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ただの貧血ではないんだろう、なんで倒れたんだ、という皆さんからの心配を含んだ当然の疑問。しかしながら、そんなことは俺にも分からない。
しかもアルテミス先輩は、俺が何か寝言で囁いていたと言うのだ。よくは聞き取れなかったらしいが何事か口にしていた、と。
一体何があったのか、俺自身にも分からない。何でまた公衆の面前でそうなってしまったのか。しかし今回は、前回とは違い精神だけが持っていかれそうだったということ。
そしてそれを引き止める、懐かしくも切ない声。それが誰の声だったのかは分からない。
しかし、その声の温かさに癒され恐怖など感じなかった。あの声は一体…?
ラクター先生の授業の時に聞いたのと同じ、凛とした声。名を呼べと、そう言っていたことは覚えている。
でも…
結局俺は、あの時名前を呼んだのだろうか? よくは覚えていない。
考え込んで口を閉ざしてしまった俺をどう見たのか、ヴァルサザーは辛いことなら今でなくてもいいと言ってくれた。でも事が事なだけに言わないわけにもいかないと、洗いざらいその経緯を話すことに。
再び闇に取り込まれそうだったこと、それを引き止める声があったこと、その声をラクター先生の授業で魔獣を呼び出してしまった時に聞いていたこと、全てを話した。
しばらくの沈黙の後、ヴァルサザーは決意したように硬い表情で真剣な瞳で俺を見据えた。
「どうやら君には、我々の護衛が必要なようだな」
「え…それって、夢現界の時だけのってあれですか? けど、俺が倒れたのは幻想界の方で…」
「だから、夢現界含め幻想界での護衛を、だ」
「は…」
な、何!? いや、ちょっと待て。それじゃあまるで…
「我々はこの事態に関して、君を最重要保護対象として警護することにした」
「そんな…今回たまたまそうなったという可能性が…」
「確かにないとは言い切れないだろう。だが、君も知っての通り我々は魔族だ。あの『魔神の后土』での一件がただの悪戯だとしても、非常に鬼気迫るものがあった。何故なら、あれが本当のことだとするならば我々は裏切り者の烙印を押されるはずだからだ」
裏切り…者? 一体どういうことだ?
魔族が人間と共に生きている、そんな平和的な生き方の何処が裏切り…
ヴァルサザーの言っている意味に気付いてはっとすると、ヴァルサザーは大きく頷いてその考えを肯定した。
「そう。我々は何より、種の存続のために共存を選んだ。しかしそれは、本来ならば決して交じり合うことのない種族間交流だ。それをあのお方が許すはずがない」
あのお方、というのが誰なのか。多分、創世神話に出てくる魔王・ダークスターのこと。そして使い魔・ロードだ。
俺からしてみればただの神話でも、魔族や幻想界の人達には神話ではない。
実際、光神・アルメシアの存在は未だに信じられているし、存在しているからこそ幻想界、夢現界がこの世にあるのだとすら言われている。彼等にとっては、これは創世神話などではなく実話なのだ。
なんとも、俺自身の認識とのギャップに多少埋められない壁を感じるが、彼等魔族などの存在があること自体を思えばいないとも言いきれない。
しかしそれでも現実味を感じないのは、俺自身が信仰心を持っていないからなんだろう。
無神論者な自分を再認識している目の前で、ヴァルサザーは深刻そうな面持ちだった。
「あのお方が復活された日には、我々は容赦なく制裁を加えられるだろう。そして自我のない本能のみの生き物に作り変えられ、容赦なく人を殺し、暴走するだけのただの魔物となるのだ」
自由意志など存在しない、そんな強制的な力で捩じ伏せられるのだと、苦渋に満ちた顔を更に歪めたヴァルサザー。どんな凄惨なことが起きてしまうのか、それは如実に表していて…
途端、今まで空虚だったそれが、とてつもなく危険なものを孕んでいることを悟る。今まで感じることのなかった底知れぬ恐怖が、今になってやっと胸を締め上げてきた。
現実に起こるとは限らない。だがしかし、一歩一歩確実に近付いてくる何かは禍々しく巨大で恐ろしい。その闇に飲み込まれたらもう、自我などあってないようなもの…
瞬間、酷い目眩が体から力を奪い、意識が朦朧とする。
ドサリと体が崩れ落ちた音を最後に、急速に目の前の映像が切り替わる。
フラッシュバックする光景。
何事か叫ぶ誰か。
血色に染まる赤黒い男。
不敵にして凶悪な笑みと…
『貴方は王の器ではない』
底冷えのするおぞましい声を最後に、気味の悪い残像は音もなく消え去った。
『では、お前は…』
言葉にならなかったその呟きが、痛々しいまでの痛覚と共に掻き消えるまで…打ちつけるような胸の痛みを抱え続けた。
一体あれはなんだったのか。妙にリアルで痛みもあって…未だに、動悸が激しい。
今自分がどこにいるのかさえ分からない浮遊したような感覚の中、鼓動の速さだけが生を感じる唯一の術となり、夢か現実かさえも分からないままただあの感覚が体から抜け落ちていくのを待った。
あれは予知夢の類ではない。それは確かだ。
じゃあ一体なんなのか、その答えは導き出せない。ただの夢でも感覚を有する夢もある。
触れた感覚、衝撃の感覚、浮遊の感覚…しかしどれも、以前に体感したことのある体験を夢の映像と共に再現したというもので、体感したことのない痛みを感じることなんて出来るはずがない。
じゃああれは一体…?
ただのリアルな夢であることを願うには、あまりにも疑問点が多すぎた。
体が重い。ぼうっとする。瞼も目に張り付いている。
目を揺らして無理やりこじ開け、心配そうな顔と目が合う。
出てきた声は掠れていた。
「父さん…」
「何か飲むかい?」
優しいアルトの温かい声にただ頷いた。微かな動きに気付いて、体を起こしてくれた上にストローを挿したミネラルウォーターを口元まで掲げてくれる。
思考が回るようになってから聞いた話によると、今日のところは帰ると言って三人は帰ったそうだ。
本当はきっと、もっと俺から聞いて置きたかったことがあったはず。しかしあえてそれを先延ばしにしたのはきっと、俺の体調を考慮してなのだろう。
そして、このことを途中経過とは言え校長先生や魔族の皆さんに報告するためなのだ、と…
思考が追いついてきてからやっと、そうなんだと思えるようになった。
ここ最近の出来事に翻弄されて、頭が破裂しそうなほど悩まされる。本人の意志とは関係なく脅かされる平穏。無性に、泣きたくなった。
これからどうなってしまうのか、その不安がついに目前まで忍び寄ってくる。たった4日間の出来事とは思えない、急速な変化に戸惑うばかりで…
どうしたら今の不安定な現状から抜け出せるのか、終わりのない闇が手招く姿に始めて闇が恐ろしいと感じた。そんな俺が闇属性だなんて、一体どんな罰ゲームなんだと笑いたくなる。
暗く恐ろしいと感じる闇。温かく優しいと感じる闇。どちらも確かに闇なのに、相反する感覚。
俺を寝かしつけ部屋を出た父を見届けてから、上体を起こし月光の夜を窓越しに見上げた。
どうかこの空が、明日も明後日も未来永劫続いてほしい。何故かそう願わずにはいられなかった。
同日同時刻、魔族に衝撃を与える訃報が知らされているなどとは知らず、歓迎祭翌日の休みを思い静かに瞼を閉じた。
俺の願いとは裏腹に、世界は急速に変化する。
求める者がいるから沈むのか、はたまた世界がそれを望んでいるからなのか…現代社会の人間の負が、巨大な闇を引き寄せる。
刻一刻と近付く終焉の足音は、確実に俺達の背後に忍び寄っていた。




