弐
しばらく動くことも出来ず、ただ唖然と『潤しの源泉』のあった場所を見つめた。次第に周りの状況が見えて来て、登校中だった生徒達の恐れおののく姿を冷静に見られるようになってくると、俺に激突してきたまま抱き付いていた皇凛が震えていることに気付く。
「皇凛……」
「だ、だいすけ……な、何が…起こった……の?」
潤しの源泉消えちゃったと、恐怖で震えながら言った。
何が起こったのかなんて、俺にも分からない。だが、怯える皇凛をこのままにはして置けないと、いつもの冷静さで背中をトントンと叩きながら言い聞かせる。
「皇凛、とにかくもう大丈夫だから。もうすぐ大人達も来てくれるはずだ。だから落ち着け」
「でっ、でも!!」
「皇凛」
極力怯えさせず、でもちゃんとこちらに意識を向けさせるように、何処までも冷静な口調で名前を呼ぶ。その甲斐あって、先程まで軽く錯乱していた皇凛は俺に視線を流して動きを止める。
少し安心したのか、若干目元が潤んでいた。
「大介……何が、起こっているの?」
「分からない、けど」
俺を助けてくれた精霊達のユニゾンの中に、一つだけ、語りかけてきた声があった。
”こちらに来ては駄目”
確かに、そう言われたのだ。あれは一体、何だったのだろう。ブランシェは大丈夫だろうか? ちゃんと向こう側にいるのだろうか。
不安が過ぎるが、そんな不安もクゥインシーの鳴き声で中断させられる。
「クウィンシー、何騒いでるん」
『潤しの源泉』のあった場所にある石段の上に……
「スヴェン、さん?」
彼が、いた。どうして? 何故ここに彼がいるのだろう?
何かを確認するようなそぶりで、その場にしゃがみ込んで石段を撫でている彼。何をしているんだと不思議になって見ていたら、スヴェンさんは何かに気付いたかのようにハッとして、その瞬間、石段から一筋の黒い光が彼を目掛けて発射された。寸でのところでかわしたスヴェンさんは、後方に身を翻して身構える。
目の前の出来事に呆気に取られて見ている俺の方にも、彼を狙ったものと同じ光が飛んできて……え、ちょ!!
「大介!!」
名前を呼ばれたとほぼ同時に、何かの衝撃を感じ、その後ぐっと痛みが襲う。激突した痛みで苦しい。苦しくて堪らない。
痛みに慣れて少しずつ状況が飲み込めてくると、俺達は吹き飛ばされたのだと知る。先程まで俺達がいた場所にはスヴェンさんがいて、俺も皇凛も3メートルも飛ばされていた。恐らく俺達はスヴェンさんに突き飛ばされ、その後地面に激突して転がったのだろう。
スヴェンさんは、片膝を付いてしゃがんだ姿勢で右腕を顔の前にかざしている。かなり応急的な感じではあったが、どうやら俺達を助けてくれたらしい。クウィンシーも、俺の首にしがみ付いていたので大丈夫だったようだとほっとする。
しかし、何であの光は俺のことを狙っていたんだ?
石段の方を見ていると、あの黒い光の放たれた場所から黒いもやもやした塊が溢れ出て来ているのが見える。度々、おぞましい雄叫びを上げながら形を成そうともがいては、形になり損ねたままに膨れ上がっていく。その周りからは黒い霧のようなものが発生し、どんどん辺りに広がっていった。
スヴェンさんはそれを見て言った。
「そんな力で、勝てるとでも?」
徐々に広がっていく闇の力に怯える俺達と違い、彼はとても冷静だった。そんな分析が出来てる時点で俺も冷静なんだけど、でも、この霧が相当やばいことだけは確かだ。
それは俺だけではなく皆そう思っているはずだが、あまりの恐怖に動けなくなっているのか、他の生徒達は逃げることも出来ずただ立ち尽くしていて……
身を縮め、震えている彼等。でもこれは、早く逃げなければいけないものだと直感した。立ち止まっている場合ではない!!
「皆、早く逃げろ!! 早く!!」
動けない皆の元へ走って、彼等を引っ張る。恐怖の呪縛から解かれた皆は、背中を押されたことで逃げることに成功し、最後に皇凛の元へと向かったのだが。
「皇凛!! お前も早」
「っ!?」
皇凛が、俺を見て驚いた。いや、違う。これは……
皮膚に、刺すような冷たさを感じる。冷気が、俺の右耳に吹き付けられる。
”見つけたぞ”
ゾッと、した。何かが、背後にいる。振り返るのが、怖い……
皇凛の顔が、徐々に蒼褪めていく。その視線は、確実に俺の背後に向けられていた。
「彼に近付くな!!」
何処からか、そんな声が聞こえて来た。それと同時に背後にあった気配も消え、その場に力なく座り込んでしまう。心臓が、痛いほどに鼓動を刻んでいた。今……何が?
まるで、心臓を鷲掴みにされているかのような、とてつもない恐怖。未だ、早鐘のように脈動する心臓だけが鮮明で……
「クゥ~」
クウィンシーが、ギュッと身を震わせながらも俺に抱き付いて、やっと震えてばかりはいられないと思えた。その硬く冷たい鱗を撫でてもう大丈夫だと安心させてやりながら、とにかく早く、ここから逃げなければと力の入らない足を必死に動かして皇凛の元へと急いだ。
この霧は危険だ。ここにいてはいけない。あの霧が濃くなって、さっきのようなものが再び現れたら……
いや、今は可能性の話をしている場合ではない。一刻も早く、ここから立ち去らないと!!
「皇凛、大丈夫か!?」
「だ、だいすけぇ」
完全に泣きが入っている。それはそうだ。俺ですら動けなくなるほどの”何か”を直視してしまったんだから……
だけど、このまましゃがみ込んだままでいたらこの霧に飲み込まれてしまう。それだけは避けなければと、皇凛を急かした……のだが。
「とにかく行こう。早くこの場から離れないと」
皇凛は、まったく立ち上がろうとしない。何故か、なんて愚問だ。その目は雄弁に語っていた。
「腰が、抜けたのか?」
「う、うえぇ~ん」
って、泣かれても俺にはどうにも出来ない。まさか皇凛を置き去りにも出来ないし、かといっておんぶってのは体格的にも体力的にも無理だろう。
俺と大差ない皇凛をおんぶ出来るほど、俺は自分の体力に自信がない。そうなるともう、スヴェンさんにお願いするしか……
「スヴェンさ」
呼びかけた言葉が途切れる。彼が放つ闇の魔力に圧倒されたから。
彼の体から力が放出され、それが彼の周りを数センチほど覆うようにして揺らめいていた。分かりやすく表現するならば、気のオーラをまとっている感じ。
それが、彼の言葉と共に……
「永久に眠れ」
放射線状に解き放たれた。
一瞬にして辺り一帯が闇に包まれたが、不思議と恐ろしくはない。むしろ、恐ろしい闇を打ち滅ぼす虚無。闇に視界を塞がれているというのに、怖いという感情を抱くことがない。
痛みに呻く雄叫びだけが辺りに響いて、その声が消えた頃、闇も消え去っていた。
終わった……のか? 普段通りの、いつもの景色。そこにはただ、俺と皇凛とクウィンシーと、そしてスヴェンさんだけ。
彼は、俺達の方に振り返って、言った。
「力を鍛えて、彼等に立ち向かって……―――」
「え?」
後半は、何を言っていたのかよく聞き取れなかった。風が、彼の言葉を掻き消すように吹き抜けて、ざわめく葉の音だけしか聞こえなくて……
真剣な、瞳だった。射抜かれたように動けなくなっていると、彼はスゥッと消えてしまう。引き止める間は、なかった。
何だったのだろう。さっきの闇の塊も、スヴェンさんの言葉も。
力を鍛える。それしか、自分の身を護ることが出来ないから?
でも彼は、立ち向かってと言った。一体何に? 彼等とは、一体誰のこと?
胸が、急激に冷えた。もしかして、あの声の正体と戦えってこと? あの、許さないと言った声の主と戦え、と?
そんなの絶対に無理だ。怖くてとても、そんなことは出来そうにない。
誰かが近付いて来ているのが分かった。段々と大きくなってくる声と人々の足音。少し、安心する。
何人かは息を呑んで立ち止まったけど、その内の数人は俺達の傍にまで来てくれた。温かい何かが、俺の背中に掛けられる。それにくるまれて、やっと傍にいるのがシュレンセ先生だと知った。
「大丈夫ですか?」
「はい……」
急激な疲れが、俺を襲った。瞼が重くて、思考も定まらなくて……
「もう大丈夫ですから。お眠りなさい」
促されるままに、瞼を閉じた。
目が覚めると、そこは見慣れない天井。けどなんとなく、この場所には思い当たることがあって……
多分、医務室だ。裏付けるように、白衣を着た男性が傍らに立っていた。
「気が付いたんだね」
よかったと、心底喜ぶ白衣の男性。しかし彼、決して医務室の看護師ではない。
「マリア、先生?」
歴史学教師のマリア・セイレンス先生だ。彼の癒しの魔法は絶大で、これまでも、皇凛と李先輩脱走の際の憔悴しきった二人を魔法で癒した方だったりする。
歴史学の先生をやらせているのが惜しいほどの存在なのに、先生自体が歴史好きということもあって歴史学教師をやっているっていうのは、なんとも勿体ない気がしないでもない。まぁ、好きなことに一生懸命に取り組む姿勢は見習いたいとは思うけど。
「大丈夫かい? すぐにお友達を呼んできてあげるね」
「ありがとうございます……あの」
「ん?」
返答を待って歩き出した先生を呼び止める。一つだけ、気になったことがあったからだ。
「皇凛は、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫だよ。初めは混乱して泣いちゃっていたけどね。君が目を覚ましたって聞けば、飛び付いてくるだろうね」
「出来れば、寸でのところで止めて下さい」
この状況で飛び付かれたら、俺の内臓が死ぬ。それでも、皇凛が無事なのをこの目で確認したかったから来るのを止める気にはなれない。マリア先生が、友達を連れて来てくれると言ったのもきっと、俺を安心させるためなんだろうな。
あんなことがあった直後なのだ。普通ならば、校長先生かシュレンセ先生を呼ぶのが普通だろうけど。俺のことを気遣ってくれた、ということだ。
カーテンの向こう側で、勢いよく開く医務室の扉の音が響く。俺の名前を呼ぶ友人達の声を聴いて、飛び付かれることを半ば覚悟して身構える。カーテンが開かれる音が聞こえた。




