か げ
い た
「何かの見間違いとか思い違い、科学的に説明できる現象……それかいっそ、不調のせいにして頂いて結構です。疲れてるせいだとかストレスが原因だとか。どっちも便利な言葉ですよね。あ、『つかれてる』って言っても、疲労の方のことですよ、今言ってるのは。とにかく、どれと思っていてもいいですが、深入りは禁物です。それ以上関わるな。過度の恐怖心も、ましてや変な同情心も不要です。俺なりの忠告ですよ。理由もなしに寒気がしたら、出来るだけその場から離れて下さいね。鳥肌が立ったりした時も。すぐ近くにまで来てたりしますから。急に耳鳴りがした時なんかも。仮に視えてなくても、十中八九“彼ら”と視線が合ってる。それとなくそらして下さい。視えてると気づいたらついて来るんで。あと、背後で気配がしても、極力無視して下さい。さっきの感じでお願いします。後ろにいなくても、上にいたりなんかするんですけどね。別に幽霊だなんて一言も言ってませんよ。まあ、そんな感じなんで、うまくやっていって下さい。……これで満足ですか? 俺もう行きますよ。さっきも言いましたが、これ以上関わりたくないので。それじゃあ。あとはご自由に」
歩道橋の上で出遭った、達観を通り越してともすれば異常と呼べる程に冷めた、どこか浮世離れしたこの謎の高校生は、そう言って今度こそ自分に背を向け、淡々と歩き去っていった。
その日は――。
いつもと同じ、中心地から十三番目の電停で降りて、いつもと違う道を何故か通った。
理由は、強いて言うなら、気分だ。
年月という名の埃を溜め込むだけでいっこうに空気を入れ替える様子もなく、都市開発の時代から置いてけぼりを食ってしまったかのような半田舎町の帰り道。
こちらの通りには、寂れたレンタルビデオショップや、風化で変色した大入看板が出たままのパチンコ屋、あちら側にはうらぶれた個人経営の飲食店が立ち並んでいる。漂ってくるのは、油と生ゴミを混ぜたような臭い。湿気のせいでこもって余計に酷い。
ひき逃げ犯の情報提供を呼びかけるチラシやらテレクラの広告やらが、ここのところの雨でふやけ、めくれた甘皮のように電柱にこびりついていた。
片側一車線の道路を挟んだ、そんな通りの間を繋ぐ歩道橋を渡る。
所々薄緑色のペンキが剥がれて、代わりに赤錆が目立ち始めた歩道橋だ。路上で溶けたチョコミントのアイスの上で赤茶に乾いた、鼻血のような汚らしい色合いの。
少しばかり近くなった空はどんよりと曇っていて、そのくせ日が長いせいで、夕方なのに気味が悪いほどに薄明るい。曇り空が太陽を飲み込んだかのように鈍い、奇妙な灰色の夕焼けだった。
梅雨の時季特有の蒸し暑さが、生温かく皮膚にまとわりついている。ベタベタと体中を触られ、縋り付かれているかのような。
風すら吹かず、本当は大嫌いなスーツのシャツは一層じっとりと汗を吸って、ますます嫌いになりそうだった。
早く家に帰って、クーラーを効かせて、冷たい飲み物でも飲みたい。
道路のそれに気がついたのは、その程度の取り留めのないことを考えている最中のことだった。
これといった理由などない。ただ何の気なしに、歩道橋下の道路に視線をやっただけ。
何があったと思う?
何もない。
歩を進める。
気まぐれで、また道路の方を見た。
何があったと思う。
やはり何もない。
否、あるモノが目に止まった。
「……?」
中央分離帯の傍。
もし誰かに「それは何か」と問われたら。
それは「影」としか言い様がなかった。
すぐに、植え込みか道路標識の影だろうという考えが頭に浮かんだ。
けれど、よく考えてみると、眼下の分離帯は植栽帯ではないし、近くに標識のひの字も見当たらない。そのすぐ脇を、車が次から次へと走り抜けて行っている。車の影でもない。
そう。
何もない筈なのに、奥深い暗闇の洞窟の入口を覗いているかのようにそこだけぽっかりと、黒い影ができているのだ。
つい気になって立ち止まり、欄干に手をかけて、何だろうと目を凝らす。
その時点で、否、そのもっと前に気付くべきだったのだ。
何かがおかしい、と。
よくよく見ると、それは人のように見えた。
「人のように」というのは、人型に見てとれなくもない、けれど全貌が曖昧で朧気な、黒い影の塊であるからだ。
蜃気楼よりも鮮明で、それでいて妙に立体味を帯びた、昏い靄のシルエット。
そんな得体の知れないモノが、道路に立ち尽くしているのだ。
ゆらぁり、ゆらぁり、と奇妙に体を揺すりながら。
何だ、あれは。
ゆらぁり、ゆらぁり……。
ゆらぁり、ゆらぁり……。
……………………ピタリ。
俄かに。
道路に佇んでいたその黒い影が、動きを止めた。
突然の鋭い耳鳴り。
背筋が、凍りついた。
こちらを見たからだ。
頭と思しき部分が弾かれたようにこちらを向き、目があると思しきその部分で、じぃっとこちらを見上げてきた。
突如。
ぐにゃぐにゃ。
がくがく。
ばきばき、と。
電気椅子の上でのたうち回る死刑囚のように、その影が大きく震え出す。歪に痙攣し始める。
そして次の瞬間。
消えた。
橋上に縫い付けられたかのように、その場から動けなかった。
だが、あれと視線が合ったというその事実を改めて認識した時、サア、と全身の血の気が引くのが感じられた。
今のあれは何だ。いいや、今はそれよりも、一秒でも早くここから離れた方がいい。嫌な胸騒ぎがしてならない。早くここから逃げるのだ。
恐怖に竦み上がった足を何とか引き摺るように動かして回れ右、一目散に走り出そうとした。いや、来た道を戻るよりあちら側に下りて家まで行った方が――
「振り返らない方がいいですよ」
声がした。
「…………え?」
方向転換しようとした自分の前に、無造作に人が突っ立っている。
少年だ。
いつからそこにいたのか、学生服の高校生らしきその少年が、どうやら声をかけてきたらしかった。
誰に? 恐らく、自分に。
「後ろ。今振り返らない方がいいですよって言ったんです」
――イ――――イ、タイ――――――タ――
喉の奥でヒッと悲鳴を上げる。
この時、言われてようやく気がついたのだ。
何やら音が聞こえていることに。
すぐ背後から。
悪寒から滲み出た冷や汗が、ツウ、と粟立った背筋を伝い、怖気となって全身を支配する。
固まった。一歩も動けなかった。
イタイ、タ、イタ、イ、タ、イタイ、タ、イタイ――
「違う」
向かい合った少年は、自分を真っ直ぐに見つめ、否、よくよく見れば自分の目線とは僅かに逸れた後ろの辺りを見つめながら、話を続けている。
イタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタ――
「その人は違う」
少年は同じ言葉を繰り返す。
反して、その奇妙な音が、ブツブツ、ブツブツ……と次第に近くなってきている気がするのは考え過ぎだろうか。
「その人は、違うんだ」
イタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタ……
「いぃぃいぃい~~たぁああぁぁあ~~」
ガタン、ガタン。
大きな音。
歩道橋の下を、明らかに積量オーバーであろうトラックが一台通り過ぎていく。
不意に。
鈍色の雲の切れ間から舌先を出した、不自然な程に真っ赤な夕日が歩道橋の上を照らし、自分の影法師が細長く橋の上にかかる。
その後ろに、もう一つ。
伸びる影。
今度は形が見えた。頭も手も足も、はっきりと。
一瞬。
ありえない方向にありえない角度で全身が捻じ曲がった姿が。
やがて、真後ろにぴったりと張り付いていた気配が、ゆっくりゆっくりと、離れていくのが感じられる。それと同時に、不気味な音は次第に遠くなり、そしてついには完全に聞こえなくなった。
「もういいですよ」
どのくらいの間そうしていたのか。
少年の言葉に、金縛りに遭ったかのように張り詰めていた体中の強張りが、指先足先から僅かな震えを伴って解放されていく。
きっと顔面蒼白であろう。少しでも気を許せば、腰が抜けてしまいそうだった。
もういいと言われても、勿論のこと、後ろを振り返る勇気はない。
「関わったらマズイ類のでしたね、あれは」
「……」
「引いてくれてラッキーでした」
それじゃあもう関わりたくないんで、とだけ残して少年は、さっさと踵を返し階段を降りようとする。
「…………あ、待っ!?」
底冷えのする体の深層部からじくじくと溢れ出てくるかのようなもの恐ろしさで一杯になった頭で、何を言いたいのかも分からぬままに反射的に少年を呼び止める。
声を出すどころか、呼吸すらずっと止めていたことに今更気が付いた。
「何ですか?」
少年はちらと肩ごしに、今度はちゃんとこちらに目線を遣る。
「……か、影が……今、の……」
「あなたには影で視えるんですね。羨ましいです」
「あれ、か、体……」
「体もですけど、今のは顔がぐ……言うのはやめときましょうか」
「…………何、今のって……ゆ――」
「二度と――」
皆まで聞かず、話が遮られる。
「――この道は使わない方がいいですよ。俺ならそうします」
慇懃無礼な態度を隠そうともしない、達観を通り越してともすれば異常と呼べる程に冷めた、どこか浮世離れしたこの少年に、それでも尚食い下がって口を開こうとすれば、少年はさも面倒そうに溜息を吐いて、体ごとこちらに向き直った。
「何かの見間違いとか思い違い、科学的に説明できる現象……それかいっそ、不調のせいにして頂いて結構です。疲れてるせいだとかストレスが原因だとか。どっちも便利な言葉ですよね。あ、『つかれてる』って言っても、疲労の方のことですよ、今言ってるのは。とにかく、どれと思っていてもいいですが、深入りは禁物です。それ以上関わるな。過度の恐怖心も、ましてや変な同情心も不要です。俺なりの忠告ですよ。理由もなしに寒気がしたら、出来るだけその場から離れて下さいね。鳥肌が立ったりした時も。すぐ近くにまで来てたりしますから。急に耳鳴りがした時なんかも。仮に視えてなくても、十中八九“彼ら”と視線が合ってる。それとなくそらして下さい。視えてると気づいたらついて来るんで。あと、背後で気配がしても、極力無視して下さい。さっきの感じでお願いします。後ろにいなくても、上にいたりなんかするんですけどね。別に幽霊だなんて一言も言ってませんよ。まあ、そんな感じなんで、うまくやっていって下さい。……これで満足ですか? 俺もう行きますよ。さっきも言いましたが、これ以上関わりたくないので。それじゃあ。あとはご自由に」
少年は口早にそう告げると、今度こそ自分に背を向け、淡々と歩道橋から歩き去っていった。
「詮索しちゃいけませんよ」
あの後。
一体どれくらいの時間が経った後だったのだろうか。生気を抜かれたかのように、フラフラと覚束無い足取りで歩道橋を下りたのは。
あまりよく覚えていない。
生きた心地のしないまま帰路に着いたことだけは覚えている。
その後、あの道は一回も通っていない。
あれは何だったのか。何をしたかったのか。未だに分からない。
例の少年も、あれ以来出会うどころか一度も見かけてさえいなかった。
そうして、年月という名の埃を溜め込み続ける寂れた田舎町と同様に、月日と共に取るに足りない平凡な日々を積み重ね、あの時の恐ろしい記憶も恐怖心も、茫と薄れ、あるいは上塗りされていく。
そんな中、今でもこの時季になると自分の脳裏にちらりと蘇るものがあるとすれば、それは――
あの時。
歩道橋の階段を下りきった先の通り。
雨でグズグズに剥げたチラシの屑が溜まった電柱。
――そのぬかるみの下に供えられた、否、その下に忘れ去られた、蝉の死骸のように茶色く古びた花束であろう。
何か関係あるのだろうか。
いや、これ以上詮索するのは、止しておこう。
構想中・執筆中は滅茶苦茶ビビリまくっていたものの、それも一周して、イタの羅列の中に「夕」とか「ケ」とか混ぜてもバレないかしら……とまで思えるゆとりが生まれました!
色々語りたい部分もありますが、それはグッと堪え、今回はこのあたりでお暇致したいと思います。
最後までお読み下さって、どうもありがとうございました。