無垢な毒と美しい花
エレナが最初に剣を持たされたのは、誰かに期待されたからではなかった。
魔物が村に出た夜だった。
ーーシルバーレイク村は、美しい村だった。
湖は銀色に光った。晴れた日には、森の緑が水面に映った。春には湖畔に小さな白い花が咲き、夏には木々の葉が影を落とした。
「綺麗な村ですね」
旅人はよく足を止めた。
村人たちは誇らしげに笑った。
エレナは、そのたびに少しだけ顔を伏せた。
この村で綺麗なのは、湖と森と花だった。石畳の小道も、白い煙の上がる家々も、髪に花を挿して笑う娘たちも美しい。
エレナだけが違った。
彼女だけがこの村で綺麗ではなかった。少なくとも彼女は幼心でそう思った。
母は食卓に椀を置くとき、エレナの前だけ少し遠くへ置いた。父は人前で彼女の名を呼ばなかった。面と向かって罵られることもあった。けれど、長く耳に残ったのは、罵声ではなかった。
村で一番美しい娘がいた。湖の朝みたいな髪をしていた。笑うと、周りの娘たちまで明るくなる。
その娘が、ある日、井戸端でエレナに手を振った。
「エレナもおいでよ」
声は優しかった。
周りの娘たちが、少しだけ顔を見合わせたが、彼女の隣から一歩だけ退いて場所を空けた。それから、輪に入れてくれた。
誰もエレナを笑わなかった。
誰も嫌なことは言わなかった。
髪に花を挿す遊びにも、エレナの分の花が用意された。
けれど、エレナには分かった。
自分は誘われたのではない。
入れてもらったのだ。
可哀想なものを、外に置いたままにしないために。
娘の白い指が、エレナの髪に花を挿した。
「うん、とっても似合ってる。似合うよ」
そう言って、彼女は笑った。
優しい笑顔だった。
だから、エレナは何も言えなかった。
花の重さだけが、いつまでも髪に残った。
エレナは、それから鏡を長く見られなくなった。
水桶に映る顔。
湖面に揺れる顔。
古い鏡に映る顔。
どれにも、彼女のような美しさは映らなかった。
年齢を重ねるにつれ、体も変わっていった。
胸は少しずつ膨らみ、腰にも丸みが出た。
同じ年頃の娘たちと並んでも、女として育っていることは分かった。
けれど、それだけではなかった。
薪を運べば肩に筋が浮いた。
水桶を持てば前腕が張った。
畑仕事を終えた夕方には、ふくらはぎが硬く締まっていた。
他の娘たちも同じ仕事をしていた。同じ薪を運び、同じ水を汲み、同じ坂道を歩いていた。それなのに、エレナの体だけが違っていく。
腕は太くなった。
背中には力がついた。
手のひらには早くから硬い皮ができた。
村の娘たちは花冠を編みながら笑った。
エレナも相変わらずその輪の中にいるが、ひとりだけ、はみ出しているように感じた。
鏡を見るたび、違いが目についた。女らしくなっているはずなのに、同時に女たちから遠ざかっている気がした。
村の男たちは力仕事になると自然にエレナを呼んだ。
娘たちは重い荷を持つ時、彼女を頼った。
そのたびに、エレナは自分がどこにいるのか分からなくなった。
綺麗な娘たちの輪の中にも入れない。
男たちの中にも入れない。
ただ、自分だけが少し違う形に育っていく。
それが、ひどく居心地悪かった。
魔物が村の柵を破った夜、女たちは倉へ逃がされた。
子どもたちは奥の家に押し込まれた。
男たちは鍬や斧を持って、村の入口に集まった。
エレナも倉へ向かおうとした。
けれど、肩を掴まれた。
「お前はこっちだ」
渡されたのは、古い剣だった。
刃こぼれしていた。
柄の革は擦り切れていて、誰かの汗の匂いがした。
エレナはそれを見た。
「……私が?」
「少しでも時間を稼げ」
男はエレナを見ていなかった。
魔物のいる方を見ていた。
女として守るのではない。
村人として頼るのでもない。
そこに置いたのだ。
魔物の前に。
エレナは剣を握った。
重かった。
手が震えた。
足は逃げようとしていた。
けれど、倉の扉は閉じられていた。
魔物が走ってきた。
一度目の剣は空を切った。
二度目は爪に弾かれた。
三度目で、刃が首に入った。
肉を断つ感触が、手の中に残った。
魔物が倒れた。
エレナも膝をついた。
誰も褒めなかった。
誰も駆け寄らなかった。
ただ、村人たちの目が少しだけ変わった。
それから、魔物が出るたびにエレナは呼ばれた。
最初は数合わせだった。
次に、戦力に数えられるようになった。
そのうち、前で戦うようになった。
剣を振る。
爪を見る。
足場を見る。
噛みつかれる前に半歩ずれる。
傷は増えた。
夜中に目が覚めて、握ってもいない剣の柄を探すこともあった。
雨の日には、折れた肋の奥が痛んだ。
けれど、剣だけは手放さなかった。
剣を持っている間、誰もエレナの顔を見なかった。
それが、最初の救いだった。
女でなくなれば、笑われない。
戦う道具になれば、そこにいてもいい。
そう思うようになった。
村の男たちは、エレナを前へ出した。
村の女たちは、エレナを避難する時に呼ばなかった。
娘たちは、彼女の傷を見て顔をしかめた。
それでも、村はエレナを必要とした。
必要とされることと、大事にされることは違う。
その違いを、エレナは少しずつ分かっていった。
いつからか、エレナは娘たちの輪へ行かなくなった。
井戸端では笑い声がしていた。
花冠を編む指が動いていた。
祭りの日には、誰が一番似合うかと髪飾りを見せ合っていた。
湖の朝みたいな髪をした娘は、相変わらず輪の中心にいた。誰かが笑えば笑い返し、誰かが泣けば肩を抱いた。優しい娘だった。だからこそ、エレナは近づけなかった。
娘たちが花を編んでいる時間、エレナは剣を振った。
村外れの空き地。
薪割り場の裏。
誰も来ない湖畔。
朝も。
昼も。
仕事が終わった後も剣を振った。
最初は魔物が怖かったからだ。
次は死にたくなかったからだ。
そのうち理由は分からなくなった。
ただ、振っている間だけは余計なことを考えなくて済んだ。
娘たちの手は白かった。
エレナの手には豆が潰れた跡が増えた。
娘たちは鏡の前で髪を結った。
エレナは刃こぼれを砥石で削った。
娘たちは祭りの服を気にした。
エレナは剣の重さを気にした。
同じ年頃のはずなのに、歩く道が少しずつ離れていった。
ある日、井戸端を通りかかると、あの娘が手を振った。
「エレナ、今度のお祭りには来る?」
エレナは少し考えた。
祭りの日も、見回りがある。
魔物が出るかもしれない。
「たぶん行かない」
「そっか」
娘は残念そうに笑った。
責める顔ではなかった。
その優しさが、やはり少し苦しかった。
エレナは頭を下げて通り過ぎた。
背後で娘たちの笑い声が続く。
その音を聞きながら、エレナは空き地へ向かった。
剣を抜く。
振る。
振る。
振る。
次第に手のひらの皮が厚くなっていった。その頃にはもう、エレナは自分が娘たちの輪へ戻れないことを知っていた。
十四の冬、森の奥で魔物の巣が見つかった。
村だけでは手に負えない。
街の冒険者ギルドに依頼が出され、数日後、冒険者たちが来た。
彼らは村の男たちとは違った。
歩く位置。
声をかける間。
武器を持つ手。
誰を前に置き、誰を下げるか。
すべてに理由があった。
「君が案内役のエレナか」
リーダーらしい男が言った。
「案内を頼む」
エレナは身構えたが、それだけだった。エレナの顔を見て笑わなかった。盾として前に出したわけでもなかった。道を知る者として、エレナは輪の中に入った。
最初は戸惑った。
戦士が地図を広げれば、エレナもその横にしゃがんだ。
弓使いが水袋を回せば、自分にも渡ってきた。
夜営の火を囲む時も、誰かが当然のように場所を空けた。
そこには理由がなかった。
可哀想だからでもない。
力仕事ができるからでもない。
女だからでも、女ではないからでもない。
案内役だから。
ただ、それだけだった。
エレナは何度も周囲を見た。誰かが気を遣っている様子もない。誰かが我慢している様子もない。
話題が変われば、自分にも振られる。必要なことなら聞かれる。必要がなければ、無理に話しかけられもしない。
村では、いつもどこかに境目があった。
娘たちの輪。
男たちの輪。
そのどちらにも入りきれない自分。
けれど、ここには境目がなかった。
いや、正確には違う。
境目はある。
前衛と後衛。
斥候と魔法使い。
経験者と新人。
だが、それは役割の境目だった。
人の価値を決める境目ではなかった。
エレナは火の向こうで笑う冒険者たちを見た。胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。こんな場所があるのか。そう思った。まるで、ずっと探していた場所を見つけたようだった。男でもない。女でもない。ただ、エレナとしてそこにいる。それだけのことに居心地の良さを感じた。
巣へ向かう途中、エレナは自分も戦力だと思っていた。
村では何度も魔物を斬ってきた。
男たちより前に立ったこともある。
傷だらけになりながら、生き残ってきた。
案内だけで終わるつもりはなかった。
巣の入口が見えた時、冒険者たちは手早く配置についた。
「エレナは後ろへ」
戦士が言った。
「道はここまでだ」
「私も戦える」
エレナは眉をひそめた。
「分かっている」
「なら――」
「後ろへ」
声は強くなかった。だが、有無を言わせない響きがあった。
エレナは唇を噛んだ。
自分は役に立つ。
足手まといではない。
そう言いたかった。
その間にも戦士たちは動いていた。
斥候が先を確認する。
弓使いが矢を番える。
魔法使いが詠唱を始める。
誰も言い争っていない。
それが余計に腹立たしかった。
まるで、自分が戦力に入っていないことが当然みたいだった。
巣の奥から魔物が現れた。
狼に似た魔物だった。
村で相手にしたものより大きい。
戦士が前へ出る。
エレナも反射的に走った。
「待て!」
誰かが叫んだ。
剣を抜き、魔物へ踏み込む。村なら届く距離だった。だが、その瞬間、横から別の影が飛び出した。
二体目。
見えていなかった。
エレナは慌てて剣を振った。浅い。刃が滑る。魔物の肩をかすめただけだった。次の瞬間、体当たりを受けた。
息が潰れた。地面を転がる。視界が回った。立ち上がろうとした時には、さらに三体目がいた。巣の中は狭く、死角だらけだった。村の開けた場所とは違う。エレナは剣を構えた。だが遅かった。爪が肩を裂いた。
熱い痛みが走る。思わず後退る。その隙に魔物が飛びかかった。
死ぬ。
死が脳裏に過る。
その時、矢が飛んできた。魔物の目に突き刺さる。直後、戦士が割り込んだ。盾がぶつかり、魔物が吹き飛ぶ。
「下がれ!」
怒鳴り声だった。エレナは初めて足を止めた。
「前を見るな! 横を見ろ!」
戦士は魔物を受けながら叫ぶ。
意味が分からなかった。
だが次の瞬間、さらに別の魔物が壁の穴から這い出してきた。
エレナは気づいていなかった。
けれど戦士は気づいていた。弓使いも。斥候も。全員が見ていた。自分だけが見えていなかった。
魔法が走り、炎が通路を塞ぐ。魔物が悲鳴を上げた。戦士が押し返した瞬間、弓が喉を射抜く。見事な連携だ。けれどエレナは剣を握ったまま何もできなかった。肩から血が流れていた。息も乱れていた。
たった数瞬で、自分は戦場から弾き出されていた。
村では強かった。
それは本当だった。
だが、ここでは違った。
戦士が一体を受ける間に、弓使いは次を狙う。魔法使いは逃げ道を塞ぐ。斥候は死角を潰す。誰も一人で戦っていなかった。エレナだけが、一人で戦おうとしていた。
「無茶をしたな」
戦いが終わった後、僧侶が肩の傷を治療してくれた。責める声ではなかった。
エレナは何も言えなかった。肩の傷よりも、自分の思い上がりの方がずっと痛くて、恥ずかしかった。
村では斬れた。
巣では届かなかった。
魔物の数が違う。
逃げ道が違う。
仲間の動きが違う。
何度も助けられた。
悔しかった。
けれど、目が離せなかった。
ああなりたいと思った。
巣は焼かれ、煙が森へ流れる。
村へ戻った翌朝、冒険者たちは荷馬車の準備をしていた。
エレナはその前に立った。
「私も行きたい」
荷を括っていた冒険者の手が止まった。
村人たちはすぐに騒ぎ始めた。
「守りはどうする」
「次に魔物が出たら誰が前に出る」
「お前を戦えるようにしたのは村だろう」
「勝手なことを言うな」
声は次々に飛んだ。
昨日まで魔物の巣を恐れていた男たちが、今度はエレナを失うことを恐れていた。
エレナは黙って聞いた。
「エレナ。お前はこの村に必要だ」
村長が杖をついて近づいてきた。
必要?
その言葉は、エレナの耳を素通りした。
必要なのは、自分ではない。
魔物を前にして、傷ついても惜しくない剣だ。
エレナは腰の古い剣の柄に手を置いた。その剣は、最初に渡されたものだった。刃は何度も研がれ、短くなっていた。柄には自分の手の形が残っていた。
「私は、もう村の道具じゃない」
誰かが息を呑んだ。
「何を言っている」
男の一人が近づいてきた。昔、最初にエレナの肩を掴んだ男だった。
「行かせるわけがないだろう」
男は本気だった。腕を掴もうと一歩踏み出す。その前に、荷馬車の横から声が飛んだ。
「待て」
冒険者のリーダーだった。
「これは村の問題だ」
男は不満そうに振り返る。
「そうだろうな」
リーダーは頷いた。
「だから口を挟むつもりはない」
そう言いながら、彼はエレナを見た。その目は、魔物の巣へ向かう前と同じだった。エレナ自身を見ている。
「だが、その顔は知っている」
村人たちが黙る。
リーダーは少しだけ笑った。
「俺も昔、自分の村を出た」
「俺もだ」
荷馬車の後ろで弓使いが肩をすくめた。
「私もね」
魔法使いも鼻で笑った。
誰も詳しくは語らなかった。
けれど、その短い言葉だけで十分だった。
故郷を出る朝。
引き留める声。
怒鳴る親。
期待と不安。
振り返らないと決めた瞬間。
冒険者たちの顔に、一瞬だけそんなものが浮かんだ。
「止めたいなら止めればいい。だが、その目をした人間は、たいてい止まらない」
リーダーは男へ視線を戻した。静かな声だった。
エレナは何も言わなかった。言葉にする前から決まっていた。村に残る未来を考えられなくなった時点で、もう決まっていた。
「……お前は、この村を捨てるのか」
男はエレナを睨んだ。怒りと戸惑いが混ざった顔だった。
「違う」
エレナは首を振った。少し考えてから言った。
「――私が捨てられる前に出ていくだけだ」
男の顔が歪んだ。誰も反論できなかった。村長も黙ったままだった。長い沈黙のあと、男は拳を握った。
エレナはその横を通った。今度は誰も声をかけなかった。冒険者たちも何も言わなかった。ただ、荷馬車の横に一人分の場所を空けていた。
荷馬車に乗る前、彼女は一度だけ村を見た。
銀色の湖。
白い花。
石畳の小道。
自分を見ない家々。
綺麗な村だった。
湖も、花も、森も、人々の笑顔も。
旅人が褒めるたびに、村人たちは誇らしげだった。けれど、その綺麗さの中に、自分の居場所はなかった。
誰もが美しいものを大切にした。
傷のないものを愛した。
見栄えのいいものを誇った。
だから、自分はいつも外側にいた。
魔物を斬っても。
血を流しても。
村を守っても。
綺麗な景色の一部にはなれなかった。
最後まで、綺麗なだけの村だった。
少しだけあの娘が寂しそうな顔をしていた。
村を出たあと、エレナは冒険者たちの荷馬車に揺られて街へ向かった。
最初のうちは、何度も後ろを振り返った。
銀色の湖。
森の縁。
見慣れた屋根。
それらは半日も経たないうちに見えなくなった。代わりに現れたのは、知らない景色だった。
畑が続いていた。村より広い畑だった。麦が風に揺れ、その向こうに別の村が見えた。
エレナは驚いた。村の外にも村がある。当たり前のことなのに、実感としては初めて知った。
道ですれ違う旅人もいた。
荷車を引く商人。
巡礼らしい老人。
傭兵の一団。
誰もエレナを知らなかった。それが少しだけ不思議だった。シルバーレイク村では、誰もがエレナを知っていた。顔も、名前も、役割も。
ここでは違う。
ただの旅人だった。
夕方になると野営をした。冒険者たちは慣れた手つきで火を起こした。鍋を吊るし、見張りを決める。エレナも手伝った。夜空は村より広かった。湖がないからだろうか、と考えた。火の向こうで冒険者たちが笑っている。エレナは毛布にくるまりながら、その声を聞いた。
夜明け前に目を覚まし、見張りの交代を手伝い、冷えた空気を吸った。
朝日が昇る頃には荷をまとめ、再び道を進んだ。昼前、丘を越えたところで先頭の冒険者が言った。
「見えてきたぞ」
エレナは顔を上げた。
遠くに壁があった。村の柵とは比べものにならない高さだった。石でできた壁が長く続いている。その内側には屋根が並んでいた。一つや二つではない。数えられないほどだった。
煙が上がっている。鐘の音が風に乗って届く。門の前には人と荷車の列ができていた。
エレナは立ち止まりそうになった。街は、自分が知っている世界より、ずっと大きかった。村では、自分の居場所は決まっていた。魔物が出れば前に立つ。それ以外では隠れて剣を振る。けれど、この街には無数の人がいる。自分を知らない人間がいる。それなら、自分を決めつけない人間がいるかもしれない。
門へ向かう列に並びながら、エレナはもう後ろを振り返らなかった。
街へ入ると、冒険者たちはまずギルドへ向かった。依頼達成の報告と報酬の受け取りのためだった。
石造りの建物の中は、人の声で満ちていた。掲示板の前には冒険者が集まり、受付には列ができている。
エレナは入口の近くで立ち尽くした。自分には関係のない場所だと思っていた。だが、巣の討伐を率いた男が振り返った。
「冒険者になるんだろう。なら登録しておけ」
受付嬢に事情を説明すると、彼女は慣れた様子で書類を取り出した。
名前。
年齢。
出身地。
読み書きが苦手な者も多いらしく、受付嬢は一つずつ教えてくれた。
「これで仮登録です。簡単な講習を受ければ正式登録になります」
説明を聞きながら、エレナは何度も頷いた。
村を出る時には何もなかった。けれど今、自分の名前がギルドの帳簿に記された。
それだけで、不思議な気分だった。手続きを終えて振り返ると、冒険者たちはすでに報告を終えていた。
「じゃあな、エレナ」
リーダーの男が言った。
「王都へ来ることがあったら顔を出せ」
「その頃には俺たちより強くなってるかもな」
弓使いが笑う。
エレナは少し迷ってから頭を下げた。
「世話になった」
「気にするな」
彼らは軽く手を振った。
それだけだった。
引き留める者もいない。
大げさな別れもない。
冒険者たちは次の仕事へ向かい、エレナはその場に残った。
けれど、不思議と寂しくはなかった。
ここから先は、自分の道が続いている。
街の冒険者ギルドに着いて最初に受けた仕事は、薬草採りだった。
剣はほとんど使わなかった。森の浅い場所で依頼書に描かれた葉を探し、根を傷つけないように籠へ詰める。報酬は少なく、その金で泊まれる宿は、床が薄く、隣のいびきがよく聞こえた。
それでも、自分で払った自分だけの部屋だった。
誰にも椀を遠くへ置かれない。
誰にも罵られない。
エレナはその夜、硬い寝台の上で眠った。
次の依頼は、迷子の山羊探しだった。
その次は、畑を荒らす小型魔物の討伐。
さらに、古井戸に棲みついた黒鼠の駆除。
剣を抜くたびに村で覚えた動きは役に立った。けれど、それだけでは足りなかった。
薬草の種類。足跡の見方。報酬の交渉。仲間との距離。街の外の地図。
知らないことばかりだった。エレナは必死になって覚えた。
最初の報酬で剣の手入れ用の油を買い、次に革の手袋を買った。冬前には古着の外套を買い、雨漏りのしない宿へ移った。
小型の魔物を倒せるようになると、護衛依頼が来た。
村と街を結ぶ荷馬車。林道を抜ける商人。迷宮の浅い層へ向かう新人冒険者。
エレナは前を歩いた。今度は、誰かに配置されたのではない。報酬を受け取り、自分で前に立った。
革鎧を買い、刃こぼれした剣を手放し、鍛冶屋で中古の剣を選んだ。鍛冶屋の男は最初、彼女を客として見なかった。けれど、エレナが剣を振って重心を確かめると、黙って奥から一本を出した。
「おまえにはこっちの方が合うだろうよ」
少し重い剣だった。値も張った。エレナは三か月分の蓄えを出してその剣を買った。
それから、その剣で中型の魔物を斬った。
その日から、依頼の格は目に見えて上がっていった。
森の奥。廃村。浅い迷宮から中層へ。小鬼の群れから、岩皮の魔獣へ。
装備も変わった。革鎧の上に金属の肩当てが増え、手袋は指の動きを邪魔しないものになり、靴底は厚くなった。剣も、さらに良いものになった。
宿も変わった。
屋根裏から小さな個室へ。個室から、湯を頼める宿へ。
初めて部屋に鏡がついていた時、エレナはしばらくそれを布で覆った。
二十になる頃には、難しい依頼が来るたび、受付嬢はまずエレナの予定を確認するようになった。
「エレナさんが空いていれば、依頼は受理されると思います」
若い冒険者は、エレナの前で背筋を伸ばした。酒場で絡んでくる男も、剣の柄を見ると黙った。
「王都でもやっていけるんじゃないか」
ある日、ギルドの古参が言った。
「ちげえねえな。ここに置いておくには惜しい腕だ」
エレナは笑わなかった。
王都。
強い者が集まる場所。綺麗な者も、賢い者も、金を持つ者も集まる場所。
ふと、この街へ送り出してくれた冒険者たちのことを思い出した。
十四の冬、魔物の巣を焼いたあの一団。
当時のエレナには、彼らは別の世界の人間に見えた。剣の振り方も、立ち位置も、判断も、何もかもが自分より上だった。
けれど今、あの頃のエレナが見上げていた場所に、今のエレナは立っている。
そう思えるくらいには、エレナは強くなっていた。
アルデンという男が街へ来たのは、その頃だった。
ギルドが騒がしかった。
掲示板の前に人だかりができている。
女の冒険者たちの声が、普段より少し高い。
男たちも、妙に落ち着かない。
「何があった」
エレナが受付で尋ねると、受付嬢が頬を赤らめた。
「王都から来た冒険者です。アルデンさんっていうんですけど」
エレナは視線を向けた。
綺麗な男だった。
ただ、それだけではなかった。
立ち方が違う。腰の剣は飾りではない。人と話していても、入口と窓を塞がない位置にいる。肩の力は抜けているのに、隙がない。美しさと強さが、同じ体に収まっていた。
アルデンが依頼書を手に、受付へ歩いてくる。途中で、彼の目がエレナに向いた。反射的に身構えた。
「君がエレナか」
アルデンは言った。
エレナは答えなかった。
「噂は聞いている。強い戦士だと」
「……噂ほどじゃない」
「謙遜する人ほど、だいたい強い」
彼は笑った。顔ではなく、腰の剣を見た。それから、エレナの目を見た。
「いつか一緒に依頼を受けたい」
それだけ言って、受付へ行った。
エレナはしばらく動けなかった。強いと言われたことは何度もある。頼られたこともある。怖がられたこともある。それなのに、胸が落ち着かなかった。
しばらくして、アルデンと同じ依頼を受ける機会が来た。迷宮中層の魔物討伐。この街の外れには古い迷宮があった。地下深くまで続く石造りの遺跡で、浅い層には小型魔物、中層には熟練の冒険者向けの魔物が棲みついている。
魔物を倒すと、その体には魔晶石が残ることがあった。魔力の結晶であり、ギルドへ持ち帰れば換金できる。
討伐依頼の報酬だけでなく、その魔晶石も冒険者たちの重要な収入源だった。
今回の依頼は、急ぎの装備製作に必要な魔晶石を確保するため、中層の魔物を討伐して回収するという工房からの緊急依頼だった。
エレナは前衛。
アルデンも前衛。
最初二人は役割を分けようとした。
だが、戦い始めてすぐに不要だと分かった。
アルデンは強かった。
出すぎない。
退きすぎない。
エレナの間合いを邪魔しない。
魔物の爪が来る前に、すでに半歩ずれている。
エレナも遅れなかった。
二人で魔物を挟む。
片方が誘い、片方が断つ。
合図はほとんどいらなかった。
「噂より強いな」
討伐後、アルデンは剣を納めて言った。
「そちらも」
エレナは答えた。
それ以上の言葉は出なかった。けれど、その日からエレナは、ギルドへ行く時間が少し早くなった。
アルデンがいるかもしれない。そう思うだけで、扉の前で息が浅くなる。けれど彼の周りには、いつも人がいた。特に、女たちが多かった。髪を結った魔法使い。細い指に指輪をつけた僧侶。軽い革鎧の斥候。彼女たちは自然に笑った。自然に隣へ立った。自然に、彼の名を呼んだ。
エレナには、それができなかった。
魔物の話ならできる。
迷宮の話ならできる。
剣の間合いなら話せる。
けれど、それ以外が分からなかった。
褒められた時、どう笑えばいいのか。
髪飾りを選ぶ時、何を見ればいいのか。
誰かの隣に女として立つには、どこに足を置けばいいのか。
強さの世界には、立つ場所があった。
美しさの世界には、入口すら見えなかった。
そんなときだった。
その花を見つけたのは――。
その花があった場所は迷宮の浅い層だった。
何度も通った道だった。
湿った石壁。
低い天井。
足元を流れる細い水。
その隅に、一輪だけ咲いていた。
黒に近い紫の花だった。花弁の奥に、銀色の光が散っている。まるで夜の湖を、小さく閉じ込めたようだった。
魔物の気配はない。
罠の匂いもしない。
それでも、エレナは手を伸ばすのをためらった。
指先で触れた瞬間、針で刺されたような痛みが走った。
「――ッ」
毒だ。
すぐに分かった。
けれど強い毒ではない。
指先が痺れ、舌の奥に苦みが上がっただけだった。
捨てればよかった。迷宮の花など、持ち帰るものではない。毒があると分かっているなら、なおさらだ。そう分かっていた。それでも、エレナは花を摘んだ。
帰り道、手の中の花を何度も見た。黒に近い紫の花弁。その奥に散る、銀色の光。綺麗だった。そう思うたびに、胸の奥が少し痛んだ。髪に花を挿された日のことを思い出した。村で一番美しい娘の白い指。似合うよ、と言った優しい声。重くて、すぐにでも抜きたかった花。
あの時、エレナは何も選んでいなかった。
輪に入れてもらった。
花を用意された。
髪に挿された。
似合うと言われた。
全部、向こうから差し出されたものだった。
だから苦しかった。
迷宮から出たばかりの道には、誰もいなかった。湿った風だけが、髪を揺らしている。花を髪に近づける。指先が止まった。似合うはずがない。笑われるかもしれない。誰かに見られたら、あの時のように優しい顔をされるかもしれない。それでも、花から目を離せなかった。この花を髪に挿してみたいと思った。誰かに挿されるのではなく。自分の手で。
エレナは息を吸った。花を髪に挿した。指先に、もう一度だけ痺れが走った。街へ入ると、人が振り返った。エレナは足を止めそうになった。見られている。そう思った瞬間、耳の奥が熱くなった。
花だ。
この花を見ているのだ。
珍しい迷宮の花だから。
銀色に光っているから。
毒を持っているから。
いや、違う。
きっと、似合わないからだ。
自分のような女が髪に花を挿している。それが滑稽で、見られているのだ。井戸端の記憶が、瞼の裏に戻ってきた。
似合うよ。
優しい声。
白い指。
髪に残った花の重さ。
エレナは反射的に花へ手を伸ばした。抜こうとした。その時だった。
「――君、見ない顔だね」
声をかけてきた男は、クリスだった。
顔見知りの冒険者だ。
何度か同じ依頼を受けたこともある。
酒場で女に声をかけている姿を、よく見た。
「――私だ」
「え?」
「エレナだ」
クリスは目を丸くした。それから笑った。
「冗談だろ。あのエレナと同じ名前なのか。あいつは強いけどさ。君とは全然違うよ」
クリスの目が、エレナの顔から髪へ、髪から首元へと動いた。
「君は……綺麗だ」
その言葉を、エレナはすぐには受け取れなかった。
「その花も綺麗だけど、花だけじゃない。君の目も、髪も、肌も。こんな人がこの街にいたなら、忘れるはずがないんだけどな」
クリスは笑っていた。いつも酒場で女に向けている笑みだった。軽く、柔らかく、慣れている。今それが自分に向いている。
依頼帰りに、エレナの戦い方を荒っぽいと笑った口。
酒場で、あの女は強すぎて女に見えないと言った口。
何度か同じ依頼を受けても、必要なこと以外は話しかけてこなかった口。
その口が、今は綺麗だと言っている。
「食事でもどうかな。君のことをもっと知りたい」
エレナは一歩下がった。
「いや――」
「そんなに警戒しなくてもいいだろ」
クリスは近づこうとした。
エレナは反射的に、剣の柄へ手を伸ばしかけた。その動きに、クリスが少しだけ眉を上げる。エレナは手を止めた。何も言わず、踵を返した。
「おい、待ってくれよ!」
背中に声が追ってきた。エレナは振り返らなかった。歩く足が、少しずつ速くなる。誰かの視線が背中に刺さっている気がした。宿に着く頃には、息が少し乱れていた。
部屋に入る。
扉を閉める。
鍵をかける。
そこでようやく、肩から力が抜けた。けれど、まだ気味の悪さは残っていた。君は綺麗だ。クリスの声が、耳の奥に残っている。
同じ口だった。
いつもは必要な時しか話しかけてこなかった口。強い女は怖いと笑った口。その口が、さっきは柔らかく歪んでいた。
エレナは髪の花に触れた。抜こうとして、手が止まる。本当に、花だけを見ていたのだろうか。そんなはずはない。そう思うのに、さっきのクリスの目が頭から離れなかった。
エレナは剣を外した。
腰が軽くなる。
それだけで少し心細くなった。
洗面台の前に立つ。鏡は、いつものように布で覆われていた。安宿より少しだけましな部屋に移った時から、ずっとそうしている。顔を洗う時も、髪を結う時も。
布の向こうに、鏡がある。エレナは息を吸った。胸の奥で、呼吸が引っかかった。もう一度、吸う。ゆっくり吐く。指先が布の端に触れた。逃げてもいい。そう思った。花を抜いて、眠ってしまえばいい。明日になれば、いつもの自分で依頼を受ければいい。
けれど、クリスの声が残っていた。エレナは奥歯を噛んだ。布を外した。鏡を覗き込むと、中に、知らない女がいた。
エレナは息を止めた。肌は滑らかだった。頬の痕も、しみも、荒れもない。髪には艶があり、目元は柔らかく見えた。美しい女が、こちらを見返している。
エレナは一歩下がりかけた。
鏡の女も、同じように揺れた。
頬に手を当てる。
鏡の女も、同じ場所に手を当てた。
膝から力が抜けた。寝台の縁に手をつく。息がうまく入らなかった。気味が悪い。けれど、目を逸らせなかった。綺麗だった。それを認めた瞬間、喉の奥が熱くなった。エレナは髪から花を抜いた。鏡の中の女が消え、いつもの顔が戻る。
見慣れた肌。
見慣れた目。
見慣れた輪郭。
さっきまでの女は、どこにもいない。
エレナは手の中の花を見た。指先はまだ痺れている。舌の苦みも消えていない。美しさを与える花。毒を与える花。捨てなければならない。
けれど、指は動かなかった。綺麗だと言われた声が、まだ気味悪く耳に残っている。鏡の中の女もまだ目の奥に残っている。
エレナは花を机に置いた。翌朝、エレナは早く目を覚ました。机の上に、花があった。昨夜、捨てられなかった花。水を張った桶の縁に、倒れないように立てかけてある。花弁の奥の銀色は、まだ消えていなかった。
エレナは寝台の上から、しばらくそれを見ていた。指先の痺れは、少しだけ残っている。舌の奥にも、まだ苦みがある。毒だ。分かっている。挿さない方がいい。今日はいつも通り剣を持って、ギルドへ行けばいい。依頼を見て、魔物を斬って、報酬を受け取ればいい。それで何も変わらない。けれど、耳の奥で声がよみがえった。君は綺麗だ。
エレナは目を閉じた。気味が悪かった。あの声も、あの目も。それでも、鏡の中の女を思い出してしまう。滑らかな肌。柔らかく見えた目元。花を抜いた瞬間に消えた、知らない自分。
エレナは寝台から降りた。
花の前に立つ。手を伸ばす。途中で止まる。
もう一度だけだ。
あと一度だけ確かめる。
誰に言い訳しているのか、自分でも分からなかった。
エレナは花を取った。髪に挿す。指先に、細い痺れが走った。布を外したままの鏡を見ると知らない女が、そこにいた。エレナは息を吐いた。剣は壁に立てかけてあった。いつもなら、腰に差してから部屋を出る。鍵をかける前に、必ず柄の位置を確かめる。
エレナは剣を見た。それから、目を逸らした。今日は持っていかない。そう決めた瞬間、胸の奥が少し冷えた。怖かった。剣なしで街を歩くことなど、この街に来てから一度もなかった。けれど、剣を持てば、いつものエレナになる。強い前衛。魔物を斬る女。頼られる冒険者。今は、それではない自分で外に出てみたかった。
エレナは扉を開けた。腰が軽い。その軽さが心細くて、少しだけ新しかった。この街に来て初めて、エレナは剣を置いたまま部屋を出た。
世界が違っていた。
宿の階段を下りると、宿の女主人が顔を上げた。一瞬、誰か分からない顔をした。
「……お泊まりの方、でしたか」
エレナは足を止めた。宿の部屋から出てきたのだ。鍵も持っている。それなのに、宿の女主人は迷っていた。この宿に、こんな女が泊まっていただろうか。そういう目だった。エレナは髪の花に触れそうになり、手を止めた。
「ああ」
短く答える。
宿の女主人はまだ少し迷っていたが、すぐに商売用の顔に戻った。
「失礼しました。お出かけですか」
いつもなら、依頼かい、だった。
エレナは返事に詰まった。
「……少し」
外へ出る。
朝の街は、いつもと同じはずだった。パンを焼く匂い。水を撒く店先。荷車の車輪の音。ギルドへ向かう冒険者たちの声。けれど、歩いているうちに違うことが分かった。
人が、道を空ける。
ぶつかりそうになった男が、先に謝る。
店先の女が、エレナの服を見てから顔を上げる。
通り過ぎた少年が、振り返る。
誰も、剣を見ていない。
そもそも、剣はない。
それでも、人がこちらを見る。
エレナは髪の花に触れそうになり、手を止めた。
服屋の前で足が止まったのは、ほとんど偶然だった。店先には、淡い色の布が掛けられていた。祭りの日に村の娘たちが着るようなものより、ずっと洗練されたものだった。エレナは通り過ぎようとした。
「よろしければ、中もご覧になりますか」
店の女がちょうど外に出てきた。
丁寧な声だった。
エレナは、すぐには返事ができなかった。
この店の前は何度も通ったことがある。以前は、声をかけられたことなどなかった。革紐や手袋を買う時でさえ、用件を言うまで待たれた。今は違う。ただ立ち止まっただけで、扉が開く。
「……見るだけだ」
「もちろんです」
店の女は笑った。
笑われているのではない。そう分かっているのに、肩に力が入った。
店の中には、見慣れないものばかりがあった。
柔らかい布。
細い紐。
腰に巻く帯。
髪を留める飾り。
どれも、剣を振るには邪魔に見えた。袖は長すぎる。裾は踏みそうになる。腰まわりも頼りない。けれど、試着して鏡の前に立つと、しなやかな女がいた。
エレナは黙った。
花の力だけではない。服が、立ち方を少し変えた。布の色が、顔の見え方を変えた。髪に挿した花が、すべてをつないでいる。
「よくお似合いです」
店の女が言った。村の娘の声を思い出した。
似合うよ。
息が詰まった。だが、今度は誰かに花を挿されたわけではない。この服も、誰かが憐れんで用意したものではない。自分で選んでいる。そう思うと、ほんの少しだけ息を吐けた。
「これを」
エレナは言った。
値段を聞いて、少し顔が強張った。討伐依頼一つ分にはならない。けれど、安くもない。それでも、財布を出した。
「肌の色を少し整えるだけで、印象が変わりますよ」
店の女は包みながら、化粧品も勧めてきた。
「……戦いには邪魔にならないのか」
口にしてから、自分でもおかしなことを言ったと思った。
店の女は笑わなかった。
「薄くなら、大丈夫です。たくさん汗をかけば落ちますけど」
エレナは頷いた。
使い方を教わる。
頬。
眉。
唇。
どこに何を乗せるのか、まるで分からなかった。剣より難しい。そう思った。
髪を整えるための櫛も買った。香油も買った。香油の使い方は、最後までよく分からなかった。けれど店の女は、最後まで笑わなかった。
昼過ぎ、エレナは酒場に入った。依頼帰りではない。剣もない。それだけで、入口に立つ自分がひどく頼りなく思えた。
いつも座る隅の席へ向かおうとした時、近くの男が椅子を引いた。
「どうぞ」
エレナは立ち止まった。
その男とは、何度か同じ酒場にいたことがある。以前は、目が合ってもすぐに逸らされた。今日は、笑っている。エレナは椅子を見て、男の顔を見た。そしてもう一度、椅子を見た。
「……いい」
短く断って、いつもの隅に座った。
胸の奥がざわついていた。
人の態度が変わる。
顔が変わるだけで。
花を挿すだけで。
剣を置くだけで。
こんなにも簡単に。
酒場の窓に映った自分から、目を逸らせなかった。綺麗ですね。その言葉は、その日、何度も向けられた。
花ではなく。
剣ではなく。
戦いぶりでもなく。
報酬を稼ぐ腕でもなく。
自分に。
宿へ戻る頃には、足が疲れていた。剣を持たずに歩いただけなのに、魔物と戦った後より疲れていた。
部屋に入って、鍵をかける。
机に買ったものを置く。
布を外したままの鏡が、部屋の隅にあった。
エレナはしばらく、それを見なかった。見れば、またあの女がいる。それが分かっていた。髪から花を抜くと、鏡の中の美しい女が消えた。いつもの顔が戻る。
見慣れた肌。
見慣れた目。
見慣れた輪郭。
その瞬間、息を呑んだ。昨日よりも、戻るのが怖かった。
エレナは花を机に置いた。指先は痺れている。舌の奥には、まだ苦みがある。毒は少しずつ残るようになっていた。捨てなければならない。また思った。
けれど、机の上には今日買った服がある。櫛がある。香油がある。使い方を教わった化粧品がある。花を挿していた時間に、確かに手に入れたものだった。
気味が悪くて、怖かった。けれど、楽しかった。
翌朝になると、また花を見た。挿さない方がいい。そう思った。けれど、手は伸びた。花を髪に挿す。細い痺れが指先に走る。鏡の中に、美しい女が戻る。
剣は、壁に立てかけたままだった。
それから数日、エレナは剣を持たずに部屋を出た。その間、依頼は受けなかった。ギルドへは行く。掲示板も見る。受付嬢にも声をかけられる。けれど、依頼書へ伸ばした手は途中で止まった。
剣がない。
腰が軽い。
その軽さが、まだ心細い。
それなのに、街を歩く足は少しずつ慣れていった。服屋の女は、エレナの顔を覚えた。酒場の男たちは、視線を向けるだけで声まではかけてこなくなった。通りの店先では、果物を一つ余分に入れられた。
エレナはそのたびに戸惑った。
でも、部屋に戻って花を抜く時、その日に向けられた視線を思い出してしまう。
ある朝、エレナは剣を腰に戻した。花も挿した。鏡の中の美しい女は、剣を差していた。不思議な姿だった。
柔らかい服に、剣。
艶のある髪に、硬い手。
美しさと、これまで積み上げてきたものが、ひとつの体に重なっている。
悪くない。
そう思いかけて、エレナはすぐに目を逸らした。
その日は、依頼を受けるつもりだった。
何日も剣を握らずにいると、指の奥が落ち着かなかった。剣の重さがない腰にも慣れ始めている。それが怖かった。
ギルドの前まで来て、エレナは足を止めた。中に入れば、受付で名を告げることになる。この顔のまま、エレナとして名を呼ばれるのは嫌だった。
エレナはギルド脇の細い路地へ入った。人通りは少ない。壁際には空の木箱が積まれている。厩の方から、馬の鼻息が聞こえた。誰もいないことを確かめて、髪の花を抜いた。
体から熱が引く。頬の感覚が戻る。髪の重さも、目元の柔らかさも消える。いつもの自分に戻った。少しだけ息がしやすかった。花を布に包み、腰袋へ入れる。
ギルドへ入ると、受付嬢が顔を上げた。
「エレナさん。お久しぶりです。今日は依頼ですか」
「ああ。中層の討伐を」
「岩皮の魔獣ですね。ちょうど、もう一人受注希望の方がいます」
受付嬢が依頼書を確認する。
「王都のアルデンさんです。お二人なら、受理できます」
エレナは一瞬だけ黙った。
「……そう」
「同行で構いませんか?」
「構わない」
登録証を出すと受付嬢が確認する。依頼書に印が押された。
いつもの手続きだった。
何も起きなかった。
それが少しだけ安心で、少しだけ物足りなかった。
「アルデンさんには、準備ができ次第、南門で合流と伝えますね」
「分かった」
ギルドを出る。けれど、エレナはそのまま南門へは向かわなかった。
もう一度、ギルド脇の細い路地へ入り、腰袋から布包みを取り出した。黒に近い紫の花。花弁の奥には、まだ銀色の光が散っている。
今なら、このままでもいい。
いつもの顔で依頼を受けた。
いつものエレナとして、アルデンと迷宮へ行けばいい。
それが一番面倒がない。
けれど、指は布を開いていた。
アルデンの顔が浮かぶ。
綺麗な男。
美しさと強さが、同じ体に収まった男。その隣に立つ自分を思う。いつもの顔では、少しだけ息が詰まった。
エレナは花を髪に挿した。細い痺れが指先に走る。体の奥に熱が戻る。頬の感覚が変わる。髪が軽く揺れる。美しい女が戻った。
南門へ向かうと、アルデンはすでに門のそばに立っていた。馬車の影ではなく、道の端。人の流れを邪魔しない位置。それでいて、門と通りの両方が見える場所。
アルデンはエレナに気づいた。一瞬だけ、訝しげに目を細める。その視線が、顔を見る。髪の花を見る。服を見る。腰の剣を見る。それから、もう一度顔に戻った。
「……君は?」
エレナは名乗ろうとした。
エレナだ。
そう言えば終わる。
けれど、声は出なかった。
この顔で、その名を出すことが怖かった。
「あなたと同じ依頼を受けた。これが依頼書だ」
代わりに、そう言った。
エレナは依頼書を取り出した。受付で印を押されたものだった。アルデンの目が依頼書に落ちる。名前の欄が見える前に、エレナは紙を少しだけ畳んだ。
「……そうか」
アルデンはそれ以上聞かなかった。ただ、剣の柄に触れているエレナの右手を一度だけ見た。
「足手まといにはならない」
エレナは言った。
「だろうね」
アルデンは短く答えた。
「よろしく頼む」
その声に、ほんの少しだけ引っかかるものがあった。けれど、エレナは気にならなかった。彼も気づかない。その事実が彼女の頭の中に大きく残っていた。
二人は南門を出た。迷宮へ向かう道の上で、エレナの髪の花が小さく揺れていた。
迷宮の入口は、街の南東にあった。
古い石造りの階段が、地面の下へ続いている。入口の周りには、苔の生えた柱が何本か残っていた。
何度も来た場所だった。
エレナは階段の前で、腰の剣に触れた。柄の位置。鞘の角度。腰紐の締まり。いつもと同じだった。ただ、髪に花がある。それだけが違った。
アルデンは何も言わなかった。
先に階段を下りる。
足音は軽い。
けれど、重心は浮いていない。
エレナも後に続いた。
迷宮の空気は冷たかった。
湿った石。
古い水の匂い。
薄暗い通路に響く足音。
街で向けられた視線は、ここにはない。服屋の女も、酒場の男も、果物を余分に入れてくれた店主もいない。あるのは、石の壁と魔物の気配だけだった。少しだけ、息がしやすかった。
エレナは剣を抜いた。刃が鞘を離れる音が、いつもよりはっきり聞こえた。アルデンが横目で見た。
「右を頼む」
「分かった」
短い言葉だった。それだけで足りた。
二人は並んで進んだ。前へ出すぎない。近づきすぎない。相手の逃げ道を塞がない。アルデンの間合いは、以前と変わらなかった。半歩分だけ空ける。魔物が飛び込めば、片方が受け、片方が横から断つ。通路が狭ければ、自然に前後を入れ替える。エレナの体も、それを覚えていた。初めて組んだ時から、声はほとんどいらなかった。
今日も同じはずだった。
最初の魔物は、角の向こうから現れた。
岩皮の魔獣。
犬ほどの大きさ。
けれど、肩と背に灰色の硬い皮を持っている。低く唸り、前足で石床を引っ掻いた。アルデンが左へずれた。エレナは右へ出る。いつもの形だった。
魔獣が跳ぶ。アルデンが剣の腹で軌道を逸らす。エレナが横から首筋を狙う。そのはずだった。けれど刃が、ほんの少し遅れた。魔獣の首ではなく、肩の硬い皮を叩く。鈍い音がした。
「っ」
弾かれた。
魔獣が体をひねる。爪がエレナの袖を裂いた。浅い。血はほとんど出ていない。それでも、普段ならありえない傷だった。
エレナはすぐに踏み直した。
アルデンが一歩入る。魔獣の目の前に剣を置き、動きを止める。その間に、エレナは今度こそ首筋へ刃を通した。
魔獣が崩れる。石床に体が落ちた。静かになった。けれどエレナは剣を下げなかった。息が、少しだけ乱れている。
今のは何だ。
刃が遅れた。
足は出ていた。
目も追えていた。
なのに、手が遅れた。
アルデンは倒れた魔獣を見ていた。それから、エレナの右手を見た。ほんの一瞬だけ。エレナはそれに気づいた。
「問題ない」
言われる前に答えた。アルデンは少しだけ目を細めた。
「そうか」
それだけだった。それがかえって、見られている気がした。
エレナは剣を握り直した。指先に、かすかな痺れが残っている。遅れたのは毒のせいだ。そう思おうとした。それとも、剣を握らなかった数日のせいか。
鈍っている。
その事実だけが、手の中に残った。
奥へ進むと、次の魔獣は二体だった。通路の先、崩れた石柱の陰から出てくる。
一体は正面。
一体は右の壁際。
アルデンは正面を受ける。
エレナは右へ出た。間合いは合っている。アルデンの背中との距離も、いつもと同じ。魔獣が横へ抜けようとした時、自分の剣が届く場所も分かっている。戦い方は崩れていない。崩れているのは、自分の中だけだった。
魔獣が低く跳ぶとエレナは半歩下がる。爪を空振りさせ、首を狙う。けれど、また、少し遅れた。刃が喉ではなく顎の骨に当たる。魔獣の頭が跳ねた。だが、死なない。そのまま体当たりが来る。受けるしかなかった。肩で受け、足を踏ん張る。柔らかい服の下で、古い傷がうずいた。
エレナは奥歯を噛む。剣を短く持ち替え、今度は下から突いた。刃が喉に入る。魔獣は動かなくなった。
その時には、アルデンも終わっていた。彼は剣を払う。血が石床に散った。
「怪我は?」
「ない」
「動きは悪くない」
アルデンが言った。エレナは一瞬だけ彼を見た。
「慰め?」
「確認だ」
アルデンは通路の奥を見たまま答えた。
「間合いは合っている。判断も遅れていない」
「なら、何?」
「最後の一歩と、剣が少し遅い」
エレナは返事をしなかった。
正しい。
だから腹が立った。
アルデンは続けなかった。
なぜ遅いのか。
何があったのか。
花は何なのか。
何も聞かなかった。
そもそも、私だと気づいているのか。
その沈黙が、エレナの胸を少しだけ締めつけた。
奥へ進むほど、魔獣の数は増えた。
三体。
四体。
岩皮の魔獣は、単体なら難敵ではない。だが、硬い皮で刃を弾き、群れで体当たりをしてくる。
アルデンは変わらなかった。
出る。
退く。
受け流す。
エレナの剣筋が遅れた時には、その穴を埋める。その動きが、あまりに自然だった。以前と同じように組んでいる。以前と同じように、二人で補うように剣を走らせている。それなのに、エレナだけが少しずつずれていた。
息が上がる。
指先が熱い。
痺れが、剣の重さと混ざっている。
花が髪で揺れるたび、耳の横にかすかな重みがあった。それが気になった。戦闘中に、そんなものを気にしたことはなかった。
魔獣が壁を蹴った。死角から来る。エレナは気づいた。気づいたのに、体が追いつかない。半歩ずれるはずの足が、石床に引っかかる。爪が頬の横をかすめた。髪が切れた。花が揺れる。
直後、アルデンの剣が横から入った。魔獣の足を払う。体勢が崩れたところへ、エレナが剣を突き下ろす。今度は外さなかった。魔獣が沈み、通路に静けさが戻った。
エレナは息を吐いた。頬が熱い。傷はない。だが、髪が数本落ちている。その先に、花の花弁が一枚だけ震えていた。
「戻るか」
アルデンが言った。エレナはすぐに睨んだ。
「まだ終わっていない」
「もう足りている。ここで戻っても魔晶石も必要数には届く」
「私は戻らない」
「そうか」
アルデンはあっさり頷いた。止める気はなかった。エレナはそれにも少し腹が立った。
「止めないの?」
「止めてほしいのか?」
「違う」
「なら、進もう」
アルデンは剣を構え直した。エレナは唇を噛む。優しいのか。冷たいのか。気づいていないのか。気づいていて聞かないのか。
分からない。
分からないから、余計に腹が立つ。
最後の部屋にいたのは、ほかより一回り大きい岩皮の魔獣だった。背中の皮が厚く、頭には短い角が二本ある。
エレナは息を整えた。アルデンは左へ。自分は右へ。いつもの間合い。魔獣が唸る。突進。アルデンが受けるのではなく、流す。エレナが横から足を狙う。
けれど遅れた。
まただ。
刃は足を浅く切っただけだった。魔獣が止まらない。そのままアルデンへ向かう。エレナは追った。今度は失敗できない。足に力を入れ、踏み込む。指先が痺れる。剣が重い。けれど、ここで遅れれば、アルデンが受ける。それが嫌だった。自分の遅れを、彼に埋められることが嫌だった。
花のせいか。
毒のせいか。
剣を置いていたせいか。
そんなことはどうでもよかった。
今、斬る。エレナは一歩深く踏み込んだ。柔らかい服の裾が、足に絡みかける。構わず、膝で払った。剣を振る。硬い皮ではない。肩の継ぎ目。呼吸でわずかに開く隙間。そこへ刃を入れた。
手応えがあった。魔獣が吠える。アルデンが前へ出る。エレナの作った傷へ剣を重ねた。刃が深く入った。魔獣の体が傾き、エレナはさらに踏み込んだ。
今度は、迷わなかった。首の下。柔らかいところへ剣を突き刺す。魔獣が崩れた。大きな体が石床に倒れ、埃が舞った。しばらく、誰も動かなかった。やがてエレナは剣を抜いた。
息が荒く、指先は痺れている。服の裾は汚れ、袖には血がついている。それでも髪に挿した花は、まだあった。ただ、花弁の端が少しだけ丸まっていた。
「終わりだ」
アルデンが魔獣の体を確認するとエレナは頷いた。膝が少し笑っている。情けない。だが、倒れはしなかった。
魔晶石を回収し、部屋を出る。帰り道、アルデンはいつもより少しだけ歩調を落とした。
「合わせなくていい」
「合わせていない」
「嘘」
「実は、少しだけ合わせている」
エレナは睨んだ。アルデンは前を向いたまま、少しだけ笑った。
「怒れるなら、大丈夫そうだ」
「そういう言い方は嫌い」
「覚えておく」
短いやり取りだった。それなのに、胸の奥に残った。
迷宮を出ると、外の光が眩しかった。エレナは目を細める。空気が乾いている。髪の花に触れると、花弁の端がやはり萎れていた。アルデンがそれを見ている気がした。エレナは手を下ろした。
「今日のことは」
言いかけて、言葉が止まった。
何を言うつもりだったのか、自分でも分からない。
花のことは聞かないで。
動きが鈍っていたことは言わないで。
気づいていないなら、そのままでいて。
どれも違った。
アルデンは待っていた。
急かさなかった。
エレナは息を吐いた。
「何でもない」
「そうか」
街へ戻るまで、二人の歩調は変わらなかった。近すぎず、遠すぎない。いつもの距離だった。
けれど、エレナの中だけが少し乱れていた。
彼は気づいていない。
そう思う。
そう思いたい。
でも、本当にそうだろうか。
剣の遅れ。
指先の痺れ。
花へ伸ばしかけた手。
アルデンは、何も聞かなかった。聞かないことが、何も見ていないという意味なのか。エレナには分からなかった。その分からなさが、花の毒より長く残った。
その日の夜、エレナは宿へ戻ると、まず剣を外した。腰が軽くなる。以前なら、依頼を終えた後のその軽さは安堵だった。
今日は違った。
鈍っていた。
間合いは間違えていない。
判断も遅れていない。
それなのに、最後の一歩と剣だけが遅れた。
エレナは奥歯を噛んだ。数日、剣を置いただけでこれか。いや、違う。毒だ。花を挿すたびに指先が痺れる。舌の奥に苦みが残る。その毒が、剣まで鈍らせている。
机の上に花を置く。
いっそ捨ててしまえばいい。
剣を鈍らせるものなど、持っている意味がない。美しくなったところで、斬れなければ死ぬ。死ねば、顔も何もない。
エレナは花を掴んだ。そのまま窓へ向かおうとして、指が止まった。花弁の端が、丸まっていた。今朝までは違った。
迷宮で摘んだ花だ。
ただの花ではない。
水をやらなくても、ずっと同じ光を保っていた。花弁の奥の銀色も、消えなかった。なのに、今は弱っている。黒に近い紫の花弁が、少し乾いている。銀の光も、今朝より鈍い。
エレナは息を呑んだ。捨てようと思った手が、動かなくなった。剣が鈍ったことへの怒りが、少しずつ冷めていく。代わりに、別のものがせり上がった。
終わる。
この花が枯れたら、終わる。
鏡の中の女も。
街で向けられた視線も。
綺麗ですね、という声も。
そして――アルデンの傍らにも立てなくなる。
依頼の最中なら、今までの顔でも隣に立てた。剣を振るい、背中を預ける仲間としてなら。
けれど、それだけだ。
依頼が終わったあとも隣を歩くこと。
酒場で向かい合って話すこと。
彼が自分だけを見ること。
そんな未来を夢見られるのは、この顔だけだった。この花が枯れれば、その可能性も消える。まだ始まってもいない未来ごと、失われてしまう。
エレナは花を握る手を緩めた。
捨てられなかった。
机に戻す。
指先には、まだ痺れが残っている。舌の奥には、まだ苦みがある。それでも、花を捨てることだけはできなかった。
それからも、エレナはアルデンと何度か依頼を受けた。
受付で花を外して、いつもの顔で登録証を出す。依頼を受ける。そのあと、ギルド脇の路地で花を挿す。美しい女に戻って、アルデンと合流する。
何度か繰り返すうち、その手順にも慣れてしまった。慣れてしまったことが、少し怖かった。戦いの勘は戻っているはずだった。
剣を置いていた期間は短い。
体はすぐに思い出す。
実際、最初の依頼ほど遅れはしなくなった。踏み込みも戻った。受け流しも戻った。アルデンとの間合いも、以前と同じように取れる。
けれど、それでも、どこか違った。刃がほんの少し深く入らない。踏み込んだ足が、最後にためらう。魔物ではなく、横にいるアルデンを意識してしまう瞬間がある。
毒のせいか。それとも、美しい姿で彼の隣に立っているせいか。そして戦いの後、どう食事に誘おうかと考えてしまうせいか。
分からなかった。分からないまま、花は少しずつ萎れていった。
花弁の端は、日に日に丸まっていった。銀の光も弱くなった。鏡の中の女は、まだ美しかった。けれど、最初の日のような息を呑むほどの顔ではなくなっていた。
夢の時間が終わる。
その気持ちに急かされるように、エレナは一人で迷宮に通うようになった。
花を見つけた通路へ向かう。
湿った石壁。
低い天井。
足元を流れる細い水。
何度も探した。
壁の割れ目。
水の流れの横。
石の裏。
魔物の巣の跡。
何もなかった。
それでも翌日も行った。
その次の日も行った。
依頼ではない。
報酬もない。
魔物を斬るためでもない。
ただ、花を探した。
美しさを失いたくなかった。
銀の光が、日に日に薄くなる。それでも、花はまだ美しさをくれた。完全ではない。最初の日ほどではない。けれど、花を挿せば、世界はまだ変わった。
人が振り返る。店の女が丁寧に笑う。酒場の男が椅子を引く。アルデンの隣に立っても、少しだけ息ができる。
ある夜、花を抜いた瞬間、鏡の中の女はすぐに消えた。いつもの顔が戻る。エレナはしばらく動けなかった。
見慣れた顔だった。
ずっとこの顔で生きてきた。
この顔で村を出た。
この顔で薬草を採り、魔物を斬り、金を稼いだ。
この顔で強くなった。それなのに、鏡の中の顔を見ると、気持ちが沈んだ。
机の上の花はさらに萎れていた。花弁は一枚、端から黒ずんでいる。銀の光は、もう奥に少し残っているだけだった。
エレナは花を持ち上げた。軽かった。最初に摘んだ時は、もっと重く感じた。毒の重さ。美しさの重さ。村で髪に挿された花の記憶。全部があの小さな花に詰まっていた。今は、少しの風で崩れそうだった。
ギルドを訪れて、受付嬢が依頼書を差し出した時、エレナはすぐにそれを受け取った。
「アルデンも同じ依頼を?」
「はい。南門で合流とのことです」
エレナは頷いた。
いつものように、ギルド脇の路地へ行く。花を挿す。弱い熱が戻る。鏡はない。けれど、頬の感覚で分かった。美しい女は、まだ残っている。
これが最後かもしれない。なら、今日話すしかないと思った。この顔でなければ、訊けない。本当のエレナのことを。アルデンは、エレナという前衛をどう見ていたのか。花の女ではない自分を、どう見ていたのか。
けれど、南門でアルデンを見た瞬間、言葉は奥へ引っ込んだ。
相変わらず綺麗な男だった。
立っているだけで、人の目を集める。
門を通る女が、ちらりと彼を見て歩いていく。
若い冒険者が、剣と顔を見比べる。その視線を、アルデンは受け流していた。慣れているように見えた。
エレナは少し腹が立った。私にはないものを彼は全て持っている。
「行こうか」
アルデンが言った。
「ああ」
その日の依頼は短い時間で終わった。
街道沿いの古い見張り小屋に巣を作った魔物の討伐。迷宮ほど暗くはない。だが、床が抜け、壁は崩れ、視界の悪い場所だった。
二人の間合いは変わらなかった。
アルデンが受ける。
エレナが横へ回る。
エレナが誘う。
アルデンが断つ。
口数は少ない。
それなのに、うまくいく。
エレナの剣は、すでに戻っていた。踏み込みも悪くない。刃も入る。だが、一度だけ、また遅れた。魔物の爪が肩をかすめる。浅い傷だった。アルデンがすぐに入った。エレナの遅れを自然に埋める。
それが嫌だった。
助けられたことが嫌だった。
アルデンは何も言わなかった。
魔晶石を回収し、崩れた見張り小屋を出る。夕方の光が、草の上に落ちていた。近くに小さな水場があった。荷馬車が時々使う場所で、今は誰もいない。アルデンはそこで足を止めた。
「数日後に、王都へ戻る」
彼が言った。エレナは水面から顔を上げた。
「そう」
「君も来ないか」
あまりに自然に言われたので、エレナはすぐに意味を掴めなかった。
「王都へ?」
「ああ」
「あなたの仲間は?」
「反対はしないと思う」
「思う、か」
「全員が君の腕を知っているわけじゃない。けれど、一度見れば分かる」
アルデンは少し笑った。
「君は強い」
エレナは返事をしなかった。
嬉しかった。
王都へ行く。
アルデンの隣に立つ。
この街の外へ出る。
自分の腕で、もっと大きな場所へ行く。
それは、ずっと遠くにあると思っていたものだった。
けれど、今の自分は花を挿している。この顔で誘われている。そのことが、胸の奥に刺さった。
「……王都には、あなたみたいな人が多いのか」
「僕みたいな?」
「綺麗な人」
口にしてから、エレナは少し後悔した。アルデンは怒らなかった。ただ、少しだけ目を伏せた。
「多いかもしれない」
「そう」
「……君にだから言うが、僕は、その言葉があまり好きじゃない」
エレナはアルデンを見た。彼は水面を見ていた。
「生まれた時から、ずっとそう言われてきた。綺麗だ。美しい。恵まれている。羨ましい。そういう言葉ばかりだ」
淡々とした声だった。
「褒め言葉なのは分かっている。でも、同じ言葉ばかり向けられると、自分の輪郭が削られるような気がする」
エレナの胸の奥に冷たいものが沈んでいく。綺麗だと言われることが、うんざり。その言葉を、一度でも自分に向けられたことがあったか。
毒を喰らって。
剣を鈍らせて。
迷宮を一人で探し回って。
それでも失いたくないものを、彼は生まれた時から持っている。
それを、うんざりだと言う。
「贅沢な悩みね」
声は思ったより冷たく出た。
「そうだと思う」
アルデンは頷いた。
「思う、じゃないわ。そうよ」
「ああ」
彼は否定しなかった。
その素直さが、また腹立たしかった。
エレナは水面を見た。
ふいに、村の娘を思い出した。
湖の朝みたいな髪をした、村で一番美しい娘。
井戸端で、エレナに手を振った娘。
輪の中に場所を作り、白い指でエレナの髪に花を挿した娘。
似合うよ。
あの声は優しかった。
優しかったから、苦しかった。
あの娘も、そうだったのだろうか。
綺麗な娘として、ずっと見られていたのだろうか。花を挿す手も、笑い方も、優しさも、村の誰かに見られていたのだろうか。
そう思って、すぐに嫌になった。
だから何だ。
自分が苦しくなかったことにはならない。
あの花が重くなかったことにはならない。
エレナは奥歯を噛んだ。
「君に言うべきことではなかったかもしれない」
「あなたの悩みでしょう? 私に関係がある?」
突き放すような声だった。アルデンは少しだけ笑った。
「そういうところが、君は違う」
「何が」
「僕の顔を褒めない」
エレナは内心で顔をしかめた。
違う。
見ていないわけではない。見ないでいるようで見ている。美しいと思う。惹かれている。隣に立ちたいと思っている。けれど同時に、嫌ってもいた。
彼が当たり前に歩いてきた場所に、自分は毒を喰らわなければ立てなかった。彼の顔を見るたび、そのことを思い知らされる。
だから冷静に見えるだけだ。
媚びることができないだけだ。
笑いかける前に、胸の奥で何かが軋むだけだ。
「あなたの周りにいる人たちは、あなたの顔が好きなのね」
「そういう空気を感じることはある」
「仲間からも?」
「少しは」
「それで私からは感じないと?」
「少なくとも、同じものではない」
エレナは花に触れそうになって、手を止めた。
私が抱えているものは、もっと悪いものかもしれない。
羨望。
嫌悪。
憧れ。
嫉妬。
それらが混ざって、形がなくなっているだけだ。
「それでも、僕は君に惹かれている」
アルデンは水面から目を上げた。エレナは息を止めた。花が髪の横で、かすかに揺れた。
「腕に?」
「腕にも」
「この顔に?」
言ってから、エレナはしまったと思った。アルデンは、すぐには答えなかった。水面に落ちた夕方の光を見ている。
「顔が綺麗だとは思う」
エレナの胸が小さく沈んだ。
やはり。
そう思った。
「でも、それだけなら声はかけなかった」
「なぜ?」
「君とは戦いやすい」
「それは、誘い文句としては下手ね」
エレナは眉を寄せた。
「そうかもしれない」
アルデンは苦笑した。けれどその笑みさえ美しく見えた。
「けれど、本当だ。間合いが合う。余計なことを言わなくていい。背中を預ける時に、変な力が入らない」
エレナは返事をしなかった。それは、自分への言葉なのだろうか。それとも、目の前の美しい女への言葉なのだろうか。分からなかった。分からないから、胸の奥が落ち着かなかった。
「王都へ来ないか」
アルデンはもう一度言った。
「君の腕なら、向こうでもやっていける」
腕。
その言葉に、少しだけ息を呑んだ。けれど、今の自分は花を挿している。この顔で聞いている。この顔で誘われている。
「返事は……」
エレナは喉の奥にある苦みを飲み込んだ。
「少し待って」
「分かった」
アルデンは頷いた。
「返事が決まったらここに来てくれ」
言いながら、一枚の紙切れを渡された。そこにはアルデンの宿と部屋の番号が書かれていた。それ以上、彼は迫らなかった。
花は、その翌日からさらに萎れ始めた。
花弁の端が丸まり、銀色の光が鈍くなる。髪に挿しても、最初のような熱は戻らない。街を歩いても、人はまだ振り返った。けれど、以前より少しだけ視線が短くなった気がした。
服屋の女は変わらず丁寧だった。
酒場の男も、まだ椅子を引こうとした。
それでも、エレナには分かった。
終わりが近い。
夜、花を抜くたび、いつもの顔へ戻ることが前より怖くなった。
同時に、花を挿している顔も、もう信じられなくなっていた。
どちらの顔も、自分を裏切っているようだった。
エレナは何度も迷宮へ行った。
花を見つけた通路へ行く。
壁の割れ目。
水の流れ。
石の陰。
何度探しても、二本目の花はなかった。
一輪だけだった。
あの時、自分が摘んだ一輪だけ。
花びらは、残り一枚になった。
その夜、エレナは鏡の前に座った。
花瓶の中で、花がうつむいている。
残っている花びらは、あと一枚だった。
エレナは髪を梳いた。
服を選んだ。
化粧をした。
手つきは、もう最初ほどぎこちなくなかった。
鏡の中の女は、まだ美しかった。けれど、終わる。
この花びらが散って、元の自分に戻ってしまったら、もうアルデンに女性として声をかける勇気は持てないと思った。
だから、今のうちに話しておきたかった。
今ここにいる女は、本当の自分ではない。
だから王都には行けないと。
誘ってくれたことは嬉しかったと。
エレナは花を髪に挿した。
胸の奥に、弱い熱が走った。舌の奥に苦みが広がる。指先が痺れる。毒が回っている。それでも、抜かなかった。
夜の街を歩いた。
石畳が冷えていた。酒場の灯りが遠くで揺れていた。
アルデンの宿は、ギルドから少し離れた場所にあった。紙切れに記された部屋の前に立つ。扉の隙間から細い灯りが漏れている。
エレナは手を上げた。その時、髪から何かが落ちた。一枚の花びらだった。床に落ちた花びらは、音もなく崩れた。
体から熱が引いた。
頬の感覚が変わる。
髪の重みが戻る。
花の力が消えた。
エレナは扉の前に立ち尽くした。叩ける。そう思おうとした。けれど、手は動かなかった。
美しい自分のうちに断るつもりだった。その顔でなら、最後まで言えると思った。その顔でなら、アルデンの目を見られると思った。
もう、その顔はない。
扉の向こうで、椅子の軋む音がした。
エレナは息を止めた。
逃げるな。
そう思った。
けれど、足は一歩下がった。
もう一歩。
そのまま、階段を下りた。
宿へ戻る道は、ひどく長かった。
部屋に入ると、エレナは枯れた茎を机に置いた。
服を脱がなかった。
化粧も落とさなかった。
鏡の前に座る。
そこには、見慣れた自分がいた。
ただ、いつもとは少し違っていた。
髪は整っている。
眉は少しだけ形がついている。
頬には薄く色が乗っている。
服も、剣を振るためだけのものではない。
けれど花の女ではなかった。男たちが振り返るような美しさはない。道が自然に開くほどの華やかさもない。アルデンの周りにいた女たちのようなやわらかさもない。
それでも、村でうつむいていた娘ではなかった。
エレナは櫛を取った。
髪を梳く。
乱れたところを指で押さえる。
化粧の崩れた場所を少し直す。
花の力はない。
けれど、手は覚えていた。
服の合わせ方も。
髪の整え方も。
鏡の前に座ることも。
エレナは鏡の中の自分を見た。そしてしばらくそうしていた。それから、鼻で笑った。
「しょせん、私はこんなものか」
声は思ったより小さかった。惨めだった。けれど、目は逸らさなかった。
翌朝、エレナは花を挿さずに部屋を出た。いつもの鎧ではなかった。花を挿していた時の華やかな服でもなかった。
動きやすい服。
磨いた靴。
腰には剣。
髪は結った。頬には、ほんの少しだけ色を乗せた。宿の女主人がエレナを見て、少し目を丸くした。
「出かけるのかい」
「ああ」
「依頼かい?」
「たぶん」
エレナはギルドへ向かった。
朝の街は、いつも通りだった。
誰も振り返らなかった。
男たちは声をかけてこなかった。
服屋の女も、店先の掃除をしているだけだった。
世界は戻っていた。
けれど、エレナだけは少し戻りきれない。
ギルドの扉を開けると、中の空気が揺れた。受付嬢が顔を上げた。
「エレナさん」
いつもの声だった。それだけで、少しだけ安心する。自然と息を吸って、吐いた。掲示板の前に、アルデンがいた。彼は依頼書を見ていた。エレナに気づき、振り返った。
「久しぶり」
アルデンが手を振りながら、少し笑った。胸の奥が、小さく鳴った。
「どこに行っていたんだい」
「……少し、遠出していた」
エレナは少し考えてから言った。
嘘だった。
でも、完全な嘘でもなかった。
強さの世界から、美しさの世界へ。
毒の花の中を通って、またここへ戻ってきた。
それは遠出に違いなかった。
「そうか」
アルデンは頷いた。
それ以上、聞かなかった。
王都の話も出なかった。
エレナも出さなかった。
その日から、二人は何度か同じ依頼を受けた。
花はもうない。
受付で顔を変える必要もなかった。
路地へ戻って髪に花を挿す必要もなかった。
エレナはエレナとして依頼書を受け取り、登録証を出し、アルデンと南門で合流した。
最初は少しぎこちなかった。少なくとも、エレナにはそう感じられた。アルデンの歩幅は以前と変わらない。剣を構える位置も、間合いも変わらない。依頼中も同じだった。
エレナが誘う。
アルデンが断つ。
アルデンが流す。
エレナが横から入る。
花があった時と、何も変わっていないように見えた。それが、かえって落ち着かなかった。
あの時のことを、彼は覚えているのか。
王都へ来ないか、と言ったこと。
君とは戦いやすい、と言ったこと。
顔だけなら声はかけなかった、と言ったこと。
覚えているなら、また誘ってくれるのではないか。
花がなくなった自分にも、同じ言葉を向けてくれるのではないか。
そう思う日があった。
けれど、アルデンは何も言わなかった。
依頼が終われば、魔晶石を渡す。
報酬を分ける。
次の依頼を確認する。
それだけだった。
エレナは、待っている自分に気づいて嫌になった。
何を待っている。
誘われることか。
選ばれることか。
花がなくても同じだと言ってもらうことか。
どれも腹立たしかった。
それでも、アルデンが王都の話をしないたび、胸の奥は少しずつ重くなった。ある依頼の帰り、アルデンがぽつりと言った。
「この街は、息がしやすかった」
「王都は息苦しいところなの?」
エレナはアルデンを横目で見た。
「人が多い。依頼も多い。強い魔物も多い。強い冒険者も多い」
「いいことじゃない」
「そうだな」
アルデンは少し笑った。
「でも、ずっとそこにいると、息が詰まることもある。依頼も、評判も、顔を知っている人間も多すぎる」
顔。
その言葉に、エレナは少しだけ反応した。
アルデンは気づいたのか、気づかなかったのか、前を向いたまま続けた。
「ここへ来たのは、休みに近い。王都から離れて、少し軽い依頼を受けて、剣の感覚を整えるつもりだった」
「冒険者の休みが魔物討伐?」
「他にあまり思いつかない」
エレナは鼻で笑った。
「馬鹿ね」
「そうかもしれない」
アルデンも笑った。
その笑い方は、王都から来た冒険者というより、ただの一人の男のものに見えた。
「でも、そろそろ戻らないといけない」
「ーーそう」
エレナは足元を見た。
「王都で受ける予定の依頼がある」
「強い魔物?」
「たぶん」
そこで会話は途切れた。
アルデンはそれ以上何も言わなかった。
沈黙の間、エレナは前を向いた。
聞けばいい。
あの話はどうなったのか、と。
王都へ来ないかと言ったのは、本気だったのか、と。
けれど、聞けなかった。
聞けば、自分が待っていたことを認めることになる。花がなくなっても、まだその言葉を欲しがっていることを、認めることになる。だから、聞かなかった。
それに、あれはエレナに向けられた話ではない。そのことがどうしても胸に刺さっていた。
数日後、アルデンが王都へ戻る朝が来た。
薄く霧が出ていた。
ギルドの前に馬車が止まっている。
荷物が積まれ、革袋が縛られ、馬が白い息を吐いていた。
エレナは見送りに来ただけだった。
髪に花はない。
けれど、髪は整えてある。
頬には、ほんの少しだけ色を乗せてある。
腰には剣がある。
アルデンが、荷台のそばで出発の準備をしていた。周りを何人もの女性に囲まれながら平然としている。
「来てくれたんだな」
アルデンが歩いてきた。
「見送りくらいはするわ」
「ありがとう」
それで終わると思った。
馬車が動き出す。
アルデンが乗る。
自分はここに残る。
それだけの朝だと思っていた。
けれど、アルデンは馬車へ戻らなかった。
「エレナ」
「何?」
「王都には、一緒に来てくれないのか」
エレナは答えられなかった。何を言われたのか、すぐには分からなかった。
王都。
一緒に。
来てくれないのか。
その三つの言葉だけが、遅れて胸の中で並んだ。息が止まる。終わった話ではなかったのか。
あの夜、花が散った。美しい女はいなくなった。エレナはアルデンの部屋を訪ねられなかった。
その後も、依頼は一緒に受けた。けれど、彼は王都の話をしなかった。だから、もう消えたものだと思っていた。
花を挿した女に向けられた誘い。返事をしなかったことで、なかったことになった誘い。なのに、今、彼は同じことを聞いた。花のないエレナに。髪を整えただけの、頬に少し色を乗せただけの、いつもの顔のエレナに。
胸の奥が熱くなる。嬉しい、と思うより先に、頭が追いつかなかった。
なぜ。どうして今、聞くのか。いや、違う。今聞いたのではない。彼は待っていたのだ。あの時の返事を。美しい女がいなくなったあとも。エレナがギルドに戻ったあとも。何度も一緒に依頼を受けたあとも。旅立ちの朝まで。
そのことに気づくと、胸の奥がまた熱くなった。
嬉しかった。けれど、素直に嬉しいとは思いたくなかった。
待っていた自分を見透かされた気がした。花がなくなってからも、もう一度誘われることを期待していた自分を知られた気がした。恥ずかしくて少し腹が立った。
「……今さら聞くの?」
ようやく出た声は、少し掠れていた。アルデンは目を逸らさなかった。
「今朝まで待つつもりだった」
「ひどい男ね」
「そうかもしれない」
「分かっていたの?」
言ってから、エレナは後悔した。
何を、と聞かれたら困る。
花のことか。
自分のことか。
待っていたことか。
どれも、言葉にしたくなかった。
アルデンは少しだけ黙った。
「全部ではない」
彼は言った。
「ただ、君の剣を見ていた」
エレナは息を止めた。
「剣?」
「ああ。踏み込む前にほんの少しだけ肩が沈む。相手の爪を見る時、顔ではなく足を見る。危ないと思った時ほど前に出る」
アルデンは、エレナの顔を見ていなかった。腰の剣を見ていた。それから、彼女の足元を見た。
「見ていて飽きなかった。人の動きの中にも美しさがあるのだと初めて知った。花があっても、なくても、そこは変わらなかった」
エレナは何も言えなかった。
顔が熱くなる。
見られていた。
美しい顔ではなく。
花でもなく。
戦う時の癖を。
自分が長年かけて身につけたものを。
「……気持ち悪い男だね」
ようやく出た声は、思ったより弱かった。
「そうかもしれない」
「私は、まだあなたの隣に立てるとは思っていない」
エレナは言った。アルデンは黙って聞いていた。
「冒険者としてなら、立つ。そこは譲らない」
腰の剣に触れる。それは、すぐに言えた。強さなら、もうある。村で押しつけられた剣から始まったものだとしても。戦う道具として置かれた場所から始まったものだとしても。それでも、この剣は自分のものになった。
けれど、それだけでは足りないと思ってしまった。
花を挿した日から。
服を選び、化粧を覚え、鏡の前に座った日から。
エレナは、一度だけ息を止めた。
「……王都には、私の知らないものが多そうね」
美しい服。
髪の結い方。
化粧の仕方。
誰かの隣に剣以外のものを持って立つ方法。
その全部を、言葉にはできなかった。
言えば、アルデンに知られる。
自分が何を欲しがっているのか。
誰の隣に立ちたいと思っているのか。
だから、言わなかった。
「あると思う」
アルデンは言った。
「曖昧ね」
「僕は詳しくない」
「でしょうね」
エレナは少しだけ笑った。笑えたことに、自分で驚いた。
「でも、行くなら自分で見るわ」
アルデンの表情が、ほんの少し変わった。
「来るのか」
エレナはすぐには答えなかった。
王都へ行く。
強い魔物がいる場所へ。
強い冒険者がいる場所へ。
綺麗な人間が、当たり前のように歩いている場所へ。
花はない。
けれど、剣はある。
髪は自分で整えた。
頬の色も、自分で乗せた。
ここまで自分で来た。
「王都までは行く」
エレナは言った。アルデンは黙って続きを待った。
「その先は、着いてから考える」
「長いな」
「短いわよ」
エレナは言った。
「強い魔物も、強い冒険者もいるんでしょう。考えることが多い」
「なら、道中で話そう」
「期待しないで」
「している」
「そういうところも嫌い」
「覚えておく」
アルデンはまた笑った。
馬車の御者が手綱を握り直した。荷台の革袋が小さく揺れる。
王都へ向かう道には、朝露が降りていた。
エレナは腰の剣に触れた。
剣はそこにある。
もう、誰かに押しつけられたものではない。
髪に花はない。
風が抜ける。
エレナはそれを押さえなかった。
王都へ向かう道の先に、まだ知らないものがある。
強さだけでは届かなかったもの。
毒の花が見せたもの。
けれど、もう花に頼らず、今度は自分の足で向かう。
エレナは馬車に向かって一歩前に出た。そして、自分の足で荷台へ乗り込んだ。
馬車がゆっくりと動き出すと、朝のやわらかな風が髪を撫でた。
花の重さは、もう髪にはなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作は、過去に掲載していた短編をもとに、構成や描写を見直して改稿したものです。
作品についての解説を活動報告に載せています。
タイトルやエレナの心情について触れていますので、読後にご興味がありましたら、そちらも覗いていただけると幸いです。




