ラオディケイア ― Military City ―
「これはいよいよもってまずいかもしれないぞ」
食堂の朝刊に目を通した私は、その内容に危機感を覚えてアヤメに呟いた。
「マリィ隊長って新聞が読めるだな」
「おまえは私のことをなんだと思っているんだ」
「メスゴリラ」
私はアヤメの顔面にアイアンクローを極めてこちらに引き寄せる。
「答えろ。第七騎士団時代の私のもう一つの渾名、どこで聞いた?」
「そういうところがメスゴリラなんだよ! 昔っから呼ばれてるんじゃねえか!」
いったい私のどこがゴリラだというのだ。ゴリラの握力はもの凄いと聞くから誉め言葉として受け取っていいものなのだろうか。普通に考えればただの悪口なのだが……正直よくわからない。
「まあいい。すでに知ってると思うがとうとうアストリアの新王が決まったぞ。驚くべきことに歴代初の女王だ。名をマリーサというらしい」
「いや初耳。新聞とか読まないし」
文明人なら新聞ぐらい目を通せ。どっちがゴリラだ。
「それってなんか問題あるの?」
「大ありだ。とうとうアストリアの地盤が固まりつつある。次に狙われるのは間違いなくシーリアだぞ」
「大国を落としたばかりでいきなりこっちに来るなんてことありえるのか?」
「逆だ。世論はすでにグラントを危険視している。時間をかければかけるだけ不利になる一方だ。ならばこの勢いに乗じて一気にバルティアと決着をつける。少なくとも私ならそう考える」
団長なら内政が安定するまでアストリアに残ろうと考えるだろうな。
だがグラント本国はそこまで悠長に待ってはくれまい。
「あーあ、うちらをスルーしてバルティアとだけ喧嘩してくれねえかな」
「つまらん冗談はよせ。イコール補給のための前線基地として、手始めにここを落とさねば喧嘩にならん」
だよなあ。アヤメはどかりと椅子にもたれ掛かり大きく天を仰いだ。
「やっぱり戦争を回避する方法はないのかなあ」
「なくはない」
グラントとしてもシーリアとは末永く良好な関係を維持したいだろうからな。そうでなければ私はここに派遣されてきてはいない。
「どんな方法だ?」
「たとえば、さっさと降伏してしまうというのはどうだろうか。グラントの属国という肩書きは増えるが、それ以外は普段とさほど変わらぬ生活が待っているぞ」
「いいなそれ。どうせ戦っても勝ち目なさそうだし」
「ただしその場合、今度はバルティアと戦わなければならなくなるがな」
「駄目じゃん。他にいい方法はないのかよ」
「いくつか思いつくが決定的な方策はないな。ただアランが上手く立ち回れば戦争回避は不可能としても被害は最小限で済むんじゃないかな」
私としては団長と再び出会えればそれでいい。徹底抗戦などというおかしな気は起こさず、政治の一部としてのソフトな戦争が展開されることを期待するばかりだ。
「おっ、このマリーサって女、結構美人じゃん」
私が持っている新聞を盗み見て、アヤメが真っ先に口にした言葉がこれだ。新聞はグラビアではないぞ。
「いいねえ、民衆に人気出そう」
「現状それはないだろう。記事には市民は長男であるピトナハ五世を正統なる後継者だと支持する傾向が強いと書かれている。まあ、マリーサの今後のがんばり次第で変わるかもしれないけどな」
しかしこの王子、女王と共にパレードに参列している写真が撮られているということはまだ生きているんだな。私がグラントの将軍なら後々の禍根にならぬようさっさと暗殺しておくのだが。
……もしかしたら、ラングフォード団長が便宜をはかっているのだろうか?
なんてな。いくらお優しい団長でもそこまでしてやる義理はない。戦場で敵将とかわした一方的でたわいもない約束、いちいち気にしていたらきりがない。第一そんなことをしたら他の王族の不興を買う。最悪危険分子としてこちらが暗殺されかねない。ここまで来ると優しいというよりただのお人好しだ。
「だが、あのひとならありえそうだと思えてしまうところが恐ろしいな」
「独りでブツブツなに言ってんだ」
おっと、つい口に出して言ってしまった。いけないな、あのひとのことになるとつい熱くなってしまう。
「さて、そろそろ朝練の時間だ。今日もたっぷりしごいてやるからな」
「これだけ美人だとアストリアにいる隊長の想い人も惚れちゃうかもな」
私は持っていた新聞をうっかり床に落としてしまった。
「……それはない。団長とアストリア女王では身分が違う」
「あんたの団長さんだって王族だろ? 王位継承権の順位が低くくてグラント王にはなれないのなら、アストリアに入り婿するってのもありだろ。むしろお似合いじゃん」
頭から血の気が引いた。寒くもないのに全身がガタガタと震えだす。
「記事のここを見てみなよ。グラントの第七騎士団が女王の警護をしてるってハッキリ書かれている。あんな美人と四六時中一緒にいてみろよ。何かの間違いが起きてもまるでおかしくない。あたいが男だったらムラっときてつい襲っちゃうね」
「団長を恥女のおまえと一緒にするな! それに、いくら王族でもそんな不埒な真似をしたら首が飛ぶわ!」
「だったら女王のほうはどうよ。自分を護ってくれる頼れる騎士に惚れちゃって向こうからアプローチを掛けてくるかもしれない。団長さんがそれに応えるという形なら不義のそしりは受けないんじゃね?」
「それもありえん。何しろ団長は、私の再三に渡るアプローチにもいっさい気づかない朴念仁だからな」
「あんたゴリラだし、もしかしたら女だと認識されてないんじゃね?」
「私の顔を見て言ってるのかぁ!? 自慢じゃないがグラントのヴァルキリーコンテストで優勝した実績もあるんだぞッ!」
「だからそういうところを言ってるんだよ。見た目じゃなくて中身がゴリラなんだよ」
こ、こいつ……うら若き純情な乙女になんて非道いことを。そんなに趣味の拷問を実践に移されたいか。
「……もういい。私と団長は今や赤の他人。団長がどこで誰と何をしていようが私には関係のない話だ」
アヤメに再度アイアンクローを極めてから、私は彼女を引きずるようにして食堂を出た。
団長が他の女と……ありえない。そんなことぜったいにありえない。
頭ではわかっているのだが、どうにもそれが心に引っかかって仕方がなかった。
恥ずかしい。私は――嫉妬深い女だ。
「本日は付加――所謂『エンチャント』と呼ばれる概念について説明したい」
久々の実機訓練ということで、今日はゴールドソードの性能お披露目も兼ねた勉強会だ。隊員が注目する中、私はタロスとシンクロする。
「諸君はミノスという金属を知っているだろうか。高い硬度と大きな靱性を併せ持つ奇跡の金属だ。産出国としてはアストリアが有名だな」
タロス初運用の地として知られるアストリアは、その豊富なミノスを活用して瞬く間に世界第二位の大国にまでのし上がった。グラントのナイツがアストリアのファラリスに苦戦を強いられたのも、潤沢なミノスを利用した分厚い装甲が原因のひとつとして挙げられるだろう。
「私のゴールドソードに装備されたバスタードソードは純度100%のミノスで鋳造されている。ミノスの耐熱性は極めて高く通常の方法では加工できない。だが魔力の影響を極端に受けやすく、魔法の火を使えば簡単に加工できる。エンチャントとはそんなミノスの特性を利用したものだ」
私は腰に接続された鞘を軽く叩く。
「この鞘は本機から発生するアンチマの増幅器になっている。この鞘の中にミノス製の剣を収めておくと、その剣には一時的にアンチマが付加されるんだ。本来技術的に不可能なはずの小型の魔導兵器を疑似的に再現する。これがエンチャントだ」
これにより魔法に弱いというミノスの弱点を一時的に補うことができる。魔法の多重掛けは不可能だからな。
「団長質問。そのエンチャントとかいう兵装がシルバーソードに採用されていないのはなんでだ?」
「いい質問だ騎士アヤメ。エンチャント機能をつけるとタロスの燃費が悪くなってしまうんだ。機能を余分につけるわけだから一機あたりのコストも上がってしまうな。それに、わざわざそんな機能を付けずともミノスの魔法耐性をあげる方法がある。それがミノスの『合金化』だ」
グラントでは悪魔の金属と呼ばれるニッケルを混ぜ込み合金化することで、ミノスの魔法耐性は飛躍的に上昇する。ただその分、硬度と靱性は下がるので取り扱いが難しいのだがな。
「各国の重要な軍事機密なので私も詳細はわからないのだが、理想的な配合比率なるものが存在しているらしい。ニッケル以外にも色々と特殊な金属を混ぜ込んでいるらしいとの噂も聞く。この合金化が結構万能でな、様々な場所で色々な配合の合金が活用されている。ちなみにタロスの装甲に使用されているのもミノス合金だ」
「全身にアンチマを展開するシルバーソードなら合金装甲は不要じゃね?」
「純度の高いミノスはコストがかかる。それに戦場で真っ先にきれる魔法はアンチマだぞ。アンチマが無くては戦えないでは話にならん。もっとも近代タロスはブロンズソードですら高純度のミノスを利用した対物理装甲だがな」
装甲の中でもとりわけ魔法に弱い部分を狙っているとはいえ、私の魔法でも切り裂けてしまえるのは如何なものかと思わないでもないが、これも時代の流れなのだろう。
「現状、このエンチャントを最も有効利用しているのはボゥタイプだな。高純度のミノス合金の矢じりにアンチマを付加して相手に撃ち込みタロスの機能を一時停止させる。一品物の剣ではこれができない」
「なるほどねえ。でもさ、それってものすごく金のかかりそうな戦い方に思えるな」
「そう、一本の矢のコストが馬鹿にならない。おまけに威力不足で近代タロスの装甲は貫けない。エンチャント特化機体ともいえるボゥタイプが流行らない理由だな」
「ボゥタイプなんてうちには一機も存在してねえもんな。隊長が説明を後回しにした理由がよくわかったよ」
だがいなければいないで、相手が動きやすくなってしまうから困るんだけどな。そこが戦争の難しいところだ。
「ただし急所にもらえば当然、こちらの機能は停止させられるから注意が必要だ。戦場では雨あられのように飛び交うこともあるからそういう場合は極力装甲の厚い部分で受けるようにするか、盾役に代わりに受けてもらうのが賢い選択だ。ただしラングフォード団長のような凄腕が乗っている場合、盾があろうとなかろうとあらゆる角度から信じられない精度で装甲の隙間めがけて撃ち込んでくるからその時は諦めろ」
「おい、いつもの団長自慢はいいけどそこで諦めんなよ。何か対策を考えろよ」
無理。あのひとに目を付けられた時点でツイてなかったというだけだ。もっとも私なら二、三射ぐらいなら反射神経のみでかわせる自信があるけどな。
「ちなみに団長の愛機はブロンズボゥだ。性能は悪いが燃費がいい分、より多くのイコールをエンチャントに回せるという理由で乗っている。あのひとが乗る分にはブロンズボゥは最強のタロスといってもいいかもしれない」
「王族は絶対にゴールタイプに乗ってるんじゃなかったのかよ」
「何事にも例外はある。あのひとに支給されたゴールドタイプは今ここにあるのだから乗りようがないな。あははっ」
「笑い事かよ。しかし、いくら乗らないからって他人にくれてやるもんかねえ。そのラングフォードって奴はとんでもない奇人変人だな」
さすがの私もこれには反論できない。団長のことはお慕いしているが、正直まともな人間ではないと思っている。
「いいじゃないですか。マリィ隊長が団長さんに愛されているという証拠ですよ」
おいアコ、そういうことを皆の前で言うな! は、恥ずかしいだろ!
「団長はゴールドタイプなんてただの欠陥機だと馬鹿にしていたが、それでもそう思うか?」
「それは他国侵略のために遠征する場合の話じゃないですか。自国防衛ならなんの欠陥もありません。世界屈指のイコール産出国である我がシーリアなら、有事の際にはいくらでも乗り回せますよ」
アコの言うとおりだ。破格の性能の代償に調達困難な魔法燃料を使うこの機体は、資源潤沢なシーリアでこそ生きる。
団長が、私の身を案じて譲ってくれたとしか思えない。
「……愛されてる、かな?」
「愛されてますよ! もっと自信を持ってください!」
もっとも異性としてではなく、自分の愛弟子としてだろうけどな。それでもぜんぜん嬉しいのだけれど。
「なんだか気分が良くなってきた。よーし、今日はおまえら全員とみっちり剣の稽古の相手をしてやるぞ!」
「アコぉ! ゴリラに餌を与えんじゃねぇっ!」
その後私は、アヤメがシンクロ疲労でぶっ倒れるまで、半ば強制的に稽古を続けた。この程度で潰れるとは、まだまだ走り込みが足りないな。
アヤメのタロスが動かなくなったのを確認し、アコに介護を任せてから、いかにも暇そうにオウジャの相手をしているナーサシスのほうに振り向く。
「待たせたな。次はおまえの番だ」
「いいのかのう。アヤメとやりあっておぬしも疲れておるのではないのか?」
馬鹿を言え。そんな柔な鍛え方はしていない。あいつが相手ではウォーミングアップにもならない。
「そちらこそ、タロスの性能差があるがいいのか? おまえが望むならシルバーソードに乗り換えてやってもいいぞ」
「結構。おぬしの団長殿の言われるとおり、そやつが無駄飯食らいのただの欠陥機であるということを今から身を持って教えてやるぞ」
約三ヶ月に渡る訓練によりナーサシスは見違えるほど強い騎士に成長した。シーリア最強の騎士という自称も最早自惚れとは呼べない。私にとってそんな彼女の存在は実にありがたいものだった。
仮想ラングフォード団長――ナーサシスは来るべき決戦に備えるためのいいトレーニングパートナーになってくれていた。
「今日こそマリィ隊長を打倒しその座を奪い返してやるぞ!」
「ラオディケイアに戻れば、おまえはシーリアの総大将なのだけれどな」
互いに剣を構えて暫しの間にらみ合う。私のほうから攻めてもいいのだが、先手は目下の者に譲るのが礼儀だろう。
「行くぞぉっ!」
気合いの雄叫びと共に、ナーサシスは宙へと飛んだ。
色々と言いたいことはあるがもう好きにしろ。団長にもトリッキーな動きはあった。常識に囚われない戦い方は天才の特権だ。
「喰らうがいいぞッ!」
いきなり得意の兜割り。この鋭さ、もう兜では受けさせてはくれないだろうな。私は勢いのついた剛剣を剣の腹を利用して柔らかく受け流す。
着地と同時に地を這う蛇のような斬撃。私はそれを小さく跳躍してかわす。ついでに頭に一撃加えてから離脱する。実戦では効果はないがナーサシスの癪には障れる。
「こしゃくなぁ!」
今度は怒り任せの乱れ斬り。あえて剣技は教えていないため剣筋は荒いが、日頃の素振りの成果でその鋭さは三ヶ月前とは比較にならない。
とはいえ、すでに見切った太刀筋でもある。私はすべての斬撃を紙一重でかわし、ついでに横腹と肩口に一撃ずつ加えておく。これは実戦でもそこそこ効くだろう。
「大言を吐いたわりには普段とあまり変わらんな」
「ほざけ。勝負はここからだぞ」
横一文字に太刀が疾る。だがその距離では刃が届かない。
――と、思った瞬間。太刀の間合いが一気に伸びた。
片手を離して半身になることでリーチを伸ばしたのか。
私は半歩下がって刃をかわす。刃が通りすぎてからすぐに踏み込みもう一撃叩き込もうとする。
ところが――通り過ぎたはずの刃が、どういうわけかまた横手からやってきた。
どうやら右手で持っていた剣を左手に持ち替えることによって剣撃を一周させたようだ。隙だらけだが面白い技だ。師としてはぜひとも技名をつけたいな。
……少し考えたが『満月斬り』というのはどうだろうか。一回転する剣の軌道が、まるで満月のように美しいからな。うむ、我ながらいいネーミングだ。
その満月斬りだが、剣が一周しているうちに素早く胸を突くことで回避しておいた。凡人の私には隙が怖くてとても使えないが、ナーサシスならいずれ使いこなすだろう。初見ならびっくりして食らってくれる敵も多いんじゃないかな。
お次は下から上へと振り上げるような攻撃。よく整地された訓練場を剣でえぐるのはあまり感心しない。
すかさず剣で受けるがその瞬間、自らの剣を足で蹴り上げることによって私のガードを崩してくる。よくもまあ色々と思いつくものだ。技名は後から考えよう。
ガードを崩され軽く後ろに下がった私に対してナーサシスが前傾姿勢を取る。両手で剣を強く握りしめる。その瞬間、両腕の魔力の急激な高まりを察知する。
どうせ私に隠れてこそこそ練習しているだろうとは思っていたが……その技はやめておけと言ったはずなんだがな。
「おりゃああああああああああああっ!」
疾風を切って放たれる超高速の突きは、私の得意技であるフルスロットルだ。
もちろん教えてなどいない。私の技を見て盗んだのだ。わずか数回見せただけで。
忠告を無視して勝手に練習していたことについては咎めたいが、その素晴らしい才能の輝きに思わず笑みが浮かんでしまう。
――だが、魔力の高まりを気取られるようではまだまだ!
私はゴールドソードの出力を全開にして、ナーサシスのフルスロットルを上から強引に叩き潰してみせた。
他にもいくらでもやり方はあったがあえてこうした。格上の機体相手に力業は通用しないということを骨身に叩き込んでやる必要があるからだ。
私は返す剣で顎を跳ね上げてやると、魔力の過剰消耗もあって死に体になっていたナーサシスのタロスはあえなく後ろにひっくり返った。
「……なぜ勝てん。追いついたと思っていたのに」
「気にするな。誰でも通る道だ」
今、ナーサシスが感じている無念は、かつて私も存分に味わったものだ。何度追いついたと思っても、その度に相手は遙か先にいる。要するにまだまだということだ。おまえも、もちろん私もな。
「早く強くなりたいと焦る気持ちはわかるが、もう少しだけ辛抱してくれ。今は自在に剣技の操るための土台作りの時期だ」
「マリィ隊長は、ラングフォードと戦うつもりなのか?」
やはり気づいていたか。私は頷くことで肯定する。
「ならば勝て。おぬしは妾たちの代表だぞ。負けることは許さん」
「約束はできない。相手はタロスに乗るために生まれてきたような怪物だからな」
ナーサシスは、私をシーリア軍の一員と認めてくれるのか。嬉しいじゃないか。ならばその想いに応えるべく、私も全力を以て決闘に赴こう。
約束はできないが信じていてくれ――新兵の頃から連綿と続く私と団長の真剣勝負。その百一戦めは、この私が勝つことを!
「おお、やってるなあ。調子はどうだい?」
訓練中の私たちに声をかける者がいた。
声の主はアラン市長だった。どうやら私たちの視察に来た模様だ。グラントのアストリア侵略で国際情勢が緊張している最中だが、実は暇なのだろうか。
「アラン様!」
ナーサシスの嬉しそうに弾む声。
すぐさま起きあがってタロスから飛び降りると、ナーサシスはアランの胸に飛び込んでいった。
「会えて嬉しいぞ。政務のほうは大丈夫なのか?」
「来月にグラントの使者と会談があるけれど、今はそこまで忙しくはないよ」
アランは三十路の中年男性だが外見は少年で背も低い。こうして抱き合っていると結構お似合いだということがわかる。
年の差婚も悪くない。私と団長も八歳ぐらい年が開いているけどぜんぜん大丈夫だ。これでも発育はいいほうだと自覚しているしロリコンなんて絶対に呼ばせない。
「私の用意したマリィはちゃんとおまえの役に立っているかい?」
「もちろんだぞ。日々学ぶことばかりだ。素晴らしい誕生日プレゼントだったぞ」
おい、ちょっと待て。
事の経緯を考えるとあながち冗談とも思えないのが笑えない。
まあ、私からすればどんな理由であろうと雇ってくれればそれでいいわけだが……いまいち釈然としないな。
「ナーサシス、夜道には気をつけるんだよ。近頃は人攫いも多いからね」
「わかっているぞ。妾は絶世の美女だからのう」
ナーサシスが絶世の美女かどうかはともかく、気をつけるのはアラン、おまえのほうだな。
後ろから凄まじい殺気を放つリリーに私はかかなくてもいい汗をかかされる。
こいつのナーサシスに対する慕情は本物だ。本気で夜道でアランに襲いかかりかねない。管理者としては細心の注意を払わねば。
――……あっ。
人攫いで思い出した。市長誘拐事件の捜査は進展したのだろうか。あれから一向に音沙汰がないが、当事者なら何か聞いているかもしれない。
「それが、私のほうにもまったく情報が届いていないんだ」
私の疑問にアランは眉をひそめた。
「仮にも国の代表が襲われたというのに、これは少し変ではありませんか?」
「シーリアの警察機関はズマ市の担当だからね。あそこはハマトと友好関係にある市だし、もしかしたら私のことなど後回しにしているのかもしれないな」
「仮にそうだとしたら重大な背信行為です。今すぐズマに抗議すべきです」
「グラントの驚異が間近に迫る中、いたずらに他市を刺激したくはない。私個人の案件は、グラントとのいざこざが解決してからにするよ」
弱腰な為政者だな。これは国の威信問題であり断じて個人の案件ではない。こういう時期だからこそリーダーとして他市に毅然とした態度を取るべきだろう。そんなことだからハマトにも舐められるんだ。
まあいい、アランが動けないというのであれば私が動くのみだ。
私は訓練終了後、すぐに自室に戻ってとある人物に連絡を入れた。
「ヘイボブ、ひさしぶりだな」
「ホプキンスです。ボブじゃありません」
彼の名はニコル・ホプキンス。愛称はボブ。命名者はもちろん私。シーリア警察に勤務する元傭兵の警察官だ。アラン誘拐未遂事件の事情聴取の際に連絡先を教えてもらっていたのだが、こちらも色々と忙しくて使うのは今回が初めてだ。
「腹のさぐり合いは苦手だ。なので単刀直入に訊く。アラン誘拐未遂事件の進展を教えてくれ」
私の言葉にボブは露骨に言葉を濁す。
「もうしわけありませんが、捜査状況については他言してはならない決まりになっておりますので……」
「そう堅いことを言うな。おまえと私の仲だろう?」
「本官はもう傭兵ではありませんし、あなたももうグラントの騎士ではないじゃないですか。昔と同じノリで話されても困りますよ」
だが条件反射というものがあるだろう?
グラントに限らず戦場で傭兵は騎士に絶対服従という暗黙の掟があり、破ればその場で斬り捨て御免だった。元傭兵の彼のこと、掟は骨身に染みているはずだし、内心では私のことを恐れているだろう。世の中ウインクのように面の皮の厚い傭兵ばかりではない。そこを存分に利用させてもらう。
「軍内部ではズマがアッシャームを裏切ったのではないかという噂がまことしやかに流れている」
嘘ではない。さっき私たちが少し口にしていたからな。
「今は静観する方向だが、いずれは武力行使に出るかもな」
「質の悪い冗談はやめてください。だいたい軍事力のほとんどをラオディケイアに依存していて、五機しかタロスを有していないアッシャームがどうやって武力行使を実行に移せるんですか」
「ズマだって配備されているタロスは十機そこそこだろう。騎士の練度もアストリアほどではあるまい。それでどうやってこの私を止められるのか逆に聞きたいぐらいだ」
傭兵ネットワークに加入しているおまえなら知っているだろう。アストリアで名を馳せた『鮮血のマリィ』の実力を。平和ボケしたシーリア軍ではズマどころか総力を結集したとしてもこの私を止められるかどうか怪しいぞ。
「まずはこの市の警察機関を一掃する。その次はズマを地図から消す。難しい仕事だとは思わない」
「ちょっと待ってください! なんでズマが裏切っていることを前提に話をしているんですか! うちらはちゃんと公明正大に仕事してますよ!」
「だからさ、そうならないよう私が動いてやろうと言ってるんだ。国の代表が襲われているにも関わらず、代表本人にすら捜査の進捗報告が入って来ないというのは他国なら異常事態だ。今まではそれで通っていたかもしれんがこれからはそうはいかんぞ」
「下っ端の本官にそのような話をされましても……」
「いいから持っているだけの情報を全部よこせ。それで有事の際にはおまえの生命ぐらいは見逃してやる」
通信機越しにボブが息を飲むのが伝わってくる。
普通ならくだらない脅しだと一蹴されて終わりだろうが、ボブの中で私の存在がどれだけ大きいかにかかってくるな。
「……逮捕した傭兵を尋問した結果、依頼人がいることが判明しています」
暫しの沈黙の後、ボブは観念したかのように話し始めた。グラントの紅き魔女の畏怖はこのように有効利用できるから何かとお得だ。
「やはり黒幕がいたか。それで主犯は誰だ?」
「それが……依頼人はラオディキアの使いだと言っていたようです」
ラオディキア――ナーサシスの家の名がどうしてこんな場所で出る?
「ダルメセク家と血縁関係になる予定のラオディキア家がなんでまた……きちんと拷問にはかけたのか?」
「だからやりませんって。ですが嘘発見機にもかけましたし、たぶん本当のことを言ってますよ」
「グラントにもあるがあれは信用ならんぞ。拷問のほうが確実だ。拷問をしよう」
「絶対やりませんよ、いい加減にしてください。これでわかったでしょう、誘拐はラオディキア家が仕組んだことですなんて市長に気安く報告なんてできません。少なくとも今後の調査で真偽のほどが明らかになるまではね」
ボブが言うには使者はフードで素顔を隠しており、その声から女性だろうということしかわかっていないそうだ。傭兵も最初は胡散臭い相手だと思っていたが、とんでもない額の前金をポンと渡されたためその言葉を信じたらしい。
ならず者の傭兵ごときに依頼者が真実を口にするはずがない。十中八九、ラオディキアの使者というのは嘘だろうな。これは捕らえた傭兵から黒幕にたどり着くのは難しそうだ。
「このことは決して口外しないでくださいよ。私のクビが飛んでしまいます」
「承知した。サンキューボブ」
「だからボブじゃありませんって」
事のついでに上司の連絡先を聞いてから、私はボブとの通信を切った。
さてと、これからどうするか……。
使者の話は十中八九は嘘。だが残りの一は真実だ。ならばいちおう確認せねばならないだろうな。
「……それで妾のところに来たわけか」
善は急げということで、私はすぐにナーサシスの部屋に向かい、本人に事の次第を説明した。
ラオディケイアの姫君の部屋ということでさぞかしご立派な内装を想像していたが、以外なことに私の部屋と大差ない簡素さだった。あれでもいちおう分別はわきまえているようだ。
「普通、証拠もなしに直接問いつめに来るかのう。もしも妾が主犯だとしたら適当な嘘をつかれて煙に巻かれるのがオチだぞ」
ナーサシスは呆れたようにため息をつく。
意外と常識人だなこいつ。軍施設にドレスを持ち込む悪癖はあるが。
「私は小賢しい真似が大嫌いなんだよ。それにおまえのことは全面的に信頼している。思いつくことがあればなんでも教えてくれ」
「信頼か、悪くない響きだぞ。しかし思いつくことと言われても、心当たりが多すぎて何を話していいものか逆に困るぞ」
「そんなにあるのか? 両家にとって美味しい縁談だと思うが」
「ラオディキアも一枚岩ではないからのう。本家の権力がこれ以上増大することを嫌う分家の者も多い。だが市長を誘拐するほどとなると……一番怪しいのは母上かのう」
「実母か。娘に実権を奪われると危惧しているのだろうか」
「そういうわけではないと思うのだが……たまには顔を出せとしつこく催促されておるし、今度戻った時に問い詰めてみるかのう。マリィ隊長も一緒に行くか?」
「いいのか?」
「どうせ自分で訊かねば納得できまい。妾としてもおぬしが一緒に来てくれるのは非常に心強いぞ」
実家に戻るだけなのになぜ私を頼るのかよくわからないが、何はともあれこれは渡りに船だ。
――ラオディケイアか。
シーリア第四の自由都市であり、シーリアの軍事の要。来るべき決戦の前に、ぜひこの眼で直接見ておきたいと思っていたところだ。
「せっかくだから共同演習と称して全員で行くか。あいつらもそのほうが喜ぶだろう」
「おお、それはなかなかナイスなアイディアだぞ。マリィもずいぶん隊長としての心構えが出来てきたようだのう」
前回私が暴れ回ったせいか、近頃のハマトはおとなしい。パルミラからの救援要請も来ていないし、しばらくアッシャームを留守にしても問題ないだろう。
私はスケジュールを調整して、ラオディケイアへの出張申請を軍本部に申し込むことに決めた。
あそこは軍事を担当する市であると共に国内屈指のリゾート地でもある。隊員、特にアヤメが子供のように喜ぶ姿が目に浮かぶようだ。
アッシャームから北東に八〇キロほど進んだ先にラオディケイアはあった。
アッシャーム、ズマ、パルミラに次ぐシーリア第四の人口を誇る自由都市であり、メディウス海に隣接した港湾都市でもある。
海があり、気象が穏やかで、帆船による行き来が容易とくれば、これはもうリゾート地になるより他ない。ラオディケイアには毎年世界中から観光客が集まり、その収益は市の財政を潤していた。
「では点呼を取るぞ!」
水着に着替えた私はさっそくビーチに集まった隊員を整列させた。
せっかく共同演習という名目でリゾート地に来たのだ。バカンスを楽しまなくては損というものだ。
「騎士アコライト・エーテルライト!」
「はい!」
白い水着が眼に眩しい。私が男なら放っておかないほど魅力的だ。
「騎士リリー・ホワイト!」
「このような余興、時間の無駄かと存じます」
言ってくれるな。水着も競技用で実に華がない。だがよく引き締まったいい肉体をしているじゃないか。
「騎士ナーサシス・ラオディキア!」
「ビーチではタロスには乗れんのう」
フリフリのついた子供っぽい水着が愛らしい。タロスはしばらく我慢してくれ。
「騎士アヤメ・ゲルマニカ!」
「おう!」
おまえは……普段とあまり変わり映えがしないなあ。
「騎士見習いオウジャ・シモンズ!」
「はい!」
隊服の上からではわからなかったが、こうして裸になってみると細身ながらもなかなかいい身体をしているな。今は満足にタロスを操れないが、いずれは立派な騎士として御国のために働けるようにしてやるぞ。
「点呼終了。それでは本日のスケジュールについて説明する」
「隊長、ビーチバレーしようぜ。ちゃんとボールも持ってきたんだ」
「それもいいが、まずはビーチランニングからだ」
アヤメががっくりと肩を落とす。私は何かおかしなことを言ったか?
「ランニングなんていつもやってるだろ!」
「やってみればわかると思うが、砂浜でのランニングはひと味違うぞ。こんな機会は滅多にないのだから貴重だと思わないと」
「あたいはラオディケイアにバカンスに行くと聞いていたんだがな」
「白い砂浜。碧い海。眩しい太陽。薄暗い森の中にある基地で鬱々とやっている日頃の訓練とは大違いだ。これ以上ないバカンスだとは思わないか?」
「思わない」
ああ、そう……悲しいかな、見解の相違だな。
「いずれにせよ今回は軍務で来ていることを忘れてもらっては困る。ビーチバレーは本日の訓練にないが、訓練時間が終わったらいくらでもつきあってやる」
「終わった頃にはへとへとで遊べなさそうだよ」
「安心しろ。今回は別件もあるし、そこまで厳しくするつもりはない。おまえたちの期待は裏切らないぞ」
だがビーチランニングと遠洋の訓練が終わるころにアヤメはへとへとになって砂浜にぶっ倒れていた。言葉どおりそこまで厳しくしたつもりはないのだが、ビーチでの初めての訓練ということもあり少しテンションが上がっていたかもしれん。
「さあ起きろ、休憩時間だぞアヤメ。ビーチバレーを始めようじゃないか」
「……」
返事がない。どうやらしゃべる気力も失ったようだ。
やれやれ困ったな、私としてはもう少し身体を動かしたいところなのだが……。
「すいません、マリィ隊長!」
と、その時、後ろから声をかけられた。
オウジャだ。向こうから話しかけてくるとは珍しいな。
「どうした、おまえも訓練量が足りていないのか?」
「いえ、そうではなく……隊長はラオディケイアの自由市をご存じでしょうか」
もちろん知っている。海に隣接しているラオディケイアは物品の輸出入も盛んだ。世界中の名品珍品がここに集まってくる。
「ラオディケイアの自由市は世界的に有名だからな。裏では違法な武器類や拷問器具も入手できると聞く。おまえもなかなかの好き者だな」
「すいません、そちらではなく、主に料理のほうの話です。ここにはアッシャームでは手に入らない珍しい食材も多いんです。グラントから渡ってきたものもあります」
「ほう、なかなか興味深い話だな」
「そ、そこでですね! 隊長、僕と一緒に市場を見て回りませんか?」
緊張で身体をガチガチにしながらオウジャが言う。
私が入隊してからかれこれ三ヶ月。未だにオウジャとは打ち解けていない感がある。そんな彼からのせっかくのお誘い。断る理由はなかった。
世界最大と称されるラオディケイアの自由市はやはり壮観だった。
青空の下、左右にずらりと立ち並ぶ出店と黒山の人だかりに、私はただただ圧倒されるばかりだ。
「ものすごい熱気だな。アッシャームのデパートとやらとは大違いだ」
「あそこまで近代化されているのはアッシャームの都市部ぐらいですからね。出店で店主と顔を合わせて直接取引する。こちらのほうがいいと思いませんか?」
私は大きく頷いた。デパートは確かに便利ではあるが、やはり買い物をするならこちらのほうが胸が躍る。
「さて、とりあえずどこから見て回る?」
「まずは調味料ですね。調味料といえばイルドゥンの香辛料が有名ですけど、グラント西部にも面白いものが揃っていると聞いています。グラント出身の隊長ならもちろんご存じでしょうけど」
「いや、グラントも広いからなあ……私が知っているのは首都周辺と故郷のリーシャぐらいなんだ」
グラント西部などという未開地は正直まるで理解が及んでいない。
たぶん料理方面に関してはオウジャのほうがはるかに詳しいと思うので、今回は存分に勉強させてもらおう。
「リーシャですか。リーシャといえばこのサフランですね。水に溶かすと鮮やかな黄色になるため王族の香辛料などと呼ばれた時期もありましたね」
「グラントでは今でもそう呼ばれているぞ。私の故郷では日常的に使われていたがな。さすがは世界最大の市場、こんなマニアックなものまで置いてあるのか」
「今やサフランはそこまで珍しい香辛料ではありませんよ。もし隊長さえよければ僕がこれを使って海鮮パエリアでも作りましょうか?」
パエリア――懐かしい、私の祖国の郷土料理だ。
二度と祖国の地を踏めぬであろう私のために……その心遣い、誠に感謝する。
「オウジャの嫁になる女性は幸せ者だな」
頭を下げて礼を述べると、オウジャは顔をまっ赤にして恐縮した。そんなに畏まらなくてもいいのに。
それから私たちは時間の許すかぎり市場の商品を見て回った。海を渡ってきた品々は西洋出身の私には懐かしいものばかりで、オウジャが私を市に誘ってくれた理由がわかったような気がした。
「マリィ隊長、この楽器に見覚えはありませんか?」
「それはブズーキだな。リーシャの民族楽器だ」
懐かしいな。おぼろげながら、病で亡くなった母さんが鳴らしていた記憶がある。
「使ったことはおありですか?」
「まさか。戦うことしか能のない私には縁のない代物だ」
「そうですか……少し遅いですが、就任祝いとして何かプレゼントしたいと思っていたのですが」
オウジャは大きく肩を落とす。なんだかもうしわけない。
「それにしても、なんで楽器なんだ?」
「音楽はいいですよ。僕も入隊前は少しやってましたが心がとても落ち着きますから。マリィ隊長にも是非とも知ってもらいたくて」
「楽器は高いし、そんなに気を使わなくてもいいぞ。どうしても何かくれるというのであれば、そこに置いてあるオリーブの塩漬けでいい。安くて美味くて日持ちがいい」
私は財布を取り出し出店のおじさんから酒瓶を一本買い付ける。
「私からはこいつをプレゼントしよう。我が祖国の地酒で名をウゾという。おまえがリーシャ料理を作ってくれるというのであれば食前酒として一緒に飲もう」
言って酒を渡すとオウジャの顔がパッと明るくなった。
なんだかちょっと可愛いな。守ってあげたくなる空気を纏っている。軍属でなければさぞやお姉さまがたにモテたであろう。
「大事に使わせていただきます!」
「ただの安酒だ。気安く使ってくれ」
さてと、買い物は楽しいがそろそろ時間だ。
私はオウジャに休憩時間の終了が近いことを告げて一緒にビーチへと戻った。ブラックマーケットは次の機会に持ち越しだ。
午後の訓練を適当に終わらせてから、私たちはナーサシスとリリーに連れられラオディキア家へと向かった。
いや、向かったという言い方は正しくはないか。なにしろこの目に映る海岸すべてがラオディキア家の所有地であり、本日は市民へのサービスとして一般開放しているだけなのだから。私たちは最初からラオディキア家の庭で遊んでいただけともいえる。
ただ瞳に映るメディウス海の広大さとは裏腹に、湾岸沿いに建てられたラオディキア本邸はそこまで大きな豪邸というわけではなかった。
最初は別荘かと疑ったが、ナーサシスが言うにはちゃんとここに住んでいるらしい。なんでも公務が忙しくて両親共に自宅に帰る機会が少なく、そこまで金をかける理由がなかったそうだ。なかなかどうして、公僕の鑑ではないか。
専らナーサシスの祖母の趣味で湾岸沿いに建てられたこの質素で無駄のない邸宅は、祖母がメイドに頼らず自身で管理しているらしい。私も見習いたいものだ。
「おまえこんな場所で生活してたのかよ。都心じゃないと何かと不便じゃね?」
「都心など魔動車を飛ばせばものの数分で行き来できるぞ。今時都心で暮らしたいなどと考える奴は逆に田舎者だぞ」
ラオディキア邸を前にしてアヤメとナーサシスが取っ組み合いの喧嘩を始める。いいぞナーサシス、私の代わりにもっと言ってやれ。
「おまえたちいい加減にしろ。クレア殿とは三十分ほどしか面会できないんだ。こんなところでちちくりあっている暇はないぞ」
私は内心をおくびにも出さずに二人をたしなめた。
これでもいちおう隊長だからな。
「母上ならまだ帰ってきていないから大丈夫だぞ。少し遅れそうだとの報せを受けておるので居間にて待つがいいぞ」
ナーサシスに連れられてラオディキア邸の敷居をまたぐと、いないと聞かされていたメイドがいた。気だてのいいメイドに室内を案内されて、私たちは八畳ほどの居間に通された。
海のよく見える見晴らしのいい居間には、いかにも人の良さそうな老婆がちょこんと座っていた。
「お婆様、ただいま帰ったぞ」
「おかえりナーサシス。怪我はないかい?」
この老婆が、かつてその豪腕でシーリアの軍事の一切を取り仕切った『鋼鉄の処女』レティシア・ラオディキアか。こうして孫と抱き合っている様子を見ると、とてもそうは見えないな。月日は人を変えるということか。
「いつの間にかメイドを雇っていたのか。知らぬ顔が来てビックリしたぞ」
「おまえが嫁に出てしまい寂しい思いをしたからねえ。大昔は鋼鉄の処女なんて呼ばれて恐れられたものだけど、今ではすっかり孤独に弱くなってしまったよ」
「アッシャームでは今でも呼ばれておるぞ。もう孫までおるのに不思議な話だのう」
祖母と娘の微笑ましい会話をつい聞き入ってしまったが、そろそろあいさつしないと無礼者と思われるかもしれない。私は激しく緊張しながら騎士として大先輩であるレティシア殿に敬礼する。
「お噂はかねがね伺っております。マリィさん、いつもうちの孫の世話をしていただきありがとうございます」
「もったいないお言葉です! 本日はご自宅にお招きいただき感謝感激です!」
緊張のあまり声がうわずってしまった。案の定、その滑稽さをレティシア殿に笑われてしまう。
「あまり恐縮なさらずとも結構ですよ。なにぶん急な話でしたので、賓客相手にろくなもてなしもできませんが、どうかゆっくりしていってください」
「あの、私はしがないグラントの騎士崩れですので……あまり特別扱いされますと困ります」
「あらご謙遜を。それに賓客はあなただけではありませんから」
レティシア殿の視線が私から外れてすぐに戻る。ぞくりと私の背筋に悪寒が走った。
今、一瞬だけだがレティシア殿は鋼の処女に戻っていた。理由はわからないがあまりの迫力に気圧されてしまいすぐには聞けなかった。
「通信機でも話したが、アラン様を襲った賊はラオディキアの手の者と名乗ったそうだぞ。真偽の如何に関わらず、これは我らにとって由々しき事態であるぞ」
「そうですね、私もすでに手は打っていますが……」
「だが一番怪しいのは母上なのだぞ。その場合はどうするべきか是非ともお婆様の見解が聞きたいぞ」
ナーサシスの言葉にレティシア殿は言葉を詰まらせる。
「それが一番困りものですねえ……とりあえずマリィさんに事情を訊いていただいて、それからみんなで考えましょうか」
本当に困っているかのような弱り顔だ。
かつて腐敗した軍部を粛正し、現在のシーリア軍の基礎を作ったというレティシア殿も自分の子供には甘いのだな。まあ、私も含め人間なんてそんなものか。
「では我々は客室にて待機させていただきます。レティシア殿はお孫さんと水入らずでおくつろぎください」
「ちょっと待つぞ。妾だけ仲間外れはなしだぞ」
ひさしぶりの実家ということで、祖母と水入らずにしてやろうと思ったのだが、まあいいか。どのみちクレア殿と話す時はナーサシスのとりなしが必須だからな。
再度敬礼してから、私は隊員たちを引き連れて居間を出ようとした。
その時、急にレティシア殿に呼び止められる。
「老婆心ながら忠告させていただきます。シーリアはあらゆる人種職種を気にせぬ国。ですが、それでもあなたのことを快く思わぬ者もいるかもしれません。くれぐれもお気をつけて」
何かと思えばそんなことか。部外者が疎まれる当然至極。むしろここまでが順風満帆すぎたぐらいだ。
とはいえ、なぜこのタイミングで?
私は怪訝に思いながらも感謝の意を示し、心の片隅に置いておくことにした。
「リリー、今日はずいぶんとおとなしいな。地元に戻るのはひさしぶりだろうに」
「私はメイドですので。主のご自宅で出過ぎた真似は控えているというだけです」
客室にてクレア殿を待つ間、リリーとたわいない会話に興じる。いつもならアヤメとするのだが、さっきからやけに無口でなんだか話しかけづらいのだ。
シーリア軍の重鎮と会うということで緊張しているのだろうか。いずれにせよ、珍しいこともあったものだ。
「そうか。もしかしたら地元嫌いかと思って心配したぞ」
「とりわけ好きでもありませんがね。まあ姉さんと会えたのは良かったです」
「姉? いつの間に会ってたんだ」
「先ほど玄関先で会ったではないですか。客間にも案内してくれましたよ」
あの女性、おまえの姉さんだったのか。なるほど言われてみれば少し似ているな。向こうの方がはるかにお淑やかで女性的だが。
「私とパール姉さんはクレア様直属の隠密部隊の隊員です。騎士適正のあった私がナーサシス様の護衛を任されておりましたが、どうやら姉さんのほうもレティシア様の護衛任務についたようですね」
「姉妹だったら会話のひとつぐらいすればいいものを」
「お互い勤務中ですので。姉さんがラオディキア邸を警護しているとなると、少々きな臭いことになっているようですね。例の市長誘拐の件で厳戒態勢を敷いているのかもしれません」
「……レティシア殿には迷惑をかけてしまったな」
「気にする必要はありません。これはラオディキア家の沽券に関わる問題なので」
沽券……か。
万が一クレア殿が主犯だとすれば、それはラオディキア家をひっくり返すほどの大スキャンダルだろう。口封じされる可能性も十分に考えられる。これは気を引き締めてかからないといけないな。
「クレア殿が犯人だったら、おまえはどうする?」
「ありえませんよ。厳格な御方ですから。隊長もどうか失礼のないように」
その時、客間の木製のドアが静かに開いた。
ドアの先にはシーリア特有のタイトなスーツを着たまだ年若い貴婦人が、威風堂々と立っていた。
クレア・ラオディキア。シーリア全軍を束ねる総司令官――初めてお目にかかるがやはりオーラが違うな。
泣く子も黙ると恐れられる鉄の女は、足音ひとつ立てずに入室すると、客間の面子を研ぎ澄まされたナイフのように鋭い双眸で一通り見渡した。
最後にナーサシスのところで視線を止めると、
「なあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁさしぃすうううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!」
ものすごい勢いで走ってきてナーサシスにタックルするように抱きついた。
「よおぉぉやく帰ってきてくれたのねぇナーサシス! もう離さない! 二度と離さない! アッシャームには絶対帰さないからッ!」
「いや……母上には悪いが、明日の晩には帰るぞ」
親が子に甘いのは世の常とはいえ……ここまで子離れできていない親も珍しい。厳格とはいったいなんだったのか。
「ごめんなさい。私お仕事が忙しくてあと三十分ぐらいしか時間がとれないけど、まとまった時間がとれたら一緒にどこかに遊びに行きましょう」
「そ、それより今日はアラン市長誘拐事件の件で、ちょっと訊きたいことがあるぞ」
「あのクソチビの一件か! なんであの時死ななかったんだ! くそったれ、思い出しただけでも腹立たしい!」
クレア殿が癇癪を起こして地団駄を踏む。その様を見たナーサシスが助けてくれと言わんばかりにこちらに何度も視線を飛ばしてきた。
なるほど納得した。確かにこれは第三者が傍にいたほうが心強い。
私は極力失礼にならないよう配慮しながら二人の間に割って入った。
「あらマリィさん、お顔を見るのはこれが初めてね。私になんのご用かしら?」
私は恐縮しながら、市長誘拐の件について知っているかぎりをクレア殿に説明した。
「もしかして私、疑われていますか?」
「そのようなことはありません……と言いたいところだったのですが、先ほどからのクレア殿の態度を見ていますと少々怪しくなってまいりました」
ナーサシスの言うとおり、この女性なら市長誘拐のひとつやふたつ平気な顔でやりかねない。良くも悪くも自分に正直な御方だ。
「残念ながら違うわ。私なら誘拐なんて生ぬるいことはせずにぶっ殺すから」
「なぜアラン市長に対してそこまで嫌悪感を……政略結婚ではなかったのですか?」
「うちはお婆様の代からの恋愛至上主義よ。お婆様も昔は鋼鉄の処女と呼ばれるほど恐ろしい御方だったらしいけど、恋愛することでお変わりになったそうですから」
「では、なおさら良いではないですか。私から見てもお二人は仲むつまじいですよ」
「うちのナーサシスは十四歳よ! まだ結婚できる年齢にも達していないというのにあのクソチビ、一目惚れとかぬかしてあろうことか求婚してきたのよ! 外見はあれだけど四十間近のおっさんがよ? あのロリコン野郎、お頭が御おかしいわ!」
……まあ、その件については、クレア殿のお怒りも御理解できなくもない。
「アラン様はジェントルメンだぞ! いい加減妾たちの仲を認めて欲しいぞ!」
「あなたは騙されてるのよ、あれについていったらあなたは絶対に不幸になるわ。安心して、いつか絶対にあいつを血祭りにあげて、その目を醒まさせてあげるから!」
その後も親子は激しい口論を続けて、三十分という時間はあっという間に溶けた。
とりあえず誘拐騒動は起こしてはいないとのことだったが、疑惑はますます深まるばかりだった。
「リリー……おまえ、よくあの女性を疑わずにいられるな」
「厳格な御方だと伝えたはずです。アラン市長を許せないのは当然の事です」
普段は能面のようなその顔に、醜い私怨をありありと浮かべながら言う。
とりあえず、おまえとクレア殿は似た者同士だということは理解したよ。
クレア殿との面会という第一目的は果たされたが、ラオディケイアとの共同演習は明日に控えている。公費を使ってホテルに泊まることも考えたが、レティシア殿のご厚意に甘えて本日はラオディキア宅に泊めていただく運びとなった。
面会後に開かれた家族会議の結果、今後の調査はレティシア殿の預かりとなることに決定した。リリーの姉であるパール・ホワイトが率いる特殊部隊を総動員してクレア殿及びラオディキア分家の動向を探るとのこと、。私も参加したいという思いはあったが領分違い故に我慢するしかない。もっとも、シーリア警察よりよほど頼りになりそうなので、大船に乗った気分ではあるがな。
夜はパール殿が手によりをかけた豪勢なシーリア料理が振る舞われた。
肉、肉、肉。とにかく肉尽くしなのがシーリア流らしい。私は満足したがお年寄りのレティシア殿には胃にもたれるらしく、言葉には出さなかったものの微妙な顔をしていた。オウジャがこっそり消化のいい料理を出していたのがファインプレーだった。
本日の業務をすべて終えた私は、縁側にてラオディケイアの初夏を楽しむ。
リゾート地として有名なここは一年中温暖で特にこの季節は住み心地がいいそうだ。もっともレティシア殿が海岸沿いに住んでいる理由は、今は亡き夫が海の仕事をしていたからだそうだが。
「こんばんはマリィ隊長。水瓜でもいかがですか?」
東洋で生産された珍しい果物をもって現れたのはオウジャだった。そういえばそんなものを市場で買った記憶がある。私は礼を述べてありがたく頂戴する。
「なかなか美味いな。水の瓜とは言い得て妙だ」
「隊長、もしお時間があれば少しだけ僕と散歩しませんか?」
そう言って私を見つめるオウジャの瞳は真剣だった。
何か相談したいことでもあるのだろうか。部下の面倒を見るのは隊長の務め。私は快く了承した。
夜のメディウス海をオウジャと二人でのんびりと歩く。
潮の匂いを楽しみながらさざ波の音を聞いていると自然と気分も昂揚してくる。
「こうして二人で歩いていると、なんだかデートみたいだな」
「……僕はそのつもりですよ」
ほう、言うようになったじゃないか。
「お嫌ですか?」
「まさか。おまえだったら大歓迎だ」
いつになく積極的なオウジャに少し違和感を覚える。
思えば自由市の時からオウジャの様子はおかしかった。やはり最近、何かがあったんだろうな。
「何か悩みでもあるのか? 私でよければ話を聞くぞ」
「まずは感謝を。マリィ隊長と出会って一から稽古をつけてもらって、自分で言うのもなんですが、ずいぶん変わることができたと思います」
最初はついていくこともできなかったランニングも、今ではアヤメなんかよりずっと早くグラウンドを回れるようになった。筋肉もついて、今では余所に出しても恥ずかしくない立派な兵士へと成長した。
初めて出会った頃はすいませんすいませんと謝ってばかりだったオウジャも、たった数ヶ月で見違えるほど男らしくなったものだ。私も、もっと女をあげねばな。
「感謝するのはまだ早い。私のオウジャ強化計画はまだ始まったばかりだ」
「いえ、今を置いて他にありません。僕は近日、軍を退役する予定ですので」
私は驚き反射的に隣を歩くオウジャの顔を見る。
オウジャの顔には覚悟の二文字がはりついていた。どうやら冗談ではないらしい。
「理由を聞きたい。私に至らぬところでもあったのだろうか」
「隊長が来るずっと前の話ですよ。三年で結果が出せなければ騎士の資格を剥奪する。それがアッシャーム軍本部との当初からの約束でしたから。今月いっぱいでちょうど三年目です」
グラントにはないが、騎士見習いという制度は元来そういうものらしい。
ここ数日間のオウジャからは、何か焦りのようなものを感じていたが、そういうことだったのか。
「そのような話なら私に任せておけ。アッシャーム軍に直談判して取り消してやろう」
「なんの背景も持たない隊長の進言では覆りませんよ」
「何を言う、私の背後にはすでにナーサシスとレティシア殿がいるぞ。シーリア軍本部から圧力をかけてもらえば、その程度の話を覆すことなど造作もないさ」
「そのような話、クレア司令が承知しませんよ。それに僕自身がすでに騎士としての限界を感じてしまっています」
最初の頃こそ真面目に取り組んでいたものの、次第に諦めの色が濃くなりつつあり、三年目は半ば惰性だったとオウジャは語る。
最初にあったときに貧相な身体つきをしていたのは、タロスの勉強にかまけていたからだろうな。天才肌のナーサシスと彼女のことしか考えていないリリーでは、彼を育成するのはどだい無理な話だ。
「マリィ隊長には感謝しています。こんな僕でもその気になればこれだけ努力できることがわかりましたから」
「諦めが早すぎるぞオウジャ。私が就任してからまだたったの三ヶ月だ。これからは集中的に指導もしよう。もう少し私にチャンスをくれないか?」
しかしオウジャは静かに首を振る。
私が何度説得しても、自分のことは自分が一番よくわかっている。これ以上続けてもタロスに乗ることは不可能だと言ってきかなかった。
団長はすべての人間に魔力が宿っている以上、すべての人間がタロスに乗れるはずだと口癖のように言っていた。ましてやオウジャはリンク自体はそつなくこなせている。彼を育成できずに団長の理想を体現するなど夢のまた夢。私は自らの未熟を恥じる。
「退役前にどうしてもあなたに伝えておきたいことがありました。心の内に留めたままにしておこうとも思ったのですが、今日になってようやく決心がつきました」
オウジャが立ち止まった。
月明かりの下、彼はゆっくりと振り返り、私の瞳をまっすぐ見て言う。
「マリィさん。僕と結婚を前提としておつきあいいただけませんでしょうか」
退役後、アッシャーム郊外に店を構えたいとオウジャは言う。実家が東洋料理の老舗らしく、家を継ぐなら出資してくれるらしい。
たとえ退役しても私の傍からは離れない。一緒に暮らすことだってできる。だから僕と結婚してくださいと、あの気の弱かったオウジャがハッキリと告白したのだ。
「私はてっきり、おまえはアコのことが好きだとばかり思っていたよ」
「僕は最初からあなたのことしか見ていません。稟とした態度で隊員たちを力強く引っ張っていくあなたにずっと憧れていました」
……物好きな者もいたものだ。私はそっと瞳を閉じる。
オウジャ、おまえの気持ちはとても嬉しい。だが私の答えは最初から決まっている。
「私には団長がいる。おまえの気持ちには応えられない」
告白の返事を聞いたオウジャは、悲しげな笑みを浮かべて砂浜に大げさに倒れ込む。
「知ってました」
そう、私が団長をお慕いしていることをオウジャが知らぬはずがない。負けるとわかっている勝負に、それでもあえて挑んだのだ。なけなしの勇気を振り絞って。
オウジャ――タロスには乗れずともおまえは、勇敢なる騎士なのだな。
「振られついでに教えてください。ラングフォード団長って、いったいどんな男性なんですか。そして、愛しい男性がグラントにいるにも関わらず、マリィ隊長はどうして騎士団を去ったんですか」
「偉そうに団長を語れるほど深くつきあってはいないし、私の身の上話など聞いてもつまらないとは思うが……それでも聞くか?」
そして私は語り出す。私と団長の初めての出会いを。
私が愛する団長の許を去ることになった、その理由を。