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気が付くとそこは、何もないただの闇だった。不思議とそのことに恐怖心を抱くことはなかったが、真っ暗な視界の中で木霊す淀んだような気味の悪い声だけはとても不気味だった。
まるで水面に落ちた雫が波紋を描き広がっていくようにエコーが掛かり、言語として認識するにはいささか聞き取りづらい。不協和音のようなそれを耳にしながら、水中で浮遊するような不安定感の中で漂っていた。
何かに隔たれた遠い声に注視することもままならないまま、尋常じゃない異様な空気を内包した真っ暗な世界が反転する。
視界がクリアになった途端、体に二回の打撃を受けた。一瞬言葉を失って悶絶したが、やっと痛みが遠退いた頃打撃の正体を認識する。
最初の衝撃は柔らかいけど弾力があってトランポリンのような温かい何かで、二回目のは地面だった。
いやその前に、一体何が起こったんだっけ? 取りあえず状況確認をと辺りを見回すと…
「デカ! え…何?」
見たこともないほど巨大化したラビットフェアリーがいた。大きさにすれば、通常の大きさの200倍はあろうかという巨大さ。勿論ながら、そんなでかいラビットフェアリーが自然界に成育しているわけもなく、だからこそ驚いているわけだが…
一体全体何が起こっているのか、もはやこの瞬間にすべて吹っ飛んでしまいそうだった。
いや、落ち着け。きっと打ち所が悪くてそのまま失神し、夢でも見ているに違いない。
冷静にそう思っている時点で本当は夢なんて見ていないのかもしれないが…って、自らその可能性を否定してどうする。
ぐるぐると回る思考に飲み込まれ不可解なこの状況を推測しようとしていると、傍からカサリと草を踏む足音が聞こえた。
そちらに意識を向けた瞬間、ラビットフェアリーが光を放ち元のサイズに戻る。そしてラビットフェアリーは、唖然としている俺の方へと駆けて来て…いや、その左隣にピョンピョン跳ねて行く。
向かう先にいたのは、一昨日湖畔で出会ったあの人物。一時は友人達に、魔物とも幽霊とも目されたあの人だった。
駆けて来たラビットフェアリーを腰を屈めて抱え上げたその人は、そのままの姿勢でこちらに視線を送る。
視線が絡む…が、それがまた凝視するものだから…
「何か?」
先に見つめていたのは俺の方だが、しかしこんなにも長く見つめるからにはあちら側に何かしら言いたいことがあるに違いない。だとすると、俺がそう聞くのもおかしくはないのだが…
未だ、答えもせず見つめてくるだけってのはどういうことなのか。
「あの…」
「来ちゃいけないと…言った」
「え? あ…」
指摘されて始めて、ここが湖畔だと気付く。波打ち際はさざ波によって寄せては返すを繰り返し、水の匂いと濃い緑の匂いが交じり合ってここが森の中であることを認識させた。
しかし何故、こんなところに? 確か、皇凛を探して絶壁の山頂にいたはずだ。皇凛を見つけて、それから……それから?
突如フラッシュバックする落下の記憶。底冷えするような聞き取りづらい声。思い出した途端、一気に恐怖で凍りつく。
あの高さから落ちて、何故平気なのか。あの闇の中は何だったのか。考えるべき疑問点はあれども答えが見付からない。ただ今更ながらやって来た恐怖心に唖然とするばかりだ。
それからしばらくして、慌てふためく様を凝視する視線に気付く。というか、視線云々の前に頭を撫でられたからその存在を思い出したわけだが…
「えっと…」
こういう場合、なんて言ったらいいのだろうか。慰めて下さって有り難う御座います? それとも、子ども扱いはしないで下さい?
いや、さすがに後者は違うよな。しかし…
「あの、もう大丈夫ですので…」
よしよしが終わらない。なんて言うかこう…マイペース、なんだろうなぁこの人。
そしてそのペースについて行けないわけだが…と思っていると、何処からか俺を呼ぶ声が聞こえてきた。
多分、アルテミス先輩と皇凛辺りだろう。その他にもう一人いることから、李先輩ではないかと推測。
意識がそちらに向いている間に、湖畔のその人は立ち上がって去って行こうと背を向ける。
「あ、待って下さい! あの…」
推測だが助けて頂いたらしいその人の名前を聞かねばと呼び止めたら、振り向いた直後にその人は唇の動きだけでそれを伝えてきた。
『スヴェン…』
どうして唇の動きだけで分かったのか俺にも分からないが、彼がそう言ったのが分かった。すぅっと、半透明になって消えていく。
その瞬間、胸が締め付けられて苦しくなる。何故かは分からないが、悲しさが込み上げてきて、じわりと胸が冷え息がつまった。
この感情に名前を付けることは出来そうにないが、この苦しさに覚えがある。ただ、あまりにもこの症状を誘発する要因が思い当たるせいで、一体その中のどれに属するのか明確に出来ない。
何に心が震えてしまったのか、ぼうっと考えていたせいで反応が遅れてしまう。
「…け! 大介!!」
「え…」
「無事かい?」
「はぁ…」
揺さ振られて意識を向ければ、目の前に心配顔のアルテミス先輩がいた。
確かめるように全身くまなく視線を巡らせて確認した後、強くきつく抱き込んで真剣な、それでいて安堵するような声を搾り出した。
「良かった…本当に良かった」
見たこともないアルテミス先輩の狼狽振りに、一瞬度肝を抜かされ呆けてしまう。今までの人と同一人物とは思えない。
それはまぁ、心の中だけに止めておく感想にするとして…
「うわぁ~ん! だいすけぇ~!!」
「え…わぁ!!」
大音量の泣き声と共に、アルテミス先輩は力を緩めて俺から離れる。多分だがこの追突を予見して離れたのだろう。こっちはすぐにはそれに対応出来ず、完璧にその攻撃を食らった。
勿論、本人的には攻撃のつもりはないのだろうが、勢いよく抱きついてきたらそのまま押し倒されてしまうだろうことぐらい予測してほしかった。
おかげで、地面との接触面が非常に痛い…
「いっつ~」
「死んじゃったかと思ったぁ~!! 怖かったよぉ~!!」
わんわんと傍迷惑なほど大音量で泣き続ける皇凛。もう何か、怒る気も起きない…
本気泣きで泣き続ける皇凛を慰めながら、俺達は森を後にした。
その後の質問攻めを思って身構えていたのだが、予想以上に皆心配していたようで、暗黙の了解で質問は夜にということになった。
色々と振り返る時間が出来たのは良かったが、思い出すたびに不可解なことだらけで行き詰まる。
俺の元に校長先生やシュレンセ先生がやって来たのは、夕食の終えた直後のことだった。
「話しがあるんだが、いいかな?」
「あ、はい」
学園トップの校長と錬金術師界の重鎮のお迎えに、食堂内にいた他の生徒がチラチラとこちらを見てくる。まぁ実際、その前からチラチラと見られていたわけだけど…
どうせ居心地も悪かったしと先生方について行こうとすると、アルテミス先輩がそれを引き止めた。
「僕も一緒にいいですか?」
「あぁ、勿論だとも。それから…李くん達も来てくれ」
「はい…」
無遠慮な好奇の視線の中を縫うように歩いて行った。
連れて来られたのは、先生方が会議や連絡用に用意した会議室。そこには既に、他の先生方や人型になったヴァルサザーやベネゼフがいた。
入った瞬間のこの重苦しい雰囲気に、皇凛は驚いて李先輩のローブに縋りつく。まぁ、気持ちは分からなくもない。
何せ、入った直後に全員に視線を向けられたのだから…
「まぁ緊張せず、ゆったりしてくれたまえ」
そう言ってパッと人数分の椅子を魔法で出して席を勧めてくれた。遠慮しても何にもならないし、俺達は勧められるまま椅子に座る。
そして本題…とばかりに校長先生は俺を見て質問した。
「早速だが、コールディオンで何があったのか、話してくれないだろうか?」
穏やかな口調で語り掛けてはいたが、他の先生方の緊張から相当重大なことらしいと推測する。いや、当事者がそんな他人事のように捉えているのはおかしいとは思うが、しかしこのピリピリとした緊張感はいかがなものか…
皇凛も怯えきって李先輩に縋りついたままだ。
コールディオンとはあの絶壁の壁を持つ山の名前で、その中腹に草原があった。小高い山を隣接しながらもあれだけの高さを誇る断崖絶壁は、その地形が出来た原理を知らなければいささか不可解に思われるだろう。
遙か昔の大地震で崖自体が断層の影響で縦に大きくずれた、というのが真相だと聞かされれば納得であるが。
それ以降はドラゴンの生息地としても知られていたが、長きに亘る魔法使いとの戦いで人の生息地付近から姿を消したのだという。
コールディオンという名の由来は、当時その地に住んでいたドラゴン達の長とも言うべきドラゴンが、魔法使いとの死闘で敗れた時、この命を持って一族の安全と命の保障を願い出た勇士からその名を取って付けたのだそうだ。
死闘を経てこの付近に住む人達は、年に一度コールディオンの命日に祭り事をして崇めるのが習慣で、そのおかげか今まであの崖での事故や悲劇は起きていない。
それはコールディオンの魂があの地で息づき、二度と悲劇が起こらないようにと見守っているからだと信じられている。
そんな地で起きた事故…いや、事件? 言い伝えなどを重んじるこの幻想界の人達なので、それはもう心底驚いたことだろう。学生が一人、崖から落ちちゃったなんて…
俺だって落ちたくて落ちたわけでもないわけだが、助からない可能性の方が明らかに高かったことだろう。あの高さから落ちて何故助かったのか。
近いとはいえ、何故落下予想地点から大幅にずれた湖畔に落ちたのかも謎だ。
いやそもそも、あの人何者?
「大介くん」
「は、はい」
「君が一番のキーポイントなんだよ。ゆっくり整理して、話してくれないか?」
「はい…」
確かに、俺の身に起きたことが一番聞きたいことなんだろう。しかし、一体何をどう話せばいいのか分からない。
一応の整理をしたはずなのに、改めって言おうとすると空回る。まず、皇凛を探しに行った件から…だよな。
「皇凛を探しに岸壁に行ったんです。皇凛がフランティを手に入れたがっていたので、多分行っているだろう…と。それで、そのことも含めてシュレンセ先生に報告して俺とアルテミス先輩で探しに行ったんです。二手に分かれた方が効率がいいということで二手に分かれて探していると、崖を覗き込んでる皇凛を見つけて、引っ張って崖から離したら…突風が…」
「続けて」
「崖に押されるようにして吹いてきた風に落とされたんです」
急に口が渇いたような気がした。あの時の衝撃波のような風に、成すすべなく頭から落ちていく感覚。その時のことが鮮明になって、続きを口にすることが難しくなる。
それを察したように校長先生がテーブルに温かいホットミルクを出してくれて、俺はそれに口を付けた。
今更ながら襲い来る恐怖に、背後が心許なくて不安になる。アルテミス先輩の手が背中を擦ってくれて多少は落ち着いたが、これから話すことはもっと恐ろしい体験だ。
あの闇の中にずっといることになっていたらと思うと、怖くて怖くて堪らない。




