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60代後半の自叙伝 NO-2

親父たちが戦争から秋田へ帰ってきて始めた商売、廃品回収業

「山田商店」我が家の大東亜戦争顛末記



NO-2

久しぶりに我が自叙伝の続編を書こうと決意した。ずいぶん長い間「わが家の大東亜戦争顛末記」のサイトを見てなかったので書評にこの小説は未完のままに終わる可能性がありますと、コメントされてしまったのを見てわれながら「うーん」とうなってしまった。創作活動にブレーキがかかったのは確かであった。それは反社会的な存在である川辺豊による嫌がらせや、脅迫、など想像たくましくするとどうしてもそれ以上の創作が自分の中でできなくなってきたのを感じたからであった。しかしもうあれから、 二十年以上の月日が流れているためにもう完全に時効であろう。川辺豊の目も無視して、何もかもが 遠い過去の出来事になったために、気楽な気持ちで過去を思い出して書いていきたいと思う。親父の死から約二十年。山田商店の整理はすなわち山田家の大東亜戦争顛末記を意味しているのであった。

 二十年ほど前の記億で思い出されるのは、【正確には平成十一年】川辺豊が結局悪事が露見して秋田署に逮捕されたのであった。親父の葬儀からひと月以上たった頃、時間は忘れたが車のラジオのスイッチを入れた時に秋田のニュースが流れた。「秋田署は今日の朝、会社役員川辺豊と大場某を逮捕」。私は一瞬我が耳を疑った。しかし私はこの一瞬のラジオのニュースが、あの川辺豊に完全に間違いないと断定できる確信を抱いたのであった。普通の神経であったならば、すぐさまに山田義和あるいは兄貴の山田明に報告してあったであろう。しかしあの時、私は自分の心の金庫にしまい込むのであった。いま思い出せばあの時の自分の心理状態はどう書き表せばよいか、うまく表現できないもどかしさがある。強いて表現すれば、二年近くも川辺によって苦しめられてきたマグマが突然湧き出てきたような気持だった。うれしかった。『やった』と思った。数日してから山田義和から川辺の件で「逮捕されたことを知ってるか」と問い合わせがあった。まあその時は素直に「ラジオで聞いたよ」と答えておいた。

 あの時の私の心境は 二年ほど前に山田義和とこの問題に初めて話し合った頃を思い出して、勝海舟と西郷隆盛が日本の国を守るために外国の勢力が侵入するのを防ぐために江戸城で対面した故事が頭をかすめていたのである。あの時、いとこ同士のよしみでもっと腹を割って話し合っていたならば、こんな結果にはならなかっただろうという自分の見通しの正しさから、優越感に似た気持ちが素直に義和に電話連絡しなかったように思う。

 とにかく山田商店の末期的な症状の時代において、この問題の土俵から川辺が消え去ったことが義和にとっても私にとっても心の平安が訪れたのであった。しかし川辺が秋田署に逮捕されたとしても彼のことであるからまたいつなん時娑婆に出てくる可能性は捨てきれなかったのである。実際問題拘留という形で数カ月して私にその後、電話がかかって来たのであった。山田義和から河辺が警察に逮捕されて私に、電話がかかってきた際に「もし川辺が娑婆に出てきたならばこの際一切相手にしないようにしよう」と云々の話しで電話を切ったことを思い出す。今までいとこ同士の対立で人間関係が不信になったことがたびたびあったが、ここはやはり血の通ったいとこ同士の関係が「信頼」となって暗黙の固い契りとなったのであった。しばらくして川辺から「隆さん義和の考えはおかしいと思わないかい」と電話がかかってきた時は私は、もう過去の自分とは違うと決意して決然として電話を即座に何も答えずに切った。二三度それでも執拗に呼び出し音がなった。歴史にイフがないように、人生にも同じことがいえよう。だがもし私が優柔不断に川辺の口車に乗っていたならば、終戦処理は又違った方向に向かっていたであろう。 川辺から電話がかかってきたとき、あの時が長い人生の上で山田商店の整理劇の分水嶺であったような気がする。

 我が家の大東亜戦争顛末記と大上段に題名をつけて、自分の自叙伝を書き進めてきたが、六十代の後半になって考えることは、ある意味において私の父、山田清四郎の運命であったような気もする。山田清四郎の分身でもあるような私が迎える運命は、すなわち山田清四郎の運命といっても過言ではないような気がするのである。私の父なる山田清四郎の大東亜戦争時代の記憶を、多少なりとも検証していくことが、この自叙伝にとって大切であろうと思った。叔父さんの過去と違って、父の過去は今となっては私だけの脳裏に焼き付いている記憶だけが頼りである。

 私の父は昭和二十年八月十五日において、満二十二歳であったと思う。仕事が終わって、家族を前に晩酌をしながら戦争の話しをするのが、唯一の生き甲斐であったと思う。私が小学校の頃の時代に聞かされた記憶であるがゆえに、浦島太郎的なおぼろげながらの不正確性があると思うが、四人の孫が成長した暁には、この私の記憶が唯一の祖父の過去を探る手掛かりになる事であろう。そんな気持ちで、遠い星くずのような距離感のある時間軸のわが家の歴史をたどっていきたいと思った。

 最初に父が戦場におもむく前の兵隊検査の話しから、切り出さなければならない。父が私と同居するようになった平成時代にすでに認知症になっていた時に、父の体調を検査した時、ある医者が「以前に結核になっていますね」と言われたことを思い出した。父が兵隊検査の満20歳の時には、全く結核の兆候などなかったと思われる。父はよく晩酌のたびに、「おれは甲種合格と言われたものだ」と自慢したものであった。甲種合格になった父は、その後満州に初年兵として戦地に行くことになる。

私の記憶では、満州の北方、確か北満総省といったような記憶がある。初年兵であった父はソビエトと満州の国境線にある部隊に配属されたらしい。夜間国境線沿いに歩哨として配属された記憶をよく語っていた。夜間になると、国境線上で打ち上げ花火のような光景を目撃したこたを我々に語っていた。その光景はおそらく敵のスパイによる暗号のような意味合いを持つものであっただろうと語っていた。そんなソ満国境にいた若き父は、そんな土地にいれば敵が攻めてくれば一発で日本側の部隊は全滅するであろうと危機感を抱いていたと語っていた。若き父は、その危機的な不安から逃れるための唯一の手段は、幹部候補生試験に合格して内地に帰ることだと秘かに決意したらしい。父はあの幹部候補生試験に合格するための受験勉強は生死がかかっている必死な試験であったと私が中学生の時、高校受験の勉強の時よく語っていたような気がする。この北満総省の件であるが、私のメモ帳には『ホクマンソウショウ』とだけ書かれていて、そういう地方があると信じていたが、最近山岡壮八著『小説太平洋戦争』の最終巻に満州国の崩壊の歴史学が書かれていた頁の中で『興安総省』という地名を見つけた。この地名を見つけた時、瞬間的に若き山田清四郎が初年兵として満洲にいた青春の一頁はこの興安総省に間違いないと確信を抱いた。興安総省は満州の北西に位置している地方である。この興安総省のソ連軍が 八月九日をもって満州に攻め入ってきた時から悲惨なドラマが数々起きたらしい。

 興安総省がいかなる土地であったか、山岡荘八の小説から引用して親父がこの悲劇的なドラマが再現した土地から、危機一髪で内地に帰った人生を振り返るためにも決して無意味なことではないような気がしたのである。この小説の中での興安省の話しはずいぶん長いのでこの事件の概要を細かく紹介するのをやめてほんの抜粋だけにとどめることにする。

興安省の興安には東京の開拓団が三つの部落に分かれ、入植していた。その部落の副団長を務めていた安達氏の手記を紹介する。話しは長いので理解に苦しむかもしれないが、想像をめぐらしてこの手記を読みたい。足立副団長の手記はほとんど原文のままで、『なまじ筆者が加筆してはウソになるので、敢えてそのまま引用させてもらうことにした。』と山岡宗八書いている。

・・・・男子団員は、急きょ、夫人と子供を中心に円陣を作って防御態勢をとり、数人が一団となって匪賊の中に斬り込み反撃をした。団員井上桂樹君が腹部、足部に銃創を受けて倒れた。婦人子供は沈黙している。月は雲間に出入りして、修羅場の明暗が刻々と変化する。乱闘一時間余り・・・・この間に帖佐康雄と、私の娘は服毒自殺をした。ようやく匪賊が退くと、急に女たちが嗚咽し始めた。飯坂氏の妻、長谷川氏の娘が服毒して苦悶している。井上氏が家族を集め、何か遺言して自殺した。このような状態は人の心を死に誘い始めた。早く死にたいという者、まだ死ぬのは早いという者、必ずしも全員が一致はしなかったが、すでに死を覚悟した顔が多くなってきた。しかし死を急ぐ者をとどめて、気を励まし、穴を掘って八人の死骸を埋めた時は、もう夜明けであった。

こうしてこの集団がほとんど全滅していく 八月十七日を迎えるのである。

・・・・八月十七日未明、朝霧の漂ううちにこの地を去って、我々は、谷間の細い道をたどって南下した。不思議に匪賊の姿を見かけない。しかしいつどこで強襲に合うかわからないので、一同警戒を厳しくしながら路を急いだ。

山崎団長はいくらか元気を回復し、今は徒歩で進む。輓馬が重荷に耐えかねて弱ってきたので、これも助けなければならない。路は狭く、自然一列行進をするほかなく、隊の全長は二千メートル余りに伸びた。

 午前十時、長い谷間を出てちょう南県双明子という現地人部落に出た。匪賊、暴民の姿が見えないので、一同ほっとして休息し、食事の準備にかかった。部落民も大勢で手伝ってくれたので炊事ははかどった。一昨日以来、ほとんど何も食べていないので、久しぶりの食事に一同舌鼓を打ったのである。しかし、実は、これが団員家族たちの最後の会食であったのだ。

 午後二時ごろ食事を済ませ飲料水を補給して、さて出発しようと隊列を整えた折からソ連の飛行機が一機低空でわれらの頭上をかすめ去ったが、あたかもこれに呼応するかのように、近くの高地からビューンと小銃弾が飛来した。これをきっかけに小銃射撃が連続し、前後左右、百メートルくらいの距離から、匪賊暴民の群れが現れて襲ってきた。そればかりではない。それまでわれわれに新設を示してくれた部落民が驚くべし、豹変して暴徒と化し、匪賊とともに襲いかかってきたのだ・・・・。

 東方三キロの山麓にはソ連戦車数台が進出してきて、我々の行動を監視している。われわれの身体は極まった。

 七百余名の夫人と子供を麻畑の中に導いて潜ませ、男子がその外側を取り巻き、暴徒の波と対峙した。

 思えば開拓地を離れて以来、飢餓に苦しみ、雨露に打たれ、あるいは炎熱に苦しみながら、相助け、相励ましてこの地まで逃れてきたのも、万一日本軍に出合い、保護されることもあろうかという一縷の望みをいだいてのことであったが、いまやそれも空頼みに終わった。せめて夫人と子供たちの安全だけでも計りたいと思ったが、それを交渉するすべがない。相手はただ凶暴な烏合の衆である。実力で撃退するよりほか仕方がない。男子団員すべてが覚悟を決め、全力をふるって応戦した。青年隊員の安部井君が倒れた。浦部代三郎氏は、すでに殺された長男の屍の傍らで数人の子供とともに自殺した。

 麻畑では夫人と子供たちの集団自殺が始まった。苦悶する人々の姿を見てもどうする事も出来ない。匪賊との戦いが精いっぱいで、他を顧みるひまがないのだ。

 服毒するもの、自刃するもの、わが子の首を絞めるもの、男たちの眼尻は裂け、女の髪は乱れきっている。血走った眼には涙があふれて、死に迫られた人々の形相は凄愴ともなんとも言いようがない。しかも匪賊は間断なく続いて、家族や知己お互いがあいさつを交わす暇もない。

 午後八時ごろ、日没を待って、辻口、大倉、三木の三氏が婦人子供の残存者四百名ほどを収束して強行脱出を試みるのだと闇の中に消えていった。(この人々もまた途中で襲われ、そのほとんどが虐殺された)

 麻畑の中はすでに死屍累々。まだ死にきれないで苦しんでいるものもあれば、昏々として死の眠りを眠っている者もいる。母親の胸にしがみついて息絶えている幼児。団長夫人を中心に円座をつくって死んでいる本部員家族二十名・・・・私の妻を囲んで倒れている十数名・・・・・生い茂った麻の葉の間をすかしてみると、畑のここかしこ、いたるところに老幼婦女子の屍が満ちている。

 さて、先刻の強行脱出によって、我々が手薄になったことを察知した匪賊は、再び大挙して殺到してきた。生き残った男子二十数名は、力をふるって彼らに切り込む。騎馬で突入する者もいる。

 気力を回復した山崎団長と花田、前崎、渡辺の諸氏、安部井、宮崎、杉浦君らを中心とした青年隊員数名は、それぞれ一段となって突撃し冒徒を追った。

 午後九時ごろから雨が降り始めた。暴民の群れはようやく退いた。その後、一人、二人と山崎団長の下に集まってきたのが、次の各氏であった。足立守三、長谷川幸太郎、坂下敏、安岡三郎、田川辰雄、山崎恭三、安部井清、小松四郎、高橋安太郎父子。その他数名はどうなったかわからない。

 暗闇の中でずぶぬれになって立っている人々の顔は見えないが話す声は案外しっかりしていた。

しばらくして、安部井、小松、高橋父子の 四名が、自分たちは家族のそばで死にたいからと言って、別れを告げて闇の中に姿を没した。

 山崎団長は、「・・・・・皆さん、それではお別れに、天皇陛下と東京を開拓団の万歳を三唱しましょう」といい、高らかに発声した。その後又皆沈黙して聞こえるのは蕭条と降りしきる雨の、麻の葉を打つ音だけであったが、やがて団長は口を開いた。

「…死ぬものは死に、逃れる者は逃れました。今はこれまでと思います。山崎はここで死にますから、皆さんはどうぞご自由になさってください・・・・」

以上の安達副団長の手記は、ほとんど原文のままである。わたくしはこの手記を読んで若き山田清四郎の少年兵時代の興安総省原風景が 令和二年の現在でもリアルに想像できるために、あえて長文ながら抜粋したのであった。この興安総省という土地では日本人が絶対忘れてはならないソ連軍戦車隊による大量虐殺事件、葛根廟事件も起きている。昭和十九年若き山田清四郎は動物的勘の様な感覚でこの地方の危険性を察知したに違いない。

 満州時代の話しだったと思うが、ある日坂道を荷車のような大砲を引っ張っていた時、坂道をその大砲が何かのはずみで急に転がり落ちる場面が起きたらしい。その時、ある兵隊がその大砲をけん引する車輪の下に、とっさに自分の体をブレーキの代わりに潜り込ませる事件があったらしい。そんな光景を、戦争を知らない私は、さすが帝国陸軍の兵隊だと素朴に思ったものである。

 兵隊時代の特に初年兵時代のエピソードは、晩酌の度に何度も同じことを喋っていたような記憶がある。満州時代における私の父のことについて特筆すべき事柄は、野戦重砲部隊に所属していたことである。おそらく国境の最前線に配属されていたために、昭和20年の8月9日ソ連が平和条約を破棄して満州に迫ってきた時には、おやじの部隊は全滅していたであろうと思う。

 いつ内地に帰還したのか今となってはわからないが、おそらく昭和20年になってからであろうと推察される。それは3月10日の東京大空襲における死体処理の作業に従事させられたからである。 おそらく翌日の11日になって、上野の西郷隆盛の銅像の前に集結させられた話が思い出されるからである。 内地に帰って東京の世田谷にいたことは確かである。世田谷の馬事公苑の近くにある兵舎にいたらしい。馬事公苑(ばじこうえん)は、東京都世田谷区上用賀にある公園である。ここで私はふと 上用賀の地に こだわっている自分があった。なぜかと言うと、東条英機の自宅が、用賀にあったからである。世田谷区用賀1-10-24にある自宅跡には、立正佼成会東京教区東京西支教区世田谷教会が立っている。親父が若かりし頃いた地が日本の歴史に残る東条英機の自宅の近くにいたということは何か不思議な気持ちがする。

東条英機の自宅はさておき、晩酌のたびに我々に東京大空襲の話を語っていたことを思い出すと、花王石鹸の工場がおそらく焼夷弾によって焼かれた時の凄まじさを語っていた。 西郷さんの銅像の前に集結したのは夜が明けない真夜中の出来事であったような気がする。それは下町方面を上野方面から眺めた時一面 花火のような 光景が展開していたことを語っていたのを思い出したからである。

  親父が世田谷の馬事公苑の近くの 兵舎にいた頃のことを想像するに配属された部署は高射砲部隊であったようである。この高射砲部隊にまつわるエピソードと言うか、親父の晩酌の時の話の記憶で戦争を知らない私の世代の感覚では、このエピソードは帝国陸軍の滑稽さを象徴するような話である。連日連夜アメリカ軍の B29による焼夷弾攻撃に対して、この高射砲はB29の高さまで届かないのが現実であったようである。そこで軍は高射砲の兵器を富士山のある一定の高さまで運んで、富士山からB29を打ち落とそうとするアイデアが浮かんだと言う嘘みたいな話を語っていたことを思い出した。実際 B29は太平洋方面から飛んできた時富士山を目標に飛来したらしい。私はこの嘘みたいな話にこだわっているのは山田商店の作業においてこれと似たような発想のもとに仕事をした体験を知っているが故に、この話を書き留めておかなければならないと思ったからである。話は脱線するが、山田商店の仕事において、帝国陸軍のようなとんでもない危険な作業を数限りなく日常茶飯時のごとくさせられたからである 。山田商店は帝国陸軍のスピリットによって運営されてきたのである。

 話を父の戦争時代の軍隊生活に戻そう。昭和20年5月、日付は忘れたが岩手県の盛岡の近くにある矢巾という土地で、新しい部隊が結成された時に記念に、 各人が 遺書のごとく好きなことを書いた綴りが長い間、我が家に保管されていた。その綴りに昭和20年5月見習士官山田清四郎と書かれていたことを明確に記憶している。我が家の歴史においてこのことは大切な足跡であるような気がする。

 ある時私はおじさんに質問した事があった。親父は見習士官として終戦を迎えたのか、それとも陸軍少尉として迎えたのかと聞いたことがあった。おじさんは「軍刀を持った写真があるはずである。お前の親父は 陸軍少尉として終戦を迎えたのである」と断言した。親父の名誉のためにも父は帝国陸軍の少尉として終戦を迎えたと未来永劫にわたって息子として記憶に留めようと思った。さて見習士官として岩手県の矢巾で父は何をしていたのか?それは飛行場を造っていたらしい。この矢巾で終戦を迎えた父は秋田へ向かってスコップ一丁と軍の食料としてあった乾燥したぜんまいを持って復員したらしい。食料はあるところにはあったらしい。故に晩酌を飲みながら平和な時代になって語ったことは「なぜ俺はあの時あの食料を現地で処分して金にしなかったのだろう」と悔やんだ話を度々していたことを思い出した。さてこの岩手県の矢巾の土地で飛行場の造成に携わった思い出で、これも晩酌の夜の話の記憶であるが、飛行場にはベニヤ板で作られた飛行機が、米軍の攻撃に対するカモフラージュとして張子の虎のようにあったと言う。

 またこれは別の話であるが、中隊長であった横山岳精氏が戦後何十年経ったかはわからないが、ある時岩手県の地元紙に載った記事を見て、農家の納屋に隠されていた当時の陸軍の秘密兵器である飛行機を見ての帰り、「 あの時の秘密兵器が最近発見されたのを見てきた 」と興奮した声で電話口で親父に語ったらしい。親父曰く、「あの飛行機はいわば赤とんぼのような練習機だったのだから、お笑い草だよ」といつか語っていたことを思い出した。

 またまた話は飛ぶが、この横山岳精という人を私は語らなければならない。横山岳精という人は、大正6年青森市古川にて誕生。 おやじの軍隊時代の上官で中隊長であったらしい。階級は大尉か中尉であっただろう。 この方は神奈川県川崎市でのお住まいで詩吟の世界では名のある方であった。親父からの聞いた話であるが、笹川良一などとも交流のある方であったらしい。また戦前には頭山満などとも親交があったらしい。今手元に横山さんが書いた自叙伝がある。その自叙伝のあるページに国語の大家であった金田一春彦の「 横山岳精師の吟詠について」の文章を紹介しておく。

 一条天皇(986~1011在位)の時代、すなわち「源氏物語」が成立した頃に、当代随一の才人と言われた人に藤原公任という人がいた。文学音楽全てに通じていた人で、紫式部も清少納言も裸足で逃げ出したという人である。その編集になるものに「和漢朗詠集」がある。漢詩や和歌を、音楽伴奏で歌うことを「朗詠」といい、そのテキストが「和漢朗詠集」であり、公任は朗詠の名人でもあった。

 横山岳精師は、言わば、現代の藤原公任であろうか。もし、公任が現代に生きていたならば、 おそらくレコードに「和漢朗詠集」を自演して吹き込むに違いない。岳精師がこの度吹き込まれたレコードはまさに現代の「和漢朗詠集」であるといってもよい。

  国文学者にして音楽学者である平野憲司氏によれば百人一首を読むのは吟詠であって「うた 」とは言えないが、これに音楽性を持たせたものが朗詠なのだそうだ。

お経でも、普通に唱えるのは吟詠であって、それが音楽的になった場合は朗謡になると言う。してみると、現代の 「吟詠」は、吟詠と言うにはあまりにも音楽的であって、事実このレコードのように、非常に変化に富む伴奏が付けられている。岳精師は、私の父、金田一京助とも親交のあった人である。今度のレコードにも、父の友人石川啄木の和歌を吟じたものまで収められている。父が生きていたら、このレコードを喜んで聞いたに違いない。そして、父京介ならずとも、この岳精師の音楽性豊かな吟詠によって、古今の名歌を耳から鑑賞することができることについて、随喜の涙を流す人は、非常に多いのではあるまいかとも思うものである。

  (ポリドールレコード「横山岳精魅力のすべて」)より

この稿でなぜ横山岳精氏を紹介したのかと言うと、 戦時中の若かりし父のエピソードを紹介するために思い出したのである。ある日のこと、親父は晩酌の時、「今でこそ社会的な立派な人として尊敬されているが、戦争中こんなこともあった」と言って、ある日の空襲の日の出来事を語ってくれたことがあった。「空襲の時慌てて自分の鉄兜と違う他人の鉄兜とをかぶって、また 空襲の時冷静さを失って肥溜めにはまり込んだこともあった」と笑い話のようなエピソードを紹介してくれたことがあった。私はこの出来事を思い出すたびに、山田商店の危険な作業において、ある面において親父は常に冷静さを失わないで 作業した男だったと評価しているからこの晩酌の時の話を思い出したのである。

ここで私の父を紹介するために、50代に書いたある文章を紹介しようと思った。大東亜戦争からおそらく三十年以上も経過した平和な時代のある日の私の父の横顔である。

大東亜戦争は父の潜在意識にある面において絶大なるインパクトを与えたのは確かである。この文章は、私の母を亡くしてから数年ののちに書かれた市の広報に載せられた 文章である。社会も平和な時代が続いた戦争の面影も全くなくなったある日の午後の父の姿であった。この文章を載せることによって、やがて親父たちが人生のフィナーレに向かっての 生きざまが垣間見られるような気持になったからである。山田清四郎は、人生の秋の季節であった。


 随想横丁    広報あきた  


    昭和60年 11月10日

 「昔」を探そうと思い、秋晴れのある日、手形山に立ってあたりを見回した。

芒の穂も、菜の花も、盛りは過ぎ、深まりゆく秋知らせていた。

 あの方向が伝説の沼「大人おおひとの足跡」。水中をおよぐ孟宗竹ほどの

蛇身のうねりを見た人が、びっくり仰天し、それ以来動悸が止まらず、床に伏すようになったと

父が話したその沼のあたりは、埋め立てられて住宅が建っている。

また、夕映えを背に鮮やかに見えた「一本松」も見当たらなく、大学病院をはじめ四角い建物が

建ち並んでいる。あれが公園、あれが K デパート、あれが陸橋と街並みは際限なくひろがっていく。

 授業をさぼって友と寝ころんだ丸い丘はどの辺であろうか。やがて木立の中の細道に歩みを進めた。

と、その時爆音を響かせて、宇宙人のようなヘルメットをかぶった若者が乗った二台のオートバイが、

私を押しのけるようにして通り過ぎて行った。

 街にも、細道にも「昔」はない。五十年という歳月は、私を容赦なく過去へと置き去りにしていってしまったのだ。

道は穏やかな下りになり、農道に出るらしい。

 その時、私の耳に「トロトロトロ」「トロトロトロ」と水音が聞えた。アっ、私が探していた「昔」。夏の日、山の下刈に 両親と一緒に来てい家路の途中、のどを潤した「水」が今もあったのだ。「トロトロトロ」「トロトロトロ」とひそやかな流れに私は幼いころを思い出した。

 あのころの私には、憎しみも、悲しみも、苦しみもなかった。たわむれる子犬のように両親について歩き、この水をすくって飲んだ少年が 父母の期待にそえず、いたずらに年老いて今ここにいるのだ。「トロトロトロ」-----

ひそやかな流れは、父、母のなぐさめのようにも聞えた。


 戦後30年以上も経って、昭和18年山本五十六元帥の国葬のころ亡くなった親父の父、私の祖父

山田清之助を思い出しているが、光陰矢の如しである。ここでこの文章を読んで、一つ思い出したことがある。それは晩酌のたびに夜毎のよもやま話しの中で、私の父が祖父の死を知ったのは 出征前に勤めていた東北機械工業の会社の出張で、九州の八幡製鉄所にておそらく電報であろうか、知ったと話ししていた記憶がよみがえった。

父の記憶と私の記憶がどちらが正しいかわからないが、ある矛盾を見いだしたのである。それは父は大正十二年二月十四日生まれであるがゆえに、昭和十八年の 山本五十六の国葬のころには満二十歳を超えていたことになる。私の推理では祖父の死は昭和十七年であったと思う。昭和十八年山本五十六云々の話しは、父の記憶の錯誤であっただろうと思う。しかし私のおじいちゃんが死んだのはやはり昭和十八年であった。まあどうでもいいことであるが、この文章を読んで思い出すことは、私の父が出征前に東北機械というその当時の国策に沿った 会社に勤めていたことである。晩酌のよもやま話しに、よく父は「秋田で最初にトラクターを製作したのは俺だ」と、自慢話しを思い出した。

若きエンジニアとして、エネルギッシュな青春時代だったと自慢していた。

 山田商店の源流を考えた時、このエネルギッシュな若きエンジニアが終戦後、形を変えて廃品回収業の原型をなさしめたのであった。一口に廃品回収といっても、世の中には様々な機械や設備あるいは秋田大学や秋田工業専門学校からスクラップとして出される廃品は、素人では処理するのに困難な物品が多く、特殊技能が 要求される場面が多々あった。

 そもそも山田商店の原点は、私の父と母が戦後始めたことから始まっているのである。この辺は、山田義和が山田商店の清算劇で残された 借金は、兄弟経営ゆえに折半であると、主張したことはあくまでも山田義和の行政書士として『書面』を重要視して、なぜここに至ったのかという山田商店の歴史、いわば

浪花節的に表現すれば、この結果に至るプロセスを検証することが希薄であったことが、いとこ同士の話し合いで、水と油のごとく平行線をたどったとわたくしは分析している。


山田商店の参謀的存在である川辺豊の出現により,

親父の葬儀で純粋に死を悲しむことができなかった情けない息子

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