18
音が聞こえる。それは声だった。
「大介…」
「…ん」
「朝だよ」
前髪がサラリと流れた。何故か上に。重い瞼を無理矢理開くと、声の主がクスリと笑う。それもやたらと近くで。
「大介の寝顔って可愛いね。思わずキスしちゃいそうだったよ」
「……は?」
やたらと近いと思っていた理由が、本当に間近に迫っていた顔のせいだと判断すると共に、やっと追いついた思考が言葉を理解する。
俺は今、異空間にでもいるのか。これはきっと夢だ。そうに違いない。
朝から意味の分からない状況と言葉に考えることを止め、早々に二度寝を決める。いけない悪夢を見てしまったようだと、今度こそ普通の夢を見ようと寝返りを打った。
しかしそれを、悪夢は許さない。
「二度寝してもいいけど、その時は容赦なく襲うからね」
「起きます」
すぐさま起き上がれば、アルテミス先輩は残念…と本当に残念そうに俺を見下ろしながら呟いた。この人まさか、本気だったんじゃ…
本気で貞操の危機を抱いていると、ドアの所にサンダース先輩がいた。その顔が、何かを企むように笑っているのが気に食わない。
何を期待していたかは分からないが、変なことを口走った途端に手近に置いてあるスタンドを投げてみようかと思う。重いから結構な攻撃力がありそうだし、最悪当たらずしも意思表示にはなるだろう。
なんて思っていれば、第三者のご登場でその計画を実行することはなくなった。
「飯、食いに行かないの?」
もう一人の同室者に、心から感謝する。
寮の一階にある食堂にはテーブルの上にオーダー票が置いてあり、それに向かって注文すると料理がテーブルの上に出現するという方法でご飯を食べる。まぁなんて言うか…非科学的だ。
最初こそ驚いたはものの、今やそれも慣れたもので今更驚かない。俺の脳は、確実に浸食されてしまっているようだ。
しかし、いつ見ても広い食堂だと思う。天井も高く、シャンデリアの光が目に痛い。
基本的にゴシック様式の建築なのか、高い天井は一つの頂点を起点にアーチ状に柱や壁に向かって流れるように繋がっていた。日本の古い神社仏閣などとは素材からして違うとはいえ、この天井の高さはやはり見応えがある。
そんな神聖ささえ感じてしまいそうな食堂に、特別クラスとして生徒代表を務めているサンダース先輩とその総元締め…もとい、友人のアルテミス先輩と共に入って行けば、当たり前の如く注目され挨拶をされることに。
偶像崇拝に近いドゥルーシア学園よりもここはマシとは言え、人気のある二人である。まぁ、俺に対して妬み嫉みの視線を向ける者はいないが、それもこれもアルテミス先輩の独裁政治の成せる業な様な気がするんだよな…平穏なのかそうでないのか微妙。
取りあえず、これ以上一緒に行動する必要性もないので、ひっそり何処かで食べようと思っていたのだが…
「どうしたの、大介。まさか僕とは食事出来ないなんて言わないよね?」
「…言いませんが…」
その後に続く言葉は飲み込んだ。言わずとも分かっていそうだったから。
先手を打って行動を制限されたことにがっかりする。いい加減俺に自由を返してくれないだろうか。
拒否しても後が怖いので、渋々後をついて行く。
ご飯も食べ終え、致し方なく話を振られるのでアルテミス先輩と話していると、突如として上に何かが乗っかった。いや、乗っかると言うよりもタックルされたと言った方がいいかもしれないが。
テーブルに強かに打ちつけてズクズク痛む胸を押さえながら、こんなことをする奴はお前だけだよなと、顔を上げずに唸る。
「皇凛、お前ぇ…」
「聞いてよ、大介! 俺ね、さっきシュレンセ先生にウィンドラゴンの髭を貰ったんだよ! 俺が研究でどうしても欲しいって言ったら、特別にって一本だけくれたんだぁ! それでね! それで…」
「分かったから、早く退け!」
いつまで乗ってる気だと語尾を強めれば、一瞬動きが止まってから退いてくれた。いや、くれたってのは可笑しいが。
体制を戻しながら、皇凛に目を向ける。嬉しさで俺の怒りを感じ取れていない様子の皇凛は、終始上機嫌だった。
「でねでね! 後もう一つ、フランティさえあれば」
「魔力増強剤の完成…でしょ?」
皇凛の言葉を遮って、アルテミス先輩が言い当てる。皇凛は嬉しそうに頷いてみせた。
常に新薬を作ることに従事している皇凛の作るものは、それこそ下らない物から将来に期待出来る研究まで幅広い。その上、何のプライドだか絶対に既存の薬には手を出そうとはせず、一から作り出すことを楽しんでいた。
事、新薬作りの研究に関してだけは決して手を抜かない彼らしく、それこそその道の人達にしか理解出来ないような言葉の羅列で色々と新薬の説明してくれたりもするのだが、聞いたところで半分どころか一割も理解出来ないことをそろそろ察してほしい。
予め元々の材料の特性を知っていれば大よその当たりは付けられるだろうが、それでも博識でなければとてもではないが何を作ろうとしているかまでは言い当てられないのは確かだ。
よって、言い当てたアルテミス先輩は凄いということになるのだが……なんとなく、アルテミス先輩なら事も無げに何でも出来てしまいそうだってのが恐ろしい。
そんなことより、わざわざそれを言うためだけに来たというのだろうか? 胡散臭い…何か企んでいるのでは?
「で、何の用だ? ただウィンドラゴンの髭を貰ったことを報告しに来ただけじゃないんだろ?」
何で分かったのと言いたげに、皇凛は目を見開いた。いや、分かるだろさすがに。
ホント、行動の端々が分かりやすい奴だな。何が目的なのか、自らそれを話し出すまで待っていると、どうやら相当言いにくいことのようで何度も言うか否かで葛藤していた。
その瞳は、言えば怒られるのではないかと言いたげで…怒るような内容なんだなと内心溜め息を吐く。
おずおずと、皇凛は話し始めた。
「フランティ…取りに行くの、付いて来て?」
「駄目だって言われるのは、分かってるんだよな?」
「…うん」
元気な皇凛には似合わず、シュンと身を縮めていた。その姿に深い溜め息を吐けば、皇凛が窺うように見て来て、その瞳は駄目かと聞いてくる。
本当にもう、この探究心旺盛研究一筋な友人をどうしたものかと呆れてしまう。研究自体はいいとは思うが、新薬のために必要な材料が尽く入手困難危険一杯なのにはどうすればいいのか。
あんまりな申し出に思わずアルテミス先輩を見てしまうと、俺の苦労を察し、困ったねぇと微笑んだ。
皇凛の欲しがっているフランティとは、幻想界の植物で高山植物の一種であり、とても貴重な希少価値の高い花である。
それだけでも大事だが、何よりも一番の問題はそれを原料として使うには生きたままのものを劣化しないようにその場で真空にして保存しなければならないということと、絶壁の崖に咲く一輪の花ということから採取にはとても危険が伴うという点であった。
もっと言えば、その崖はドラゴンの生息地の崖であり、一般人は立ち入り禁止の場所である。
魔族が住む土地との境界線には結界が張られており、ドラゴン達の生息地もまた結界によって護られ自由に行き来は出来ないようになっている。それは貴重なフランティを更に貴重なものとさせてしまっていた。
ただの崖でも咲いていないことはないだろうが、薬草としての価値があるかどうかまでは保障出来ないほど、咲く場所によっては価値を失うとても扱いのデリケートな花である。
しかも絶壁の壁にしか咲かないのだから、俺達にどうやって取れって言うんだと言わざるを得ないだろう。
それらも全て分かった上でのお願いならば、尚のこと皇凛には諦めてもらうしかない。
後もう一つの方法は…
「お父さんとかにお願いしてみたらどうだ? 皇凛のお父さんって、新薬開発のエキスパートなんだろ?」
お父さんに分けてもらえばいいじゃないかと提案すれば、それには首を横に振られた。どうやら、頼めない事情があるようだ。
何でだと思っていると、アルテミス先輩が理由を話してくれた。
「皇凛のお父さんはほとんど家には居らず、研究室に籠もりっきりだからね。お願いも何も、研究室自体が何処にあるのかも分からないんだ」
「はぁ、根っからの研究者ってわけですか。でも、いくらなんでも何処で研究しているかくらいは…」
「父さん、一度研究に没頭すると誰にも邪魔されたくないからって、研究室の場所を至る所に変えるんだ。だから研究が終わるまでは消息不明になるんだよね」
つまり今、消息不明中。親子揃って問題児なのかよ。ならば仕方がない。最後の手段。
「お父さんが戻って来るまで待てばどうだ?」
「えぇ~!? そんなのやだぁ~」
やだじゃないだろやだじゃ。
研究は逃げはしないんだから、後でも先でも変わらない気がするんだけど。こうも抗議してくる時点で、諦める気はないんだと気付かされ溜め息が絶えない。
どうしたものかと思案する中、取りに行くのを付いて来てなんて言ってる時点で、俺がここで拒否れば幻想界散策の自由時間中に李先輩と勝手に崖に向かってしまうのではないとか、とそんな危惧までしなければならなくなる。
何より、昨日の今日でそんなことを言ってくるのだ。もういっそのこと、先生達にペナルティーを科せられれば懲りるんじゃと、どんな苦境でも懲りるなんて言葉とは無縁だと知りながら願ってしまう。
シュレンセ先生は本当に優し過ぎだから、今回のことは咎めませんなんて言って皇凛を許しちゃったからこうなるんだ。
昨日の段階で断固として罰を与えるつもりでいてほしかったが、今日の呼び出しでもなおウィンドラゴンの髭を与えちゃうほどお優しいのは勘弁して頂きたい。
そのとばっちりが俺に来るってことに、まさか気付いていないわけはないと思いたいものだが…
元々生徒を叱るといったことのない方だとは分かっていたが、どうせならその神の如くお優しいお心を俺にも分け与えて欲しいもである。
色々な疲れからふぅと溜め息を吐けば、アルテミス先輩が肩を叩いて労わっって来た。
「お疲れ様」
その言い方があまりにも他人事だったので、この際アルテミス先輩も巻き込もうと心に決めた。苦労するのが俺一人だなんて、絶対に認めない。
「アルテミス先輩もですよ」
振り返り様にそう言うと、おやっという表情をし、次の瞬間には微笑みの貴公子宜しく微笑んだ。なんだろう、物凄く早まった感が…
「僕に頼るってことがどういうことか、分かって言っているのかな?」
「!?」
しまった! 謀られた! この人を巻き込むなんて、俺の命を差し出したも同然じゃないか!
何故それに気付かなかったのか。お疲れ様なんて言われた時点で気付けたはずなのに、完全にこの人に嵌められてしまった!
上手いことアルテミス先輩の手のひらの上で転がされ、この人の張った罠に見事引っかかって捕獲される。いかんせん自然な流れだっただけに気付けなかったとは言え、こんなにも見事に煽られてしまうとは…
アルテミス先輩の故意犯的行動を前に、俺は撃沈する。後になって一体何を要求されるのか、怖くてとても想像なんて出来ない。
近しい未来を思いうな垂れる俺を見て皇凛はどうしたのと聞いてくるが、多分アルテミス先輩はとても大喜びなことだろう。
何せ、俺に無体な要求が出来るチャンスを得たのだから…




