アドバイス感想文
晩秋の冷たい雨が辺りを濡らす夕方、図書館の自動ドアが開く。
入館してきたのは、広沢正好である。
彼はビニール傘を閉じ、乱暴に傘を回転させ雨粒を振り落とす。飛び散った水滴が透明なガラスドアを汚しても気にならない様子で図書館に入っていく。傘も閉じただけでまとめようとはしないし、盗難を恐れてか、傘立てには置かず、手に持ったままである。そのくせ備え付けの傘袋を使おうともしないから、彼の歩いた後には大きな水溜りができている。
正好は一瞬だけ立ち止まって館内を見回し、またすぐに歩き始める。そのつま先の向く先には誰も使用していない四人掛けの机がある。
彼はそこまで行くと椅子を引いて傘をかけ、肩に掛けた薄い鞄を置く。そして自分もその隣に座る。彼の左肩から肘にかけて、灰色を基調とした学校指定のブレザーに濃い染みを作っている。膝から下の部分も同様である。レモン色に近い挑戦的な短髪と、雨に濡れて型崩れしたブレザー、それと、あまり友好的とは言えないその表情は、手傷を負った野生動物が周囲を警戒しているようにも見える。
彼は鞄から四百字詰め原稿用紙数枚と、ペンケースを取り出し、机の上に放り投げるように置く。原稿用紙は白紙で、鞄の中で揉みくちゃにされたのか、所々変な所に折り目が付いている。彼は少しの間その原稿用紙を見つめていたが、誰にも聞こえない程度に小さく舌打ちをし、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。折り畳まれた携帯電話を開くと、猛烈な勢いでボタンを押し始め、そして徐に電話をしまう。メールを送ったのだ。送信前の宛先には斉藤美咲と表示されている。また、そのメールにはこうある。
「わりぃ、今日やっぱ行けねぇ。大塚に課題くらっちまった」
大塚というのは彼の高校で現代文を受け持っている教員である。背が低く、痩せていて、いつもぶかぶかのスーツを着ている上に、役人のように授業を進めるため、生徒から相手にされない。授業中の教室から私語は聞こえてこないものの、彼の講釈に耳を傾ける者はいない。大抵の生徒が机に突っ伏したり、携帯電話をいじったり、マニキュアを塗ったり、マンガを読んだりしている。正好もその中の一人で、彼は決まっていつもマンガを読む。そしてマンガに飽きると寝てしまうか、頬杖突きながら聞くとも無く緩慢な雰囲気の教室を眺める。
その大塚に課題を与えられて、正好は今市立図書館を訪れている。
正好のポケットから携帯電話の唸り声が三度聞こえ、メールが届いたことを伝える。美咲からの返信である。正好がメールを送ってから三十秒と経っていない。正好は携帯電話を取り出してメールを開く。メールにはこうある。
「ダメ。今すぐ来て。今日は絶対ドタキャン禁止って言ってあったでしょ?」
最後の文字には怒りを表す絵文字が添えられている。
「マジわりぃんだけど、留年かかってんだ。この埋め合わせは必ずするから」
そう打ち込んで正好は送る。そのメールにもすぐに返事が届く。
「ダメ。絶対来て。約束守って」
彼女の心理を表す文末の血管は、二つに増えている。
正好の眉間に皺がよる。しかし、それも一瞬のことで、次の瞬間には平静と呼んでいい表情に戻る。彼の親指に何度か力が入り、美咲への詫びが打ち込まれるが、皆まで打たない内に美咲からのメールが届く。
「遅い。早く来て。今すぐ」
美咲は優勢であるならば、追撃をためらわないのである。それに、今回のメールには怒りの絵文字が装飾されていない。それが美咲の我慢と忍耐が尽きていることを正好に気付かせる。正好は顔全体を歪ませながら舌打ちをし、ブレザーのポケットに携帯電話を突っ込む。そして勢い良く席を立って課題図書に指定された本がある棚の方に足を向ける。
図書館のどの棚にも本は隙間無く並べられている。正好はその内の一つ、文学と題された本棚の前にいる。人気のある雑誌系の本棚とは違い、文学の棚は人気がないらしく、正好以外の姿は見えない。正好は独占状態であることを幸いに、自由に移動しながら頭を上下に動かし、目的の本を探す。そして文学の棚を二度往復した後、ア行で始まる作家の棚から一冊の本を手に取る。その本の表紙には「山椒魚 井伏鱒二」と書かれている。
正好の進級の課題は読書感想文である。そして「山椒魚」は大塚が指示した課題図書である。
正好に課された感想文は、特別のものである。普通の学校生活を送っていれば提出の必要はない。彼にその必要があるのは、正好自身が過ちを犯したからに他ならない。彼は二学期の現代文の中間テストに出席しなかった。つまり、答案は白紙であり、点数としては零点である。
勉強しなかったわけではない。また、勉強しても報われない程に粗悪な頭脳を天から宛がわれているわけでもない。彼はただ単純に、寝坊したのである。現代文の試験は試験期間の初日、その一時間目であった。試験開始は八時五十分。彼の起床も八時五十分。学校まで四十分以上かかる位置に住居する彼には、まだ温かみの残るベッドの中で血の気を引かせながら、目の前の光景が夢であることを祈ること以外に、取りうる行動はない。
しかし、彼のしくじりはそれに留まらない。赤点者には、追試を受ける権利がある。挽回のチャンスである。だが、彼は巨大なプロットの一つを行うかのように、ごく自然に、当たり前のように、追試の存在を忘れた。「笑えない」という呟きは、悪友たちの笑い声に囲まれる中で、彼がこっそりと吐露した、偽りない心情に他ならない。
ただ、絶望というものが社会の仕組みにより生まれ、忍び寄ってくるものであれば、救いというものもまた、社会により生み出され、運ばれてくるものなのである。とりわけ、思いも寄らぬ一個人の手によって。この場合、正好の窮地を救ったのは大塚教諭であった。詳細に言えば、それは大塚の長年の教師としての疲れであり、教育の責務に対する怠惰であり、大塚自身の寛大な人情である。空席の目立つ放課後の職員室で、大塚は説く。課題の提出を条件に追試の合格と認めてやろうと。神妙な面持ちに、金髪を夕日に焼く男子生徒は、一つ静かに頷く。
席に戻った正好は「山椒魚」を最初から最後までパラパラと捲っていった。どのくらいの長さがあるのか調べたのである。「山椒魚」は短い物語である。井伏鱒二の『山椒魚』は短編集であるから、本一冊のページ数は二百を超える長さではあるが、その中の一つである短編「山椒魚」自体は、十五ページにも満たない。
正好は山椒魚の最初のページに戻り、読み始めた。一行目、二行目と視線が文字を追い、見開きの末端まで進んだところでページが括られる。しかし、その視線はどこか退屈そうである。見開きのページが五ページ、六ページ目になったところで、正好は急に本を閉じ、鞄からペットボトルを取り出して一口含んだ。さらにもう一口。ペットボトルを鞄の中に仕舞い、頬杖着きながらしばらく貧乏揺すりした後で、読書を再開する。物語が大体半分まで進んだ辺りだろうか、ふと、彼は何かに気付いたように顔を上げる。そして、本を閉じ、用紙とシャーペンを取り出して「山椒魚の読書感想文」という題に続けて、感想文を書き始めた。
書き上げた彼の感想文が以下である。
「僕はこの物語を読んですごく感動しました。僕が感動した部分を次の行から書きます。
(以下、用紙の最終行まで『山椒魚』の二ページ目より抜粋が続く)」
ある程度の社会性を帯びた人間には、当然のものとして身に着けておくべき振る舞いがある。それは本音と建前の使い分けというものである。これは、彼であっても当然よく知っていて、また、その使い方も実に達者である。というのも、彼の建前としての感想が先に述べた通りだとすれば、本音と言える感想については、彼が手に取った図書の中に既に書き込まれているからである。
短編「山椒魚」の表紙ページには、彼の字で、こう書かれている。
「死ぬほどつまらない。何が面白いのか全く分からない。は? なにこれ? って感じ。なんでこんなもんのために美咲に怒られなきゃいけねーんだ。むかつくわぁ。マジにむかつく」
その日、正好は雨に体を冷やしながらも、それほど不機嫌そうでも無く帰宅し、いつもより少し多めにご飯を食べ、携帯を手に取ることもなく、ぐっすりと眠った。翌朝起きてみても、正好の携帯に美咲からの連絡は入っていなかった。そのことを確認した正好の顔に特別な変化は見られない。
それから三日が経った。大塚に読書感想文を提出した後、正好は四六時中、美咲への弁解と、ご機嫌取りに余念が無かった。しかし、その甲斐なく、今も正好の劣勢が続いている。
メールの送信箱には美咲の名前が連なる一方、三日前から美咲の名前は一つも増えていない。着信履歴にしたところで、状況は全く同じである。それでも、正好は連絡することを諦めていない様子で、相変わらず面倒くさそうにしながらも、美咲に対する謝罪を送り続けていた。
そんな折、昼休みの校舎に校内放送がかかる。校内放送は大塚からの正好の呼び出しだった。自席で惣菜パンを齧っていた正好に、同じクラスにいる生徒達の好奇の視線が集まる。彼が留年しそうなのは、非公式とは言え、もはや周知の事実なのである。正好は自分に向けられた視線の多さに一瞬だけ怯んだような表情をしたが、次の瞬間には敵意を代弁する目つきで周囲を見回す。鳩が散るように、彼への視線が無くなる。正好の通う学校では、正好は強面の部類に属する者なのである。彼自身には血を見るような喧嘩沙汰を経験したことはないのであるが、彼の友人の中には暴力騒ぎで停学処分を食らった人間が二、三人いるのである。降りかかる火の粉は、振り払う前に、最初から降りかからない場所まで逃げておくのが世間では一般的である。平和を望む、というよりは、自身の安全を望むクラスの人々が正好の視線を避けるのも、つまりはそうゆうことなのである。
正好はクラスを威圧した後、不満そうな表情のまま昼食を済まし席を立った。そして職員室に向かった。大塚は職員室に居なかった。というより、教務室の前で大塚が一人、プリントを持って立っていた。正好を待っていたのである。
「ああ、広沢君、来たね。これね、この前提出してもらった感想文」
そう言って大塚は正好にプリントを差し出す。正好は怪訝な表情を浮かべたまま、無言でプリントを受け取る。
「広沢君。今返した感想文だけど、これじゃあ、ダメだよ。感想文と言いながら、君の感想は最初の一文にしか書かれていないじゃないか。読んだ小説のね、本文を抜き出すのは別にいいよ。でも、どうしてそうゆう感想を持ったのかっていう、君自身の主観的な理由が書かれていないとダメだね。どの部分に着目し、どういった感じを受けて、それがどうしてなのかを書く。少なくともそのくらいは書いてもらわないと先生としても受け取るわけにはいかないよ。だから、面倒かもしれないけれど、直してきて下さい。期限は明後日の昼までです」
大塚はそれだけ言ってしまうと、教務室に入っていこうとした。正好は大塚を呼び止め、反論を試みようとした。しかし、大塚はそれを「嫌なら別にいいんだよ」の一言であっさりと退け、教務室に入っていってしまった。正好は腹いせに壁でも殴ろうと、右腕を後ろに大きく振りかぶったが、結局その手が前方に押し出されることはなく、腕を垂らし、天井を仰ぎ、その場に立ち尽くすのみである。
日の落ちるのが目に見えて早くなる晩秋の夕方、広沢正好は再び図書館を訪れていた。
図書館は彼が前回訪れた時よりも幾分混雑している。小学校低学年と思われる子供と老人が圧倒的に多い。小学生は母親に連れられていることが多く、時にそれが父親であることもある。彼らは、まだ幼いながらも、図書室では静かにし、騒ぎ立ててはいけないことを既に理解しているらしい。友達の中に、走り回ったり、大声で話したりする子がいれば、仲間の誰かが、人差し指を口に当てて「しーっ」と子供らしい注意をしている場面も見られる。小学校の図書館で見た教師の注意の仕方を真似しているのかもしれない。そんな彼らが手に持っているのは、そのほとんどが平仮名だけで書かれた本である。子供によっては、可愛らしい挿絵が表紙を飾っている本を選んでいる子もいる。一方で、老人達はというと、椅子だけで机のない席に腰かけ、雑誌か、そうでなければ、新聞を広げて読んでいる。それほど熱心に読んではいないのだろう、次々とページがめくられていく。読み終わった人は、ある者は次の雑誌か新聞に、またある者は、外の斜陽に気づき、帰宅へと足を向ける。
そんな中、正好は前回と同じように館内を見渡し、空席を見つけ、席を確保する。以前来た時と同じ棚から「山椒魚」を迷わず見つけ、手に取り、席まで持ち帰ってくる。その行動はわざとなのか、一々威嚇的とも見受けられる。
席に戻った正好は、携帯電話をポケットから携帯電話を取り出して開く。メールの受信箱、着信履歴の中で、美咲に関する表示に変化はない。次に正好は携帯を閉じ、代わりに「山椒魚」を開く。彼は前回、短編の表紙に彼の本音を書き込んでいた。しかし、そこには彼の筆跡は見当たらない。代わりに大きな黄色い付箋紙が一ページ全てを覆い隠すように張られている。その付箋紙にはこう書かれてあった。
「女性を怒らせたなら、男が謝らなければなりません。特に、女性を傷つけた上に怒らせたなら、男は真摯に謝らなければなりません。どんな美辞麗句よりも、謝罪の回数の多さよりも、求められるのは男性の誠意です。誠意の無い謝罪は侮辱と同じです。私にも、いや、私のことはいい。美咲さんという方を大事にしてあげて下さい。健闘を祈ります」
また、少し小さめの文字で次のようにも書かれていた。
「公共の資産である図書に落書きしてはいけません。返すとき、この付箋ははがして返してください」
翌日、大塚に提出された正好の読書感想文には、山椒魚はものすごくつまらない小説だと思いました、でも、関係ない話ですが、面白いことがありました、という前文に続き、山椒魚に貼ってあった付箋の内容、正好と美咲仲直りの顛末、誠意ってすごいんですねという言葉、その他彼が感じた素直な感想が書き記されていた。
その日の放課後、正好は校内放送で大塚に呼び出された。職員室で正好と対峙した大塚が厳しい表情をして言う。
「『山椒魚』に落書きしたのは、やっぱりお前だったか。駄目じゃないか、図書室の本にあんな落書きしちゃあ」
正好は驚きを顔に表して言う。
「え? うそぉ? あの付箋、先生が書いたの? まじに?」
大塚は毅然と言う。
「そうだとも。大体、『山椒魚』の課題を出しておいて、しかも、あの本の表紙にこの感想文と同じ筆跡で、つまらない、なんて書いてあれば、誰だってあの落書きを書いたのがお前だって見当が付くだろう」
「ああ、確かに。言われてみれば」
「言われてみれば、じゃない」
大塚が語気を強めて言う。正好は、はぁ、すいません、と珍しく萎縮しながら返事をする。
大塚は横に視線を移し、正好は下を向いている。少しの沈黙が二人の間に流れる。
大塚は横を向いたまま、独り言のように言う。
「まぁ、『山椒魚』の内容ではないにしろ、これはこれで面白いものが書けているから、今回だけは落書きの件も含めて不問としよう」
一呼吸の後、大塚が正好に向き直る。その表情からは既に厳しさが消えている。
「美咲さん、だっけ。仲直りできて、良かったじゃないか」
正好の表情が緩み、小さく頷く。
「もうテストの日に遅刻なんてするんじゃないぞ。三学期もあるんだから、気を抜かないように。さ、もう帰っていいぞ」
それだけ言うと大塚は机の方に向き直る。が、それを正好が、先生、と呼び止める。
「一つ質問なんですけど、先生も、昔付き合ってる人となんかあったんですか? あの付箋紙に先生もそんな経験したんだ的なことが書いてありましたよ。せんっせぇー、それって、アレですか? 燃えるような恋でした?」
「何を言ってるんだ、馬鹿もん。大人をからかうな。用がないならさっさと帰れ」
それ以降、正好がテストで遅刻することは無かった。いや、テストを受ける事すらなかった。正好が三学期も半ばを過ぎるくらいに美咲との間に子供ができたという理由で自主退学したからである。二人の間に幾度もの小さい喧嘩があり、その度に正好の謝罪があり、その果てに待っていた結末であった。
その年の年度末、机の整理をしていた大塚は、机の奥に仕舞われてあった広沢正好の読書感想文を見つけ、誰にというわけでなく、嘆息交じりにつぶやく。
「良薬は口に苦し、か。少し甘過ぎたかな」