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赤い瞳にじわじわと水分が染み出してくる。
淡い色の唇を、きゅっと噛みしめた。
「なんでどいつもこいつも好き勝手なのよ」
熱い息を吐きそうになるのをなんとかこらえる。
こんなところで泣きたくない。
人気のない方まで来て立ち止まり、滲みだした涙を乱暴に拭った。
「レイスリーネ!」
背後からの声にびくりと体が大きく動く。
近づいてくる足音に失敗したと思った。
走ればハイドラを引き離せるけれど、歩幅の違いで歩くだけなら追いつかれる。
背中を向けていたレイスリーネは唇を震わせた。
振り向きたくない。
「レイスリーネ、こちらを向いてくれませんか」
ハイドラはずるいと思う。
いつもレイスリーネはハイドラに弱いから、負けてしまう。
きゅっと手を握りしめると、レイスリーネはゆっくりと振り返った。
その泣き出しそうな顔に、ハイドラが息を呑む。
けれどすぐに眉を下げて、そっとレイスリーネの顔を覗き込んだ。
そのせいで、俯くタイミングを逃してしまう。
ずるい。
「どうしてあんなことを?」
そっと聞かれても答えはひとつしかない。
口を開こうとして、でも出来なくて、レイスリーネはまた唇を噛んだ。
「唇を噛んではいけません。あなたに傷がつくのは嫌なんです」
また、ずるい。
強引に訊くこともせずにそんなことを言う。
辺境にいたときだって、レイスリーネが無茶をすれば叱られた。
ハイドラが叱ったり注意をしたりするのは、いつだってレイスリーネに傷がつきそうなときだ。
「……ベアトリーチェ様とかあいつとか、みんな何でハイドラをないがしろにするの。他の人だって五年間近くにもいなかったくせに今さら……」
少し震える声で何とか言うと、覗き込んでいるお月様色の瞳が瞠られ満月のようになった。
こんなときだって綺麗だと思う。
一度ゆっくりと瞬きをすると、ハイドラはふんわりと笑みを浮かべた。
「私のために怒ってくれたんですね」
「だって……ごめん、騒ぎをおこして」
レイスリーネだってあそこまでする気はなかったのだ。
少しストレスが限界値にはきていたけれど、胸倉を掴んで凄むなんてする気はなかった。
「いいえ、嬉しかったですよ。彼と話すようになってからよそよそしくなったので、私では役不足だったのではないかと思ってしまいました。レイスリーネは違うと言っていましたが、彼を選びたいのではないかと」
「そんなの絶対にないよ!あいつストーカーのごとく付きまとってただけなんだから。さっきだって我慢できなくなっちゃって……」
「見事なスピードと的確な動きでした。さすがですね」
「ッ……そんなこと言うのハイドラだけだよ」
食堂にいる人間は全員怖がっていた。
当たり前だ。
ご令嬢があんなことをすればはしたないどころか、終わっていると思うだろう。
「あいつだって、もう近づかないよ」
「そうですね。彼と親密になりたくないと言われて、正直安堵しています」
「安堵?」
「私はレイスリーネにとって、いらない存在になったのかと思っていましたから」
小さく自嘲するハイドラにレイスリーネはぶんぶんと勢いよく顔を横に振った。
「ありえない!私はハイドラのこと大事だよ、一緒にいたいと思ってる」
何なら恋だってしている。
「私はいらなくなっていませんか?」
「もちろん! いるよ、絶対いる!」
「よかった」
レイスリーネの返事に、ハイドラはひどく綺麗に笑った。
その表情に見蕩れてしまう。
最近はまともに顔を見ていなかった。
目だってまっすぐに見ていなかったことを、久しぶりに見た満月で思い出す。
今はしんなりとたわませている瞳。
ハイドラの性質を表すような、穏やかで優しいものだ。
(やっぱり好きだな)
気づくのが遅すぎやしないかと、今さらながらに再確認する。
ずっと傍にいたい。
ふやりと口元を緩ませて、レイスリーネはハイドラと笑いあった。
せっかく一緒にいられるなら、傍にいて顔を見ない方が勿体ない。
これからは逃げずにいられそうだと安心した。
それにしても、と思う。
食堂で騒ぎをおこしたのは失敗だった。
(また野蛮人とか言われるんだろうな)
内心こっそりとため息を吐く。
慣れてるからいいけどさと思いながら。




