第四話 お勉強 with 百合
「ふむ」
恋愛小説を一気に読み終えて、僕は嘆息する。
結局、この本もはずれか。何だか立派な単行本だったが、中身は大して今の萌え萌えなライトノベルと変わらなかったような気がする。
僕は買ってきてつけたままだったブックカバーを外して本棚に収納する。
あのドタバタから一週間経って、また週末の日曜日。期末試験は明日からで、勉強しなければならない。だが……。
「何なんだろうなぁ」
二人の口づけ。これは無視する事は出来ない。
僕は椅子の背もたれにもたれかかる。この自室で机に向かって同じ姿勢で読んでいたので、身体が軋み、思わず顔を顰めた。
何分、二人はあれ以来、僕への態度を変えてきたのだ。
姉さんは事あればいちゃつこうとしてくるので、僕は部屋で勉強している体を保っていたし、モカに関しては少し頼ってくれるのは良い物の、その御礼に口づけしようとしてくるという。その度に何か用事を押しつけているのだが。
「……さて、困ったものだなぁ……」
あれは何だ、一応、好意を示してきているのだろうか? それとも何かそういうゲームでも流行っているのか? 後者だったら非常に助かるんだが……。
そもそも、好きなら好きで付き合ってくれと言ってくれればこっちも真剣に考えるけど、今はこっちで精一杯だしなぁ……。
僕はそう思いながら吟詠から借りたノートを取り出す。
それには日本史のヤマなど暗記系の目星が示されていた。毎回、吟詠はこれを使い、好成績をはじき出している。教員からは七星の一人と呼ばれ、一目置かれているようだ。
ちなみに七星というのは良い成績の収めた人間につけられる名誉の称号で、創立してから未だ三人しかいない。つまり、在籍して二年ですでに七星に数えられている人材なのだ。
「その恩恵で、御陰様で百位台をキープさせて頂いていますよ……っと」
僕はどうも詰めが甘いせいか、それ以上は行けないのだが。
さて、今回は……うわ、臥雲辰致なんて出そうなのか? しっかり漢字、覚えないと……。
僕は蛍光ペンで日本史の教科書にラインマーカーを引いていると、扉がコンコンと音を立てた。
「お兄ちゃん、良い?」
「んあ? ああ、おう」
僕は蛍光ペンに蓋をして返答すると、扉が微かに軋む音を立てて開いた。
そこには英語の教科書を抱えた従妹の姿があった。困り顔で小首を傾げている。
「分からない所か?」
「うん、やっぱり難しいかな……?」
「ほら、来い来い」
僕は笑いながら手招きする。すると、百合は眩しいほどの笑顔を浮かべて、僕の机の傍に寄ってきた。僕が軽く椅子を引くと、百合はちょこんと僕の膝の上に腰掛けて、机の上に英語のテキストを広げた。
いつも、これが百合に教える時の定位置だ。
小学生のとき、百合が家に遊びに来た際に何かを教えるときからこれが習慣化している。
彼女は軽くはにかみながら、テキストの文を指差す。
「えっと……ここの訳だけど……」
「ふむふむ、ああ……」
僕は軽くテキストの文を一瞥し、訳を頭の中に浮かべて頷く。
「呼応の表現だな」
「え? 呼応?」
「ああ、僕がそう勝手に呼んでいるだけなんだけど」
僕はシャーペンを筆立てから抜くと、文中の用語に丸をつける。
「このSomeと後半のOthersは呼応していてね。『~という人もいる』って感じになるんだ」
「へー、で、この『each other』が……えっと……『互い』に?」
「よーし、よく覚えているじゃないか。百合」
僕は笑いながらくしゃくしゃと頭を撫でてやると、百合は嬉しそうに笑顔を見せた。
「だから、これは『例え男同士であろうと、互いにチョコレートを渡す人もいる』で良いのかな?」
「んー、ちょっと直訳過ぎるな。少し意訳しても良いかも」
「あ、じゃあ……」
百合はすらすらと脇にノートを開いてその答えを記していく。そしてその手を止めると、僕を仰け反って軽く見上げた。
「じゃあ、次、いーい?」
「ん? ああ、良いぞ。どこだ?」
「ここ。ここって時制の一致が起きてthat以下の文って過去形になるんじゃないの? ほら、手前のsuggestが過去形になっているし」
「ああ、それか。それは提案の意を含んだ文のときのthat以下は原型になるんだ。ちなみにここにshouldが省略されている。ここの訳に『~した方が良い』に入れるかどうかで点数が変わるぞ」
「えー、そうなの? 何だか英語って難しいな……」
「日本語に比べたら楽だよ。だって、英語は一個、二個とは言わずにone,twoだけどさ。でも日本語は一個、二個、だけでなくて一本、二本や一匹、二匹って単位まであるんだぜ?」
「あ……そっか」
僕の言葉にへらっと百合はまた笑顔を見せる。
「そうだね、確かに難しいかも」
「ん、じゃあ、訳してみ」
「あ、えっと……『私は男同士の恋愛をするときはよく考えた方が良いと提案します』……で良いかな?」
「……なぁ、お前の中学校、どんな教材を使っているんだ?」
他の文も眺めて壮絶な日本語訳になることを半ば戦慄しながら読み取りつつ、僕が訊ねると百合はあはは、と苦笑いを浮かべた。
「あたしの学校、女子校だし、先生が腐女子だから……」
「……大変だな」
「うん」
きっと答案用紙はそれはそれはヲトメが喜ぶものになるのだろう。
そのまま、二、三問、際どい回答になるような文章を教えていると、ふと、百合が脇の本棚に目を留めた。
「あ、お兄ちゃん、新しい小説? 何? 恋愛物?」
「ん? ああ、そうだな。タイトルで分かるとは思うけど」
「……確かに。『愛と哀しみのカルテット』なんて恋愛……しかもどろどろしてそうだね」
百合は苦笑しながらその本を取ってパラパラと捲る。
そして満足したのか、その本を戻してから僕の顔を見上げた。
「しかし、お兄ちゃんがこんな本を読むなんて珍しいねー」
「ああ、まぁ、こっちにも込み入った事情があってな……」
「読書感想文……じゃなさそうだよね……もしかして、さ」
百合の目にどこか憂いが宿る。正面を向いて少し顔を伏せ、しかしはっきりとした声で言う。
「……お姉ちゃんとモカ、関係?」
「う」
当てられるとは思わなかったので、僕は思いっきり狼狽えてしまった。
その反応を見て、百合がやっぱりと呟いて今度は身体を半回転させて、僕に向かい合うような形となった。肩に手を置き、僕の瞳を覗き込む。
「ね、お姉ちゃんとモカ、どうしたの? 最近、様子が変だけど」
「そ、それがだな……デリケートな問題でして……」
「何? 着がえを覗いたとか?」
「いや、それならまだよかったのかも知れないけど……」
「言ってよ。お兄ちゃん」
百合は笑って顔を近づけると、きゅっと首に腕を巻き付け、コツンと額と額をぶつけ合う。
一瞬、キスされるかと思ったが、彼女はそんなことはしなかった。
そして、この仕草は信頼の証……なのだ。何故なら、僕と百合は秘密の話をするときはよくこうやってお互いを信頼させていたから。
僕は何となく安堵して、椅子の背もたれに深く背中をつけると深く息を吐き出した。
「言っておくけど、面白い話じゃないぞ」
「うん、そんな話は期待していないから」
百合はニコッと愛想よく笑って促す。さぞこの子は共学校に行っていたらモテていただろうな……。
僕はそんな事を思いながら一週間前の顛末を話す。
すると、百合は真剣な顔で聞いていたが、次第に俯いていき、最後の方には首に腕を巻き付けた状態で僕の胸の顔を押しつけてぷるぷると震えていた。
「……という訳なんだけど……百合、大丈夫?」
「……大丈夫、な、訳ないじゃないっ!」
一瞬、首に巻き付く腕に力が入って息が止まりかける。が、すぐに緩んだ、と思うと、おもむろに百合は顔を上げた。その瞳には憤りが漲っている。
「まさか二人がそう来るとは……ッ!」
「は、はい?」
「大体分かるの。二人の性格からこう来るだろうとは思っていたけど、警戒を怠っていた……ッ!」
百合が悔しそうに僕の膝の上でぴょんぴょん跳ねる。それに合わせて茶髪のツインテールもひょこひょこと跳ねて可愛らしい。
「ど、どういう意味?」
「これはね……」
百合は憤った口調で話そうとするが、はたと何か考え込むように黙り込んだ。そして、首を振る。
「駄目、あたしの口から多分、言っちゃいけない。これはお兄ちゃんが一人で考えなきゃいけない命題なの」
「え……?」
「うん……よく考えて。吟詠さんの力を借りても良いから、よーくよく考えて。それでね、お兄ちゃん、大事な事だけど」
「……何?」
「あたしもお兄ちゃんの事、好き」
そう言ってコツンとまた額を重ね合わせる。
「……僕も好きだよ」
「多分、そういう意味じゃない。お兄ちゃんの言う好きって言うのはニュアンスが違うと思う」
百合は首を振って言うと、じっと僕の瞳を見つめる。僕もじっと見つめ返した。その瞳には、反射した僕の真剣な顔が映し出されている。うん、あまりイケメンとは言えないな。
「今、この状態だったら間違いなく、キスしていると思う位、好き」
「やらないでくれよ?」
「うん、お兄ちゃんが困っているからやらない」
「……ありがと」
「うん、でも、そうしている、って事実は受け止めてね」
「…………」
半端にやられるより性質の悪い話だ。
僕が黙り込んでいると、百合はため息をついた。
「やっぱり、お祖母ちゃんから聞いた通りねー」
「え?」
「ほんと、お祖母ちゃんから聞いた、若い頃のお祖父ちゃんそっくり」
「それって……真次祖父さん?」
「うん」
百合はコクンと頷くと、困ったように笑みを浮かべて小首を傾げる。
「つまりは、そういうこと」
「どういうこと?」
「これ以上はアンフェアだからなし。ごめんね、勉強中に邪魔しちゃって」
ひょいっと僕の膝から滑り降りる百合。手際よく教材を片づけて僕を顧みる。
「よくよく考えて、ね?」
ぺろっと舌を出した少女のその姿は可愛らしくて……。
思わず、胸が高鳴ってしまった。