめんばかりの所作の美しさを披露しながら、あのベネゼフの奥様なだけあって同類な雰囲気も持ち合わせていた。
いや本当、語りつくせないほどの出来事が何気に今まであったわけだが、今は忘れておこう。
それよりも、ウルヴォロスさんには言っておかなければいけないなぁと思うことがある。
「あの、ブランシェは夢現界の方に居るん」
「知っている」
「無事みたいですけど、あの」
「知っている」
会話強制終了。せめて最後まで言わせてほしい。
貴方の息子さんの安否なんですから、そりゃあ貴方に一番に話が行っているので蒸し返す必要はないかもしれないですけど、その場に俺も居たわけだから、なんかこう言わなくちゃって思うだろう普通。
人間嫌いだったら、何してもいいのかよ。
居たたまれない空気の中、彼の蹄の音と草木の揺れる音が鳴り響く。土足厳禁ならぬ、おしゃべり厳禁ってことだな。了解!!
もう黙ってようと心に決めた途端、意外なことにウルヴォロスさんから話しかけてきた。
「私は、人間も魔族も嫌いだ。人は己を自然に合わせようとはせず、自然を己に合わせようとするからだ。それによってどれだけの自然が失われようとも、彼等の悲痛な叫びを聞こうとも、奪うばかりで護ろうともしない。魔族に至っては言わずもがなだろう。人間と魔族の戦の最中、これ幸いと、より高い力を得るためという名目で聖獣を狩っていたからな。人間もまた然りだが」
嫌悪感よりも諦めに近いウルヴォロスさんの言葉に、彼がどれほど自然を愛しているのかが伺える。でも、その気持ちは分かる気がした。こんなにも高く木々が生い茂り、月明りすら届かないほどの深い森だというのに、ここには光が溢れている。
光り輝く花々が、風に揺られて幻想的な雰囲気を放ち、降り注ぐ木の葉もまた光を放ちながら舞い降りてくる。水も、土も、石も、自然の全てが光を放つ。
何故ここは、こんなにも美しいのだろう。
「自然は、心を感じる。心を感じるからこそ、痛みにも敏感なのだ」
傷付ければ、すぐに萎れてしまう。元に戻すには、その傷を癒せるほどの大きな真心が必要になるのだと、彼は言っているような気がした。
でもそれは、人間にも言えることで……
「お前は、日本人だったか」
「え、はい」
日本人って、何故彼が夢現界での俺の人種を知っているんだ? それが何か関係ある?
「近代化と自然崇拝を両方有している者はそう多くはない。お前達は正にその一つだろう。だから、幻想界と夢現界を繋ぐ扉をお前達の国にしている」
「え、そうなんですか!?」
そりゃあなんで俺達の国なんだろうとは思っていたけど。もっと、魔法とかそういうのがある国はいっぱいあるわけで、確か黒魔術を学ぶ学校とやらがある国があったと聞いている。
なのに、なんで日本なんだろうか、と。
「溶け込みやすかったのだ。狂信的になり過ぎない宗教観があり、芯の強さを持って己を律し、客観的な面から他を分析しながら理解に努める倫理観を持ち近代化を見事に成していることが、比較的他の国よりも安全であろうと認識された理由だ。無論、治安面が一番大きかったが」
なんだか褒められているようでとても嬉しいと思ったのもつかの間、彼は、苦々しい口調で言った。
「それでも、自然を己の意のままに操ろうとしている者達であることには違いはない」
ご尤もすぎて、返す言葉もない。
自然に近付けば近付くほど、自分達の世界を広げて行くから、共存出来なくなって行く。それでも、そうでもしなければ人命を守れない状況になってきているのも事実だ。
元はと言えば、災害を誘発している原因の一つが人間にあるとしても……
「私が、人で敬意を抱いているのはシュレンセ殿だけだ。そして、悪魔で敬意を抱いているのも、一人だ」
シュレンセ先生に関してはそうだろうとは思っていたけど、悪魔って……あの悪魔? 悪魔なのに、敬意を抱いているって?
どういう意味なのだろうと見つめるけども、ユニコーンの姿では表情は窺いにくい。いや、人の姿だったとしても無理そうだけど。
「この世でたった一人、聖獣を従えた魔王がいた。彼の傍には常に闇以上の光が溢れ、平穏と幸福が約束されていた。彼は世界の奇跡であり、世界の理想だった」
えぇっと……急に何の話になったのだろう? 神話か何かだろうか?
ふっと、ウルヴォロスさんと目が合う。思わずびくっとしてしまったのは、その意志の強い瞳に驚いたから。
「私は、全てを憎んでいるわけではない。ただ、自然で育まれ自然に生かされてきたことを忘れている者達が許せないだけだ。自然は牙を剥く。だが、それは決して悪意ではない。それが自然というものだからだ。そのあるがままを受け入れろと言えば、大切な人達の生命を脅かされるのに黙って見ていろと言っているように聞こえるか? だが、自然とて奪いたくて奪うわけではない。自分ではどうすることも出来ない大きな力で、已む無く摘み取ってしまうだけだ。その度に彼等が悲鳴を上げていることに、お前達は気付こうともしない」
金縛りにあったかのように、動けなくなる。ただただ言葉を失い、その深い瞳を見つめた。
人類は今まで、自然を崇拝して生きてきた。自然のなすことには逆らえず、ただただ涙を流して耐えるしかなかった。
それが今ではどうだろう。医学の進歩と共に人口は増加。科学の発展も後押しする形で、自然現象を科学的に分析し始め、それに合わせて人の住みやすい環境に作り変えていった。
人はもう、この恵まれた環境を手放すことは出来ない。手放せないのならばせめて、自然現象によって引き起こされる災害への対策を進めつつ、環境に配慮した行動を起こそうとするしかないのだ。
けれどそれはとても限定的なもので、実現するにはもっと多くの時間が必要だけど。
皆、分かってはいるのだ。このままではいけないと。
だけど、どうしようもないのだ。一度手にしてしまった住み良い環境を変えたいなどと、誰も思わない。
それが分かっているからだろうか。彼の瞳は哀愁を漂わせつつ伏せられ……
「もし、あの魔王が存命だったならば、世界はどうなっていただろう。情に厚く心優しいあの魔王が生きていたなら、世界はもっと美しかったのだろうな」
哀しみを湛えた呟きと共に、彼は再び前に向き直って歩き出す。
彼の言っている『あの魔王』とは、一体誰の事? でも多分、あの魔王の事なのだろう。
最近、ヴィクトールさんに借りた本で魔王は代替わりしながら存在していたことを知った。それは神の方も同じだったけど、不思議なことに、ある魔王の事だけが何処にも記されていなかったのだ。魔王ダークスターの前の魔王のことが。
それ以前の魔王のことは載っているのに、その部分だけが歴史から抜け落ちたかのように何処にも記されていない。まるで、その存在を隠されているかのように。
もし、その魔王のことを指しているというのならば、何故、彼の記述を省く必要があったのだろうか。
風が吹き抜けて、草木が揺れる。妙に心がざわつくのは何故だろう。
ふと、胸が締め付けられたのは、何故……?
それからしばらく歩いた頃、先程までとは明らかに雰囲気の違う場所に出た。
枝垂れ柳のような木の枝垂れた部分に、天使の羽衣のようなものが垂れ下がっている。薄いベールに包まれたその空間はとても不思議で、神秘的だった。
「ここだ。あの向こうに居られる」
そう言って、沢で区切られた向こう側にある神秘的な空間を見た。あの先に、聖獣の王ディザイアがいる。そう思うと、緊張が競り上がって来てどうしようもない。
中々一歩が踏み出せない俺に、ウルヴォロスさんは言った。
「行け。お前の運命が待っている」
運命……その言葉に込められたあらゆる意味を噛み締めながら、一歩を踏み出した。




