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なみだの人々  作者: 夜之 四兎
1/1

雪の章

初心者です。

のんびり投稿していきます。

春の始め、両親が離婚した。


泣きたかったのに、何故だか、泣けなかった。ずっしりと、重くて冷たい石が胸の奥に積まれたように息苦しいのに、それを吐き出すこともできなくて…どんどんと積まれていく。


「ねぇ、最近、アンタ元気ないね」


「そんなことないよ、大丈夫」


 そう心配されてしまう自分に、さらに自己嫌悪して、もうどうにかなってしまいそうだ。ぎゅっ、と、胸を握りしめる。友人の一人が、かり、と頬を掻いて、話を変えるように手を叩いた。


「あ、あー!そういえば、こんな噂知ってる?」


「噂?」


――夕暮れ時に町の真ん中の十字路で、お日様が沈む場所を背にして五歩進み、一番近い電信柱と壁の間を通り抜け、左にある細路地で目を瞑って13歩、そのまま回れ右をして細路地から出ると、キラキラと光る色とりどりのガラス玉を飾った…――


(なんか、怪談みたいだけど、悩みを解決してくれる幽霊が居るって)


すがるような思いを込めて、早歩きになる足。紺色に染まっていく空と町とは正反対に、キラキラと、地上に星が落ちてきたかのように光る店。


「うそ…ほんとに、あった」


虹色の玉が埋め込まれた扉に、おそるおそる触れれば、かちり、と、鍵穴に鍵を入れて回したような音と共に扉は静かに開いた。


――夕暮れ刻にしか現れない店がある。――


 ちりーん、と、風も吹いていないのに、風鈴の音が耳を掠め、瞬きをすれば、目の前には紺色の着物を羽織る男が目の前に居た。


「ようこそ、なみだ屋へ」


 ぼさぼさの黒くて長い前髪に目はおおわれていて、にんまり、と、チェシャ猫のような大っきく白い三日月口だけが見えて、思わず仰け反る。


「あ、おどかしちゃいました?」


 こりゃ、失礼。そう言って、男は仰け反る少女に手を差し出した。よく見れば、男は細身でかなり身長が高いらしく、目線にわざわざ合わせて足と腰を曲げているようで、少し変な格好だ。


「ワタシ、なみだ屋の店主で、泪と申します。どうぞよろしく」


 握られた手は軽く上下に振られ、少女は手と一緒に上下に振られる体を何とか踏ん張って、噛みそうになる舌を引っ込めてゆっくりと唇を動かした。


「わ、わたし…雪緒、です」


「こりゃまた、風情のあるいいお名前ですねぇ」


 雪緒さん…んん、お雪さんとお呼びしましょうかね。勝手に一人で納得してそう言うものだから、雪緒は戸惑いながらも頷いてしまう。「お茶でもいれましょう」と、言って、暖簾の奥に行ってしまった店主の後姿を呆然と見ていたが、誰もいなくなり、雪緒はぼんやりと店内を見回した。


 棚や壁にある。赤、青、黄、紫、緑、桃…色々な色に輝く小さな滴型のガラスが、白熱灯の柔らかな光に照らされて淡く輝いた。


 ふと、隣を見ればいつのまに在ったのか、はたまた最初からあったのか、手のひらサイズの小さな桃色のスズラン形のランプが置いてあった。ランタンの中を覗き込んでみれば、光の当たらない小さなガラス玉が埋め込まれていて、光を灯したら何色になるのだろう?と、好奇心をくすぐられる。


「そのランプ、気になりますか」


「あ、ご、ごめんなさい!」


 伸ばしていた手をひっこめ、思わず頭を下げれば、店主は笑いながら丸盆を床に置いて、座布団を叩いてくるように言った。


「いえね、別に責めている訳ではないので謝らないでください」


 どうぞ、と、言ってお茶と共に、桃色の練りきりが膝の前に置かれ、雪緒は縮こまって申し訳なさそうに湯呑を持ち上げた。


「あのランプ、お気に召しましたか?」


「あ…どんな、色なのかな、って…思って…」


 灯りをつけて見たかったんです。と、尻込みした雪緒に頷いて、店主はひょい、と、件のランプを指で摘まんで持ち上げる。


「なら、差し上げましょう」


 とん、と、雪緒の膝の上に置いた。冷たいはずのランプがほのかに温かく感じたのだが、それよりも、あげる、と言われたことに驚いて持っていた湯呑を落としそうになりながら雪緒は首を横に振った。


「いただけません!そんな、高価な物…!」


「いえいえ、そんなに高い物でもありませんし、何より…この子があなたについて行きたいみたいですからねぇ…」


 どうか、もらってってください。そう、頭を下げられてしまい。雪緒は膝の上にある小さなランプと目の前で頭を下げる大きな店主を見比べる。


「でも…」


「じゃあ、たまにうちの店に遊びに来てください。それでいいです」


 ね、と、幼子を宥めるように言われ、雪緒が渋々だが頷けば、店主は、店に入った時と同じように、にんまりと三日月口で笑った。


「待っていますよ、お雪さん」


 その言葉を聞いたのを最後に、いつのまにか、雪緒はいつもの十字路に立っていた。日は完全に沈み、ちかちかと白い電灯が点滅していて、ぼんやりしていれば、コートのポケットに入れていたケータイが震える。


 はっとしてケータイをとり出せば、いつも帰る時間よりも大幅に遅く、履歴には祖母の文字がたくさん並んでいた。


「っ、大変…!」


 冷たい風も何のその、慌てて走りバスに飛び乗る。切れる息を何とか整えて窓の外を見れば、見慣れた背広の姿にはっと息を飲んだ。


 バスを背に歩いているその後ろ姿に、本当は声を掛けて一緒に帰るはずなのに、それは、もうしない。自分が帰る場所は、もう、違うのだ。ぎゅっ、と、鞄を握る手が強くなる。俯いていれば、いつのまにかバスは発車していた。


 悲しいのに、苦しいのに、やっぱり涙は出なくて…胸が重くなる。


「…おとう、さん」


 届かない言葉が、更に重くのしかかったような気がして、胸が締め付けられた。


しばらくすれば、バスは目的の停留所に止まり、雪緒は定期を見せて冷たい向かい風を受けながら電灯に照らされた道を走る。


 母の旧姓が掛けられた一軒家。チャイムを鳴らして出てきたのは息を切らした祖母で、雪緒は申し訳なく思い頭を下げた。


「た、ただいま…ごめんなさい、遅くなって…!」


「もう、遅くなるなら遅くなるって言いなさい。心配したよ…」


「ご、ごめんなさい」


 眉を八の字に下げた祖母に、もう一度頭を下げると、「寒いでしょう、早く中に入りなさい」と、言う祖母に眉を下げた。


「ごめんなさい…」


「今度から気をつけなさいね、さ、先にお風呂入っちゃいなさい」


 そっと撫でられた頭を押さえ、雪緒は母と共に止まっている部屋に足を進めた。二人が寝るには少し広い部屋に、二つの並んだスーツケース。その上にかけられたハンガーに、雪緒は脱いだコートを掛けようとして、ポケットが膨らんでいることに気づいた。


「あ…ランプ!」


 バタバタしていたので、つい忘れていたが、ランプがあるということは、やはり夢ではなかったのだ。不思議なあの店と店主…また来てくださいと言われたが、また行けるものなのだろうか…


 そんなことを思いながら、そっと、机の上にランプを置いて、部屋を後にした。


 ちゃぷり、と、温かいお湯につかりながら、雪緒はふっと息を吐いて目を細める。いつもなら、誰が一番風呂に入るか、兄妹で喧嘩にもなったのに…今は、喧嘩する兄も弟もここにはいない。兄と弟は、父の元にいるからだ。


「…もう、仲直り、できないのかな」


 母にも、父にも、兄や弟…誰にも言えなかった言葉は、一人ぼっちの浴場に小さく消えた。ぱちゃん、と、雫が落ちる音と一緒に、ひたり、と、何かの歩く音と、浴場の扉が開く音に、驚いて目を開ける。


 ひょっこり、と、顔を覗かせる小さな少女。


「え…あ、あなたっ、どこから来たの?」


 桃色の帽子を目深く被っていて、纏っているワンピースも、桃色に金色の蔓草の刺繍がされたシックなものだ。


「どこの子?」


 祖母か叔母の客の子どもだろうか…と、思いながらどうしようと、風呂の淵に手を付けてかがみこむ。扉から顔を半分だけのぞかせたまま、少女は首をかしげた。


「さみしいのに、なかないの。」


「え」


「かなしいのに、なかないの。」


 尋ねる様で、尋ねていない言葉は、疑問ではなく確信のあるソプラノの声。雪緒は戸惑いながら少女を見つめる。


「いいたいのに、いわないの…なんで?」


 そう言って、反対側に首を傾げて、扉から出てきて、浴場の床に立った。ぺたり、と、桃色の靴下に包まれた足が濡れた浴場の床を踏んだ。


「あっ、濡れちゃう!待って…」


「なんで、ためちゃうの?」


 手を伸ばす雪緒を気にした様子もなく、そのまま雪緒を見あげて、伸ばされた手を小さな手が握った。


「いいたいこと、いうの。」


 きゅ、と、小さな手が、何か懐かしいものを呼び起こして、胸がざわついた。


「っ、言えないよ、そんなの!」


 大きな声を出すと、少女は、ぴくり、と肩を跳ねさせて雪緒の手を離して浴場を出て行ってしまう。はっと、して風呂をあがろうとするが、それよりも早く祖母が脱衣場の扉を開けた。


「大きな声出して、どうしたの?」


「あ、あの、女の子が…」


 居たの、と、言おうとしたら、祖母が、足ふきマットの上に落ちているなにかを拾い上げた。


「あら、かわいいランプ。雪緒、あなたの?」


「え…?あ、あれ?」


机に置いてきたと思っていた小さなランプが祖母の掌の上にあり、ぱちくり、と瞬きする。脱衣場を覗き込んでも女の子の姿はなく、不思議そうな顔で自分を見る祖母しかいない。


「あらやだ、このランプ濡れているわよ。拭いて茶の間に置いておくわね」


 そう言って出ていった祖母を呆然と見送り、雪緒は湯の中に戻る。疲れていたのだろうか…風呂に浸かったまま夢でもみたのかもしれない。小さくため息を吐いて、雪緒は目を閉じた。


「…言いたいこと、なんか、言えないよ」


 ちゃぷん、と、またどこかで水滴が落ちる音が響いた。


 脱衣場から出ればすぐに玄関が見え、ブーツを脱いで伸びをする叔母、葉子の姿が見えて、雪緒は小さく笑って近寄る。


「葉ちゃん、お帰りなさい」


「たーだいま!可愛い姪っ子!」


 疲れたー。と、言う葉子の腕からコートを受け取ってコート掛けに掛けると一緒に茶の間へと歩く。


「お姉ちゃん、まだ帰ってないのね」


「うん、お母さん、今日まだ忙しいんだって」


「そう、あ、お母さんただいまー」


「おかえり、葉子」


 茶の間に行く前に台所に顔を出せば、鍋に向かう祖母が振り向いて笑い。雪緒は腕まくりをして台所の流しへと立つ。


「手伝うよ」


「ありがとう、じゃあ、その洗い物洗ってもらっていい?」


「うん」


 ふわり、と、しょうゆと味醂の匂いがおいしそうで、思わず目を細めた。


「美味しそう」


「今日は、雪緒ちゃんの好きな煮物よ」


「うん、おばあちゃんの煮物、私好き」


 そう言って笑えば、横で祖母の笑う気配がして嬉しくなる。


「あら、このランプ可愛いー!これ、雪緒の?」


「あ、うん」


「へー、どこで買ったの?」


 その言葉に、持っていた皿を落としそうになりながら、顔が見えなくて本当によかったとひきつった顔のまま皿に視線を落としたまま口を開く。


「え、えっと、それ、貰い物だから、わかんない…」


「へぇ~?なになに、彼氏とか?」


「かっ、ち、ちがっ!」


「あっはは、ないか!雪緒ウブだもんねぇ」


「これ、葉子!」


 真っ赤になって慌てる雪緒に、ケラケラと笑う葉子。その葉子を咎めるように祖母の叱る声に、葉子は「ごめんごめん」と、言ってランプを机の上に置いた。


「でも、これアンティーク品じゃないの?」


「あ、うん…たぶん」


「だよねぇ、ちょっと高そうだもの」


 まぁ、いいの貰ってよかったわね、と、軽くそう言って「肌に潤いを~」と、メイクを落とす葉子の後ろ姿に苦笑して、洗った食器を重ねる。


 かしゃり、扉の開ける音に、あ、と、振り向けば、祖母が「お迎えしてあげなさいな」と笑って頷き、雪緒は頷いて台所を出た。


「お母さん、おかえりなさい」


「ただいま、もう、雪緒ったら、お母さん心配した」


「ごめんなさい」


「雪也と尚典にも聞いたから、心配しているかもしれないから連絡してね」


「あ、うん…」


 そう言った母、雪子に小さく頷くと、笑って先に歩いていく雪子。渡された荷物をぎゅっと胸に抱きしめた。


「…おとう、さんには、言わなかった、のかな…」


 聞きたくても、聞けず、その言葉は誰の耳に届くことなく玄関で消えて、浴場に現れた女の子の姿と言葉が頭をよぎり、それを振り払うかのように頭を振って母を追った。


 夕食の後、祖母や母、叔母が茶の間でテレビを見ている間に隣の洋間で雪緒はテキストを開きながら、ケータイを握っていた。


 ケータイを開くと、メールの履歴に兄と弟の名前があり、開けば同じようなことが書いてあり、メールを返す。


「あ…」


 すると、画面にはテルのマークと雪也、と、弟の名前。応答のスイッチを押して耳をつける。


「もしも…」


『心配させんなよ、バカ姉貴―!そんなでも一応女なんだからさぁ…』


 遮って聞こえる雪也の大声に、思わず眉を寄せて耳から電話を離しつつも、聞き捨てならない言葉にむっ、と皺を寄せる。


「ごめん…って、ちょっと聞き捨てならないんだけど…そんなって、どういう意味よ」


『そのまんまの意味、お袋からメール貰って俺と兄貴も心配してたんだからなー』


「ごめん…」


『おう、あ、兄貴もいっから変わるな』


「うん」


 電話越しに声が聞こえ、渡されてこすれる音が聞こえた後、静かな声が聞こえる。


『もしもし、雪緒?』


「うん」


『雪也が言いたいこと全部言っちゃったんだけど、心配したよ』


「うん、ごめん」


『雪緒、元気?』


「うん、大丈夫だよ」


『そう、なら、よかったよ』


 安心したような声音に、雪緒は眉を八の字に下げた。ころり、と、持っていたシャーペンを机に転がして膝を抱える。


「……お父さん、元気?」


『…まぁ、ね。身体的には、たぶん問題ないよ』


「……そっか」


『まぁ、親父の自業自得だし、俺達は何も言えないよ』


「うん…」


『親父とお袋が、このまま本当に別の道を行くなら、俺達にはどうしようもないんだし、親父とお袋の人生は親父とお袋、それぞれのものなんだ』


 尚典の言葉は正論で、間違いはないはずなのに、その言葉が深く突き刺さり、雪緒は知らず知らずのうちに胸元を握りしめていた。


『親父とお袋の縁が切れても、俺達兄妹の縁は切れないよ。それに、俺や雪也とお袋の縁が切れないように、雪緒と親父の縁が切れることもないんだからね』


「……うん」


『あんま、考えすぎるなよ』


 心配そうな尚典の声に、小さく笑って頷く。


「わかってるよ、大丈夫」


『そう、じゃあ、またね』


「うん、ありがとう。雪也にも伝えといて」


『あぁ、おやすみ』


 そう言って切れた電話を机に置き、膝を抱えたまま雪緒はころり、と、カーペットが敷かれた床に転がった。


 尚典の言葉に言いたいことはあっても、尚典の言葉はすべて正論で、自分の考えも思いも言えなくて、ぎゅっと瞼を下ろす。かちゃり、と、扉の開く音に、ハッとして起き上がれば…


「あなた…!」


 浴場の時にも表れた桃色の少女。


「……いわないの?」


 こてり、と、首を傾げて、扉から半分だけ顔を出してじっと見てくる少女に、雪緒はくしゃり、と、顔を顰めて笑った。


「言わない、言ったって、どうにかなるものじゃないもの」


「そうやって、なかないの。ゆきお」


 雪緒、と、拙い声がそう呼び、雪緒は目を丸くした。自分は目の前の少女を知らないはずなのに、名前を知られている。


「どうして、私の名前…」


「ゆきお、いつ、なくの、いつ、ないたの…」


 しゃっくりをあげて、泣きながら扉から出ていく少女に、雪緒は慌てて立ち上がる。


「待って!あなた一体……」


 しかし、扉の外には誰もいない。少女が居たはずの場所には、あの小さなランプがた佇んでいた。


「…あの子は、あなた、なの?」


 そう言ってランプを掌に乗せて尋ねても、ランプが物を言うわけもなく、その言葉は廊下に消えていった。


***


夕方、昨日と同じように道を通れば、見えてきたあの不思議な店、なみだ屋…雪緒は鞄にいれたランプをそっと撫でて、扉を開けた。


「いらっしゃい、お雪さん」


 驚くこともなく、店主はにんまり顔で迎えてくれて、雪緒はきゅっと唇を噛んだ。座るように勧められて鞄を床に置いて開けた。


「あのっ、このランプ…」


「おや、お気に召しませんでしたか?」


 きょとん、と、首を傾げる店主に、雪緒は慌てて首を振る。


「そうじゃ、ないんですけどっ、そのっ……」


「この子はまだ幼いもんで、うまく話せないし出来ないんですよ。すいません」


 そう言って、掌に乗るランプを撫でる店主に、雪緒は目を丸くした。まるで店主の口振りは昨夜出てきた少女がこのランプそのものだと言っているようなのだ。


「あのっ、それって、一体…」


「でもね、この子が、はじめて、あなたを選んだんですよ。今まで、どんなお客が来ても見向きもしなかったこの子が、あなただけは選んだんですよ」


 そう言って笑う店主は、あのにんまり顔ではなく、まるで子どもの成長を喜ぶ父のような顔で、雪緒はぐっと息を飲んだ。


 顔を俯けた雪緒に、そっと店主の手が伸びて、くしゃり、と、髪を撫でた。節くれがある指が、さらさらとした雪緒の髪を撫でて、その手が優しくて、雪緒は唇を噛む。


「お雪さん、我慢せずに、言ってみなさいな。ここには、ワタシとこの子しかいませんよ。誰に気を遣うでもなく、あなたの言いたいことを言ってみなさいな。」


 ね、と、諭す優しい声と、掌の上で小さく光るランプに、雪緒は噛みしめた唇をぎゅっと、噛みしめて「…すいませんっ、失礼します」と、頭を下げて店を飛び出して行ってしまった。


 残された店主は苦笑を零し、ボサボサの頭を掻いた。


「いやぁ…うまくいきませんねぇ…」


 お雪さん、鞄忘れていっちゃいましたねぇ…と、呟いた言葉に笑うように、あちこちで色とりどりの雫が咎めるように光った。


***


 いつもの十字路、闇色の中でチカチカと点滅する電灯。荒れる息を押さえる様に深呼吸を繰り返して、雪緒は握りしめていたランプを見下ろす。


 桃色のスズランランプは、掌の上で黙ったまま…ぎゅっと、縋る様に抱きしめる。かつり、と、後ろから歩く音が聞こえ、はっと振り向けば酔っぱらった男がふらついて壁に手を掛けている。


「こんな、時間に子どもが何してんだぁ?」


 呂律の回ってない口調、視点のあっていない視線。重なる影に、ざっ、と、血の気が下がって冷たくなる指先と震える唇。


「なんだよ、言えねぇのか。それとも、俺には言えねぇってか!こんなガキまで嘗めやがって…」


「っあ、っちが…」


 吊り上がる眉にぎょろりとしていて血走る目…腕を握りしめて無意識に後退って、電信柱にぶつかりこれ以上は後ろには行けない。


 雪緒の滲む目には、目の前の男が見慣れた父の姿に重なって見える。伸ばされる手は、握りこぶしに見えて、頭を押さえて目を閉じる。


「家の子に何か御用ですか?」


 静かな声に目を開ければ目の前に黒いどんぶくを羽織ったボサボサ頭。その右手は酔っ払いの手を押さえ、もう片方には雪緒の鞄を持っていた。


「すこーし酔うくらいなら笑いごとですみますけど、他人にまで手出しちゃいけませんよねぇ」


 迷惑ですよ、と、低い声が聞こえる。いつのまにか握りしめていた手は店主のどんぶくの裾を掴んでいて、酔っ払いもどこかにいなくなっていた。


「いやぁ、酔う加減ができないってのは困りものですねぇ」


「店主、さん。あの、ありがとう、ございました…」


「いえいえ、あ、荷物忘れていきましたよ」


 はい、どうぞ、と、腰を曲げて笑う店主からすまなそうに鞄を受け取り、雪緒は握りしめていたランプをそっと鞄に入れて閉める。


「こんな暗いとこ一人で帰るのは危ないですよ。行ってくれれば大通り、なんなら御宅までお送りしたのに」


 さ、早く行きましょ、と、何も聞かずに笑う店主に、雪緒は鞄に顔を埋めて抱き締めながら、ぽつり、と、零すように言った。


「…私の、お父さん。いつもは優しいんです」


 雪緒の、言葉に店主は歩こうとしていた足を止めて振り向いた。


「とっても優しくて、私にはすごく甘いんです。お菓子を一緒に買いに行ったり、知らないお店を探しに行ったりなんてもするんです。でも…お酒、飲むと、酔っぱらうと、怒るんです。お母さんに、あたるんです。お母さん、悪くないのに、お母さんに、怒るんです。睨むんです。物を、壊すみたいに、大きな音、立てるんです…」


 ぎゅ、と、鞄を抱き締める腕に力がこもり、指先が白くなる。


思い出す父の姿は酔って暴れていて…母はその度に泣いていた。やめて、と、言っても、お酒をやめてくれることはなくて、開き直られて…


「お母さん、あのままじゃ壊れちゃうから、離婚するって、私と一緒に、出て、きたんです。でも……」


 詰まる息を整えるように大きく息を吸い込んでも、出てくる声は蚊の鳴くようなか細い声で、電灯のジジジ、と、言う音にかき消されてしまいそうになる。


「でも、ほ、んとは、離婚、してほしくなかった……」


 言いたかったかった言葉が、零れた。


「ほんとは、みんなと、一緒に、いたかった…おとうさん、と、おかあさん、と雪也と兄さん、家族、皆で、居たかった」


 兄にも弟にも言えなかった言葉は、堰が壊れたように次々と流れるように零れ落ちていく。それでも涙は出てくれなくて、苦しくて、重くて、辛くなる。


「わ、がままでもっ、一緒に居たかった…!で、でも、おか、さん、もう、おとうさん、と、暮らすの、苦しい、だけ、だかっ、ら…そんな、のっ、言えないしっ…お、お母さんの、人生は、お、母さんの、だからっ…っ」


 泣きそうな顔はいびつな笑顔になって涙もかなしさもさみしさも飲み込んでしまおうと顔を俯けた。温かい手が頭を撫でていて、埋めていた顔を上げれば、相変わらず目元が髪で隠れた顔が間近にあった。呑みこもうとしていた言葉は、するり、と不思議なくらい簡単に零れた。


「…もう、戻れないの、かなぁっ……」


 願いにも似た言葉は、一番言いたかった言葉……何も言わず聞いていた店主がくしゃくしゃと雪緒の髪を撫でた。


「お雪さん、少し賭けをしてみましょう」


「……は?」


「離れ離れがどんな気持ちか、少しは、大人に子どもの気持ちを分かっていただきましょう。子どもの苦しい思いを知っていても飲みたいのか、見てみましょうか」


「え、え?」


「そうと決まれば、さぁ、帰りましょう」


 ウキウキとした様子で、店主は雪緒の手を握ると細路地へと進んで行くものだから、慌てて後ろの大通りに繋がる道と店主を交互に見る。


「あ、あの、ど、どこに!」


「ワタシの家ですよ、あぁ、部屋はたくさんありますし、着替えも鈴子さんが持ってますからご心配なく」


「へ、え、えぇ!」


 一体どうしたらそう言う発想になるのだろうか、と、唖然とする雪緒をよそに、ずんずんと進んでいく店主に引きずられていき、連絡させられて、あれよあれよというままに店の真ん中で正座をしている状態になってしまった。


 取り残されたままですることもなく、きょろり、と、回りを見回すと、きらきらと輝く雫のガラス玉。


「…万華鏡の中にいるみたい」


「ゆきお、きれいなの、すき?」


「わっ…!」


 ちょこん、と、隣に座る桃色の少女…横を見れば鞄の蓋が開いていて、ランプがない。まじまじと、少女を見下ろせば、ことり、と、首を傾げて雪緒の裾を掴んだ。


「ゆきお、すき?」


「う、ん。好きだよ。」


「ももと、いっしょ」


 店主と同じように口だけが見えて、にっこりと笑うももに、雪緒はおそるおそる手を伸ばしてそっと帽子ごと頭を撫でてやる。


「ももちゃん、って、言うの?」


「うん」


「ももちゃんは、あの、ランプ、なのかな?」


おかしなことを聞いている自覚はあるが確認せずにはいられず、聞いてみればあっさりと頷いて肯定するもので、ももは、自分と店に飾られた雫を指差した。


「もも、もとは、ももこのなみだだった。みんなも、そう。だれかの、なみだ」


 きらり、きらり、と、光る雫たちは皆涙だったというももの言葉に、ぱちくりと瞬きを繰り返し、店の中を見回せば、そうだ、と、言っているかのように光りだす雫達。


「だから、なきたいひと、わかる。ゆきお、なきたいの、がまんしてるっておもった。でも、ちがう、なきたいのに、なけない」


 きゅ、と、雪緒の裾を掴んだままももは頭を俯けた。


「ごめんなさい、もも、ゆきおのきもち、かんがえられなくて、ごめんなさい」


「ももちゃん…違うよ、ごめんね、ありがとう…」


 小さなその体をそっと抱きしめれば、おずおずと裾を握った手が背中にまわり、きゅっと握り返してきた。小さな顔が雪緒の肩に乗せられて、ぽしょぽしょと小さな声で囁いてくる。


「るい、きっと、ゆきお、たすけてくれる」


「どうして…なんで、そんなに私を…?」


「るい、ひとめぼれ、いってた。だいじょうぶ、ゆきお、ぜったい、たすける」


 ももも、がんばる。そう言って頷くももに、雪緒はとんでもない言葉を聞いたようでぱちくりと瞬きをして、詳しく聞こうとしたところで足音と共にひょっこりと暖簾の奥から顔を出した件の店主に、肩が跳ねる。


「ありゃ、もも。お雪さんに抱っこしてもらっていいですねぇ」


 これ、鈴子さんからお雪さんにです、と、笑う店主が差し出してきた小紋に、戸惑う。一般的な女子高生である雪緒は、正月でもなければ着物を着る機会など零に等しい故に、着方なぞわからない。


「あ、わからない時はいつでも呼んでくれと鈴子さんが言ってましたからご心配なさらず」


 その言葉にぜひ、と、頷く雪緒に笑い、暖簾をたくし上げて奥にいる鈴子を呼ぶ店主の声の後、すぐに、ひょい、と、顔を覗かせて雪緒を見て黒い丸メガネを掛けてにっこりと赤い着物をまとった美女に目を丸くする。


「よう、お出でなんし」


「あ、鈴子、さんですか?」


「あいな、わっちが鈴子と申しりんす。雪緒様でありんすな?」


 様づけにぎょっとして、首を横に振り「あの、さまは、やめて、ください…」と、語尾が小さくなる雪緒に、赤い袖が口元を隠してクツクツと笑う。


「可愛いらしいお方なぁ。そんなら、お雪さん、と、呼ばせてもらいとうありんす」


「あ、はい!」


「さて、と…泪様は早う中に行きなんし」


 言葉はしっかりと様づけで呼んでいるのに、仕草は、しっし、と、まるで犬を払うかのようなもので、雪緒はおろおろと鈴子と店主を見るのだが、された店主は気にしてないのか軽く肩を竦めて雪緒の隣に居たももに手招きをする。


「はいはい、わかりました。ももも一緒に行きましょう」


「もも、ゆきおといる」


「ワタシ一人じゃ寂しいからついてきてくださいよ」


 首を横に振ったももにそう言って、ひょい、と片手で子猫を持ち上げるように抱きかかえれば、むつり、と、口をへの字に結んで店主の頬を小さな手で引っ張った。


「るい、いぢわる…」


「いたた、今までぴっとりくっついてたじゃないですか。少しくらい許してくださいよ」


 不満げなももを抱いて、頬を引っ張られながら暖簾をくぐって中に入って行った店主の後姿をぽかん、と、したまま見送れば、鈴子が着物を広げてにっこりと笑う。


「ももちゃんが、泪様の頬を伸ばしきる前に着替えをすましんす」


「あ、は、はい」


 腕をあげ、するすると着付けられていく藍色の着物と、それを映す大きな鏡を見て、その手際の良さにまじまじと見てしまう。


「お雪さんは、ほんに藍色が映える白い肌でありんすなぁ」


「そ、そうですか?」


 あい、御名の通り、雪のような肌でありんす、と、笑う鈴子に、照れたようにはにかむ雪緒は年相応に可愛らしく、この顔を見られない店主に心の中で笑った。


「藍色は、泪様のお好きな色でありんす」


「そ、それって、一体どういう意味なんでしょう…」


「うふふ、さぁ、それは泪様にお聞きなってはどうでありんしょう?」


 そう悪戯気に笑う鈴子に、雪緒はほんのり桜色に染まった頬で眉を八の字に下げ、ぽん、と、結んだ帯を叩いた鈴子はにっこりと笑い「着付け終わりんした」と、手を口に添えて奥に声をかける。


 ぱたぱたと小さな足音と共に飛び出して雪緒に抱き付いたももは、着物を纏った雪緒の周りを嬉しそうくるくると回る。


「ゆきお、かわいい」


「あ、ありがとう、ももちゃん」


「綺麗ですねぇ、似合ってますよ」


「あ、ありが、とう、ございます……」


 鈴子の言われた言葉に、変にどきまぎとしてしまい急いで顔を反らしてももと一緒に奥へ行ってしまった雪緒に、店主は口をへの字にして首を傾げた。


「泪様は、ほんに、お雪さんをにくからずおもっておりんすなぁ」


「それ、お雪さんに言ってないでしょうね?」


「さぁ?わっちは知りんせん」


「ちょっと、鈴子さん…」


「それより、わっちはどちらさんに行くとよろしいでありんす?」


 にこり、と、黒メガネを掛けた美女の紅い唇が緩く弧を描く。店主は呆れたようにため息を吐いて、ボサボサ頭を掻いた。


「やれやれ、どうしてこう、家のひと達は勘がいいんでしょうかねぇ」


「うふふ…泪様の初恋、応援させていただきとうありんす」


「はいはい…それはどうも」


 じゃあ、ちょっとお願いしますかね。と、にんまり顔をした店主の前髪から、ちろり、と、海色の瞳がのぞいた。


***


 娘からのメールに雪子は小さくため息を吐いた。実家に娘と帰ってからは、娘は寄り道せずに家に帰り、いつも通りすぎるほど普通に振舞っていた。その普段通りの姿が心配だったのだが、しばらく友人の元へ泊まるといきなりメールを寄こしてくるのだから、驚きもしたものの、少しほっとした。


夫の酒乱に耐えられなくなり別れたが、それから娘は全く泣かないし弱音を吐かなくなってしまった。二人の息子も、同じく泣かないし、仕方ないと言ってくれた。


これで、よかったのだと思う反面、雪子は、まだ捨てられないくすんだ指輪を摘まんで眺める。


「…それで、いいの?」


 自分ではない、声が聞こえた。はっとして後ろを振り向けばいつのまに部屋にいたのか、制服姿で俯く少女の姿。


「雪緒…?」


 娘のはずがない…でも、その姿も声も娘のもの…戸惑う雪子の前で俯いたままの少女は首を傾げる。


「娘も、息子も、手放していいの?お父さんとの思い出は、苦しい物ばかりだったの?」


「雪緒は…私と一緒に居るわ…」


「でも、心は?」


 ぎゅ、と、雪子は胸元を押さえる。俯いたままの少女は近づくことなくそのまま語りだす。


「雪緒の心は、どこにあるの?あなたの心は、どこにあるの?」


 つ、と、汗が頬を伝って零れていく。雪緒の顔は、どうだった。最近、あの子は心から笑っていた?話しを、していた…?


「思い出して…あなたにとって、大切なものは、なに?」


「大切な、もの……」


 胸元にあてた指輪がきらりと光った気がして、思わず瞬きをして目を開けると、少女の姿は消えていた。


 しん、と、した部屋。雪緒と自分のスーツケースが並んでいる。ふと、気づいた。開けたはずのない雪緒の鞄が開いていて、光が反射した。


 そっと、手を伸ばしてそれを持ち上げて見れば、きらきらと色とりどりのビーズがはめ込まれたガラスの写真立て。


「…これは……」


 別れる前の最後のキャンプ場で、笑いながら肉を頬張ったりビールを飲んで騒いだりしている家族みんなが写った写真。


 ソースを顔に跳ねさせて、くしゃくしゃと顔一杯で笑う雪緒の顔を、今、自分は見ているだろうか…この写真のように、自分は今も笑えているのだろうか……


「雪緒…雪也、尚典………典正」


 ビールを片手に、豪快に笑って鉄串を火にかけている姿……本当に、自分は苦しいだけだったのだろうか……本当に……?


 視界が滲む。ぽつり、と、零れ落ちた涙が写真立ての上で弾けて消えた。


***


 ビール瓶を前に、典正は憮然とした顔のままなみなみと注がれた酒を見る。今までは、妻が目の前に居て、一緒にテレビを見て笑っていた筈なのに…どうしてこうなったのだろうか。


ビール瓶を文鎮替わりにして挟まれている妻の名前と判が押された離婚届。家からは妻と娘の物がなくなった。


酒を飲むなと怒った妻はいない、小うるさい娘もいない…酒は飲み放題なのに、今は何故だか味気ない。


「なんで、おさけのむの?」


 小さな女の子の声に、典正は離婚届を見ていた顔を上げた。ひょっこり、と、扉の隙間から顔を覗かせている白い麦わら帽子を被った小さな頭。


「だ、誰だ…?」


 客がきていないはずの我が家には、息子二人と自分しかいないはず…町内でも見たことのないはずだ。扉から、帽子ごしにこちらを見てくる小さな少女。


「おさけのむの、たのしいの?みんな、なくなっても、たのしいの?」


 拙い声が紡ぐ言葉に、典正はぐっと息を飲んだ。見下ろす離婚届とビール瓶。いつのまにか少女は目の前の椅子の上に立ってじっと自分を見下ろしている。


「おかあさんと、ゆきお、いなくなって、うれしい?」


 その言葉に、カッと血が上る。どん、と、机を力いっぱい叩き、ビール瓶は倒れ中に残っていた酒は机と床に零れていく。


「嬉しい訳ないだろう!」


「じゃあ、どうしてのんだの?」


 おびえた様子もなく、淡々と正論を吐いていく少女に、典正は顔を歪めた。


なんで、飲んだ…?そんなこと、飲みたかったからだ…でも……


「おかあさんと、ゆきお、いなくても、のみたいと、おもったんでしょう?おさけが、いちばん、だいじなんでしょう?」


 そう言って、指さされたなみなみに酒が注がれたグラス。


典正は顔を覆って力なく首を横に振る。失ってまで、飲みたいと、思っていたわけじゃないはずなのに…失いたいわけがないのに…


「…おとうさんのたいせつなものは、なに?」


 泣き出しそうなその声は、聞いた事があったはずだ。覆っていた手をどけて、少女をよく見れば、その白い麦わら帽子も、白いワンピースも……


「……ゆき、お?」


 幼かった娘が気に入ってきていたもののはずだ。


 目の隠れたその少女が、にこり、と、口元だけが笑って見えた。


「雪緒!」


 がたりっ、と、椅子を倒す勢いで立ち上がるが、零れたビールに滑って背中から転んでしまう。慌てて立ち上がるも、少女の姿はどこにもなく、きょろきょろと周りを見渡していれば、ばたばたと階段の下りてくる音の後、力任せに開かれた扉。雪也は息を切らせている。


「何の音だ!泥棒か!」


 トランクス一枚でほこほこと湯気をあげているその姿は、おそらく風呂にでも入っていたのだろうが、自分が凄い音を発てたことですっ飛んできたのだろう…髪からは水が落ちてきている。


「なんだよ、親父漏らしたのか?」


 ばっちぃぞ…と、顔を歪める息子に、ビールを零したんだ、と、言えば呆れたようにため息を吐いて手を引っ張られて起こされた。


「そんな飲むからだっつの…って、あれ?親父、まだ飲んでねぇの?」


 手つかずのグラスに気づいたのか、きょとん、として自分と酒を交互に見比べられる。そして、向かい側の椅子の上に手を伸ばした。


「…姉貴、写真こんなとこにおいてたのかよ」


「写真…?」


 そう言って、小さく笑った雪也の手にあるガラスの桃色の写真立てには、桃色のイルカがくっついている。それは、自分が昔買ってやったものだ。


「えぶしっ!だー、さみっ!俺もう一回入りなおして来るわ…」


 もう転ぶなよ、と、言うと、写真立てを机に置いて、両腕を擦りながら足早に出ていく雪也を見送って、ゆっくりと写真立てに手を伸ばした。


 水族館の前で、両手をピースにしてにこにこと笑っている雪也、尚典…そして、自分の隣で微笑んでいる雪子。


「…雪子……」


 雪也と尚典に挟まれて満面の笑みを浮かべる娘は真っ白なワンピースと麦わら帽子…その小さな両腕には写真の入っていないイルカのくっついた桃色の写真立てがある。


「雪緒……」


 床に零れたビールの上に、小さな滴がぽたぽたと零れ落ちたのを桃色の写真立てだけが見ていた。


***


 ももと一緒に縁側に腰掛けた雪緒は、饅頭のように丸い月を見上げてぼんやりとしていた。ももはもちもちと店主に渡された大福を幸せそうに頬張っていて、雪緒も習うように白い粉がついた大福をはくり、と、齧る。


「ももちゃん、お月様、綺麗だね」


「うん、きれい」


 不思議な心地だ。決して見知った中でもなければ親戚でもないのに、ここまでよくしてもらい、こんな風にのんびりするなど…こんな風に何も考えずに座って空を見上げるなどいつぶりだろうか…そして、どうして、落ち着くのだろうか。


「ゆきお、つかれてるから、こころのおやすみがいいの」


「心のお休み?」


 心を読んだようなももの言葉に首を傾げれば、ももは頷いて、手にくっついた餡子をぺろり、と、嘗めた。


「るい、いってた。こころがつかれると、なみだをとめるかべになるんだ、って」


 だから、ゆきおには、こころのおやすみがひつよう。と、言って、目の隠れた顔でにっこりと笑う。その帽子の奥でどんな目をしているのか…ふと、気になり、雪緒はももの目のあるであろう部分に視線を落とした。


「…ねぇ、ももちゃんは、どうして目を隠してるの?」


「もも、なみだだから、おめめない。すずこも、おめめ、ない。みんなも、ない。だから、かくす」


 こわいこわいよ、と、言って帽子ごと目を押さえるももに、本当に人間ではないのだと、実感させられる。もう一人、目を隠している人を思い出し、首を傾げる。


「店主さんも?」


「るいは、あるよ。るいは、にんげんだもの」


「そうなの…?」


 うん、と、頷いて、雪緒との間にある皿に乗った大福を手に取り、はむり、と、齧る。月を見上げるように顔をあげるももに、雪緒は顎に手を当てた。


「店主さんは、人間なんだ……」


 どちらかと言うと、ももや鈴子よりも人間ぽくないと感じたのは秘密にしておいた方がよさそうだ。


 二個目の大福も完食して、満足そうにおなかを擦るももに小さく笑っていると、からり、と、後ろの障子が開いて、黒メガネを掛けた鈴子が丸盆にお茶を乗せて笑っていた。


「お茶が入りんした」


 どうぞ、と、湯呑を差し出す鈴子に礼を言いながら、座る場所を作れば、にっこりと笑って「ありがとうござりんす」と、言って、足を縁側の下に投げ出して座る。


「ほんに、今宵は月が綺麗でありんすなぁ…」


「ありゃ、三人で月見してたんですか」


 横から聞こえた声に振り向けば、とっくりと猪口を持って「ワタシも誘ってくださればいいのに」と、笑う店主は、するり、と、雪緒の隣に腰かけた。


「まぁ、しばらく寛いでいてください」


「はぁ、あ、でも、学校…」


「ふむ、少しだけお休みですかねぇ」


 これは、軽い拉致監禁にならないのだろうか…口がひきつるが、でも、何故だか恐ろしいようには思えず、それに乗っている自分がいる。


「勉強…どうしよう」


 しかし、来年の春には大学受験もある。勉強がついていけなくなるのは困る。ううん、と唸る雪緒に、鈴子がことり、と首を傾げた。


「泪様、お雪さんに教えなんし」


 頭は悪くはないでありんしょう?と、笑う鈴子に、店主は苦笑まじりのため息を吐いて、肩を軽く竦めた。


「そりゃあ、悪くはありませんけど…なんです、その微妙な言い回し……お雪さん、ワタシでよければお教えしますよ」


「え、で、でも…」


 戸惑う雪緒に、鈴子は安心させるように柔らかく微笑んでいる。


「そうしてもらったらいかがでありんしょう。こう見えて、泪様は大学にも通っておりんした」


 頭がいいのは、わっちが保障しりんす。と、諭す鈴子に、ぎこちなく頷いた雪緒に、嬉しそうな店主はうきうきとしている。


「なら、明日からしばらくはワタシがお雪さんにお教えさせてもらいますね」


「そ、そんな、こちらこそ、お願いします」


にまっ、として更に、でれっ、とした白い三日月口を、雪緒と鈴子越しに見ていたももは、口をへの字に結んで「るい、すけべぇおやじ…」と、呟いたのを聞いた鈴子はくつくつと笑った。幸いなことに、雪緒と店主の耳には届いていなかったようで、店主の嬉しそうなその顔に鈴子は黒メガネの奥の何もない空洞を細めた。


「ほんに、助平親父でありんすなぁ」


 空の上で美味しそうに輝く饅頭のような月を見上げて、両手に納まる湯呑を手にふっ、と息を吐くと、ももが鈴子の膝に両手を乗せてじっと見上げている。


「ゆきおの、ちちとはは…どうなる?」


「さぁ…信じることしか、わっちらにはできんせんよ」


 そう眉を下げた鈴子にももは口を一文字に結んで、鈴子の後ろを回って雪緒の背に抱き付いて頭をこすりつけた。


「も、ももちゃん?」


「…もも、ぜったい、ゆきお、たすける」


「え、え?」


 戸惑いながらも、ももを抱きしめ返す雪緒に、鈴子は小さく笑う。もももだが、雪緒には、自分達なみだを惹きつける何かがあるのだろう。愛おしくて、慈しみたくなるのだ。


「さぁさ、そろそろ、お休みなんし」


 そう言って背を軽くたたけば、素直に頷く二人に鈴子は小さく笑って丸盆を持って立ち上がる。


「泪様も、早うお休みなんし」


「このとっくりが空になったら寝ますよ」


 たぷり、と、音のするとっくりを振って笑う店主に、「お先に、失礼します」と律儀に挨拶をする雪緒に、にまっ、と、笑って手を振る。


「おやすみなさい、お雪さん」


「お、おやすみなさい」


「…もも、いっしょねる」


「あ、うん。一緒に寝ようね」


 口をへの字に結んで、雪緒の着物の袖を掴むももに頷いて手をつなぐ二人を見送った店主はぼさぼさした前髪を上に掻き上げた。


 月に照らされた青い瞳は、まるで海を閉じ込めているような深い青で、光が入るたびに波が揺らめくように輝く。ふぅ、と小さくため息を吐く店主の横で布の擦れる音がして、振り向けば、ぱちくりと瞬きをしている雪緒の姿。


「おや、お雪さん。どうかしましたか?」


「あ、あの、ケータイ…忘れちゃったから……」


 取りに来たんです…そう言って店主の横を指差す雪緒の指先をたどれば、水色のカバーに包まれたスマートフォンが光っていた。


「あぁ、そうでしたか…そうだ、少し座ります?」


 ぽんぽん、と、隣を叩いて「まだお茶と大福もありますからどうぞ」と、笑う店主に小さく頷いて座る雪緒に青い切れ長の瞳を嬉しそうに細めて急須にお湯を注いだ。


「鈴子さんみたい上手くはないですが、どうぞ」


「あ、ありがとうございます」


 渡された湯呑をそっと受け取りながらも、顔を見られず目を反らす雪緒に首を傾げる店主はひょい、と雪緒の顔を覗き込んだ。


「どうかしました?」


「い、いえ…あの、店主さんって、外人さん、だったんですね」


「あぁ、そう言えば目、隠してましたねぇ…これは祖父譲りなんですよ」


 祖父が、違う国の人だったんですよ、と笑う店主はくしゃり、と、掻き上げた髪を撫でて「変ですかね?」と、首を傾げる店主に、ぶんぶんと力いっぱい首を横に振った。


「そんな、綺麗だなって、思って…!」


 握り拳を作って力いっぱい力説する雪緒に、細い目を丸くして、ぱちぱちと瞬きをして、すぐに小さく笑って照れくさそうに頬を掻いた。


「じゃあ、お雪さんの前では髪上げてましょうかね」


 せっかく褒めていただきましたし、と、言う店主はくい、と、猪口を傾ける。その様子をじっと見る雪緒は眉を八の字に下げる。


「…お酒って、そんなに…おいしいんですか?」


「ん、あぁ…そうですねぇ…おいしいにはおいしいんですが、飲むと楽しくなる、というのもありますかね」


「…そう、ですか」


「お父さんが何を思っていたかわかりませんが…ですが、決してお雪さんを傷つけてまで飲みたいと思っていたとはワタシは思いませんよ」


 お母さんのことも、と、言って猪口を床に置いた店主に眉を下げたまま「ごめんなさい」と、消えそうに小さな声で謝る雪緒の髪をそっと節がある指が撫でる。


「賭けなんていいましたけど、ワタシ、信じてるんですよ。だって、お雪さんのご両親なんですから」


「また…一緒に、暮らせますかね……?」


 泣きたいのに涙は出なくて、へたくそな微笑みを浮かべる雪緒をそっと自分の胸に抱きかかえる。驚く雪緒の頭を撫でながら、その髪を見下ろす。


「信じてみましょうよ」


 そっと黒いどんぶくの背に手を回し、ぎゅっと抱きしめ返した雪緒は小さく頷いて目を閉じて息を吸い込めば甘い白檀の香りが鼻を擽り、それがやけに落ち着いた。


***


太陽が空の真ん中で光り、店の雫達はきらきらと嬉しそうに輝く。ぱたぱたと店の周りを走り回るももを見ながら、店の前を竹ぼうきで掃く雪緒は、紺色に月が描かれた小紋を纏い、白い前掛けを掛けている。


店には変わった出で立ちのお客が来て…たとえば、頭巾をかぶっている人、犬の頭をしている人…中には、テレビで見たことがある有名人などもいて少し驚いたが、今では少し慣れた。


袖の中に入れておいたケータイをとり出して、画面をスライドしても真っ黒で何も反応しなくなった。家族と連絡を取っていない…もしかしたら警察に連絡されてしまったかもしれない…そう思うと少し憂鬱でため息がこぼれてしまう。


「よっ、お雪ちゃん!」


「あ、こんにちは、厳さん」


「おう、あのぐうたら店主はいるかい」


 くたびれた黒いジャケットを羽織った壮年の男、厳は警察に属している人間らしく、この店で初めて雪緒を見て真っ青になって震えたと思った次の瞬間、店主の胸倉を掴んで「逮捕だ!このバカたれがぁ!」と、叫んだものだから驚いた。


訳を話せば涙もろく人情味が強い人物らしく「俺に任せておけ!」と、雪緒の肩に手を置いておいおいと男泣きした。


「店主さんなら、今、お客様のお相手をしていますよ」


「そうか、んじゃ、ここで待たせてもらうかな」


 よっこらせ、と、言って店の前の小さな椅子に腰かける厳に、にこり、と笑い雪緒は止めていた手を動かし、さっさと落ち葉を集めていく。すると、店の周りをぱたぱた走り回っていたももが、にこにことして両手いっぱいにさつまいもを持って雪緒の元へ駆けてくる。


「ゆきお、いも、すずこからもらった」


「あ、焼き芋するの?」


「す、る!」


「おー、嬢ちゃん、ほんとに人型になったんだな」


「なった。もも、ゆきお、の!」


「うちのボーズも、嬢ちゃんみたいに元気に走り回んねぇかねぇ」


 大人しすぎるんだよなぁ、と、お父さんが子どもを案じるような顔で両手を組んで唸る厳に、雪緒は小さく笑った。かろん、と、下駄の音と、共に店の扉が開いて、出てきた頭巾を被った客。そして、その後ろから現れた店主は厳の姿をとらえると、口をへの字に結んだ。


「なんですヤクザ刑事、来てたんですか」


「お前な…年々親父に似てひん性格が曲がってくな」


 お前に頼まれたもの持ってきたんだろうが、と、呆れてため息を吐く厳は、掌サイズの小さな茶色の紙袋を店主に投げる。


 それを受け取った店主は不機嫌そうに口をへの字に結んだまま「雑に扱わないでくださいよ」と文句を言いながら、紙袋を開けて中を確認する。


「…はい、たしかに頂きました」


「とによー…部下からおかしな目で見られんのは俺なんだからよ」


 少しは労われ、と、ため息を吐く。厳が持ってきたものが気になり、落ち葉の中にアルミホイルで包んだ芋を押し込みながら、店主の手の中を見あげる。


「あの、厳さんが持ってきた物って…なんなんですか?」


「あ、気になります?」


「えっと、少し…」


 すいません、と、首を引っ込める雪緒に、にまっと、笑って「見て見ますか?」と首を傾げて、手の中の紙袋を掌の上に逆さにして出した。


「わ…ガラス…?」


 黒いガラスの奥で、ぢりり、と、炎が燃えるような赤が揺らめく。その不思議な輝きは美しいのに、どこか歪で、恐ろしい……後退さる雪緒に、店主はにんまり顔をひっこめて、口を一文字に結び、隠すように雫を握り紙袋に戻した。


「すいません、お雪さんは感じ取りやすいんですねぇ…」


「それは、一体……」


「なみだ、ですよ」


 放火魔のなみだ、ですかねぇ…と、店主はそれを握ったまま厳を振り向けば、軽く肩を竦めて頷く。


「さすが、お見通しだな」


「こういう、悪意があって落ちたなみだは、人に害を齎しちゃいますから…少しの間お清めするんですよ」


 こういうのも、なみだ屋の仕事なんで、と、笑う店主に、はぁ、と、気の抜けた返事をしながら頷いた。自分が知らないところで、こういう仕事もあったんだな、なんて心の中で思っていた。


厳と店主の姿が、会わなくなった弟と父の姿に重なって見えて、自分と母もそこに居た時のことを思い出して、ぎゅっ、と、胸元を握りしめた。


「ゆきお…?」


「あ、ごめんね。お芋、そろそろ焼けたかな?」


 ももの頭を撫でて持っていた枝で落ち葉を掻きまわそうとした雪緒の手を、小さな両手が掴み、じっと、帽子越しに見上げてくる。


「ゆきお、ちちか、ははと、いたい?」


「…どっちか、じゃなくて…二人と、いたいの」


 無理なのにね、と、泣きそうなのに泣けない顔で笑う雪緒は、ぽんぽん、と、ももの頭を撫でて、「さ、お芋みてみよう」と、しゃがんで燃える落ち葉を掻きまわす。


撫でられた頭を押さえ、何かを考えたように口を一文字に結んだももに気づいたのは、店主だけだった。


 芋を平らげた頃、店の奥に居た鈴子が顔を出し、にこりと笑って「お茶でもどうぞ」と、呼ぶものだから、いかつい顔の厳もでれり、と、表情を崩して店の中に入って行き後を追うように雪緒もついて行く中、そっとつないでいた手を放しこっそりと暖簾の下を潜り抜けていく小さな桃色。


「どこに行く気です、もも」


 取手に手を掛けようとすれば、後ろから聞こえた聞きなれた声にももの手は止まる。壁に寄りかかったまま、店主は口を一文字に結んで腕を組んでいる。


 取手に伸ばしていた手をおろし、ぎゅっ、と、自分の桃色のワンピースの裾を握るももは顔を俯けた。


「…もも、ゆきおにいった。もも、ゆきお、たすけるって……だから、もも、いく」


ぎゅっ、と、握ったワンピースにはシワが強くできていた。何もないがらんどうの瞳を閉じれば寂しそうに笑う雪緒の横顔…


ーーなかないで、なみだもでないのに、だせないのに、そんなこえでなかないで…ーー


「ゆきお、むかえこない、ずっとないてる、なみだないけど、ないてる。そんなのやだ。もも、ゆきおわらったのすき。だから…」


ちちとはは、つれてくる。そう言って、店の扉の前に立つももに、店主は青い目を細めて頭を掻く。


「もも、ももは“なみだ”なんですから、その姿で店の外に行ったら…下手したら粉々になってしまいますよ」


「もも、ぜったい、こわれない…ゆきおの、ちちとはは、いっしょにつれてくるまで、こわれない」


「もも!」


「もも、ゆきおすき、もも、ゆきおわらってほしい。がんばる」


 ちりん、と、扉に付いた風鈴が音を発てて、するり、と扉の外、細い路地へと消えて行ってしまった小さな後姿に店主は頭を掻いて、ため息を吐いた。


「割れたら、治らないんだぞ…ったく」


 舌を打ちたい気分だが、そんなことよりも連れ戻すべきか待つべきか…と、店主ががりがりと頭を掻いていれば、タイミングが悪いのかいいのか…ひょっこりと暖簾の奥から雪緒が顔を出して、きょろきょろと店の中を見渡す。


「店主さん、ももちゃん、知りませんか?」


 鈴子さんにお芋上げるときまではいたんですけど…と、眉を下げる雪緒に、店主はもう一度ため息を吐いて、扉の外を指差した。


「“外”に行っちゃったんですよ…」


「あ、店先に居るんですか?」と、暖簾を手で上げて、いそいそと草履を履こうとする雪緒を手で制した。


「いえね、そうでなくて…細路地を抜けた先に行っちゃったんです」


 困りましたね、と、笑う店主をよそに、雪緒の悲鳴のような叫びが店の外まで響いた。


「ももちゃん、あんな小さいのに!」


「いや、小さくても、ももはワタシよりも長く生きているんですよ」


 ワタシが言うのは、そのことじゃないんです、と、困ったようにため息を吐いて壁に掛かっている雫の一つを手に取る。


「ももも言ったと思いますが、ももは“なみだ”の化身なんですよ、この店に居る間は、先々代のまじないのおかげで人型を保っていられますが、店の外、あの細路地を抜けるなら、ランプやネックレスなんかの物にならなくちゃ、なみだの体は保てないんですよ」


 店主の言葉に、「保てない?」と、鸚鵡返しで尋ねる雪緒に頷いて、掌に乗せている雫を見せる。よく見れば、青い雫には細い線がたくさん入っていた。


「外の世界では、“なみだ”はひどく脆いんです。風に触れているだけで、なみだにとっては、ガラスのグラスをスプーンで叩かれているようなものなんですよ」


 長い時間、人型でいればこんな風になってしまうんですよ、と、そっと雫を棚に戻す店主に、雪緒の顔は青ざめ、唇が震える。


「っ、ももちゃっ…!」


 慌てて店を出て行こうとする雪緒の手を掴み、「闇雲に外に出ても意味がないですよ」と、言って、一瞬、迷ったように口を開き、小さく息を飲んで、雪緒の視線に合わせて腰をかがめて目を合わせた。


「…待ってみませんか、あの子は、お雪さん、あなたのお父さんとお母さんを連れてくる、と言ったんです」


「…どうして……」


「あなたが、お父さんとお母さんが一緒に居てほしいというのを、あの子なりに解釈したんでしょう」


 握る手に軽く力を入れれば、ぎゅっと、強い力で握り返す細い白い手…雪緒は口を一文字に結んだ。


「あの…外で、待たせてください……」


お願いします、と、頭を下げた雪緒に頷いて、扉を開け店の外に並んで立てば、雪緒は両手を組んで額にくっつけて祈る様に目を瞑った。


***


 人が行きかうガラス張りの駅前のカフェテリア、一度も夫婦では来たことがなかった場所に二人は向かいあって座っていて、バツが悪そうに眉間に皺を寄せて黙り込んでいる典正と無言で俯いている雪子の姿はどこからどう見ても、訳あり、というのが丸わかりだ。


 何度か口を開いて閉じてを繰り返し、何を言えばいいのか迷った典正の脳裏にはあの真っ白な少女の姿がよぎり、雪子から顔を背け、呟くように小さな声が出た。


「…雪緒、元気か」


「……いないのよ」


 か細く震えた声に、典正は目を見開いて背けていた顔を前に戻せば、雪子は変わらず俯いたままだが、その肩が震えていた。


「ここ、一週間、連絡も、とれていないの……あなたに、届いていないの?」


「っ、いなくなったのか!」


「怒鳴らないでよ!」


 荒くなった声に、雪子の悲鳴のような声、震えた身体に、典正はぐっと息を飲み、立ち上がりそうになった腰を椅子に戻し、顔を俯けた。


「…すまん」


 素直に出た謝罪の言葉に、雪子も、言った本人である典正も驚いた。こんなにも、素直に謝ることができたのか、と……雪子は目を丸くしたまま、まじまじと典正を見た。


「お酒…飲んでないのね」


「…飲む気が、起きないんだ」


 そう、と、雪子は一言呟いて、また黙ってしまう。俯いた雪子に、典正の口は自然と動いていた。


「……すまなかった」


 会ったら、言おうと思ってはいなかった。本当は、離婚届けを置いて娘と出ていったことを責めるつもりでいた。だが、あの幼い娘の幻覚を見てから、心の底から後悔が押し寄せて泣きたくなった。


「お前たちを、お前を、失ってまで、飲みたいわけじゃ、なかったんだ……」


 本当に、すまなかった…震えそうになる手を握りしめ、頭を下げた典正に、雪子は涙が流れるのを感じた。


「…そう、言ってくれたのが、素直に嬉しい……でも、今は、あなたとは一緒に住めない」


「そう、か…」


 わかった…そう言って、鞄から出したくしゃくしゃになった離婚届けに、震える手で判を押そうとした典正の手に、そっと雪子の手が伸びてきた。顔を上げれば、涙を零しながら雪子は笑っていた。


「…また、私が一緒に住める、と思えるあなたになってほしい」


「雪子っ……」


 それが、どんな意味なのか…それがわからないほど鈍感ではない。ぼろり、と、典正の瞳から大粒の涙が零れ落ち、離婚届の、ちょうど雪子の判の上に落ちて、滲んで消えた。


「雪緒…探して、伝えなきゃ…あの子は、人一倍、ため込んで泣けない子だから……」


「あぁ、あぁっ…!」


 何度も何度も頷いて泣く典正に、雪子は小さく笑って、ふ、と、外からこちらをじっと見ている少女がいることに気づいた。


 桃色の帽子に桃色のワンピース、桃色の靴、と、桃色尽くしの少女は、じっと、雪子と典正を見て、こてり、と首を傾げた。


「ゆきお、あいたい?」


 ゆきお、それは、いなくなってしまった自分達の娘の名前。驚き尋ねようとした雪子よりも、向かいに座っていた典正が立ち上がるのが先だった。


「お前は…!」


「なに、誰なの?」


 目を見開いて立ち上がる典正に驚いて、雪子は目を瞬きさせながら少女と典正を交互に見る。少女はただじっと、こちらを見ていたと思ったら、くるり、と背を向けた。


「…ゆきお、こっちだよ」


「待ってくれ!」


「典正!待って!」


 少女を追いかける典正を追って、立ち上がり多めの代金を机に叩きつけるように置いて後を追いつつも典正の背にどうして追うかを尋ねれば、「わからん」の一言。呆れてため息が零れそうになるが、あの少女が、一人ぼっちで泣いている雪緒に見えて、何故だか自分の足も動いていたのだから仕方ない。大きく息を吸い込んで、雪子は置いて行かれまいと気合をいれた。


 少女…ももは、雪子と典正の前を、こっちこっちと走っていく。追ってくる二人を待つように、途中で立ち止まっては振り返りを繰り返すももの頬はひび割れていて、息を吸えば、内部から割れていっているようで上手く息も吸えず、ひどく傷むのを堪えるように、ぎゅ、っと、頬を押さえて走る。


「もも、がんばる。ゆきお、わらう」


 細い路地、ここを走り抜ければ雪緒の待つ店なのに、がくん、と、力が抜ける。べしゃり、と、アスファルトの地面に倒れた。力の入らない身体、どんどん亀裂が広がりひび割れる指先。時間がない。口を一文字に結んで立ち上がろうとするが、ぴぃんっ、と、氷が砕けるような音をてて足に力が入らず立ち上がれない。目をつぶると、ふわり、と、体が浮かんだ。


「ここを、まっすぐ行けばいいのか?」


 息を切らした典正が、ももをそっと抱き上げていたのだ。びっくりしつつも、はっとして泥だらけの帽子を口元まで引っ張って頷けば、抱き上げられたまま細路地を抜けていく。


 じっと、帽子越しから雪子と典正の顔を見て、ももは小さく笑った。


「…やっぱり、ゆきおの、ちちと、ははだ…」


 ゆきおにそっくり、と、小さく呟いた声は向かい風に消えていく。きらきらと虹色の光が見え、硬くなっていた身体が柔らかくなる。


 抜ければ、店主と共に店の外にいる雪緒の姿。ももは、典正の肩を叩き、下ろしてもらい、まっすぐ指をさした。


「ゆきお、いるよ」


 小さな指先がさした方を見て、典正と雪子は泣きそうな声で叫んだ。


「雪緒!」


 叫ぶような二つの声に、雪緒は閉じていた目を見開き固まった。雪緒の横に立つ店主は小さく笑っている。動けない雪緒の肩をとん、と、叩いて、店主は頷いた。


 震える手に力を籠め、大きく息を吸い込んで、ゆっくりと俯けていた顔を上げれば、暗く細い路地の間からこちらを見ている人の姿。


「…おかあ、さん?」


ぼろぼろ、ぼろぼろ、涙を零して、口を両手で押さえている母、そして、その後ろに居た人の姿に雪緒は目を見開いて首を横に振って後退さるが、店主の手がとん、と、背中に当てられた。ハッとして見上げれば、海色の瞳が柔らかく細められて口は緩く弧を描いていた。ゆっくりと前を見れば、それは見間違いでも幻覚でもない。


「お、とう、さん……?」


 そう呼べば、だっ、と、母が駆け寄ってきて力いっぱい抱きしめられる。ぎゅうぎゅうと苦しいくらいの力で、息をするのも苦しい。震える肩越しに見える父は、涙をにじませた顔で、くしゃくしゃと顔を歪めていて、母の背中越しに雪緒の前に居た。


「…ごめんな、雪緒」


 そう言って、くしゃり、と、撫でる手は、前より骨ばっていて、顔も窶れて目の下にはクマがある。呆然とする雪緒を漸く話した雪子は、そっと両頬を包んで微笑む。


「あのね、雪緒。お父さんとお母さん、別居はするの、でもね……離婚は、少し待ってみようと思うの」


「え…」


「もう一回、もう一回だけ、信じて見ようと思うの、だから…」


 典正と顔を見合わせ、微笑んだ雪子は頬を撫でていた手を頭に乗せてそっと撫でる。


「だから、もう、我慢しなくていいよ」


 喉がひきついて、目の奥が熱く、唇が震える。


「っ、あ、ぁ、う……」


 くしゃり、と、視界が歪み、微笑んでくれている両親の顔が滲んで上手く見えない。ぼろり、と、雫が頬を伝って地面に落ちていく。クリアになった視界で、夢でも幻覚でもない両親が目の前にそろっている。笑っている。


ぼろり、ぼろり、と、ビー玉のように大きな雫が地面に落ちては弾ける。


「うぁああぁぁ…!」


 母と父の背中に手を回し、迷子だった子どもが両親を見つけた時のようにぼろぼろと涙を零し、声を上げて泣いた。


 淋しかった、悲しかった、苦しかった…二人そろって会いたかった。


 抱きしめる腕に力がこもり、泣きじゃくる雪緒を包む二人の腕にも力がこもって、涙が滲んだ。


 泥だらけの帽子を片手に持って顔に罅が入った顔で店主の袖を握り、空洞の瞳がじっと雪緒の背を見つめている。


「…ゆきお、ないた」


「ももが、がんばったからですよ」


「ゆきお、うれしい?」


「えぇ、きっと」


「じゃあ、もも、もういいや。もう、こわれて、ばいばいでも、いいや」


 空洞の目を閉じて、安心したように大きく息を吐いてにっこりと本当に嬉しそうに笑ったももに、店主は口元だけが見える顔で笑ってももの頭を撫でる。


「もも、ももがそれでよくても、お雪さんは…」


「ももちゃん!」


 雪子と典正から離れて、雪緒は店主の隣にいるももをぎゅっと抱きしめた。驚いてまん丸く目を開くももを抱きしめる雪緒の肩は震えている。


「ももちゃんっ、ありがとうっ、ありがとうっ!」


「ゆきお…もも、もう、こわれたよ?だから、ばいばい、で、いいよ?」


「いや…私はっ、ももちゃんが、いいっ。ももちゃんと、一緒に居たいよっ…!」


「もも…ゆきおと、いて、いいの?」


 こわれたのに?と、首を傾げるももに、雪緒は涙でくしゃくしゃの顔で笑って頷いてももをぎゅっと抱きしめる。


「ももちゃんが、いいの。一緒に、居てよ…お願い」


「いる…もも、ゆきおと、いるっ…!」


 空洞の瞳から、ぽろぽろ、ぽろぽろ、零れるはずのない涙が落ちていく。しゃっくりをあげながら雪緒の肩を掴んで泣くももをぎゅっと、抱きしめる。


 それに目を見開き驚いたのは、泪だった。涙の化身は、いわば涙そのもの。その涙が涙を零すなんてありえない。今まで、見たこともない…が、今それを言うのも野暮と言うもの。泪は言葉を呑みこみ、見開いていた目をゆっくり細めた。


 ぼろり、と、雪緒の瞳から落ちた大きな雫は弾けることなく、藍色の雫になって地面に落ちた。それに気づいた店主はそっと雫を拾い上げる。


「お雪さん、よかったですね」


 そう言って、雫を掌でかざせば、くるり、と、宙で踊って店の壁へと吸い込まれ、他の雫達に混ざって輝いた。




 店主がやけに気に入っていた少女が居なくなって、落ち込んでいるだろうし励ましに行くか、と、厳は店に訪れたが、店の前では桃色の帽子を被った少女と一緒に落ち葉を集める藍色の着物を纏った件の少女の姿。


「お雪ちゃん!また来たのか!」


「今日は、お父さんがお母さんに会いにくる日だから!」


 邪魔しないように、来たんです。と、悪戯気に笑う雪緒に厳は笑う。雪緒が両親と共に店から帰ってからは、どんよりと雨となめくじを背負っているかのように落ち込んでいた店主のことだ。またこうして来るようになった雪緒に、小躍りするくらい喜んでいるのだろう。実際しているのも見るのは御免被るが……


「泪さんなら、お客様のお相手をしてますよ」


「あー、そうか。なら、待たせて…泪さん?」


 聞き返せば、頬を染めてはにかんだ。


「お付き合い、させていただいてるんです」


「そりゃ、また…」


 何と言っていいのか、とため息を吐く。慰めるまでもなく、まさに棚から牡丹餅状態のおいしい状況だったのか、と、厳は些かげんなりとして、くるり、と、店に背を向ける。


「え、げ、厳さん?」


「あー、いや、また来るから、あのぐうたら店主におめでとさん、ってだけ伝えてくれや」


 まったく、なみだ屋とは、人を泣かせると思いきや、泣かせて心を奪ってしまうのだからたちが悪い。あの店主の父親もそうだったが、どうしてこう、美人を捕まえるのが上手いのだか…羨ましいやら憎たらしいやら、だ。


 くるり、と、店を振り返れば、きらきらと輝く雫達。あの中には、きっとあの少女の涙の雫がいる。そして、そのなみだは、もものように、いつか来る誰かを待つのだろう。




泣き方を忘れた人、泣きたい人…そんな人達を泣かせる店がある。




夕暮れ時、お日様が沈む場所を背にして五歩進み、


一番近い電信柱と壁の間を通り抜け、


左にある細路地で目を瞑って13歩、そのまま回れ右をして、通り抜けた先、


キラキラと光る、色とりどりのガラス玉を飾った店…


「いらっしゃい、なみだ屋へ」


 にんまり顔の店主が、きっと迎えてくれるはず。


これにて、一時閉幕。

次回、主役はなみだの鈴子…さてさて、ありんす訛りの彼女はいつもちりちり、ちりり、と名の通り鈴の音が鳴る。足首に紅い組みひもで結われたソレはどこか物悲しく切ない。

そんな彼女の元の主の物語。時代は、お江戸の京へと参ります。



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