表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

無垢な毒と美しい花

掲載日:2026/07/31

 エレナが最初に剣を持たされたのは、誰かに期待されたからではなかった。

 魔物が村に出た夜だった。

 

 ーーシルバーレイク村は、美しい村だった。


 湖は銀色に光った。晴れた日には、森の緑が水面に映った。春には湖畔に小さな白い花が咲き、夏には木々の葉が影を落とした。


「綺麗な村ですね」


 旅人はよく足を止めた。

 村人たちは誇らしげに笑った。

 エレナは、そのたびに少しだけ顔を伏せた。

 この村で綺麗なのは、湖と森と花だった。石畳の小道も、白い煙の上がる家々も、髪に花を挿して笑う娘たちも美しい。

 エレナだけが違った。

 彼女だけがこの村で綺麗ではなかった。少なくとも彼女は幼心でそう思った。

 母は食卓に椀を置くとき、エレナの前だけ少し遠くへ置いた。父は人前で彼女の名を呼ばなかった。面と向かって罵られることもあった。けれど、長く耳に残ったのは、罵声ではなかった。

 村で一番美しい娘がいた。湖の朝みたいな髪をしていた。笑うと、周りの娘たちまで明るくなる。

 その娘が、ある日、井戸端でエレナに手を振った。


「エレナもおいでよ」


 声は優しかった。

 周りの娘たちが、少しだけ顔を見合わせたが、彼女の隣から一歩だけ退いて場所を空けた。それから、輪に入れてくれた。

 誰もエレナを笑わなかった。

 誰も嫌なことは言わなかった。


 髪に花を挿す遊びにも、エレナの分の花が用意された。

 けれど、エレナには分かった。

 自分は誘われたのではない。

 入れてもらったのだ。

 可哀想なものを、外に置いたままにしないために。

 娘の白い指が、エレナの髪に花を挿した。


「うん、とっても似合ってる。似合うよ」


 そう言って、彼女は笑った。

 優しい笑顔だった。

 だから、エレナは何も言えなかった。

 花の重さだけが、いつまでも髪に残った。

 エレナは、それから鏡を長く見られなくなった。

 水桶に映る顔。

 湖面に揺れる顔。

 古い鏡に映る顔。

 どれにも、彼女のような美しさは映らなかった。

 年齢を重ねるにつれ、体も変わっていった。

 胸は少しずつ膨らみ、腰にも丸みが出た。

 同じ年頃の娘たちと並んでも、女として育っていることは分かった。

 けれど、それだけではなかった。

 薪を運べば肩に筋が浮いた。

 水桶を持てば前腕が張った。

 畑仕事を終えた夕方には、ふくらはぎが硬く締まっていた。

 他の娘たちも同じ仕事をしていた。同じ薪を運び、同じ水を汲み、同じ坂道を歩いていた。それなのに、エレナの体だけが違っていく。

 腕は太くなった。

 背中には力がついた。

 手のひらには早くから硬い皮ができた。

 村の娘たちは花冠を編みながら笑った。

 エレナも相変わらずその輪の中にいるが、ひとりだけ、はみ出しているように感じた。

 鏡を見るたび、違いが目についた。女らしくなっているはずなのに、同時に女たちから遠ざかっている気がした。

 村の男たちは力仕事になると自然にエレナを呼んだ。


 娘たちは重い荷を持つ時、彼女を頼った。

 そのたびに、エレナは自分がどこにいるのか分からなくなった。

 綺麗な娘たちの輪の中にも入れない。

 男たちの中にも入れない。

 ただ、自分だけが少し違う形に育っていく。

 それが、ひどく居心地悪かった。

 魔物が村の柵を破った夜、女たちは倉へ逃がされた。

 子どもたちは奥の家に押し込まれた。

 男たちは鍬や斧を持って、村の入口に集まった。

 エレナも倉へ向かおうとした。

 けれど、肩を掴まれた。


「お前はこっちだ」


 渡されたのは、古い剣だった。

 刃こぼれしていた。

 柄の革は擦り切れていて、誰かの汗の匂いがした。

 エレナはそれを見た。


「……私が?」


「少しでも時間を稼げ」


 男はエレナを見ていなかった。

 魔物のいる方を見ていた。

 女として守るのではない。

 村人として頼るのでもない。

 そこに置いたのだ。

 魔物の前に。

 エレナは剣を握った。

 重かった。

 手が震えた。

 足は逃げようとしていた。

 けれど、倉の扉は閉じられていた。


 魔物が走ってきた。

 一度目の剣は空を切った。

 二度目は爪に弾かれた。

 三度目で、刃が首に入った。

 肉を断つ感触が、手の中に残った。

 魔物が倒れた。

 エレナも膝をついた。

 誰も褒めなかった。

 誰も駆け寄らなかった。

 ただ、村人たちの目が少しだけ変わった。

 それから、魔物が出るたびにエレナは呼ばれた。

 最初は数合わせだった。

 次に、戦力に数えられるようになった。

 そのうち、前で戦うようになった。

 剣を振る。

 爪を見る。

 足場を見る。

 噛みつかれる前に半歩ずれる。

 傷は増えた。

 夜中に目が覚めて、握ってもいない剣の柄を探すこともあった。

 雨の日には、折れた(あばら)の奥が痛んだ。

 けれど、剣だけは手放さなかった。

 剣を持っている間、誰もエレナの顔を見なかった。

 それが、最初の救いだった。

 女でなくなれば、笑われない。

 戦う道具になれば、そこにいてもいい。

 そう思うようになった。

 村の男たちは、エレナを前へ出した。

 村の女たちは、エレナを避難する時に呼ばなかった。

 娘たちは、彼女の傷を見て顔をしかめた。

 それでも、村はエレナを必要とした。

 必要とされることと、大事にされることは違う。

 その違いを、エレナは少しずつ分かっていった。


 いつからか、エレナは娘たちの輪へ行かなくなった。

 井戸端では笑い声がしていた。

 花冠を編む指が動いていた。

 祭りの日には、誰が一番似合うかと髪飾りを見せ合っていた。

 湖の朝みたいな髪をした娘は、相変わらず輪の中心にいた。誰かが笑えば笑い返し、誰かが泣けば肩を抱いた。優しい娘だった。だからこそ、エレナは近づけなかった。

 娘たちが花を編んでいる時間、エレナは剣を振った。

 村外れの空き地。

 薪割り場の裏。

 誰も来ない湖畔。

 朝も。

 昼も。

 仕事が終わった後も剣を振った。

 最初は魔物が怖かったからだ。

 次は死にたくなかったからだ。

 そのうち理由は分からなくなった。

 ただ、振っている間だけは余計なことを考えなくて済んだ。

 娘たちの手は白かった。

 エレナの手には豆が潰れた跡が増えた。

 娘たちは鏡の前で髪を結った。

 エレナは刃こぼれを砥石で削った。

 娘たちは祭りの服を気にした。

 エレナは剣の重さを気にした。

 同じ年頃のはずなのに、歩く道が少しずつ離れていった。

 ある日、井戸端を通りかかると、あの娘が手を振った。


「エレナ、今度のお祭りには来る?」


 エレナは少し考えた。

 祭りの日も、見回りがある。

 魔物が出るかもしれない。


「たぶん行かない」


「そっか」


 娘は残念そうに笑った。

 責める顔ではなかった。

 その優しさが、やはり少し苦しかった。

 エレナは頭を下げて通り過ぎた。

 背後で娘たちの笑い声が続く。

 その音を聞きながら、エレナは空き地へ向かった。

 剣を抜く。

 振る。

 振る。

 振る。

 次第に手のひらの皮が厚くなっていった。その頃にはもう、エレナは自分が娘たちの輪へ戻れないことを知っていた。

 十四の冬、森の奥で魔物の巣が見つかった。

 村だけでは手に負えない。

 街の冒険者ギルドに依頼が出され、数日後、冒険者たちが来た。

 彼らは村の男たちとは違った。

 歩く位置。

 声をかける間。

 武器を持つ手。

 誰を前に置き、誰を下げるか。

 すべてに理由があった。


「君が案内役のエレナか」

 

 リーダーらしい男が言った。


「案内を頼む」


 エレナは身構えたが、それだけだった。エレナの顔を見て笑わなかった。盾として前に出したわけでもなかった。道を知る者として、エレナは輪の中に入った。

 最初は戸惑った。

 戦士が地図を広げれば、エレナもその横にしゃがんだ。

 弓使いが水袋を回せば、自分にも渡ってきた。

 夜営の火を囲む時も、誰かが当然のように場所を空けた。

 そこには理由がなかった。

 可哀想だからでもない。

 力仕事ができるからでもない。

 女だからでも、女ではないからでもない。

 案内役だから。

 ただ、それだけだった。

 エレナは何度も周囲を見た。誰かが気を遣っている様子もない。誰かが我慢している様子もない。

 話題が変われば、自分にも振られる。必要なことなら聞かれる。必要がなければ、無理に話しかけられもしない。

 村では、いつもどこかに境目があった。

 娘たちの輪。

 男たちの輪。

 そのどちらにも入りきれない自分。

 けれど、ここには境目がなかった。

 いや、正確には違う。

 境目はある。

 前衛と後衛。

 斥候と魔法使い。

 経験者と新人。

 だが、それは役割の境目だった。

 人の価値を決める境目ではなかった。

 エレナは火の向こうで笑う冒険者たちを見た。胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。こんな場所があるのか。そう思った。まるで、ずっと探していた場所を見つけたようだった。男でもない。女でもない。ただ、エレナとしてそこにいる。それだけのことに居心地の良さを感じた。

 巣へ向かう途中、エレナは自分も戦力だと思っていた。

 村では何度も魔物を斬ってきた。

 男たちより前に立ったこともある。

 傷だらけになりながら、生き残ってきた。

 案内だけで終わるつもりはなかった。

 巣の入口が見えた時、冒険者たちは手早く配置についた。


「エレナは後ろへ」


 戦士が言った。


「道はここまでだ」


「私も戦える」


 エレナは眉をひそめた。


「分かっている」


「なら――」


「後ろへ」


 声は強くなかった。だが、有無を言わせない響きがあった。

 エレナは唇を噛んだ。

 自分は役に立つ。

 足手まといではない。

 そう言いたかった。

 その間にも戦士たちは動いていた。

 斥候が先を確認する。

 弓使いが矢を番える。

 魔法使いが詠唱を始める。

 誰も言い争っていない。

 それが余計に腹立たしかった。

 まるで、自分が戦力に入っていないことが当然みたいだった。

 巣の奥から魔物が現れた。

 狼に似た魔物だった。

 村で相手にしたものより大きい。

 戦士が前へ出る。

 エレナも反射的に走った。


「待て!」


 誰かが叫んだ。

 剣を抜き、魔物へ踏み込む。村なら届く距離だった。だが、その瞬間、横から別の影が飛び出した。

 二体目。

 見えていなかった。

 エレナは慌てて剣を振った。浅い。刃が滑る。魔物の肩をかすめただけだった。次の瞬間、体当たりを受けた。

 息が潰れた。地面を転がる。視界が回った。立ち上がろうとした時には、さらに三体目がいた。巣の中は狭く、死角だらけだった。村の開けた場所とは違う。エレナは剣を構えた。だが遅かった。爪が肩を裂いた。

 熱い痛みが走る。思わず後退る。その隙に魔物が飛びかかった。

 死ぬ。

 死が脳裏に過る。

 その時、矢が飛んできた。魔物の目に突き刺さる。直後、戦士が割り込んだ。盾がぶつかり、魔物が吹き飛ぶ。


「下がれ!」


 怒鳴り声だった。エレナは初めて足を止めた。

 

「前を見るな! 横を見ろ!」


 戦士は魔物を受けながら叫ぶ。

 意味が分からなかった。

 だが次の瞬間、さらに別の魔物が壁の穴から這い出してきた。

 エレナは気づいていなかった。

 けれど戦士は気づいていた。弓使いも。斥候も。全員が見ていた。自分だけが見えていなかった。

 魔法が走り、炎が通路を塞ぐ。魔物が悲鳴を上げた。戦士が押し返した瞬間、弓が喉を射抜く。見事な連携だ。けれどエレナは剣を握ったまま何もできなかった。肩から血が流れていた。息も乱れていた。

 たった数瞬で、自分は戦場から弾き出されていた。

 村では強かった。

 それは本当だった。

 だが、ここでは違った。

 戦士が一体を受ける間に、弓使いは次を狙う。魔法使いは逃げ道を塞ぐ。斥候は死角を潰す。誰も一人で戦っていなかった。エレナだけが、一人で戦おうとしていた。


「無茶をしたな」


 戦いが終わった後、僧侶が肩の傷を治療してくれた。責める声ではなかった。

 エレナは何も言えなかった。肩の傷よりも、自分の思い上がりの方がずっと痛くて、恥ずかしかった。

 村では斬れた。

 巣では届かなかった。

 魔物の数が違う。

 逃げ道が違う。

 仲間の動きが違う。

 何度も助けられた。

 悔しかった。

 けれど、目が離せなかった。

 ああなりたいと思った。

 巣は焼かれ、煙が森へ流れる。

 村へ戻った翌朝、冒険者たちは荷馬車の準備をしていた。

 エレナはその前に立った。


「私も行きたい」


 荷を括っていた冒険者の手が止まった。

 村人たちはすぐに騒ぎ始めた。


「守りはどうする」


「次に魔物が出たら誰が前に出る」


「お前を戦えるようにしたのは村だろう」


「勝手なことを言うな」


 声は次々に飛んだ。

 昨日まで魔物の巣を恐れていた男たちが、今度はエレナを失うことを恐れていた。

 エレナは黙って聞いた。

 

「エレナ。お前はこの村に必要だ」


 村長が杖をついて近づいてきた。

 必要?

 その言葉は、エレナの耳を素通りした。

 必要なのは、自分ではない。

 魔物を前にして、傷ついても惜しくない剣だ。

 エレナは腰の古い剣の柄に手を置いた。その剣は、最初に渡されたものだった。刃は何度も研がれ、短くなっていた。柄には自分の手の形が残っていた。


「私は、もう村の道具じゃない」


 誰かが息を呑んだ。


「何を言っている」


 男の一人が近づいてきた。昔、最初にエレナの肩を掴んだ男だった。


「行かせるわけがないだろう」


 男は本気だった。腕を掴もうと一歩踏み出す。その前に、荷馬車の横から声が飛んだ。


「待て」


 冒険者のリーダーだった。


「これは村の問題だ」


 男は不満そうに振り返る。


「そうだろうな」


 リーダーは頷いた。


「だから口を挟むつもりはない」


 そう言いながら、彼はエレナを見た。その目は、魔物の巣へ向かう前と同じだった。エレナ自身を見ている。


「だが、その顔は知っている」


 村人たちが黙る。

 リーダーは少しだけ笑った。


「俺も昔、自分の村を出た」


「俺もだ」


 荷馬車の後ろで弓使いが肩をすくめた。


「私もね」


 魔法使いも鼻で笑った。

 誰も詳しくは語らなかった。

 けれど、その短い言葉だけで十分だった。

 故郷を出る朝。

 引き留める声。

 怒鳴る親。

 期待と不安。

 振り返らないと決めた瞬間。

 冒険者たちの顔に、一瞬だけそんなものが浮かんだ。


「止めたいなら止めればいい。だが、その目をした人間は、たいてい止まらない」


 リーダーは男へ視線を戻した。静かな声だった。

 エレナは何も言わなかった。言葉にする前から決まっていた。村に残る未来を考えられなくなった時点で、もう決まっていた。


「……お前は、この村を捨てるのか」


 男はエレナを睨んだ。怒りと戸惑いが混ざった顔だった。


「違う」


 エレナは首を振った。少し考えてから言った。


「――私が捨てられる前に出ていくだけだ」


 男の顔が歪んだ。誰も反論できなかった。村長も黙ったままだった。長い沈黙のあと、男は拳を握った。

 エレナはその横を通った。今度は誰も声をかけなかった。冒険者たちも何も言わなかった。ただ、荷馬車の横に一人分の場所を空けていた。

 荷馬車に乗る前、彼女は一度だけ村を見た。

 銀色の湖。

 白い花。

 石畳の小道。

 自分を見ない家々。

 綺麗な村だった。

 湖も、花も、森も、人々の笑顔も。

 旅人が褒めるたびに、村人たちは誇らしげだった。けれど、その綺麗さの中に、自分の居場所はなかった。

 誰もが美しいものを大切にした。

 傷のないものを愛した。

 見栄えのいいものを誇った。

 だから、自分はいつも外側にいた。

 魔物を斬っても。

 血を流しても。

 村を守っても。

 綺麗な景色の一部にはなれなかった。

 最後まで、綺麗なだけの村だった。

 少しだけあの娘が寂しそうな顔をしていた。


 村を出たあと、エレナは冒険者たちの荷馬車に揺られて街へ向かった。

 最初のうちは、何度も後ろを振り返った。

 銀色の湖。

 森の縁。

 見慣れた屋根。

 それらは半日も経たないうちに見えなくなった。代わりに現れたのは、知らない景色だった。

 畑が続いていた。村より広い畑だった。麦が風に揺れ、その向こうに別の村が見えた。

 エレナは驚いた。村の外にも村がある。当たり前のことなのに、実感としては初めて知った。

 道ですれ違う旅人もいた。

 荷車を引く商人。

 巡礼らしい老人。

 傭兵の一団。

 誰もエレナを知らなかった。それが少しだけ不思議だった。シルバーレイク村では、誰もがエレナを知っていた。顔も、名前も、役割も。

 ここでは違う。

 ただの旅人だった。

 夕方になると野営をした。冒険者たちは慣れた手つきで火を起こした。鍋を吊るし、見張りを決める。エレナも手伝った。夜空は村より広かった。湖がないからだろうか、と考えた。火の向こうで冒険者たちが笑っている。エレナは毛布にくるまりながら、その声を聞いた。

 夜明け前に目を覚まし、見張りの交代を手伝い、冷えた空気を吸った。

 朝日が昇る頃には荷をまとめ、再び道を進んだ。昼前、丘を越えたところで先頭の冒険者が言った。


「見えてきたぞ」


 エレナは顔を上げた。

 遠くに壁があった。村の柵とは比べものにならない高さだった。石でできた壁が長く続いている。その内側には屋根が並んでいた。一つや二つではない。数えられないほどだった。

 煙が上がっている。鐘の音が風に乗って届く。門の前には人と荷車の列ができていた。

 エレナは立ち止まりそうになった。街は、自分が知っている世界より、ずっと大きかった。村では、自分の居場所は決まっていた。魔物が出れば前に立つ。それ以外では隠れて剣を振る。けれど、この街には無数の人がいる。自分を知らない人間がいる。それなら、自分を決めつけない人間がいるかもしれない。

 門へ向かう列に並びながら、エレナはもう後ろを振り返らなかった。

 街へ入ると、冒険者たちはまずギルドへ向かった。依頼達成の報告と報酬の受け取りのためだった。

 石造りの建物の中は、人の声で満ちていた。掲示板の前には冒険者が集まり、受付には列ができている。

 エレナは入口の近くで立ち尽くした。自分には関係のない場所だと思っていた。だが、巣の討伐を率いた男が振り返った。


「冒険者になるんだろう。なら登録しておけ」


 受付嬢に事情を説明すると、彼女は慣れた様子で書類を取り出した。

 名前。

 年齢。

 出身地。

 読み書きが苦手な者も多いらしく、受付嬢は一つずつ教えてくれた。


「これで仮登録です。簡単な講習を受ければ正式登録になります」


 説明を聞きながら、エレナは何度も頷いた。

 村を出る時には何もなかった。けれど今、自分の名前がギルドの帳簿に記された。

 それだけで、不思議な気分だった。手続きを終えて振り返ると、冒険者たちはすでに報告を終えていた。


「じゃあな、エレナ」


 リーダーの男が言った。


「王都へ来ることがあったら顔を出せ」


「その頃には俺たちより強くなってるかもな」


 弓使いが笑う。

 エレナは少し迷ってから頭を下げた。


「世話になった」


「気にするな」


 彼らは軽く手を振った。

 それだけだった。

 引き留める者もいない。

 大げさな別れもない。

 冒険者たちは次の仕事へ向かい、エレナはその場に残った。

 けれど、不思議と寂しくはなかった。

 ここから先は、自分の道が続いている。

 

 街の冒険者ギルドに着いて最初に受けた仕事は、薬草採りだった。

 剣はほとんど使わなかった。森の浅い場所で依頼書に描かれた葉を探し、根を傷つけないように籠へ詰める。報酬は少なく、その金で泊まれる宿は、床が薄く、隣のいびきがよく聞こえた。

 それでも、自分で払った自分だけの部屋だった。

 誰にも椀を遠くへ置かれない。

 誰にも罵られない。

 エレナはその夜、硬い寝台の上で眠った。

 

 次の依頼は、迷子の山羊探しだった。

 その次は、畑を荒らす小型魔物の討伐。

 さらに、古井戸に棲みついた黒鼠の駆除。

 剣を抜くたびに村で覚えた動きは役に立った。けれど、それだけでは足りなかった。

 薬草の種類。足跡の見方。報酬の交渉。仲間との距離。街の外の地図。

 知らないことばかりだった。エレナは必死になって覚えた。

 最初の報酬で剣の手入れ用の油を買い、次に革の手袋を買った。冬前には古着の外套を買い、雨漏りのしない宿へ移った。

 小型の魔物を倒せるようになると、護衛依頼が来た。

 村と街を結ぶ荷馬車。林道を抜ける商人。迷宮の浅い層へ向かう新人冒険者。

 エレナは前を歩いた。今度は、誰かに配置されたのではない。報酬を受け取り、自分で前に立った。

 革鎧を買い、刃こぼれした剣を手放し、鍛冶屋で中古の剣を選んだ。鍛冶屋の男は最初、彼女を客として見なかった。けれど、エレナが剣を振って重心を確かめると、黙って奥から一本を出した。


「おまえにはこっちの方が合うだろうよ」


 少し重い剣だった。値も張った。エレナは三か月分の蓄えを出してその剣を買った。

 それから、その剣で中型の魔物を斬った。

 その日から、依頼の格は目に見えて上がっていった。

 森の奥。廃村。浅い迷宮から中層へ。小鬼の群れから、岩皮の魔獣へ。

 装備も変わった。革鎧の上に金属の肩当てが増え、手袋は指の動きを邪魔しないものになり、靴底は厚くなった。剣も、さらに良いものになった。

 宿も変わった。

 屋根裏から小さな個室へ。個室から、湯を頼める宿へ。

 初めて部屋に鏡がついていた時、エレナはしばらくそれを布で覆った。

 二十になる頃には、難しい依頼が来るたび、受付嬢はまずエレナの予定を確認するようになった。


「エレナさんが空いていれば、依頼は受理されると思います」


 若い冒険者は、エレナの前で背筋を伸ばした。酒場で絡んでくる男も、剣の柄を見ると黙った。


「王都でもやっていけるんじゃないか」


 ある日、ギルドの古参が言った。


「ちげえねえな。ここに置いておくには惜しい腕だ」


 エレナは笑わなかった。

 王都。

 強い者が集まる場所。綺麗な者も、賢い者も、金を持つ者も集まる場所。

 ふと、この街へ送り出してくれた冒険者たちのことを思い出した。

 十四の冬、魔物の巣を焼いたあの一団。

 当時のエレナには、彼らは別の世界の人間に見えた。剣の振り方も、立ち位置も、判断も、何もかもが自分より上だった。

 けれど今、あの頃のエレナが見上げていた場所に、今のエレナは立っている。

 そう思えるくらいには、エレナは強くなっていた。

 アルデンという男が街へ来たのは、その頃だった。

 ギルドが騒がしかった。

 掲示板の前に人だかりができている。

 女の冒険者たちの声が、普段より少し高い。

 男たちも、妙に落ち着かない。


「何があった」


 エレナが受付で尋ねると、受付嬢が頬を赤らめた。


「王都から来た冒険者です。アルデンさんっていうんですけど」


 エレナは視線を向けた。

 綺麗な男だった。

 ただ、それだけではなかった。

 立ち方が違う。腰の剣は飾りではない。人と話していても、入口と窓を塞がない位置にいる。肩の力は抜けているのに、隙がない。美しさと強さが、同じ体に収まっていた。

 アルデンが依頼書を手に、受付へ歩いてくる。途中で、彼の目がエレナに向いた。反射的に身構えた。


「君がエレナか」


 アルデンは言った。

 エレナは答えなかった。


「噂は聞いている。強い戦士だと」


「……噂ほどじゃない」


「謙遜する人ほど、だいたい強い」


 彼は笑った。顔ではなく、腰の剣を見た。それから、エレナの目を見た。


「いつか一緒に依頼を受けたい」


 それだけ言って、受付へ行った。

 エレナはしばらく動けなかった。強いと言われたことは何度もある。頼られたこともある。怖がられたこともある。それなのに、胸が落ち着かなかった。

 しばらくして、アルデンと同じ依頼を受ける機会が来た。迷宮中層の魔物討伐。この街の外れには古い迷宮があった。地下深くまで続く石造りの遺跡で、浅い層には小型魔物、中層には熟練の冒険者向けの魔物が棲みついている。

 魔物を倒すと、その体には魔晶石が残ることがあった。魔力の結晶であり、ギルドへ持ち帰れば換金できる。

 討伐依頼の報酬だけでなく、その魔晶石も冒険者たちの重要な収入源だった。

 今回の依頼は、急ぎの装備製作に必要な魔晶石を確保するため、中層の魔物を討伐して回収するという工房からの緊急依頼だった。

 エレナは前衛。

 アルデンも前衛。

 最初二人は役割を分けようとした。

 だが、戦い始めてすぐに不要だと分かった。

 アルデンは強かった。

 出すぎない。

 退きすぎない。

 エレナの間合いを邪魔しない。

 魔物の爪が来る前に、すでに半歩ずれている。

 エレナも遅れなかった。

 二人で魔物を挟む。

 片方が誘い、片方が断つ。

 合図はほとんどいらなかった。


「噂より強いな」


 討伐後、アルデンは剣を納めて言った。


「そちらも」


 エレナは答えた。

 それ以上の言葉は出なかった。けれど、その日からエレナは、ギルドへ行く時間が少し早くなった。

 アルデンがいるかもしれない。そう思うだけで、扉の前で息が浅くなる。けれど彼の周りには、いつも人がいた。特に、女たちが多かった。髪を結った魔法使い。細い指に指輪をつけた僧侶。軽い革鎧の斥候。彼女たちは自然に笑った。自然に隣へ立った。自然に、彼の名を呼んだ。

 エレナには、それができなかった。

 魔物の話ならできる。

 迷宮の話ならできる。

 剣の間合いなら話せる。

 けれど、それ以外が分からなかった。

 褒められた時、どう笑えばいいのか。

 髪飾りを選ぶ時、何を見ればいいのか。

 誰かの隣に女として立つには、どこに足を置けばいいのか。

 強さの世界には、立つ場所があった。

 美しさの世界には、入口すら見えなかった。

 そんなときだった。

 その花を見つけたのは――。


 その花があった場所は迷宮の浅い層だった。

 何度も通った道だった。

 湿った石壁。

 低い天井。

 足元を流れる細い水。

 その隅に、一輪だけ咲いていた。

 黒に近い紫の花だった。花弁の奥に、銀色の光が散っている。まるで夜の湖を、小さく閉じ込めたようだった。

 魔物の気配はない。

 罠の匂いもしない。

 それでも、エレナは手を伸ばすのをためらった。

 指先で触れた瞬間、針で刺されたような痛みが走った。


「――ッ」


 毒だ。

 すぐに分かった。

 けれど強い毒ではない。

 指先が痺れ、舌の奥に苦みが上がっただけだった。

 捨てればよかった。迷宮の花など、持ち帰るものではない。毒があると分かっているなら、なおさらだ。そう分かっていた。それでも、エレナは花を摘んだ。

 帰り道、手の中の花を何度も見た。黒に近い紫の花弁。その奥に散る、銀色の光。綺麗だった。そう思うたびに、胸の奥が少し痛んだ。髪に花を挿された日のことを思い出した。村で一番美しい娘の白い指。似合うよ、と言った優しい声。重くて、すぐにでも抜きたかった花。

 あの時、エレナは何も選んでいなかった。

 輪に入れてもらった。

 花を用意された。

 髪に挿された。

 似合うと言われた。

 全部、向こうから差し出されたものだった。

 だから苦しかった。

 迷宮から出たばかりの道には、誰もいなかった。湿った風だけが、髪を揺らしている。花を髪に近づける。指先が止まった。似合うはずがない。笑われるかもしれない。誰かに見られたら、あの時のように優しい顔をされるかもしれない。それでも、花から目を離せなかった。この花を髪に挿してみたいと思った。誰かに挿されるのではなく。自分の手で。

 エレナは息を吸った。花を髪に挿した。指先に、もう一度だけ痺れが走った。街へ入ると、人が振り返った。エレナは足を止めそうになった。見られている。そう思った瞬間、耳の奥が熱くなった。

 花だ。

 この花を見ているのだ。

 珍しい迷宮の花だから。

 銀色に光っているから。

 毒を持っているから。

 いや、違う。

 きっと、似合わないからだ。

 自分のような女が髪に花を挿している。それが滑稽で、見られているのだ。井戸端の記憶が、瞼の裏に戻ってきた。

 似合うよ。

 優しい声。

 白い指。

 髪に残った花の重さ。

 エレナは反射的に花へ手を伸ばした。抜こうとした。その時だった。


「――君、見ない顔だね」


 声をかけてきた男は、クリスだった。

 顔見知りの冒険者だ。

 何度か同じ依頼を受けたこともある。

 酒場で女に声をかけている姿を、よく見た。


「――私だ」


「え?」


「エレナだ」


 クリスは目を丸くした。それから笑った。


「冗談だろ。あのエレナと同じ名前なのか。あいつは強いけどさ。君とは全然違うよ」


 クリスの目が、エレナの顔から髪へ、髪から首元へと動いた。


「君は……綺麗だ」


 その言葉を、エレナはすぐには受け取れなかった。


「その花も綺麗だけど、花だけじゃない。君の目も、髪も、肌も。こんな人がこの街にいたなら、忘れるはずがないんだけどな」


 クリスは笑っていた。いつも酒場で女に向けている笑みだった。軽く、柔らかく、慣れている。今それが自分に向いている。

 依頼帰りに、エレナの戦い方を荒っぽいと笑った口。

 酒場で、あの女は強すぎて女に見えないと言った口。

 何度か同じ依頼を受けても、必要なこと以外は話しかけてこなかった口。

 その口が、今は綺麗だと言っている。


「食事でもどうかな。君のことをもっと知りたい」


 エレナは一歩下がった。


「いや――」


「そんなに警戒しなくてもいいだろ」


 クリスは近づこうとした。

 エレナは反射的に、剣の柄へ手を伸ばしかけた。その動きに、クリスが少しだけ眉を上げる。エレナは手を止めた。何も言わず、踵を返した。


「おい、待ってくれよ!」


 背中に声が追ってきた。エレナは振り返らなかった。歩く足が、少しずつ速くなる。誰かの視線が背中に刺さっている気がした。宿に着く頃には、息が少し乱れていた。

 部屋に入る。

 扉を閉める。

 鍵をかける。

 そこでようやく、肩から力が抜けた。けれど、まだ気味の悪さは残っていた。君は綺麗だ。クリスの声が、耳の奥に残っている。

 同じ口だった。

 いつもは必要な時しか話しかけてこなかった口。強い女は怖いと笑った口。その口が、さっきは柔らかく歪んでいた。

 エレナは髪の花に触れた。抜こうとして、手が止まる。本当に、花だけを見ていたのだろうか。そんなはずはない。そう思うのに、さっきのクリスの目が頭から離れなかった。

 エレナは剣を外した。

 腰が軽くなる。

 それだけで少し心細くなった。

 洗面台の前に立つ。鏡は、いつものように布で覆われていた。安宿より少しだけましな部屋に移った時から、ずっとそうしている。顔を洗う時も、髪を結う時も。

 布の向こうに、鏡がある。エレナは息を吸った。胸の奥で、呼吸が引っかかった。もう一度、吸う。ゆっくり吐く。指先が布の端に触れた。逃げてもいい。そう思った。花を抜いて、眠ってしまえばいい。明日になれば、いつもの自分で依頼を受ければいい。

 けれど、クリスの声が残っていた。エレナは奥歯を噛んだ。布を外した。鏡を覗き込むと、中に、知らない女がいた。

 エレナは息を止めた。肌は滑らかだった。頬の痕も、しみも、荒れもない。髪には艶があり、目元は柔らかく見えた。美しい女が、こちらを見返している。

 エレナは一歩下がりかけた。

 鏡の女も、同じように揺れた。

 頬に手を当てる。

 鏡の女も、同じ場所に手を当てた。

 膝から力が抜けた。寝台の縁に手をつく。息がうまく入らなかった。気味が悪い。けれど、目を逸らせなかった。綺麗だった。それを認めた瞬間、喉の奥が熱くなった。エレナは髪から花を抜いた。鏡の中の女が消え、いつもの顔が戻る。

 見慣れた肌。

 見慣れた目。

 見慣れた輪郭。

 さっきまでの女は、どこにもいない。

 エレナは手の中の花を見た。指先はまだ痺れている。舌の苦みも消えていない。美しさを与える花。毒を与える花。捨てなければならない。

 けれど、指は動かなかった。綺麗だと言われた声が、まだ気味悪く耳に残っている。鏡の中の女もまだ目の奥に残っている。

 エレナは花を机に置いた。翌朝、エレナは早く目を覚ました。机の上に、花があった。昨夜、捨てられなかった花。水を張った桶の縁に、倒れないように立てかけてある。花弁の奥の銀色は、まだ消えていなかった。

 エレナは寝台の上から、しばらくそれを見ていた。指先の痺れは、少しだけ残っている。舌の奥にも、まだ苦みがある。毒だ。分かっている。挿さない方がいい。今日はいつも通り剣を持って、ギルドへ行けばいい。依頼を見て、魔物を斬って、報酬を受け取ればいい。それで何も変わらない。けれど、耳の奥で声がよみがえった。君は綺麗だ。

 エレナは目を閉じた。気味が悪かった。あの声も、あの目も。それでも、鏡の中の女を思い出してしまう。滑らかな肌。柔らかく見えた目元。花を抜いた瞬間に消えた、知らない自分。

 エレナは寝台から降りた。

 花の前に立つ。手を伸ばす。途中で止まる。

 もう一度だけだ。

 あと一度だけ確かめる。

 誰に言い訳しているのか、自分でも分からなかった。

 エレナは花を取った。髪に挿す。指先に、細い痺れが走った。布を外したままの鏡を見ると知らない女が、そこにいた。エレナは息を吐いた。剣は壁に立てかけてあった。いつもなら、腰に差してから部屋を出る。鍵をかける前に、必ず柄の位置を確かめる。

 エレナは剣を見た。それから、目を逸らした。今日は持っていかない。そう決めた瞬間、胸の奥が少し冷えた。怖かった。剣なしで街を歩くことなど、この街に来てから一度もなかった。けれど、剣を持てば、いつものエレナになる。強い前衛。魔物を斬る女。頼られる冒険者。今は、それではない自分で外に出てみたかった。

 エレナは扉を開けた。腰が軽い。その軽さが心細くて、少しだけ新しかった。この街に来て初めて、エレナは剣を置いたまま部屋を出た。

 

 世界が違っていた。

 宿の階段を下りると、宿の女主人が顔を上げた。一瞬、誰か分からない顔をした。


「……お泊まりの方、でしたか」


 エレナは足を止めた。宿の部屋から出てきたのだ。鍵も持っている。それなのに、宿の女主人は迷っていた。この宿に、こんな女が泊まっていただろうか。そういう目だった。エレナは髪の花に触れそうになり、手を止めた。


「ああ」


 短く答える。

 宿の女主人はまだ少し迷っていたが、すぐに商売用の顔に戻った。


「失礼しました。お出かけですか」


 いつもなら、依頼かい、だった。

 エレナは返事に詰まった。


「……少し」


 外へ出る。

 朝の街は、いつもと同じはずだった。パンを焼く匂い。水を撒く店先。荷車の車輪の音。ギルドへ向かう冒険者たちの声。けれど、歩いているうちに違うことが分かった。

 人が、道を空ける。

 ぶつかりそうになった男が、先に謝る。

 店先の女が、エレナの服を見てから顔を上げる。

 通り過ぎた少年が、振り返る。

 誰も、剣を見ていない。

 そもそも、剣はない。

 それでも、人がこちらを見る。

 エレナは髪の花に触れそうになり、手を止めた。

 服屋の前で足が止まったのは、ほとんど偶然だった。店先には、淡い色の布が掛けられていた。祭りの日に村の娘たちが着るようなものより、ずっと洗練されたものだった。エレナは通り過ぎようとした。


「よろしければ、中もご覧になりますか」


 店の女がちょうど外に出てきた。

 丁寧な声だった。

 エレナは、すぐには返事ができなかった。

 この店の前は何度も通ったことがある。以前は、声をかけられたことなどなかった。革紐や手袋を買う時でさえ、用件を言うまで待たれた。今は違う。ただ立ち止まっただけで、扉が開く。


「……見るだけだ」


「もちろんです」


 店の女は笑った。

 笑われているのではない。そう分かっているのに、肩に力が入った。

 店の中には、見慣れないものばかりがあった。

 柔らかい布。

 細い紐。

 腰に巻く帯。

 髪を留める飾り。

 どれも、剣を振るには邪魔に見えた。袖は長すぎる。裾は踏みそうになる。腰まわりも頼りない。けれど、試着して鏡の前に立つと、しなやかな女がいた。

 エレナは黙った。

 花の力だけではない。服が、立ち方を少し変えた。布の色が、顔の見え方を変えた。髪に挿した花が、すべてをつないでいる。


「よくお似合いです」


 店の女が言った。村の娘の声を思い出した。

 似合うよ。

 息が詰まった。だが、今度は誰かに花を挿されたわけではない。この服も、誰かが憐れんで用意したものではない。自分で選んでいる。そう思うと、ほんの少しだけ息を吐けた。


「これを」


 エレナは言った。

 値段を聞いて、少し顔が強張った。討伐依頼一つ分にはならない。けれど、安くもない。それでも、財布を出した。


「肌の色を少し整えるだけで、印象が変わりますよ」

 

 店の女は包みながら、化粧品も勧めてきた。


「……戦いには邪魔にならないのか」


 口にしてから、自分でもおかしなことを言ったと思った。

 店の女は笑わなかった。


「薄くなら、大丈夫です。たくさん汗をかけば落ちますけど」


 エレナは頷いた。

 使い方を教わる。

 頬。

 眉。

 唇。

 どこに何を乗せるのか、まるで分からなかった。剣より難しい。そう思った。

 髪を整えるための櫛も買った。香油も買った。香油の使い方は、最後までよく分からなかった。けれど店の女は、最後まで笑わなかった。

 昼過ぎ、エレナは酒場に入った。依頼帰りではない。剣もない。それだけで、入口に立つ自分がひどく頼りなく思えた。

 いつも座る隅の席へ向かおうとした時、近くの男が椅子を引いた。


「どうぞ」


 エレナは立ち止まった。

 その男とは、何度か同じ酒場にいたことがある。以前は、目が合ってもすぐに逸らされた。今日は、笑っている。エレナは椅子を見て、男の顔を見た。そしてもう一度、椅子を見た。


「……いい」


 短く断って、いつもの隅に座った。

 胸の奥がざわついていた。

 人の態度が変わる。

 顔が変わるだけで。

 花を挿すだけで。

 剣を置くだけで。

 こんなにも簡単に。

 酒場の窓に映った自分から、目を逸らせなかった。綺麗ですね。その言葉は、その日、何度も向けられた。

 花ではなく。

 剣ではなく。

 戦いぶりでもなく。

 報酬を稼ぐ腕でもなく。

 自分に。

 宿へ戻る頃には、足が疲れていた。剣を持たずに歩いただけなのに、魔物と戦った後より疲れていた。

 部屋に入って、鍵をかける。

 机に買ったものを置く。

 布を外したままの鏡が、部屋の隅にあった。

 エレナはしばらく、それを見なかった。見れば、またあの女がいる。それが分かっていた。髪から花を抜くと、鏡の中の美しい女が消えた。いつもの顔が戻る。

 見慣れた肌。

 見慣れた目。

 見慣れた輪郭。

 その瞬間、息を呑んだ。昨日よりも、戻るのが怖かった。

 エレナは花を机に置いた。指先は痺れている。舌の奥には、まだ苦みがある。毒は少しずつ残るようになっていた。捨てなければならない。また思った。

 けれど、机の上には今日買った服がある。櫛がある。香油がある。使い方を教わった化粧品がある。花を挿していた時間に、確かに手に入れたものだった。

 気味が悪くて、怖かった。けれど、楽しかった。

 

 翌朝になると、また花を見た。挿さない方がいい。そう思った。けれど、手は伸びた。花を髪に挿す。細い痺れが指先に走る。鏡の中に、美しい女が戻る。

 剣は、壁に立てかけたままだった。

 それから数日、エレナは剣を持たずに部屋を出た。その間、依頼は受けなかった。ギルドへは行く。掲示板も見る。受付嬢にも声をかけられる。けれど、依頼書へ伸ばした手は途中で止まった。

 剣がない。

 腰が軽い。

 その軽さが、まだ心細い。

 それなのに、街を歩く足は少しずつ慣れていった。服屋の女は、エレナの顔を覚えた。酒場の男たちは、視線を向けるだけで声まではかけてこなくなった。通りの店先では、果物を一つ余分に入れられた。

 エレナはそのたびに戸惑った。

 でも、部屋に戻って花を抜く時、その日に向けられた視線を思い出してしまう。

 ある朝、エレナは剣を腰に戻した。花も挿した。鏡の中の美しい女は、剣を差していた。不思議な姿だった。

 柔らかい服に、剣。

 艶のある髪に、硬い手。

 美しさと、これまで積み上げてきたものが、ひとつの体に重なっている。

 悪くない。

 そう思いかけて、エレナはすぐに目を逸らした。

 その日は、依頼を受けるつもりだった。

 何日も剣を握らずにいると、指の奥が落ち着かなかった。剣の重さがない腰にも慣れ始めている。それが怖かった。

 ギルドの前まで来て、エレナは足を止めた。中に入れば、受付で名を告げることになる。この顔のまま、エレナとして名を呼ばれるのは嫌だった。

 エレナはギルド脇の細い路地へ入った。人通りは少ない。壁際には空の木箱が積まれている。厩の方から、馬の鼻息が聞こえた。誰もいないことを確かめて、髪の花を抜いた。

 体から熱が引く。頬の感覚が戻る。髪の重さも、目元の柔らかさも消える。いつもの自分に戻った。少しだけ息がしやすかった。花を布に包み、腰袋へ入れる。

 ギルドへ入ると、受付嬢が顔を上げた。


「エレナさん。お久しぶりです。今日は依頼ですか」


「ああ。中層の討伐を」


「岩皮の魔獣ですね。ちょうど、もう一人受注希望の方がいます」


 受付嬢が依頼書を確認する。


「王都のアルデンさんです。お二人なら、受理できます」


 エレナは一瞬だけ黙った。


「……そう」


「同行で構いませんか?」


「構わない」


 登録証を出すと受付嬢が確認する。依頼書に印が押された。

 いつもの手続きだった。

 何も起きなかった。

 それが少しだけ安心で、少しだけ物足りなかった。


「アルデンさんには、準備ができ次第、南門で合流と伝えますね」


「分かった」


 ギルドを出る。けれど、エレナはそのまま南門へは向かわなかった。

 もう一度、ギルド脇の細い路地へ入り、腰袋から布包みを取り出した。黒に近い紫の花。花弁の奥には、まだ銀色の光が散っている。

 今なら、このままでもいい。

 いつもの顔で依頼を受けた。

 いつものエレナとして、アルデンと迷宮へ行けばいい。

 それが一番面倒がない。

 けれど、指は布を開いていた。

 アルデンの顔が浮かぶ。

 綺麗な男。

 美しさと強さが、同じ体に収まった男。その隣に立つ自分を思う。いつもの顔では、少しだけ息が詰まった。

 エレナは花を髪に挿した。細い痺れが指先に走る。体の奥に熱が戻る。頬の感覚が変わる。髪が軽く揺れる。美しい女が戻った。

 南門へ向かうと、アルデンはすでに門のそばに立っていた。馬車の影ではなく、道の端。人の流れを邪魔しない位置。それでいて、門と通りの両方が見える場所。

 アルデンはエレナに気づいた。一瞬だけ、訝しげに目を細める。その視線が、顔を見る。髪の花を見る。服を見る。腰の剣を見る。それから、もう一度顔に戻った。


「……君は?」


 エレナは名乗ろうとした。

 エレナだ。

 そう言えば終わる。

 けれど、声は出なかった。

 この顔で、その名を出すことが怖かった。


「あなたと同じ依頼を受けた。これが依頼書だ」


 代わりに、そう言った。

 エレナは依頼書を取り出した。受付で印を押されたものだった。アルデンの目が依頼書に落ちる。名前の欄が見える前に、エレナは紙を少しだけ畳んだ。


「……そうか」


 アルデンはそれ以上聞かなかった。ただ、剣の柄に触れているエレナの右手を一度だけ見た。


「足手まといにはならない」


 エレナは言った。


「だろうね」


 アルデンは短く答えた。


「よろしく頼む」


 その声に、ほんの少しだけ引っかかるものがあった。けれど、エレナは気にならなかった。彼も気づかない。その事実が彼女の頭の中に大きく残っていた。

 二人は南門を出た。迷宮へ向かう道の上で、エレナの髪の花が小さく揺れていた。

 迷宮の入口は、街の南東にあった。

 古い石造りの階段が、地面の下へ続いている。入口の周りには、苔の生えた柱が何本か残っていた。

 何度も来た場所だった。

 エレナは階段の前で、腰の剣に触れた。柄の位置。鞘の角度。腰紐の締まり。いつもと同じだった。ただ、髪に花がある。それだけが違った。

 アルデンは何も言わなかった。

 先に階段を下りる。

 足音は軽い。

 けれど、重心は浮いていない。

 エレナも後に続いた。

 迷宮の空気は冷たかった。

 湿った石。

 古い水の匂い。

 薄暗い通路に響く足音。

 街で向けられた視線は、ここにはない。服屋の女も、酒場の男も、果物を余分に入れてくれた店主もいない。あるのは、石の壁と魔物の気配だけだった。少しだけ、息がしやすかった。

 エレナは剣を抜いた。刃が鞘を離れる音が、いつもよりはっきり聞こえた。アルデンが横目で見た。


「右を頼む」


「分かった」


 短い言葉だった。それだけで足りた。

 二人は並んで進んだ。前へ出すぎない。近づきすぎない。相手の逃げ道を塞がない。アルデンの間合いは、以前と変わらなかった。半歩分だけ空ける。魔物が飛び込めば、片方が受け、片方が横から断つ。通路が狭ければ、自然に前後を入れ替える。エレナの体も、それを覚えていた。初めて組んだ時から、声はほとんどいらなかった。

 今日も同じはずだった。

 最初の魔物は、角の向こうから現れた。

 岩皮の魔獣。

 犬ほどの大きさ。

 けれど、肩と背に灰色の硬い皮を持っている。低く唸り、前足で石床を引っ掻いた。アルデンが左へずれた。エレナは右へ出る。いつもの形だった。

 魔獣が跳ぶ。アルデンが剣の腹で軌道を逸らす。エレナが横から首筋を狙う。そのはずだった。けれど刃が、ほんの少し遅れた。魔獣の首ではなく、肩の硬い皮を叩く。鈍い音がした。


「っ」


 弾かれた。

 魔獣が体をひねる。爪がエレナの袖を裂いた。浅い。血はほとんど出ていない。それでも、普段ならありえない傷だった。

 エレナはすぐに踏み直した。

 アルデンが一歩入る。魔獣の目の前に剣を置き、動きを止める。その間に、エレナは今度こそ首筋へ刃を通した。

 魔獣が崩れる。石床に体が落ちた。静かになった。けれどエレナは剣を下げなかった。息が、少しだけ乱れている。

 今のは何だ。

 刃が遅れた。

 足は出ていた。

 目も追えていた。

 なのに、手が遅れた。

 アルデンは倒れた魔獣を見ていた。それから、エレナの右手を見た。ほんの一瞬だけ。エレナはそれに気づいた。


「問題ない」


 言われる前に答えた。アルデンは少しだけ目を細めた。


「そうか」


 それだけだった。それがかえって、見られている気がした。

 エレナは剣を握り直した。指先に、かすかな痺れが残っている。遅れたのは毒のせいだ。そう思おうとした。それとも、剣を握らなかった数日のせいか。

 鈍っている。

 その事実だけが、手の中に残った。

 奥へ進むと、次の魔獣は二体だった。通路の先、崩れた石柱の陰から出てくる。

 一体は正面。

 一体は右の壁際。

 アルデンは正面を受ける。

 エレナは右へ出た。間合いは合っている。アルデンの背中との距離も、いつもと同じ。魔獣が横へ抜けようとした時、自分の剣が届く場所も分かっている。戦い方は崩れていない。崩れているのは、自分の中だけだった。

 魔獣が低く跳ぶとエレナは半歩下がる。爪を空振りさせ、首を狙う。けれど、また、少し遅れた。刃が喉ではなく顎の骨に当たる。魔獣の頭が跳ねた。だが、死なない。そのまま体当たりが来る。受けるしかなかった。肩で受け、足を踏ん張る。柔らかい服の下で、古い傷がうずいた。

 エレナは奥歯を噛む。剣を短く持ち替え、今度は下から突いた。刃が喉に入る。魔獣は動かなくなった。

 その時には、アルデンも終わっていた。彼は剣を払う。血が石床に散った。


「怪我は?」


「ない」


「動きは悪くない」


 アルデンが言った。エレナは一瞬だけ彼を見た。


「慰め?」


「確認だ」


 アルデンは通路の奥を見たまま答えた。


「間合いは合っている。判断も遅れていない」


「なら、何?」


「最後の一歩と、剣が少し遅い」


 エレナは返事をしなかった。

 正しい。

 だから腹が立った。

 アルデンは続けなかった。

 なぜ遅いのか。

 何があったのか。

 花は何なのか。

 何も聞かなかった。

 そもそも、私だと気づいているのか。

 その沈黙が、エレナの胸を少しだけ締めつけた。

 奥へ進むほど、魔獣の数は増えた。

 三体。

 四体。

 岩皮の魔獣は、単体なら難敵ではない。だが、硬い皮で刃を弾き、群れで体当たりをしてくる。

 アルデンは変わらなかった。

 出る。

 退く。

 受け流す。

 エレナの剣筋が遅れた時には、その穴を埋める。その動きが、あまりに自然だった。以前と同じように組んでいる。以前と同じように、二人で補うように剣を走らせている。それなのに、エレナだけが少しずつずれていた。

 息が上がる。

 指先が熱い。

 痺れが、剣の重さと混ざっている。

 花が髪で揺れるたび、耳の横にかすかな重みがあった。それが気になった。戦闘中に、そんなものを気にしたことはなかった。

 魔獣が壁を蹴った。死角から来る。エレナは気づいた。気づいたのに、体が追いつかない。半歩ずれるはずの足が、石床に引っかかる。爪が頬の横をかすめた。髪が切れた。花が揺れる。

 直後、アルデンの剣が横から入った。魔獣の足を払う。体勢が崩れたところへ、エレナが剣を突き下ろす。今度は外さなかった。魔獣が沈み、通路に静けさが戻った。

 エレナは息を吐いた。頬が熱い。傷はない。だが、髪が数本落ちている。その先に、花の花弁が一枚だけ震えていた。


「戻るか」


 アルデンが言った。エレナはすぐに睨んだ。


「まだ終わっていない」


「もう足りている。ここで戻っても魔晶石も必要数には届く」


「私は戻らない」


「そうか」


 アルデンはあっさり頷いた。止める気はなかった。エレナはそれにも少し腹が立った。


「止めないの?」


「止めてほしいのか?」


「違う」


「なら、進もう」


 アルデンは剣を構え直した。エレナは唇を噛む。優しいのか。冷たいのか。気づいていないのか。気づいていて聞かないのか。

 分からない。

 分からないから、余計に腹が立つ。

 最後の部屋にいたのは、ほかより一回り大きい岩皮の魔獣だった。背中の皮が厚く、頭には短い角が二本ある。

 エレナは息を整えた。アルデンは左へ。自分は右へ。いつもの間合い。魔獣が唸る。突進。アルデンが受けるのではなく、流す。エレナが横から足を狙う。

 けれど遅れた。

 まただ。

 刃は足を浅く切っただけだった。魔獣が止まらない。そのままアルデンへ向かう。エレナは追った。今度は失敗できない。足に力を入れ、踏み込む。指先が痺れる。剣が重い。けれど、ここで遅れれば、アルデンが受ける。それが嫌だった。自分の遅れを、彼に埋められることが嫌だった。

 花のせいか。

 毒のせいか。

 剣を置いていたせいか。

 そんなことはどうでもよかった。

 今、斬る。エレナは一歩深く踏み込んだ。柔らかい服の裾が、足に絡みかける。構わず、膝で払った。剣を振る。硬い皮ではない。肩の継ぎ目。呼吸でわずかに開く隙間。そこへ刃を入れた。

 手応えがあった。魔獣が吠える。アルデンが前へ出る。エレナの作った傷へ剣を重ねた。刃が深く入った。魔獣の体が傾き、エレナはさらに踏み込んだ。

 今度は、迷わなかった。首の下。柔らかいところへ剣を突き刺す。魔獣が崩れた。大きな体が石床に倒れ、埃が舞った。しばらく、誰も動かなかった。やがてエレナは剣を抜いた。

 息が荒く、指先は痺れている。服の裾は汚れ、袖には血がついている。それでも髪に挿した花は、まだあった。ただ、花弁の端が少しだけ丸まっていた。


「終わりだ」


 アルデンが魔獣の体を確認するとエレナは頷いた。膝が少し笑っている。情けない。だが、倒れはしなかった。

 魔晶石を回収し、部屋を出る。帰り道、アルデンはいつもより少しだけ歩調を落とした。


「合わせなくていい」


「合わせていない」


「嘘」


「実は、少しだけ合わせている」


 エレナは睨んだ。アルデンは前を向いたまま、少しだけ笑った。


「怒れるなら、大丈夫そうだ」


「そういう言い方は嫌い」


「覚えておく」


 短いやり取りだった。それなのに、胸の奥に残った。

 迷宮を出ると、外の光が眩しかった。エレナは目を細める。空気が乾いている。髪の花に触れると、花弁の端がやはり萎れていた。アルデンがそれを見ている気がした。エレナは手を下ろした。


「今日のことは」


 言いかけて、言葉が止まった。

 何を言うつもりだったのか、自分でも分からない。

 花のことは聞かないで。

 動きが鈍っていたことは言わないで。

 気づいていないなら、そのままでいて。

 どれも違った。

 アルデンは待っていた。

 急かさなかった。

 エレナは息を吐いた。


「何でもない」


「そうか」


 街へ戻るまで、二人の歩調は変わらなかった。近すぎず、遠すぎない。いつもの距離だった。

 けれど、エレナの中だけが少し乱れていた。

 彼は気づいていない。

 そう思う。

 そう思いたい。

 でも、本当にそうだろうか。

 剣の遅れ。

 指先の痺れ。

 花へ伸ばしかけた手。

 アルデンは、何も聞かなかった。聞かないことが、何も見ていないという意味なのか。エレナには分からなかった。その分からなさが、花の毒より長く残った。

 その日の夜、エレナは宿へ戻ると、まず剣を外した。腰が軽くなる。以前なら、依頼を終えた後のその軽さは安堵だった。

 今日は違った。

 鈍っていた。

 間合いは間違えていない。

 判断も遅れていない。

 それなのに、最後の一歩と剣だけが遅れた。

 エレナは奥歯を噛んだ。数日、剣を置いただけでこれか。いや、違う。毒だ。花を挿すたびに指先が痺れる。舌の奥に苦みが残る。その毒が、剣まで鈍らせている。

 机の上に花を置く。

 いっそ捨ててしまえばいい。

 剣を鈍らせるものなど、持っている意味がない。美しくなったところで、斬れなければ死ぬ。死ねば、顔も何もない。

 エレナは花を掴んだ。そのまま窓へ向かおうとして、指が止まった。花弁の端が、丸まっていた。今朝までは違った。

 迷宮で摘んだ花だ。

 ただの花ではない。

 水をやらなくても、ずっと同じ光を保っていた。花弁の奥の銀色も、消えなかった。なのに、今は弱っている。黒に近い紫の花弁が、少し乾いている。銀の光も、今朝より鈍い。

 エレナは息を呑んだ。捨てようと思った手が、動かなくなった。剣が鈍ったことへの怒りが、少しずつ冷めていく。代わりに、別のものがせり上がった。

 終わる。

 この花が枯れたら、終わる。

 鏡の中の女も。

 街で向けられた視線も。

 綺麗ですね、という声も。

 そして――アルデンの傍らにも立てなくなる。

 依頼の最中なら、今までの顔でも隣に立てた。剣を振るい、背中を預ける仲間としてなら。

 けれど、それだけだ。

 依頼が終わったあとも隣を歩くこと。

 酒場で向かい合って話すこと。

 彼が自分だけを見ること。

 そんな未来を夢見られるのは、この顔だけだった。この花が枯れれば、その可能性も消える。まだ始まってもいない未来ごと、失われてしまう。

 エレナは花を握る手を緩めた。

 捨てられなかった。

 机に戻す。

 指先には、まだ痺れが残っている。舌の奥には、まだ苦みがある。それでも、花を捨てることだけはできなかった。

 それからも、エレナはアルデンと何度か依頼を受けた。

 受付で花を外して、いつもの顔で登録証を出す。依頼を受ける。そのあと、ギルド脇の路地で花を挿す。美しい女に戻って、アルデンと合流する。

 何度か繰り返すうち、その手順にも慣れてしまった。慣れてしまったことが、少し怖かった。戦いの勘は戻っているはずだった。

 剣を置いていた期間は短い。

 体はすぐに思い出す。

 実際、最初の依頼ほど遅れはしなくなった。踏み込みも戻った。受け流しも戻った。アルデンとの間合いも、以前と同じように取れる。

 けれど、それでも、どこか違った。刃がほんの少し深く入らない。踏み込んだ足が、最後にためらう。魔物ではなく、横にいるアルデンを意識してしまう瞬間がある。

 毒のせいか。それとも、美しい姿で彼の隣に立っているせいか。そして戦いの後、どう食事に誘おうかと考えてしまうせいか。

 分からなかった。分からないまま、花は少しずつ萎れていった。

 花弁の端は、日に日に丸まっていった。銀の光も弱くなった。鏡の中の女は、まだ美しかった。けれど、最初の日のような息を呑むほどの顔ではなくなっていた。

 夢の時間が終わる。

 その気持ちに急かされるように、エレナは一人で迷宮に通うようになった。

 花を見つけた通路へ向かう。

 湿った石壁。

 低い天井。

 足元を流れる細い水。

 何度も探した。

 壁の割れ目。

 水の流れの横。

 石の裏。

 魔物の巣の跡。

 何もなかった。

 それでも翌日も行った。

 その次の日も行った。

 依頼ではない。

 報酬もない。

 魔物を斬るためでもない。

 ただ、花を探した。

 美しさを失いたくなかった。

 銀の光が、日に日に薄くなる。それでも、花はまだ美しさをくれた。完全ではない。最初の日ほどではない。けれど、花を挿せば、世界はまだ変わった。

 人が振り返る。店の女が丁寧に笑う。酒場の男が椅子を引く。アルデンの隣に立っても、少しだけ息ができる。

 ある夜、花を抜いた瞬間、鏡の中の女はすぐに消えた。いつもの顔が戻る。エレナはしばらく動けなかった。

 見慣れた顔だった。

 ずっとこの顔で生きてきた。

 この顔で村を出た。

 この顔で薬草を採り、魔物を斬り、金を稼いだ。

 この顔で強くなった。それなのに、鏡の中の顔を見ると、気持ちが沈んだ。

 机の上の花はさらに萎れていた。花弁は一枚、端から黒ずんでいる。銀の光は、もう奥に少し残っているだけだった。

 エレナは花を持ち上げた。軽かった。最初に摘んだ時は、もっと重く感じた。毒の重さ。美しさの重さ。村で髪に挿された花の記憶。全部があの小さな花に詰まっていた。今は、少しの風で崩れそうだった。

 ギルドを訪れて、受付嬢が依頼書を差し出した時、エレナはすぐにそれを受け取った。


「アルデンも同じ依頼を?」


「はい。南門で合流とのことです」


 エレナは頷いた。

 いつものように、ギルド脇の路地へ行く。花を挿す。弱い熱が戻る。鏡はない。けれど、頬の感覚で分かった。美しい女は、まだ残っている。

 これが最後かもしれない。なら、今日話すしかないと思った。この顔でなければ、訊けない。本当のエレナのことを。アルデンは、エレナという前衛をどう見ていたのか。花の女ではない自分を、どう見ていたのか。

 けれど、南門でアルデンを見た瞬間、言葉は奥へ引っ込んだ。

 相変わらず綺麗な男だった。

 立っているだけで、人の目を集める。

 門を通る女が、ちらりと彼を見て歩いていく。

 若い冒険者が、剣と顔を見比べる。その視線を、アルデンは受け流していた。慣れているように見えた。

 エレナは少し腹が立った。私にはないものを彼は全て持っている。


「行こうか」


 アルデンが言った。


「ああ」


 その日の依頼は短い時間で終わった。

 街道沿いの古い見張り小屋に巣を作った魔物の討伐。迷宮ほど暗くはない。だが、床が抜け、壁は崩れ、視界の悪い場所だった。

 二人の間合いは変わらなかった。

 アルデンが受ける。

 エレナが横へ回る。

 エレナが誘う。

 アルデンが断つ。

 口数は少ない。

 それなのに、うまくいく。

 エレナの剣は、すでに戻っていた。踏み込みも悪くない。刃も入る。だが、一度だけ、また遅れた。魔物の爪が肩をかすめる。浅い傷だった。アルデンがすぐに入った。エレナの遅れを自然に埋める。

 それが嫌だった。

 助けられたことが嫌だった。

 アルデンは何も言わなかった。

 魔晶石を回収し、崩れた見張り小屋を出る。夕方の光が、草の上に落ちていた。近くに小さな水場があった。荷馬車が時々使う場所で、今は誰もいない。アルデンはそこで足を止めた。


「数日後に、王都へ戻る」


 彼が言った。エレナは水面から顔を上げた。


「そう」


「君も来ないか」


 あまりに自然に言われたので、エレナはすぐに意味を掴めなかった。


「王都へ?」


「ああ」


「あなたの仲間は?」


「反対はしないと思う」


「思う、か」


「全員が君の腕を知っているわけじゃない。けれど、一度見れば分かる」


 アルデンは少し笑った。


「君は強い」


 エレナは返事をしなかった。

 嬉しかった。

 王都へ行く。

 アルデンの隣に立つ。

 この街の外へ出る。

 自分の腕で、もっと大きな場所へ行く。

 それは、ずっと遠くにあると思っていたものだった。

 けれど、今の自分は花を挿している。この顔で誘われている。そのことが、胸の奥に刺さった。


「……王都には、あなたみたいな人が多いのか」


「僕みたいな?」


「綺麗な人」


 口にしてから、エレナは少し後悔した。アルデンは怒らなかった。ただ、少しだけ目を伏せた。


「多いかもしれない」


「そう」


「……君にだから言うが、僕は、その言葉があまり好きじゃない」


 エレナはアルデンを見た。彼は水面を見ていた。


「生まれた時から、ずっとそう言われてきた。綺麗だ。美しい。恵まれている。羨ましい。そういう言葉ばかりだ」


 淡々とした声だった。


「褒め言葉なのは分かっている。でも、同じ言葉ばかり向けられると、自分の輪郭が削られるような気がする」


 エレナの胸の奥に冷たいものが沈んでいく。綺麗だと言われることが、うんざり。その言葉を、一度でも自分に向けられたことがあったか。

 毒を喰らって。

 剣を鈍らせて。

 迷宮を一人で探し回って。

 それでも失いたくないものを、彼は生まれた時から持っている。

 それを、うんざりだと言う。


「贅沢な悩みね」


 声は思ったより冷たく出た。


「そうだと思う」


 アルデンは頷いた。


「思う、じゃないわ。そうよ」


「ああ」


 彼は否定しなかった。

 その素直さが、また腹立たしかった。

 エレナは水面を見た。

 ふいに、村の娘を思い出した。

 湖の朝みたいな髪をした、村で一番美しい娘。

 井戸端で、エレナに手を振った娘。

 輪の中に場所を作り、白い指でエレナの髪に花を挿した娘。

 似合うよ。

 あの声は優しかった。

 優しかったから、苦しかった。

 あの娘も、そうだったのだろうか。

 綺麗な娘として、ずっと見られていたのだろうか。花を挿す手も、笑い方も、優しさも、村の誰かに見られていたのだろうか。

 そう思って、すぐに嫌になった。

 だから何だ。

 自分が苦しくなかったことにはならない。

 あの花が重くなかったことにはならない。

 エレナは奥歯を噛んだ。


「君に言うべきことではなかったかもしれない」


「あなたの悩みでしょう? 私に関係がある?」


 突き放すような声だった。アルデンは少しだけ笑った。


「そういうところが、君は違う」


「何が」


「僕の顔を褒めない」


 エレナは内心で顔をしかめた。

 違う。

 見ていないわけではない。見ないでいるようで見ている。美しいと思う。惹かれている。隣に立ちたいと思っている。けれど同時に、嫌ってもいた。

 彼が当たり前に歩いてきた場所に、自分は毒を喰らわなければ立てなかった。彼の顔を見るたび、そのことを思い知らされる。

 だから冷静に見えるだけだ。

 媚びることができないだけだ。

 笑いかける前に、胸の奥で何かが軋むだけだ。


「あなたの周りにいる人たちは、あなたの顔が好きなのね」


「そういう空気を感じることはある」


「仲間からも?」


「少しは」


「それで私からは感じないと?」


「少なくとも、同じものではない」


 エレナは花に触れそうになって、手を止めた。

 私が抱えているものは、もっと悪いものかもしれない。

 羨望。

 嫌悪。

 憧れ。

 嫉妬。

 それらが混ざって、形がなくなっているだけだ。


「それでも、僕は君に惹かれている」


 アルデンは水面から目を上げた。エレナは息を止めた。花が髪の横で、かすかに揺れた。


「腕に?」


「腕にも」


「この顔に?」


 言ってから、エレナはしまったと思った。アルデンは、すぐには答えなかった。水面に落ちた夕方の光を見ている。


「顔が綺麗だとは思う」


 エレナの胸が小さく沈んだ。

 やはり。

 そう思った。


「でも、それだけなら声はかけなかった」


「なぜ?」


「君とは戦いやすい」


「それは、誘い文句としては下手ね」


 エレナは眉を寄せた。


「そうかもしれない」


 アルデンは苦笑した。けれどその笑みさえ美しく見えた。


「けれど、本当だ。間合いが合う。余計なことを言わなくていい。背中を預ける時に、変な力が入らない」


 エレナは返事をしなかった。それは、自分への言葉なのだろうか。それとも、目の前の美しい女への言葉なのだろうか。分からなかった。分からないから、胸の奥が落ち着かなかった。


「王都へ来ないか」


 アルデンはもう一度言った。


「君の腕なら、向こうでもやっていける」


 腕。

 その言葉に、少しだけ息を呑んだ。けれど、今の自分は花を挿している。この顔で聞いている。この顔で誘われている。


「返事は……」


 エレナは喉の奥にある苦みを飲み込んだ。


「少し待って」


「分かった」


 アルデンは頷いた。


「返事が決まったらここに来てくれ」


 言いながら、一枚の紙切れを渡された。そこにはアルデンの宿と部屋の番号が書かれていた。それ以上、彼は迫らなかった。


 花は、その翌日からさらに萎れ始めた。

 花弁の端が丸まり、銀色の光が鈍くなる。髪に挿しても、最初のような熱は戻らない。街を歩いても、人はまだ振り返った。けれど、以前より少しだけ視線が短くなった気がした。

 服屋の女は変わらず丁寧だった。

 酒場の男も、まだ椅子を引こうとした。

 それでも、エレナには分かった。

 終わりが近い。

 夜、花を抜くたび、いつもの顔へ戻ることが前より怖くなった。

 同時に、花を挿している顔も、もう信じられなくなっていた。

 どちらの顔も、自分を裏切っているようだった。

 エレナは何度も迷宮へ行った。

 花を見つけた通路へ行く。

 壁の割れ目。

 水の流れ。

 石の陰。

 何度探しても、二本目の花はなかった。

 一輪だけだった。

 あの時、自分が摘んだ一輪だけ。

 花びらは、残り一枚になった。

 その夜、エレナは鏡の前に座った。

 花瓶の中で、花がうつむいている。

 残っている花びらは、あと一枚だった。

 エレナは髪を梳いた。

 服を選んだ。

 化粧をした。

 手つきは、もう最初ほどぎこちなくなかった。

 鏡の中の女は、まだ美しかった。けれど、終わる。

 この花びらが散って、元の自分に戻ってしまったら、もうアルデンに女性として声をかける勇気は持てないと思った。

 だから、今のうちに話しておきたかった。

 今ここにいる女は、本当の自分ではない。

 だから王都には行けないと。

 誘ってくれたことは嬉しかったと。

 エレナは花を髪に挿した。

 胸の奥に、弱い熱が走った。舌の奥に苦みが広がる。指先が痺れる。毒が回っている。それでも、抜かなかった。

 夜の街を歩いた。

 石畳が冷えていた。酒場の灯りが遠くで揺れていた。

 アルデンの宿は、ギルドから少し離れた場所にあった。紙切れに記された部屋の前に立つ。扉の隙間から細い灯りが漏れている。

 エレナは手を上げた。その時、髪から何かが落ちた。一枚の花びらだった。床に落ちた花びらは、音もなく崩れた。

 体から熱が引いた。

 頬の感覚が変わる。

 髪の重みが戻る。

 花の力が消えた。

 エレナは扉の前に立ち尽くした。叩ける。そう思おうとした。けれど、手は動かなかった。

 美しい自分のうちに断るつもりだった。その顔でなら、最後まで言えると思った。その顔でなら、アルデンの目を見られると思った。

 もう、その顔はない。

 扉の向こうで、椅子の軋む音がした。

 エレナは息を止めた。

 逃げるな。

 そう思った。

 けれど、足は一歩下がった。

 もう一歩。

 そのまま、階段を下りた。

 宿へ戻る道は、ひどく長かった。

 部屋に入ると、エレナは枯れた茎を机に置いた。

 服を脱がなかった。

 化粧も落とさなかった。

 鏡の前に座る。

 そこには、見慣れた自分がいた。

 ただ、いつもとは少し違っていた。

 髪は整っている。

 眉は少しだけ形がついている。

 頬には薄く色が乗っている。

 服も、剣を振るためだけのものではない。

 けれど花の女ではなかった。男たちが振り返るような美しさはない。道が自然に開くほどの華やかさもない。アルデンの周りにいた女たちのようなやわらかさもない。

 それでも、村でうつむいていた娘ではなかった。

 エレナは櫛を取った。

 髪を梳く。

 乱れたところを指で押さえる。

 化粧の崩れた場所を少し直す。

 花の力はない。

 けれど、手は覚えていた。

 服の合わせ方も。

 髪の整え方も。

 鏡の前に座ることも。

 エレナは鏡の中の自分を見た。そしてしばらくそうしていた。それから、鼻で笑った。


「しょせん、私はこんなものか」


 声は思ったより小さかった。惨めだった。けれど、目は逸らさなかった。

 翌朝、エレナは花を挿さずに部屋を出た。いつもの鎧ではなかった。花を挿していた時の華やかな服でもなかった。

 動きやすい服。

 磨いた靴。

 腰には剣。

 髪は結った。頬には、ほんの少しだけ色を乗せた。宿の女主人がエレナを見て、少し目を丸くした。


「出かけるのかい」


「ああ」


「依頼かい?」


「たぶん」


 エレナはギルドへ向かった。

 朝の街は、いつも通りだった。

 誰も振り返らなかった。

 男たちは声をかけてこなかった。

 服屋の女も、店先の掃除をしているだけだった。

 世界は戻っていた。

 けれど、エレナだけは少し戻りきれない。

 ギルドの扉を開けると、中の空気が揺れた。受付嬢が顔を上げた。


「エレナさん」


 いつもの声だった。それだけで、少しだけ安心する。自然と息を吸って、吐いた。掲示板の前に、アルデンがいた。彼は依頼書を見ていた。エレナに気づき、振り返った。


「久しぶり」


 アルデンが手を振りながら、少し笑った。胸の奥が、小さく鳴った。


「どこに行っていたんだい」


「……少し、遠出していた」


 エレナは少し考えてから言った。

 嘘だった。

 でも、完全な嘘でもなかった。

 強さの世界から、美しさの世界へ。

 毒の花の中を通って、またここへ戻ってきた。

 それは遠出に違いなかった。


「そうか」


 アルデンは頷いた。

 それ以上、聞かなかった。

 王都の話も出なかった。

 エレナも出さなかった。

 その日から、二人は何度か同じ依頼を受けた。

 花はもうない。

 受付で顔を変える必要もなかった。

 路地へ戻って髪に花を挿す必要もなかった。

 エレナはエレナとして依頼書を受け取り、登録証を出し、アルデンと南門で合流した。

 最初は少しぎこちなかった。少なくとも、エレナにはそう感じられた。アルデンの歩幅は以前と変わらない。剣を構える位置も、間合いも変わらない。依頼中も同じだった。

 エレナが誘う。

 アルデンが断つ。

 アルデンが流す。

 エレナが横から入る。

 花があった時と、何も変わっていないように見えた。それが、かえって落ち着かなかった。

 あの時のことを、彼は覚えているのか。

 王都へ来ないか、と言ったこと。

 君とは戦いやすい、と言ったこと。

 顔だけなら声はかけなかった、と言ったこと。

 覚えているなら、また誘ってくれるのではないか。

 花がなくなった自分にも、同じ言葉を向けてくれるのではないか。

 そう思う日があった。

 けれど、アルデンは何も言わなかった。

 依頼が終われば、魔晶石を渡す。

 報酬を分ける。

 次の依頼を確認する。

 それだけだった。

 エレナは、待っている自分に気づいて嫌になった。

 何を待っている。

 誘われることか。

 選ばれることか。

 花がなくても同じだと言ってもらうことか。

 どれも腹立たしかった。

 それでも、アルデンが王都の話をしないたび、胸の奥は少しずつ重くなった。ある依頼の帰り、アルデンがぽつりと言った。


「この街は、息がしやすかった」


「王都は息苦しいところなの?」


 エレナはアルデンを横目で見た。


「人が多い。依頼も多い。強い魔物も多い。強い冒険者も多い」


「いいことじゃない」


「そうだな」


 アルデンは少し笑った。


「でも、ずっとそこにいると、息が詰まることもある。依頼も、評判も、顔を知っている人間も多すぎる」


 顔。

 その言葉に、エレナは少しだけ反応した。

 アルデンは気づいたのか、気づかなかったのか、前を向いたまま続けた。


「ここへ来たのは、休みに近い。王都から離れて、少し軽い依頼を受けて、剣の感覚を整えるつもりだった」


「冒険者の休みが魔物討伐?」


「他にあまり思いつかない」


 エレナは鼻で笑った。


「馬鹿ね」


「そうかもしれない」


 アルデンも笑った。

 その笑い方は、王都から来た冒険者というより、ただの一人の男のものに見えた。


「でも、そろそろ戻らないといけない」


「ーーそう」


 エレナは足元を見た。


「王都で受ける予定の依頼がある」


「強い魔物?」


「たぶん」


 そこで会話は途切れた。

 アルデンはそれ以上何も言わなかった。

 沈黙の間、エレナは前を向いた。

 聞けばいい。

 あの話はどうなったのか、と。

 王都へ来ないかと言ったのは、本気だったのか、と。

 けれど、聞けなかった。

 聞けば、自分が待っていたことを認めることになる。花がなくなっても、まだその言葉を欲しがっていることを、認めることになる。だから、聞かなかった。

 それに、あれはエレナに向けられた話ではない。そのことがどうしても胸に刺さっていた。

 数日後、アルデンが王都へ戻る朝が来た。

 薄く霧が出ていた。

 ギルドの前に馬車が止まっている。

 荷物が積まれ、革袋が縛られ、馬が白い息を吐いていた。

 エレナは見送りに来ただけだった。

 髪に花はない。

 けれど、髪は整えてある。

 頬には、ほんの少しだけ色を乗せてある。

 腰には剣がある。

 アルデンが、荷台のそばで出発の準備をしていた。周りを何人もの女性に囲まれながら平然としている。


「来てくれたんだな」


 アルデンが歩いてきた。


「見送りくらいはするわ」


「ありがとう」


 それで終わると思った。

 馬車が動き出す。

 アルデンが乗る。

 自分はここに残る。

 それだけの朝だと思っていた。

 けれど、アルデンは馬車へ戻らなかった。


「エレナ」


「何?」


「王都には、一緒に来てくれないのか」


 エレナは答えられなかった。何を言われたのか、すぐには分からなかった。

 王都。

 一緒に。

 来てくれないのか。

 その三つの言葉だけが、遅れて胸の中で並んだ。息が止まる。終わった話ではなかったのか。

 あの夜、花が散った。美しい女はいなくなった。エレナはアルデンの部屋を訪ねられなかった。

 その後も、依頼は一緒に受けた。けれど、彼は王都の話をしなかった。だから、もう消えたものだと思っていた。

 花を挿した女に向けられた誘い。返事をしなかったことで、なかったことになった誘い。なのに、今、彼は同じことを聞いた。花のないエレナに。髪を整えただけの、頬に少し色を乗せただけの、いつもの顔のエレナに。

 胸の奥が熱くなる。嬉しい、と思うより先に、頭が追いつかなかった。

 なぜ。どうして今、聞くのか。いや、違う。今聞いたのではない。彼は待っていたのだ。あの時の返事を。美しい女がいなくなったあとも。エレナがギルドに戻ったあとも。何度も一緒に依頼を受けたあとも。旅立ちの朝まで。

 そのことに気づくと、胸の奥がまた熱くなった。

 嬉しかった。けれど、素直に嬉しいとは思いたくなかった。

 待っていた自分を見透かされた気がした。花がなくなってからも、もう一度誘われることを期待していた自分を知られた気がした。恥ずかしくて少し腹が立った。


「……今さら聞くの?」


 ようやく出た声は、少し掠れていた。アルデンは目を逸らさなかった。


「今朝まで待つつもりだった」


「ひどい男ね」


「そうかもしれない」


「分かっていたの?」


 言ってから、エレナは後悔した。

 何を、と聞かれたら困る。

 花のことか。

 自分のことか。

 待っていたことか。

 どれも、言葉にしたくなかった。

 アルデンは少しだけ黙った。


「全部ではない」


 彼は言った。


「ただ、君の剣を見ていた」


 エレナは息を止めた。


「剣?」


「ああ。踏み込む前にほんの少しだけ肩が沈む。相手の爪を見る時、顔ではなく足を見る。危ないと思った時ほど前に出る」


 アルデンは、エレナの顔を見ていなかった。腰の剣を見ていた。それから、彼女の足元を見た。


「見ていて飽きなかった。人の動きの中にも美しさがあるのだと初めて知った。花があっても、なくても、そこは変わらなかった」


 エレナは何も言えなかった。

 顔が熱くなる。

 見られていた。

 美しい顔ではなく。

 花でもなく。

 戦う時の癖を。

 自分が長年かけて身につけたものを。


「……気持ち悪い男だね」


 ようやく出た声は、思ったより弱かった。


「そうかもしれない」


「私は、まだあなたの隣に立てるとは思っていない」


 エレナは言った。アルデンは黙って聞いていた。


「冒険者としてなら、立つ。そこは譲らない」


 腰の剣に触れる。それは、すぐに言えた。強さなら、もうある。村で押しつけられた剣から始まったものだとしても。戦う道具として置かれた場所から始まったものだとしても。それでも、この剣は自分のものになった。

 けれど、それだけでは足りないと思ってしまった。

 花を挿した日から。

 服を選び、化粧を覚え、鏡の前に座った日から。

 エレナは、一度だけ息を止めた。


「……王都には、私の知らないものが多そうね」


 美しい服。

 髪の結い方。

 化粧の仕方。

 誰かの隣に剣以外のものを持って立つ方法。

 その全部を、言葉にはできなかった。

 言えば、アルデンに知られる。

 自分が何を欲しがっているのか。

 誰の隣に立ちたいと思っているのか。

 だから、言わなかった。


「あると思う」


 アルデンは言った。


「曖昧ね」


「僕は詳しくない」


「でしょうね」


 エレナは少しだけ笑った。笑えたことに、自分で驚いた。


「でも、行くなら自分で見るわ」


 アルデンの表情が、ほんの少し変わった。


「来るのか」


 エレナはすぐには答えなかった。

 王都へ行く。

 強い魔物がいる場所へ。

 強い冒険者がいる場所へ。

 綺麗な人間が、当たり前のように歩いている場所へ。

 花はない。

 けれど、剣はある。

 髪は自分で整えた。

 頬の色も、自分で乗せた。

 ここまで自分で来た。


「王都までは行く」


 エレナは言った。アルデンは黙って続きを待った。


「その先は、着いてから考える」


「長いな」


「短いわよ」


 エレナは言った。


「強い魔物も、強い冒険者もいるんでしょう。考えることが多い」


「なら、道中で話そう」


「期待しないで」


「している」


「そういうところも嫌い」


「覚えておく」


 アルデンはまた笑った。

 馬車の御者が手綱を握り直した。荷台の革袋が小さく揺れる。

 王都へ向かう道には、朝露が降りていた。

 エレナは腰の剣に触れた。

 剣はそこにある。

 もう、誰かに押しつけられたものではない。

 髪に花はない。

 風が抜ける。

 エレナはそれを押さえなかった。

 王都へ向かう道の先に、まだ知らないものがある。

 強さだけでは届かなかったもの。

 毒の花が見せたもの。

 けれど、もう花に頼らず、今度は自分の足で向かう。

 エレナは馬車に向かって一歩前に出た。そして、自分の足で荷台へ乗り込んだ。

 馬車がゆっくりと動き出すと、朝のやわらかな風が髪を撫でた。

 花の重さは、もう髪にはなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


本作は、過去に掲載していた短編をもとに、構成や描写を見直して改稿したものです。


作品についての解説を活動報告に載せています。

タイトルやエレナの心情について触れていますので、読後にご興味がありましたら、そちらも覗いていただけると幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ