超自分史 我が人生で一番寒かった夜 NO-1
我が家の大東亜戦争顛末記
NO-1
西郷 隆
平成二十七年一月二十三日
平成二十七年、満六十四才の正月を迎え、私は三年後を目指して自分史を書き進めて行こうと決意した。
今手元に一月二十三日の読売新聞がある。シニア層を相手にした「自分史の入門」の記事である。・・・・定年退職や子供の独立を機に、書き始める人の多い自分史。自らの人生を振り返るだけでなく、自分のやりたいことを見つけ、これからの人生を考える際に、役立てようと執筆する人もいる。自分史を書いてみたい人向けのアドバイスを専門家に教わった。・・・・・という記事があった。
私は、以前からいつかは書いてみようと思い続けていたが、結局六十四才になってしまった。
光陰矢の如しである。これからブログを使って、あまり他人の目を意識しないで肩ひじを張らず、自分の人生を振り返って、自分史を書き進めていきたいと思う。いわば自分だけの世界に浸る「超自分史」なのである。この読売新聞の記事の見出しに「自分史まずは記憶整理」と大きな見出しが載っていた。私は、これからブログを使って日記風になると思うが、まず、自分の記憶を整理する意味をこめて書き進めていきたい。
一月二十四日
過去の記憶を整理するといえども、どの辺から整理していったらいいのかと苦慮している。今一番念頭にあるのは、四十代後半から五十代後半までの約十五年の月日の中で、自分の人生の中で辛酸をなめた記憶を整理することに関心を持っている。
概略は、父親の認知症の介護問題や、夫婦の離婚、家業の廃品回収業株式会社山田商店の倒産劇にスポットを当てていこうと思っている。
この時代を思い出すのは、正直に述べて精神衛生上、あまり好ましいことではない。かつて、小説家の司馬遼太郎があれ程の歴史小説家でありながら、昭和史を書かなかったのは、あの時代を思い出せば、「死んじゃうよ」といった心境に似ている。
一月二十五日
昨日のことも、忘れているような年代になってきている。自分史を書くにあたって、唯一の過去を振り返るための私の資料は、拙いながらも書かれた自分の日記である。今、書棚から何も考えずに無造作に平成五年に書かれた日記帳を取り出した。この年を起点として、過去を振り返ようと思った。
「平成五年 一月五日」
親父から又金をもらった。親父は、なぜか自分の死を計算しているような節がある。俺としても、手放しで喜んでもらえる金でもあるまい。四十三歳になろうとしても、心の中はまだ大人になりきっていない未熟な息子でもある。
一月二十六日
今日は、親父の命日である。私にとって、絶対に忘れることのできない一日であった。今から十六年前、それはそれは私の人生の中で、最も寒い一日であった。親父が亡くなった十六年前のことは、このドラマの中で、最もページを割かなければならない大事な一日であったので、そのときに触れようと思う。
今日は、私の拙い日記から少し解説を加えておきたいと思った。私の父親は、昭和二十年八月十五日において、満二十二歳であった。従って、二十七才の時私が生まれたわけである。私が四十三才の時、親父は六十才であったと思う。私の父親の誕生日は、大正十二年二月十六日である。私の母とは、年齢が一つしか違わない。私の母親は、満五十五才で亡くなっている。ちなみに私の父親は、母が亡くなってから、急に老化したようであった。
一月二十七日
私が、日本の敗戦の日八月十五日に、親父が二十二歳であったことに触れたのには特に深いわけがある。戦争から帰ってきた親父は、家族を養うために廃品回収業の商売を始めたのだった。
私は、自分の人生、とりわけ自分の人格を考えるにあたって、この家業であった廃品回収業が、大きく深く影響を自分の人格に与えたと思っている。そして、このドラマのクライマックスである株式会社山田商店の廃業整理の場面において、終戦後から長い間、兄弟経営で営んできた家業の歴史の原点が、日本の敗戦である八月十五日に起因しているからであった。
兄弟経営であった山田商店は、終戦時において叔父さんが陸軍大尉、親父が陸軍少尉で終戦を迎えた。二人とも陸軍の将校であったために、精神的にかなりプライドの高い性格であったことを記しておきたい。この原点が最後の場面である会社の整理のドラマで、私を苦しめたような気がする。
一月二十八日
自分史を書くにあたって、もし時間に余裕があれば、もっと文章に幅や深みが出るように書いて、創造性のある内容になるように書きたいと痛切に思った。しかし、私は一日二十四時間の内、ほんの少しだけの自分史を書く時間しかないのが現状である。こうしている内にも「犬の散歩に行かなければ」と思っているようなあんばいである。今日ふと車の中で、何年か前の秋田の地元紙「魁新報」の新聞記事があることが、思い出された。あの記事を書いていけば、山田商店を説明するのに都合が良いことに気が付いたのであった。
一月三十日
その一
今手元に、平成七年十一月十九日付けの秋田魁新報に山田商店に関する記事が載った新聞がある。戦後秋田五十年と大きな見出しのついた新聞記事である。
・・・・・・・ 再生資源業(株)山田商店社長の山田清一郎さん(七十五)=同市千秋城下町=は、そのボロ屋を昭和二十三年から始めた。
山田さんは、昭和十三年、二十歳で弘前の騎兵八連隊に入隊。陸軍の幹部候補生試験に合格して、昭和十八年中尉として、中国中部に派遣され、通称「弾部隊」の騎兵中隊長として転戦した。
終戦を知ったのは黄河の南部で、徒歩地点を探していた時だった。
二月一日
「終戦を知ったのは、黄河の南部で、徒歩地点を探していた時だった。」
私は、この一行の文章にこだわっている。どう想像を巡らしても、状況が今一つ理解できないのである。まさか、中国大陸を流れる黄河の河を渡るために、浅瀬がある徒歩でも渡ることができる地点を探していたわけでもあるまい。
この新聞記事の中で、「戦いながら武装解除地点である済南に集結した。」とある。今私は、インターネットでこの済南を調べてみた。
済南市(さいなんし/チーナン市、英語:Jinan)は中華人民共和国山東省に位置する副省級市。山東省の西部に位置し、省都として省内の通商、政治、文化の中心としての地位を占める。市中を黄河が流れ南には泰山が控えている。人口のほとんどは漢族であるが、満族や回族なども居住している。
言語は北京語に近いが声調がひどく訛る山東方言がある。済南は北京料理のもととなった、やわらかくて塩辛い「魯菜」(山東料理)でも知られている。城内に「天下第一泉」と呼ばれる泉をはじめとする「七十二名泉」と呼ばれる水量の多く美しい泉水があるため、都市の別名を「泉城」という。豊かな自然と歴史資源を持つため、国家歴史文化名城に指定されている。
歴史的な由緒のある地域であるらしい。
二月二日
その二
「それまで、米軍の空襲を避けながら、気を張り詰めて行軍していた兵は、へなへなと倒れ、わずかの間に五十人も病気で死んだ。以後、国民政府軍からの攻撃はなくなったが、八路軍(中共軍)からは、激烈な攻撃があり、戦いながら武装解除地点である済南に集結した」
この数行の文章にも私は、想像をたくましくして伯父さんの二十五歳の若き姿を、想像するのであった。山田商店の五十年の商売の歳月の中には、危機一髪と表現していいような場面がたびたびあった。私は、そのような場面の時の、伯父さんのクールな表情を今でも思い出す。おそらく、この中国戦線の戦場においても、冷静な『どこかに必ず活路があるはずだ。』と、信じこむ伯父さんのクールな表情があったと想像するのである。
二月三日 その三
今しばらく新聞記事を読んでいく。・・・・・・復員したのは、昭和二十一年三月。中国・青島から長崎の佐世保に上陸、秋田市赤沼の実家に帰った。二十六才だった。一家で魚屋を営んでいた父親は、すでに亡くなり、店もなかった。加えて姉の夫が、シベリアに抑留されており、姉の子供たちも含め、一家十三人の生活が長男だった山田さんの肩にかかった。
秋田商業学校(現秋田商高)時代の先輩に相談に行ったら「お前はもともと試験に強い。実力で昇進できる警察官になったら」と勧められた。
しかし、給料取りではとても十三人は養えない。それで商売を始めることにした。アイスキャンディー屋を思いついたが、既に朝鮮人を中心に、多くがやりだし参入は難しい状態。次にし尿のくみ取り屋を考えたが、大規模に始めた先行者がいた。
結局取り組んだのが、ぼろ布等を交換する「ボロ屋」であった。
「拾い屋」とも呼ばれた。終戦直後とあってあらゆるものが不足していた。ボロとはいえ、布も貴重品だった。回収(買い取り)したボロを縫っては、ぞうきんや敷布、ウエスに加工し官庁や学校に売った。
幾らかでも現金が欲しい家庭の主婦らは、自宅内の押入れ等から持ち出してきてくれた。
ある日、それを自転車に積んで秋田市広小路を着古した将校服姿で通ったら、部隊のかつての部下が前から来た。恥ずかしくて自転車を放置、逃げた記憶がある。
二月四日
・・・・・・・・恥ずかしくて自転車を放置して逃げた記憶がある。・・・・・
この文章が、私の伯父さんの性格を象徴しているような気がする。要するに、非常にプライドの高い性格であった。
私は、自分史を書くにあたって、「平成五年、ここからドラマが始まる」と書いたが、その中で、山田商店の倒産劇も一つのテーマであった。山田商店の最後の場面において、およそ三千五百万から四千万の負債が、我々息子達の肩にのしかかってきて、非常にその解決に苦労したわけである。私達にとって、この金額は大変な数字であった。「なぜ、このような負債をつくらなければならなかったのか?」と不思議に思ったが、考えてみれば、伯父さんのプライドの高い性格がこのような負債をつくったと私は勝手に解釈している。
二月九日 その三
今しばらく「戦後秋田五十年」と書かれた魁新聞を読み進めて行こうと思う。
昭和二十五年六月末、朝鮮戦争(動乱)が始まった。鉄など金属くず類やボロ布の値段が急に上昇し始めた。この余勢をかって秋には自宅兼作業場を現在地の「手形第二踏み切り」そばに新築した。
仲卸の仕切り屋に移行したのは二十七年。家々や路地を回り、主婦や子供らからボロや金属類を集めるリヤカー部隊(ボロ屋)を抱えたのだ。リヤカーと買い取りのための現金を各ボロ屋に貸すことで回収量は一挙に増えた。
金属くず類の暴騰は依然続き、特に銅は高かった。このため、金属くず探しは少年らの間で熱を帯び、袋にため込んではリヤカーで来るボロ屋を待った。「旭川の中を強力な磁石を引いて鉄類を集める子供もいた。」(山田さん)。
一方、金属窃盗が県内のあちこちで発生した。「金片ドロ」という新語まで生んだ。二十六年三月から二十七年三月までに秋田市警察署が検挙した金片ドロは計五百件。
二月九日
その四
この摘発も実際の被害からすれば氷山の一角だった。同市千秋公園にあった高さ約1メートルの佐竹公の銅像は一夜にして姿を消し、市内金属業者の倉庫から見つかった。マンホールのふた、水道の蛇口、消防の半鐘、はては紋章のついた墓碑の銅金具など、持ち去られた」という被害届は絶えることがなかった
「西馬音内地区署が三十貫、時価二万円相当の銅線を建築会社の倉庫から盗んだ男を逮捕した。」という記事を掲載(二十七年三月十五日付)した秋田魁新報は、「盗品だと知りながら買いとる悪質な鉄くず業者が犯行を加速させている」と報じた。「盗品と知りながら買う、と思われるのがいやで当初はボロ布だけしか扱わなかった。しかし、これだと商売にならず最終的には、金モノも取り扱った。金属くずの参入は遅かったが、朝鮮動乱とその後の好況が三十年代まで続いたのでもうかった」と山田さんは振り返る。
二月十日 その五
実際、三十年代に入ってもこの”好況に支えられて”金属窃盗は続いた。特に電線盗が多く三十一年だけでも、県内で三百件、四百万円以上の被害が出た。同年十一月にはオート三輪車を繰り出し、河辺町和田地区の電線を切って盗んだ四人組が捕まっている。同地区が一斉停電したため、駆けつけた東北電力社員が見つけ、警察に通報したものだった。
山田さんは、「そうしたやばい品には、手を出さないようにした。それでも順調に発展、三十三年にはうちの店所属のリヤカー部隊十五人が集めてくる廃品を卸し業者に運ぶためトラックを購入するまでになった」。あまりにうれしくて天にも昇る気持ちだった。三十八年末の純利益は三百万円。翌年四月には株式会社にした。国内では鉄くずから立派な製品を作り上げる技術革新が進んだこともあって、需要は多く、社業は四十年代も順調だった。高度成長時代とあって廃品はいくらでも資源として売れた。
二月十一日 その六
四十七年には秋田南税務署から純優良法人として表彰を受けた。荷車一つでスタートした山田さんにとって、得意満面のころだった。だが、為替レートは前年八月、一ドル三百六十円の固定相場制が崩れて変動相場制に移行。一ドル三百八円になるというドルショックが起きた。追い討ちをかけるように、四十八年には二百七十七円に。
自動車などの輸出はガタ減りし。金属くずへの需要は急落した。この頃になると、金属くずを持ってくる人もいなくなり、もっぱら工場などの金属廃棄物の引き取りが中心になる。
そして最も厳しい冬の時代となるのが昭和六十年の「プラザ合意」以降。円高が進み、国内の金属くず市況は下がるばかり。
「本当にこの十年は大変だった。うちは一時。仲卸の仕切り屋まで行ったが、現在は単なる回収業者。授業員も十人から四人になった。以前は市内に三百人以上いた同業者も現在は約三十人。全県でも七十人程しかいない。」
山田さんによると、昭和四十年前後の取引値は、銅がキロ約四百円鉄くず約二百五十円。アルミ約八十円。現在は銅が約百五十円、鉄くず約五円(ブリキはゼロ円)、アルミが約三百円。
「高いのはアルミぐらいで、他は産業廃棄物の処理ということで、お金をいただいて引き取るケースが多い」という。現在は阪神淡路大震災のスクラップが多く出て、値段は一段と下がり気味。毎日顔を曇らしている
「私は仕事を選ぶという意味では、出発点で誤ったのかなと思っている。先輩がアドバイスしてくれたように、勤め人の方が成功していたかもしれない。いずれあの戦争直後の状況が、今の私を決めた。弾丸の下をくぐり抜けたと思ったら、やれドルショックだ円高だと社会情勢にほんろうされてきた五十年だった。」
この商売をしてきてせめてもの慰めは、五人の子供全員大学を出したこと。「その子らも県外の大手企業に勤めて後は継がない。三Kの最たるものだから仕方がないが・・・」と最後につぶやいた。
二月十二日
私のドラマは、親父の命日である平成十一年一月二十六日から、記憶を呼び覚まして始めようと思う。私の人生において、あの冬の一日は、長くそして一番寒い一日であった。
午後の二時頃だったと思うが、私は、父の実家である赤沼の家にいた。私は、従兄弟の義和と叔父を前に、熱弁をふるっていた。
「今こそ、山田商店の清算という幕を引く場面である。千歳一隅のチャンスである。上手に幕を引こう」と、強い口調で訴えたのだった。
私の熱弁に対して、義和と伯父さんは、まだ本気になっていないようだった。躊躇しているようだったのである。消極的な表情に思えた。熱弁をふるった後に、私は長居をしないで赤沼の家を出たと思う。車に乗って十五分ぐらいの間、あの時、私は何を考えていたのであろう。秋田大学の陸上競技場のそばで、車を止めてたばこに火をつけた。ちょうどその時であった。私の携帯電話が鳴ったのであった。携帯の呼び出し音はシンプルな音だった。かかってきた先は、親父が世話になっていた老人ホーム、光峰苑からだった。
電話に出た私に、耳を疑うような内容が、老人ホームからかかってきたのである。「お父さんが、今、危篤状態です。今すぐ来てください」と。私は危篤という言葉がどういう響きを持っているのか、その時、まだ実感として感じ取っていなかったのである。心の中では、「体調が少し悪くなったのかな」という程度の認識であったのである。
二月十六日
陸上競技場から光峰苑までは、車で十分ぐらいの距離である。頭の中は、その間何を考えていたであろう。おそらく、フリーズの状態であったと思う。
光峰苑に着くなり、苑の職員が私をある部屋に案内した。部屋の中に案内されて、私の目に飛び込んできたのは、ベッドに寝かされた親父の姿だった。親父の最後の顔を、時間にしてどのくらい目にしたであろう。ほんのつかの間の、一瞬の出来事だった。その瞬間、私の脳裏に、親父の最後の表情がある洋画を連想させたのだった。それは、ムンクの「叫び」という画を連想したのだった。そして、光峰苑専属の看護師が、親父の顔に白い布をかぶせたのだった。その時、目の前で何が展開しているのか、私は一瞬理解できなかった。「叫び」の画と親父の最後の顔がダブって連想されたのは、親父の生前の表情と比較して、呼吸が止まった最後の顔は、異様に頬がくぼんだインパクトを私に与えたからだった。
二月十七日
月日が流れ、今十六年前のあの日のことを思い出して振り返れば、親父の実家で熱弁を振るった場面や、光峰苑で臨終の場面に一人臨んだのは、何かの因縁・運命を感じさせるのだった。
あの日の出来事を時系列的に思い起こせば、親父の魂が、私の心の中に入り込み、私の口を借りて、最後のメッセージを残したように、私は神秘的に考えこまざるを得ないのである。
あの日、私は人生の一大事とも思える親父の臨終の場面に、親父の死の悲しみに集中できない悲劇が、私を待ち構えていたのである。水面下で、私の家屋敷がある男に取られてしまう気配が差し迫っていたのであったのである。
二月十八日
ここで私は、今までのこの日記の流れの中で、なぜ、ブログの題名に「超自分史」という題名にしたのかを述べてみたいと思う。このことを説明することで、あの日の自分の行動、思考が理解できるように思えたのである。
私の幼年時代に、家族から特に母親から「隆が又、一人しゃべスコープを始めてきた」とからかわれたものだった。「一人しゃべスコープ」とは、簡単に述べるが、自作自演の自分自身が主人公になって、自分の世界に浸る幼児期の一種の遊びのようなものである。何かの書物で、幼児が自分の世界に浸る行為は、学問的にもあるらしいことを読んだことがある。
この「一人しゃべスコープ」は、私が幼稚園に入る以前からの遊びであったような気がする。この頃は、テレビなど普及していない時代であった。娯楽といえば、映画が主だったものだった。子供に強烈な影響力を与える映画は、私を時代劇や戦争映画のヒロインに簡単にさせるのであった。ある時は、嵐寛十郎。又ある時は、旗本退屈男になるのであった。何回殺され死んだかわからない、無邪気な幼児期の空想の世界であった。今から六十年前頃、昭和二十年代後半から昭和三十年代前半にかけて、今の子供のゲーム機器などのような玩具類は、親から買ってもらえない時代であったような気がする。「一人しゃべスコープ」に夢中に遊んだのは、玩具に類するものが、今と比べて全然豊富でない時代であったからかもしれない。
「一人しゃべスコープ」を思い出すにつれ、私の性格の原型が、あの頃に出来上がったような気がするのである。「超自分史」のタイトルをつけたのは、いわば大人になってからの「一人しゃべスコープ」の再現のようなものであるので、そうネーミングしたのであった。
臨終の場に居合わせた私は、気が動転して頭の中がフリーズの状態だったが、葬儀屋の車に一人同乗して、時間が経過するに従って、幼い頃に体験したような自分の世界に浸り始め出したのであった。
二月十九日
親父の亡きがらを載せた車は、中学校の前を差しかかった。右折すれば、葬儀場に早く着く道のりだったが、私の脳裏にある思案が浮かんだ。「運転手さん申しわけありませんが、そこの十字路を左折してください」と私は、実家の前を通って葬儀場に行くことを決めた。
車は、実家の前に、停車した。あの光景は、戦後の焼け野原に一人たたずんだような風景をかもし出したのであった。このへんが「一人しゃべスコープ」の自作自演の場面を意図的に創作するような感じであったかもしれない。
私のドラマは、この辺が佳境の場面である。既に更地になった私の実家は、ある男のために売却が決定されていたのであった。
二月二十三日
私の免許証の本籍地は、秋田市千秋城下町二百十四番地である。本籍地は、法律によると、極端に言えば「皇居前広場」でもいいわけであるらしい。現在は、実家のあった跡は、人手にわたって全然縁もゆかりもない他人が生活しているわけであるが、私は自分のルーツとして、私が生きている限り、本籍地は変えないつもりである。
私が生まれた昭和二十五年七月十四日、生まれてまだ間もない赤子の状態で、この土地に親が連れてきたのであった。葬儀場に向かう車の中から、更地になった私の生家を見た時の何とも言えない、わびしさ悲しさは生涯忘れない。時刻は、午後六時は過ぎていたと思う。冬の六時過ぎだったから、もうあたりは漆黒の闇であったであろう。 しかし私の瞼には、幻の自分の生家が浮かび上がっていたのである。そこには、元気な頃の母や父或いは兄弟の姿が浮かび上がっていたのである。
二月二十五日
十六年前のあの日の自分の姿を思い出せば、頭の中が混乱した状態になる。「ベルコ」という名前の葬儀場で、遺体安置所に私は一人で泣き崩れていた。目の前に親父の遺体が横たわっていて、私は呆然としていた。
だがあの日、妹に携帯電話から留守番電話に「何時何分に親父が亡くなった」ことを入れていた自分の冷静さも書きとどめておきたい。どこで妹から折り返し電話を受けたか、もう忘れてしまったが、妹は「万難を排して今夜中に汽車に乗って秋田に向かう」と言い出したことも思い出した。私は、最終の時刻の列車に乗ってくるよりも、一晩横浜の自宅で夜を明かし、翌日の新幹線に乗ってくるように勧めた。
従って、平成十一年一月二十六日は、たった一人ぼっちの運命的ともいえる夜を、迎えなければならなかったのである。遺体安置所にどのくらい一人でいたか、忘れてしまったが、夜も遅くなってきた頃、親父の遺体が私に語りかけてきたのである。「俺のことなど構わないで、明日の朝の仕事には絶対出かけろ。」と、私に語りかけてきたのである。今思い出せば、親父と私の親子の最後の対話でもあったのである。
私は、親父の遺体を前にして「父さんどうもありがとう。」と、そのような言葉を語りかけたような、記憶がある。とうとう私は、親父を遺体安置所に置き去りにして、外旭川の自宅に戻ってきたのである。ほとんど眠らないで、深夜バイクに乗って新聞販売所に駆けつけたのであった。仲間に「親父のそばにいなくていいのか。」と言われたのを覚えている。
三月四日
平成九年、八月二十一日に俺は赤沼【親父の実家】に行っている。
この日の日記を書いた数日前に、兄貴が俺を訪ねてきて妙なことを口走ったことを思い出した。それは、ある男と意気投合して、現在の苦境を打開するシナリオを語ったことであった。今となれば、記憶は不鮮明であるが、夢物語のような、非現実的なビジョンであった。具体的には、川辺なる男が現在の自宅に、作業場兼自宅の三階建てぐらいの軽鉄骨の建物を作ってやるという、そんな今となっては嘘みたいな話だった。そして、株式会社山田商店を解体して、個人経営の業務形態に移行するシナリオの話だった。
そんな兄貴の話が頭にあったので、従兄弟の義和が不在の時に、伯母さんにそれとなく兄貴からの話をした。この話は、義和の耳にも入っていたらしく、赤沼の伯父さんの家では、既に話し合われていた節が感じられた。赤沼の伯母さんいわく『義和は大反対である』と言ったらしい。
ここで初めて山田商店以外の登場人物である、従兄弟の山田義和(四十五才)が登場してくるわけである。従兄弟とはいえ、伯父さんの家風がそうさせるのか、行政書士という職業がそうさせるのか、実に理屈っぽい男である。
三月八日
パンドラの箱という言葉がある。私たち兄弟は、山田商店の内状に非常に疎かった。借金がどの程度あるのか、私には想像できなかった。私は、この事件が起きる十四、五年前に、未来に不安を覚えて家業である廃品回収業の社員としての仕事を断念し、軽運送業の赤帽に仕事を切り換えた。今にして思えば、タイムリーな判断であったと思っている。
十四、五年前に三十代中頃に、悩みに悩んで山田商店から逃げ出した動機は、伯父さんの経営者としての姿勢に、疑問を抱いたからであった。伯父さんは、未来を据えて、我々兄弟を積極的に経営に参画させるような姿勢は、皆目全然なかったのである。従って、経営に関して、つんぼ桟敷に置かれたようだった状態が約十年以上続いていたのであった。私が一番に心配したことは、自分の家がスクラップ置き場である土地に建てられており、業界用語では『ヤード』と呼ばれる土地に建てられていたため、屋敷に対して、銀行の根抵当権が設定されていたからであった。
話が飛躍するが、私は、家業廃品回収業を通じて、兄弟経営は絶対にすべきではなかったと、痛切に自分の家の歴史に対して、後悔の念を持って過去を振り返ったものであった。降ってわいたようなパンドラの箱を開けたために、私は、頭の中がパニック状態に陥ってしまったのであった。山田商店において、伯父さんは天皇陛下であって、絶対者であって、ワンマン経営の社長であった。
三月十日
山田商店を巡る内紛劇に登場する川辺豊なる人物が、最初に山田家に接近してきたきっかけは、どうも山田商店に、銅線屑を売りに来たのが、きっかけらしかった。あの当時の私の兄貴の振る舞いは、弟の私から見て、ハイテンションな無分別な山師的なところがあったような気がする。おそらく初対面の場面で、川辺豊と何かの弾みで意気投合したかと思われる。これは後日談であるが、川辺豊が意図的に兄貴が不正な行為をして、銅線屑を安く買い入れ、彼が黙認したようなことを私に語ったことがあった。悪という側面から両者を比較すると、兄貴は、羊のような存在であったと思う。一枚も二枚も川辺豊は、悪に関してはうわてであった。最初の出会いから山田商店に、出入りするようになってから、私の高校の同級生である金融機関に勤める友達からの情報では、前科十二、三犯のワルであったのだった。これは警察の確かな情報であった。従ってこの情報は、漏れると一人の警察官が、不利な立場になる程重大な情報であったのである。
三月十一日
平成九年から親父の葬式のあった平成十一年までの約二年の間、私の頭は夢遊病者の如く、その当時書いた日記を読んでも、何を書いたのか理解に苦しむ内容である。私の精神状態を象徴しているような気がする。今となっては、自分の記憶をたどるしかないようである。
従兄弟の義和と我々兄弟が対立する前に、私は、単身赤沼の親父の実家に乗り込んだ記憶がある。何を主張して、何を語ったのか忘れたが、自分としては、西郷隆盛と勝海舟が、江戸の無血開城に至った歴史に自分を重ね合わせ、その意気込みで義和と話し会おうと出かけたつもりであった。後に、その時の気分を川辺豊に話をしたことがあったが、西郷隆盛と勝海舟が、同じ認識を見た歴史は、薩長と幕府の対立よりも、日本を取り巻く外国威力の脅威の危険が迫っている事の同じ認識があったのである。外国勢力の脅威、私は、漠然と山田商店の問題に、川辺豊にこの外国勢力の脅威と同じように、感じ取っていたのであった。
山田義和との対面では、彼の法律を振り回しての論調には、私の情緒的ともいえる会話とは、水と油のような決して妥協点の見いだせない会談であったのであった。
幾日かして、川辺豊がこの私の義和との会談を揶揄して、「坂本龍馬だか、何だかしれないが」と、こんなふうに茶化して話したことを覚えている。私は、特別に深く川辺の言動を受け止めたわけではなかったが、漠然と彼の歴史的教養のなさを受け止め、私が彼を警戒していた事をこのエピソードで心の底に沈殿させて、川辺の何気ない言動を受け止めた事を、後のために書き残しておこうと思う。
三月十二日
義和との対談で不調に終わった日のことを述べておこう。義和は、山田商店を整理解散するのであったならば、残された負債は、兄弟経営ゆえに、両者で折半であると主張したのであった。あの場面で、もし山田清四郎側が、折半された負債を払えなければ、山田清四郎の個人の厚生年金を押さえるような発言をしたのであった。厚生年金云々の件は、今となってみれば、あの場面で発言したかしないか記憶が不確かではあるが、後日、義和は、いやしくも行政書士という肩書きで法律で飯を食っているプロゆえに、個人の年金を抑えることが、憲法違反ともいえることで、できないことを悟って私に謝ったものだった。あの日の対話は、感情的な雰囲気が室内を漂わせていた。
負債の折半という案に対して、私は、絶対に妥協したくなかった。どこか割り切れない気持ちがあったのである。私は、数ヶ月後に自分の日記の中に、重大なメモを発見した。
・・・・平成九年十月二十九日・・・・
自分の記憶力程あてにならないものはない。やはり常にメモに残すことの大切さを今日痛感した。「新世紀のために」とタイトルをつけた自分の備忘録に、親父が語った言葉を発見したのであった。 昭和六十二年に親父が語っていた。この土地を巡る金の流れのメモが残っていたのであった。ほんの数行のメモであるが、貴重な過去からのメッセージであった。
三月十三日
平成九年九月十八日
兄貴の方針は計画倒産であり、その最悪のシナリオが進行しているが、今日下水道の書類に目を通していて、市役所から送られてくる固定資産税の納付書の中に、十坪の土地が、山田商店として会社の登記であることが確認された。倒産という事態になった時、この土地の処分という厄介な問題が、浮上した感じである。しかし、俺もうかつな男である。何年もこの土地に住んでいながら、毎年市役所から通知されてくる固定資産税の納付書を、よく吟味して目を通していなかったとは、うかつであった。自分のアバウトな性格に対して自己嫌悪を覚える。
この頃になって、自分の住んでいる土地に、山田清四郎の個人資産として、登記されていた約百坪以外に、十坪ばかしの土地の、二口が同じ土地に登記されていたのであるのに気が付いたのであった。この事実は、伯父さんの性格を考えるのに重要な意味を持っていると思う。おそらく、伯父さんの性格を思うに、十坪の権利を保留しておくことは、何かの場面で有利に働くと計算された将来のための布石であったと推理する。要するに、ずるくて小賢しい性格なのであった。
「新世紀のために」のタイトルの私の備忘録には、こんな事がメモ書き残されていた。
・・・昭和六十二年一月六日・・・
昭和四十三年亡き母が、割山の戸地を百五十万で、独断で買う。昭和六十二年秋、約六百五十万で売れる。其の内二十六%が税金。五百万の金を会社の借金に充て、残りは税金その他に。外旭川の俺の土地のために、二百五十万を親父が会社に出す。「隆よお前はこの土地で、何も気がねなしに、大きな顔をして、生活するがよい」と、私の親父は、晩酌の時私に向かって言ったのであった。
三月十五日
親父が語った言葉。「隆よお前はこの土地で、何も気がねなしに、大きな顔をして、生活するがよい」と、私の親父は、晩酌の時私に向かって言った言葉には、昭和五十三年の五月にさかのぼる伏線がある嫌な記憶の出来事があったのである。
私のマイホームが、スクラップ置き場のヤードに建てられたのは、昭和五十三年の五月のことであった。完成してから、五月に新築祝いをささやかだったが、隣のおじいちゃんと、比佐子の友達を呼んでおこなわれた。ささやかながらも、身内以外の人が、臨席する部屋で五十七才の分別があってしかるべき叔父が、こんなことを述べたことを思い出すスピーチがあった。
「隆よ、お前はこの土地に住んで自分の土地であると錯覚するな、もしそんな気持ちになったならば、俺の息子達が、黙っていないぞ」と、威嚇めいた発言をしたのであったのだった。私は今でも、この場面で兄貴がささやいた言葉を覚えている。
「この土地にお前の家を建たのは、将来、失敗だったと思う時が来るだろう。それにしても、伯父さんは、もう末期症状だな」こんなコメントを聞きながら、私は将来に不安材料を抱いて、マイホーム生活が始まったのであった。
私の親父にすれば、このスクラップ置き場で昼間作業をして夜間誰もいなくなることは、資材置き場として、不安を感じたのであろう。いわば、私の家を建てる事は、資材置き場の監視の役目を兼ねた構想であったような気がする。こんなエピソードがあったがゆえに「隆よ大きな顔をして生活するがよい」と、晩酌の時語ったのであったのであろう。
最近、白髪のしかもハゲかかった自分の姿で、犬の散歩をしながら若い人たちのマイホームを見ながら、自分の過去と比較しながら、うらやましい気持ちにもなることもある。
三月二十一日
平成九年九月二十四日
十坪を巡る処理について俺はどういう対応をすべきか迷っていた。兄貴の態度も考えて、早めに登記するべきだと判断して、内藤司法書士事務所を訪れた。「売買に関して義和側と十分な話し合いをするするべきだ」と当たり前のアドバイスをした。内藤氏が義和と面識があることで私の依頼に対して難色を示した。しかし、おそらく引き受けるであろうと思った。
この日記の頁には、川辺豊が、我々兄弟に対して、強いリーダーシップを発揮したことが書かれていることを思い出す。山田商店の清算劇の土俵に、初めて、このあたりから問題に入り込んできたことをこのページは語っているのである。もしあの時、義和に十坪の会社名義の件が発覚していたならば、彼の性分から云って、すんなり山田清四郎個人の名義にはならなかったであろう。時々我々夫婦はあの頃を思い出して、川辺豊は悪者であったが、我々夫婦には、救いの神であったと話し合うことがあった。
結果論として、この内藤司法書士事務所において、念願の根抵当権を千秋城下町の約三十坪の兄貴の土地に移行して、しかも、十坪は簡単に山田清四郎の名義に変更されたのであった。この内藤事務所で、外旭川の私の土地の根抵当権を外し、しかも、十坪の変則的な権利を抹消し、名実ともに私の父親山田清四郎の名義に書き換えたこの時期、私達兄弟にとって川辺豊は、心強い参謀的存在であったのである。
彼は、私達兄弟に向かって「私は、昔、山田清四郎さんや山田清一郎さんに大変お世話になったことがある。」と語ったことがあった。私たち兄弟は、この一事からも人を疑うという能力が欠けていることを率直に認めようと思う。私達の頭脳は、素朴で単純で、人を疑うということを知らない性質なのかもしれない。従兄弟の山田義和は、叔父の後ろ姿を見て育っているせいか、私の目には、法匪な性分のように思われた。私達兄弟は、山田清四郎のかえるの子供であって、いわば浪花節的な情緒性をもった、良い表現を使えば素朴であった。悪い表現を使えば鈍重なお人よしな性分であったであろう。
情緒に論理性があるとすれば、 logic of emotion ともいえるものがあれば、従兄弟同士の対立は、水と油の如く混割ることが絶対にない雰囲気があったのである。法律と浪花節は、水と油の如く溶け合うことは、なかったのである。川辺豊が、私に「お世話になった」とリップサービスの言動が、後に嫌という程様々な悪事を起こし、その整合性がないことが証明されたのであった。
三月二十三日
ここで、川辺豊が我々兄弟にとって、参謀的な存在であった時期に、兄貴がふと私にささやいた言葉を、記録として書き残しておかなければならないと思った。この言葉が、結果として、パンドラの箱を開けることとなった、兄貴の心象風景を象徴しているような気がするのであった。
兄貴は、私にこのようにささやいたのであった。「隆よ、川辺さんは、我々兄弟にとって、諸天善神のような存在なのかもしれないぞ」と。兄貴は、学生時代から創価学会員なのであった。しかも、この当時、秋田における幹部会員なのであった。私は、入信はしていたが、兄貴程純粋に信心にのめり込むタイプではなかった。学生時代から、この信心という課題に関して、兄弟の間で常に論争をしてきたのであった。図らずもこの川辺の問題で、常日頃から私が危惧していた兄貴の信心の姿勢が、如実に悪い結果を出したと思っている。
弟の立場から見て、兄貴の信仰に対する姿勢は、神がかり的な非合理的な、呪述的に思えていたのであった。俗な表現をとれば、南妙法連華経の題目を沢山唱えれば、「棚からぼたもち」式の功徳が得られると信じているように思われたのであった。この兄貴の姿勢が、この後、我々兄弟を泥沼にのめりこませる結果となったのであった。
三月二十九日
ここで、山田商店と川辺豊の問題の筋道からそれてしまうかもしれないが、兄貴のキャラクターを弟の立場から、若干触れてみようと思った。
山田商店の末期における問題に対して、兄貴が、川辺豊を参謀として迎え入れて、解決しようと試みたドラマは、我々兄弟の人生という時間のスパンで考えれば、子供時代のあるエピソードが思い起こされるのであった。
おそらく、昭和二十年代末から三十年代初めだと思うが、兄貴は、明徳小学校に入学した。担任の先生は、松本文子先生という綺麗な教師であった。ある日、おそらく子供の授業参観日であったであろう。私の母が、その日出席したのであった。授業参観のテーマには、「何でも好きな食べ物の絵を描きましょう」という図画のお絵描きの時間であった。若かりし私の母は、どんな気持ちでその授業参観に臨んだだろう。先生に「好きな自分の食べ物の絵」というテーマを出された子供たちは、各自自分の好きな食べ物の絵を描くのであった。ある子供は、「目玉焼き」、ある子供は「カレーライス」、又ある子は「お魚の絵」を描くのであった。私の母は、自分の息子がどんな絵を描いたか、興味深々であったであろう。小学1年の図画の時間であった。私の母は、息子が描いた絵を見て、それ以来、小学校の門をくぐることは、なかったのであった。相当激しい赤恥をかいて、赤面のいたりであったらしい。兄貴が、その時描いた絵は、何と「鯖の骨」だったのであった。昭和二十年代から三十年代の時代は、今のような健康に関するサプリメントなどあろうはずがない時代であった。あったとしても、貧乏な我家には、そんな余裕はなかったであろう。その当時、冬の季節には、薪ストーブが使われていた。うちの親父は、息子の健康を考えて、鯖の骨など魚の骨を薪ストーブの上にあげて、コリコリと焼いてカルシウムのサプリメント代わりに食べさせたものであった。まだ、日本の食生活が豊かでなかった時代であったであろう。
私は、このエピソードを思い出したのは、子供の時代から兄貴には人が考えつかないような突飛な発想をするキャラクターが、あったような気がするのである。このエピソードは、兄貴の心象風景の原画、原風景とでもいえるような気がするのである。中学、高校と成長するにつれ、この突飛な発想をするキャラクターは、彼の人格の特徴ともいえるようになった。
おそらく、山田商店の末期のパンドラの箱を開けた彼の問題解決方法は、この原画と、心の深層部で繋がっていたような感じであった。弟の私としては、山田商店の末期の解決方法をこの原画とリンクさせて、分析するのであった。
四月十日
平成9年の夏頃から始まった山田商店の問題は、最初は、川辺豊の参謀的な存在を認め、不透明な未来を感じながらも、年の瀬を迎えようとしていた。
平成九年十二月二十五日木曜日晴れ
昨夜、川辺氏の姉の経営する大友食堂にて忘年会をやる。若い男が五人。山田商店としては若い従業員を五人も雇い入れるのは、異例のことだった。会社として人件費を出せるのか不安であるが、川辺氏の手腕に期待するしかないだろう。
この頃は、私達兄弟特に兄貴は、川辺豊の陰に犯罪の臭いを感じ始めていたのである。川辺豊が自分の子分として連れてきた若い男達は動物的な勘であったが、山田商店の体質にはふさわしくない雰囲気を持った若者達であった。後にこの若者達が、秋田警察署に深夜に自転車を盗んだ疑いで逮捕される事件が起きたが、あくまでも、警察の本命は、川辺豊であったのであった。
ある時川辺豊が「来週から、俺は、フィリピンに地金の仕事で行ってくるから、不在になるのでよろしく」と言ったことがあった。私は、彼が、水面下で犯罪に関わっている行動をしている事を想像した。あの頃川辺豊と話していて、彼が、昔、株主総会の「総会屋」とか、バブル華やかかりし頃「地上げ屋」のような法律の裏の裏を知り尽くした仕事をしたプロフィールを聞かされていたのであった。私は、「蛇の道は蛇」と考え、山田商店といういわばヤクザな稼業には、こんな人材が問題解決に役立つだろうという程度の浅はかな認識を持って期待していたのであった。
四月十三日
歳月が流れて、今こうして冷静な気持ちで、あの頃の過去を振り返る事ができるようになったが、川辺が私と初対面以来そんなに時間が経過しない頃、要するに、私が川辺を山田商店の問題を解決するための、参謀として期待していた頃、私は、川辺に軍資金として、百五十万円を渡した痛恨の出来事が、思い出されるのである。
この辺から、「超自分史」といえる程、自分だけが理解できる小心者の備忘録とでも云える、他人の目を意識しない「私だけの私」を書かざるを得ない。どうか、この辺あたりを読まれる読者は、私の「一人しゃべスコープ」とでもいえる内容なので、飛ばして読んでいただきたい。
今となってみれば、川辺豊にあの頃百五十万を渡したいきさつは、明確に思い起こすことができないが、自分としては、外旭川の自分の住んでいる土地が、まだ、根抵当権がついているがゆえに、会社の倒産イコール自宅の土地が銀行の担保物件として、取られる危惧感が心の底で渦巻いていたのであった。川辺は、そんな私の心を見透かして、私に揺さぶりをかけて来るのであった。
そして、もう一つ、付け加えなければならないことは、兄貴夫婦が、親父の遺産がすべて次男たる私に流れたことを、酒を飲み交わしながら、しゃべったに違いないと思うのである。今、この「超自分史」において、私の父親と兄貴夫婦の確執を書いている余裕はない。とにかく昭和五十一年以来、二十年以上にわたって、嫁と舅の対立が、家族内において冷戦状態が続いた挙句が、この事実を川辺に吹聴したに違いないと思うのである。川辺豊は、私の懐にターゲットを定め、詐欺師特有の詭弁を使って、とうとう私から百五十万を手に入れたのであった。
当初は、私はだまされたと思って、非常に悔しい気持ちでいっぱいであった。それが、次第に私を鬱状態にさせていったのであった。
今こうして歳月が流れ、悔しい気持ちも薄らぎ、二百万近くの私の投資した金の流れをプラス思考で考えられる心境になっているのである。
四月二十一日
確かに川辺豊に二百万近くの、正確に言えば、百八十万を投資したことは、その後しばらくの間、私にとっては、鬱病を併発する引き金となったことは確かである。
しかし、月日が流れあの頃のことを思い出せば、結構、私にとって大金の百八十万が「死に金」ではなくて、意義ある投資だったと思えるようになったのである。すなわち、仮に私の兄が、伯父さんから経営を引き継いで、信用保証協会を通じた秋田信用金庫の返済が滞った場合、当然根抵当権である私が住んでいた外旭川の土地が、担保物件として、押さえられるような事態に、発展していたかもしれない。まがりなりにも川辺豊は、平成九年夏から平成十一年二月頃まで信用金庫の返済を続けていたと思われる。要はプラス指向であの百八十万の金に悔しい思いを捨て、現在平成二十七年の今があると思うように努めようと思うのである。
ある時、川辺豊は、私に向かって百五十万のほかに、三十万を投資して欲しいと言ったことがあった。私は、本当におめでたい性格に出来上がっていたのかもしれない。あの時も、私は、ためらいもなく、三十万を川辺豊に渡してしまったのである。あの時の心境は今となっては、鮮明に思い起こすことはできないが、私の心情としては、赤沼の従兄弟の義和に対する対抗心が、心の片隅にあったような気がする。川辺豊は、その辺の人情の機微を計算していたような詐欺師特有の話術で、兄貴の住居にアパートの部屋を造作するようなアイデアを提示したのであった。
あの三十万を出して、しばらくたった頃、私は、川辺豊が一向に返済する姿勢を示さないことに対して、彼に面と向かって不満をぶつけた場面があった。その時の川辺豊の私に向かって投げかけた言葉は、ヤクザ特有のドスの効いた鋭い口調であったことが、思い起こされる。「川辺さん、俺をだましたのかい」と不満を述べた私に、いきなり「だました、なんだその言い方!」と、刑務所と娑婆を行ったり来たりした人物特有の口調で、ライオンが羊を追い詰めたような場面を現出させたのであった。
私は、とっさの判断で、その場で土下座をして、川辺豊に謝った。あの場面も「超自分史」を書く上で忘れられない場面であった。
土下座をしたあの場面あたりを思い出すに、あの頃から、川辺豊は本来の悪人の姿を出してきたような記憶が、よみがえってきている。もう十五、六年も前の過去の記憶であるがゆえに、脳裏によみがえってくる記憶は、すべて断片的である。そこで、客観的な過去の出来事を思い出すために、又、拙い自分の日記を読み返して見ている。
今手元にある平成十年一月三十日の自分の日記のページを読んで、過去を思い出そうと努めている。
平成十年一月三十日金曜日 曇り
兄貴夫婦が、倉庫の二階に移るということは、親父の葬式を自宅で行うということが、俺の想像では絶対無理ではないかと思うようになった。親父が常日頃「俺の葬式は、学会でやってもらいたくない。」と、口癖に言っていたことを思い出した。これは、別の表現をとれば、兄貴夫婦に頼みたくないという意味ではなかったであろうか。俺は親父の遺言を守るべきであろうかと悩んだ。
この日記の数行には、大事な過去の記憶が、隠されている。まず第一に、川辺豊の悪のアイデアである、兄貴夫婦が生活している処を向かいの倉庫の二階に強引に引っ越しさせようと企んだのであった。そして、兄貴夫婦が明け渡した家を解体して、更地にして駐車場にしてしまう計画であったのである。川辺は着々と悪のプランを実践しようとしていた。
六月十九日
兄貴夫婦を自宅の向かいにある倉庫に移動させるプランは、この時はあくまでも構想的段階的であって、私には、夢物語・ファンタジックに思えたのである。後にこのプランの眼目が、川辺が考えた悪知恵をやっと私は理解することができた。
この倉庫の立っていた土地は借地であった。しかし借地であっても、建物は山田商店の所有であって、そこに地上権という権利が発生することを、その時は私は全然考えもしなかった。さすが河辺豊はバブル華やかかりし頃、都会で「地上げ屋」をやってきた経歴ゆえに、法律の裏の裏を知り尽くしていた。要するに、仮に倉庫を解体する際、地上権のほかに『ヤドカリ』のような兄貴夫婦の倉庫の中に作った部屋の造作に対して、居住権という権利が発生して、補償金を得ることができると河辺豊は考えたらしい。
しかしこの件に関して、私は高校時代の友人である法律家に、兄貴夫婦を連れて相談に行ったことがあった。その法律の友人曰く「そんなことで大家さんが補償金を出さなければならない羽目になると、大屋さんがかわいそうだというものだ。」と、一笑に付されてしまった。
この日の日記に書かれていた二つ目の重要な問題は、親父の寿命がもうすぐこと切れようとする時に、私の脳裏に走ったことは、親父のXデイが近日中にもし起きた際に、葬儀をどのようにして行ったらいいのかと悩んだことであった。私は漠然とながら、私の住んでいる外旭川から親父を送るしか手はないと腹を決めていた。それは、やどかりのような粗末な造作をした部屋から、親父を送ることは、親不孝であると思ったゆえであった。そして一番悩んだのは、親父の大嫌いな創価学会の友人葬でやるか、宗旨変えをして本家のお寺さんである本念寺でやるか一瞬悩んだが、あの頃は私自身も創価学会の会員という意識があったために、ふと閃いたことはすぐ忘れたようだった。
六月二十六日【平成二十七年】
過去を思い出すために、点描となるが、恥ずかしきながら自分の拙い日記をひもといている。
平成十年二月十一日
株券を紛失した件や十坪が法人名義で残っていた件を考えれば、『叔父さんのやることだ』と理解できるが、親父が最後まで警戒の念を禁じ得なかった叔父さんの根性に、今更ながら、全てその原因があったと分析する。義和をスポークスマンとして立てたことも、すべて裏で糸を引いていたと考えるのが自然であったであろうと思う。
この日記のページに若干のコメントを述べるとすれば、昭和二十年八月十五日太平洋戦争が終結した日本のいちばん長い日の如く、山田商店の終戦のドラマは本来は赤沼の叔父さんが表舞台に出てきて、一切の終止符を打つ役目をしなければならなかったのに、従弟の五番目の息子が叔父さんの代役として出てきたことで混乱を生じさせた羽目になったのである。「法律と浪花節」は水と油の如くであった。私はあの時一計を思案し、長男である一男さんにこの問題にコミットさせようと思い、電話をかけたことがあった。しかし、電話に出たのは一男さんの奥さんであった。賢い奥さんは、自分の主人がこの問題に関わるのを不安視し、見事に拒否反応を示し、断りの返答をしてきたのであった。
七月二日
ここで私は、『法律と浪花節』『水と油』に関して思いつくままに考えようと思った。せんじ詰めて考えれば、この問題は私のアイデンティティーを考える次元の話であるような気がする。
簡単にこの問題を考察すれば、山田清一郎のファミリーと山田清四郎のファミリーの価値観に起因すると思う。話は飛躍するかもしれないが、人生の二十代における行動や思想が、その後の人生に深いインパクトを与えると思っている。すなわち、伯父さんと私の父親の二十代における行動と思想を考察することによって、その息子達の情緒性に決定的な相違をきたしたと思っている。
伯父さんは、商業学校を卒業し、私の父は、工業学校を卒業している。このスクールカラーの違いが、人格形成の重要なファクターとなったことを思い出す。又、兄弟の位置関係にも人格の相違を求めることができるかもしれない。長男たる叔父さんは、運命的に兄弟のトップとして、堅苦しい性格に成長したのかもしれない。それに比べて、次男の私の父親は、性格が開放的で短気に出来上がっていたような気がする。
性格が短気だった特徴は私の父を語る際真っ先に挙げねばなるまい。
今まで平成二十七年に「超自分史」を書き進めてきたがこれ以上書き進めれば、川辺豊のいやがらせや脅迫等の危害が生じるのではと、ふと不安を感じて一旦筆を置くことにする。又創作意欲がわいてきたら再開してこの続編を書こうと思った。