3.完世紀1940年1月 〈エースターライヒ共和国 / Wien〉
懐中時計は四時を指している。日没まで時間があった。
首都ウィーンにあっても、眼下に広がる深い森には静謐さだけが横たわっていた。それを切り裂くようにして俺達が乗るヘリコプターは降り立つ。近くには他に誰もいなかったが、たとえいたとしても気付くことはなかっただろう。ステルス機能は音も気配も無効化してくれる。我が国が誇る、スパイ技術の結晶だ。
「そういえばこの機体、サヴィェートニク製か? サヴィェートニクの中でも見たことがないが」
ふと、ギルが訊いてきた。ギルはよく親父さんと一緒にサヴィェートニクに来る。そのときに沢山のヘリを見ているはずだ。そうでなくとも、機械には詳しい。だが、この機体は特別だった。
「勿論サヴィェートニク製だよ。ただ、これは俺が親父に貰ったやつで、極秘任務専用機。我が国の技術を総動員して作ったから、きっと二つと無いさ」
そう言うと、ギルは感心したように頷いた。そして、顔の半分だけ歪めて呟いた。「俺の父は何もくれなかった」と。俺は何も言えなかった。
ヘリが無事に着陸したことを確認して、俺とギルは森へ足を踏み入れた。数歩離れて、操縦士も付いてきている。ヘリは絶対に見つからないとはいえ、俺達が見つからないとは限らない。鬱蒼とした森に隠れるようにして進む。
しばらく歩いて、今が丁度良い距離だと思った。懐から素早くТокаревを取り出し、振り返る。小気味好い音がして、銃口から硝煙が上った。頭に一発。即死だった。
「何故操縦士を殺した」
溜息をついて銃をしまうと、ギルは射抜くような視線をこちらに寄越した。
「信用してたけど、親父の過保護には辟易してるからな」
そう答えると、ギルは強ばっていた表情を弛緩させて言った。「父親の脛を齧りまくっているくせに」
そうだな、と適当に返事をして、再び歩みだす。本当は、自分のために操縦士が犠牲となった訳ではなかった。それでも、今も、そしてこれから先も、ギルには言わないでおこうと思う。そうでもしないと、彼はすぐさま自らを犠牲にしそうだった。目的地はもう見えてきている。
木々の隙間から覗く赤煉瓦の尖塔が印象的な、豪奢な建物。少し小さめの城といったところだろうか。黒く塗装された鉄製の柵で周囲を囲われている。門は頑なに閉じられており、その横にインターホンと監視カメラが置かれていた。控え目な表札には、流麗な筆跡で「Wittgenstein」と書かれている。
ギルは躊躇うことなくインターホンを押した。しばらくして、青年の声で応答があった。
「はい。こちらエーミール=ウィトゲンシュタインです。ええと、どちら様でしょうか?」
インターホン越しでも、半笑いなのが分かる。釣られてギルも笑った。
「カメラで見えてるだろ。ギルベルトだ。ティーマもいる。話したいことがあってな」
ギルがそう言うと、分かりました、とだけ告げて、門がひとりでに開いた。俺達はずかずかと屋敷に入っていった。
玄関ホールを抜けて廊下を歩く。見慣れた景色が続いていた。数年前、親父に連れられて何度もここに来ていた。その時も今も、隣には同じ人間がいる。金色の髪が眩しい、希望に満ち溢れた人間が。尤も、今は不安で覆われているに違いないだろうが。足元の赤い絨毯は、いつまでも続いているかのように思われた。
「よく此処にいると分かりましたね」
客間へ行くことなく真っ直ぐ書斎へ向かった俺たちを、エーミールは迎えた。コーヒーの馨しい香りが広がっている。既に三つのカップにはなみなみと注がれていた。
「いつものことだからな」
ギルはそう答えながら、椅子に腰掛ける。俺も倣って隣に座ると、エーミールはコーヒーをゆっくりと差し出した。そして、書斎机を挟んで俺たちの反対側に腰掛けた。
ここには久々に来たが、相変わらず良い屋敷だ。森にひっそりと佇む様子はどことなく風情を感じさせる。この書斎も、古い上質な本を数多く揃えており、エーミールが依然として籠りきりになるのも納得できる。
「親父さんはどうした?」
コーヒーを一口啜って、訊いた。確か、この屋敷はエーミールの父親の別荘であるはずだ。それなのに親父さんの姿は見えない。仕事ならばおかしくはないが、以前いた使用人すら見当たらないのには違和感を覚えた。
「父はウィーンでの仕事が済んで、今はザルツブルクの本宅にいます。私は変わらず仕事があるので、父からこの屋敷を譲り受けて今は一人で暮らしてますね」
「大学はどう?」
確か、エーミールはエースターライヒ国立大学の教授になったはずだった。
「今年からなので何とも言えないですけど、楽しいですよ。昨今の情勢もあって、国際政治学はなかなか教えづらい所がありますけど、面白い学生もいますからね」
たとえば、貴方みたいな。エーミールの目はそう言っていた。その「貴方」に該当する人物は、俺の隣でゆっくりとコーヒーを味わっている。全く、ギルはいつになったら話を切り出すのだろう。ギルや俺にとっては「面白い」話であるには違いないが、エーミールにとってもそうであるかは分からない。それが気がかりであるようだったから、話し出せないのも理解できるが、それにしても……。
「時に教授よ。今日、俺が何をしたか知っているか」
カップを置いて、ギルは言った。思わず息を飲んだ。だが、依然としてエーミールは落ち着いていた。
「ええ、勿論。ニュースで随分話題になっているようですから。やはり、ティーマさんが加担していたのですね」
「どう思う」
エーミールは顎に手を当てて考えていた。しばらくして、眼鏡の奥の瞳が爛々と輝いた。
「ギルさんは、暗殺者ではない。そうでしょう?」
ギルは満足そうに頷いた。
「まず、ギルさんとアドルフさんの様子から、ギルさんが殺そうとするようなことはないと直感的に思っていました。その、失礼ですが現在の御関係は存じ上げませんので何とも言えませんが、少なくとも数年前の感覚ではそうです。それで、ギルさんは犯人に仕立てあげられたという仮説が出来ました」
俺の到着が少しでも遅れていたら、今頃ギルは犯人どころか物言わぬ屍となっていただろう。エーミールの言葉を聞いて、身震いがする思いだった。
「そこで、帝国の綻びが見えてきたんです。ギルさんがサヴィェートニクの冬将軍を知らない筈がない。それなのに、時期を誤って侵攻を開始している。今回のことと合わせて考えると、明らかにギルさんの足を引っ張るような何かが存在している気がしてならないんです」
冷静な語り口でありながらも、苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
サヴィェートニク侵攻が失敗したとき、ギルから連絡が来た。作戦内容の改竄。エーミールが推理した通り、ギルを貶める何かがあることを示唆していた。このまま行けば、ギルは命を落としかねない。そう考えた俺は、機を見て帝国を脱し、ギルの思想を具現化することを提案した。それは、大学時代に何度も話し合った理想だった。俺は既に意志を固めていたので、ギルに緊急信号送信機を渡した。それが、まさか今日発動するとは思わなかったが。
ギルは机に肘を置いて手を組んだ。鋭い眼光で虚空を睨みつけている。そして、言葉が零れてしまったかの如く呟いた。
「これは不確定要素で、つまり確証はないのだが──『イイスス=ハリストス』を知っているか?」
エーミールは目を見開いた。「イイスス=ハリストス」。その名前は俺でも知っている。だが──。
「勿論です。イイスス=ハリストスは世界宗教の教祖ですから。しかし、あくまで伝説ではありませんか。それが今回の事に一体何の関係が?」
常に論理的かつ理性的なギルが、政治以外の話で宗教の事を口に出すのは珍しい。否、これもまた政治の話かもしれないが。ギルは一つ一つ、言葉を落としていった。
「友人の一人に、オトマン帝国出身で信者の奴がいる。そいつから聞いた話が、どうにも気にかかるんだ。イイスス=ハリストスが世界を創造した、その経緯が」
共通の友人だったので、その話は俺も聞いたことがある。そいつはすこぶる優秀な奴で、俺たちが通っていたジュネーヴ国立大学に一年間留学していた。マルチリンガルで、世界公用語であるNE語を使わずとも、俺たちと会話できた。確か、現在は外交官として、数少ない中立国であるオトマン帝国のために働いているはずだ。そして、今もそいつは世界宗教の信者であるはず。あの柔らかな、それでいてしっかりと芯を持った声が、記憶の中で響いた。
『イイスス=ハリストスの存在は、信者以外には伝説だと思われてる。でも世界創造の話は伝説なんかじゃない。本当だ』
今は完世紀1940年。つまり、イイスス=ハリストスが世界を創造してから1940年目という事になる。
『彼が世界を創る前に、今より発展していた別の世界があった事は知っているね。原子の構造、それを前世紀の人類はより進歩した形で利用していた。皮肉なことに、それは彼らを滅亡にまで追いやったんだけど。その結果、地球上の文明やその記録のほとんどが失われた。俺たちの先祖は皆、当時地球以外の星で暮らしていた人間だ』
その話を、俺とギルは熱心に聞いていた。大学生になっても、初めて聞く話はあるのだなあと思っていた。聞いたあとで、分かった。恐らく、多くの国が──否、国を超えたもっと大きな存在が、これらの話を意図的に隠している。発展した科学が人類を滅亡に導いた。この事実が広まれば、世界はきっと混乱に陥る。人々の恐怖によって、今ある科学技術が全て無くなってしまう可能性だってある。真実を知るには、世界宗教の信者になるしかない。
『イイスス=ハリストスは、地球外にいた俺たちの先祖と共に、あるとき地球にやってきた。そして、世界システムを創り出し、人々と共に歩み始めた。これが伝わっている話だ』
しかし、そいつは暗い顔をしていた。
『でも、どうやって生身の人間が世界システムを創り上げたのか分からない。もし彼が人間なら、現実的な話ではないんだ。しかも、まだ何処かで生きているっていう話じゃないか。だから俺は、彼が超人的存在である、彼は人間ではない神である、って信じているよ。本当かどうかは分からないけれど』
信じる者は救われるんだ。そう語る横顔を見て、俺は不思議に思った。無宗教の人間には、永遠に分からないことだと思った。頼れるのは、いつでも自分一人だ。いくら仲が良くても、ギルに頼ることは余計にできない。
その、頼りない目は思惑に揺れていた。
「端的に言うと、俺はイイスス=ハリストスは、AIではないかと疑っている」
その言葉は、衝撃だった。エーミールは、馬鹿みたいに口を開けっぱなしにしている。しばらくの沈黙を破ったのは、やはりエーミールだった。
「そうか! AIだとは考えもしなかったけれど、それならば辻褄が合う! 私達は無意識的に、過去の人間がAIを持っている筈が無いと思い込んでいるけれど、伝説の話が事実ならその限りではない。AIならば、今現在も生きているという話も理解できます」
「待てエーミール、早まるな。確かにAIなら話が繋がるし、俺だって人類滅亡の経緯は信じる価値があると思ってる。その経緯があれば、クリスティーナ核戦争の発端が過去の遺物だって説明もつくよ。けれど、イイスス=ハリストスの存在まで断言するには、証拠がなさすぎる。ギル、どうして存在まで信じる? アンタらしくないよ」
思わずギルに詰め寄ってしまった。けれど、ギルは俺を透過してどこか遠くの方を見つめていた。
「世界システムを創り上げたAIであるなら、この世に存在する全てのデータにアクセスできる。勿論、俺の作戦内容にも」
「改竄自体が証拠だとでも?」
「今はそうとしか言えない。ただ、存在しているならば利用価値がある。真の自由ある国を広げるには、時間も、物資も足りない。イイスス=ハリストスの力があれば、それらを短縮できる」
「それは、結果的に平和と自由を破壊しうるんじゃないか?」
「そうかもしれないが、それは一時的なものだろう。その先に真の自由がある! 帝国やサヴィェートニクのような国がある限り、戦争は避けようがないのはお前も分かるだろう。我々の国は──」
「ちょっと待ってください!」
掴みかかって言い合いを始めた俺たちを、エーミールの叫びが止めた。
「今、我々の国、って言いました?」
そういえば、と気付いて、殴りそうになっていた拳を収める。ギルは大きく咳払いをした。
「そうだ。俺がずっと考えてきたことを、実行に移そうと思う。自由を第一とする国を創る。俺自身、否、俺達自身の手で」
エーミールはまた口をあんぐりと開けた。そして、すぐに怪訝そうな顔をした。
「本気です? 真逆二人だけでやるつもりではないでしょう?」
思わず吹き出してしまった。俺が? ギルと? 二人だけで? ありえない上に不可能だ。一年足らずで国が分裂してしまう。ギルも豪快に笑っていた。
「流石教授、面白い冗談だ。しかし、幾ら何でも二人だけでは限界がある。今後は世界中を飛び回って、優秀な人材を探しに行くつもりだ。ティーマ含め、彼らはいずれ国のトップとなることだろう」
改めて考えると、非現実的な提案だと思う。大学時代は、友人と叶わぬ夢の計画を練るのが無性に楽しかった。それを現実にするとなると、途端に足が竦む。それでも、ギルなら成し遂げられる気がして、俺は一歩を踏み出した。ギルの下に付くのは癪に障るが、頼られるのも悪くはない。一人で抱え込むのは、俺一人で十分だ。
エーミールはギルの説明に納得したようだった。エーミールの性格なら、きっとギルを止めようとはしないだろう。
「それで、真逆その『優秀な人材』の中に、私が入ってるなんてことはありませんよね?」
「勿論入っているぞ」
ギルは気味が悪い程に笑顔だった。対照的に、エーミールは大きな溜息を吐いた。
「建国に、戦争は避けられないんでしょう?」
「そうだ。確か、教授は戦争屋ではない、筈だな? それならば別に断っても」
「勘違いしないでください」
エーミールの瞳は少年の日のように輝いた。ギルと同じ、不敵な笑みだった。
「私は確かに『戦争屋』ではありません。でもね──『戦争史』には興味があるんです」
歴史に身を投じるなんて、大変名誉なことですよ。そう言って、冷めたコーヒーを啜った。