(9)この別離でわたしは捧げる
タウンハウスに戻ると、トマス・ベネットが青い顔で応接間の扉の前に立っていた。
「坊ちゃま、大変です」
執事の声は震えている。若主人は落ち着かせるように、肩に手を置いた。
「旦那様が……オリヴァーをプロジェクト・サフランの首謀者に仕立てようとしています。タイムズ新聞社の記者と、先ほどまで書斎で打ち合わせをしていました」
エドワードの青い目が凍り、オリヴァーの手が強く握られた。
「父上が……オリヴァーをスケープゴートに」
エドワードはトマスに詰め寄る。
「いつだ、トマス。何を聞いた?」
トマスは辺りの様子をうかがうように視線を左右に泳がせ、声の音量を下げた。
「坊ちゃまが外出された後です。旦那様は『東洋系の使用人がサフランを企てた』と。証拠を捏造し、公表するおつもりです」
オリヴァーの灰色の目が暗く沈む。
「私の血を帝国の罪の盾にしようというのですか……こんな時のために、私を従者として雇い入れたのですか……」
どこまでも用意周到な敵だと認めざるを得なかった。
「君は逃げろ。今すぐだ。追加の証拠さえ手に入れば、こんな茶番いくらでもひっくり返すことができる」
「しかし、貴方を置いていくなんて私にはできません。それに、ロバート卿の怒りは貴方にも……」
エドワードが遮る。
「君が安全な場所にいるとわかれば、私は戦える。だから、行ってくれ。頼む」
エドワードはオリヴァーのコートを押し、使用人が使う通用口へと導く。霧が世界を覆い、オリヴァーの姿が見えなくなった。
エドワードが使用人部屋に踏み込むと、ロバートがオリヴァーの荷物を漁っているところだった。
鉄灰色の髪がガス灯に光り、青い目が冷たくエドワードを捉える。
「どこに行っていた。あの東洋系の使用人はどこだ?」
目の前の強大な敵に打ち勝つことなど、できそうになかったが声を挙げた。
「父上、オリヴァーをスケープゴートにするなんて……そんな方法は間違っています。サフランは貴方の罪です」
手に持っていた杖を、ロバートは床に叩きつけた。
「罪? ハリントン家の名誉の間違いじゃないか? 帝国の繁栄のために必要な名誉だ」
エドワードが勇気を振り絞って一歩進んだ。
「暴くのは私です。マハラシュトラの民の血、父上の偽善を。オリヴァーは無実です」
息子の言葉に、父は低く笑う。
「愚かな息子だ。クララと結婚し、家の未来を守ることが、どれだけ素晴らしいことか。それがわからないのであれば、東洋系の使用人と共に消えるか?」
杖が再び床を叩き、書斎のガス灯が揺れる。エドワードは唇を噛んだ。
「ハリントンの名は、私が正します」
使用人部屋を飛び出し、霧のロンドンを走った。無我夢中で走った。
オリヴァーは安全な場所まで逃げただろうか。そして自分は、これからどこに向かおうとしているのだろうか。
何もわからない。
何もわからないけれど、どこかに行きたかった。
父子の縁は断絶した。これで良かったのだと、エドワードは思いながらロンドンの街を駆けた。
その頃、ブロックウィル書肆の隠し部屋に、オリヴァーが息を切らして滑り込んでいた。
アビジェート・シンは机に向かって座っていた。
「ウェイド、遅かったな。ロバート卿が動き出したか」
暗闇に目が光る。
「アビー、無事だったのか。ロバート卿は私をサフランの首謀者に仕立てようとしている」
アビジェートは立ち上がり、封筒を差し出す。
「これだ。決定的な証拠だ。ロバート卿とサー・ヘンリーの書簡、マハラシュトラの村の収用記録、強制労働の契約書。ここにしっかりとサインが入っている。どう言い訳しようとも、言い逃れはできないだろう」
差し出された封書から何枚かの紙片を取り出し、オリヴァーはそれに目を通した。言われた通り、書類に記載されているサインを確かめる。
「密告者はロバートの元副官だった。昨夜私にコレを渡してくれた。そして、しばらく身を潜めたほうがいいというアドバイスがあって、新聞社に私が行方不明であることを掲載するようにしてくれた」
「なるほど、それは良い作戦だったな」
読み終わった書簡を上着の内ポケットに差し入れ、オリヴァーは流れ落ちてくる漆黒の前髪を掻き上げた。
「これでサフランが終わる。これを新聞社に持っていけば」
「ウェイド。その前に、ソネットを聞かせてはくれないか。君のその声をよく覚えておきたいんだ」
アビジェートの濡れた黒い瞳が、じっとオリヴァーを見つめた。
これから先、何が起こるかわからない。もしかすると、永遠の別れになることも考えられる。そんな思いが交わる視線の中で行き交った。
「何がいい?」
「そうだな……18番がいいな」
――君を夏の日にたとえよう
アビジェートに乞われて、シェイクスピアのソネットを読む。ブロックウィル書肆の隠し部屋に、豊かなテノールが響いた。
オリヴァーは、シェイクスピアは幸せだったのだろうかと思わずにはいられなかった。
ある青年に対する同性愛を中心にして、シェイクスピア壮年期の愛と苦悩を描いた詩は、この18番から始まる。
この詩集を刊行したとき、シェイクスピアは劇作家としての名声を確立していた。だが、どんな人も未来はわからない、ということだけは平等だ。
何かにすがり、期待し、幸福であろうとする。
未来を思い描くことを辞めてしまったら、現実に飲み込まれて自分が自分ではなくなってしまう気もする。
オリヴァーの無実が証明されれば、ハリントン家はスキャンダルに巻き込まれるだろう。できる限り明るい未来を思い描こうとするのだが、失敗したまま最後の節を読み終えた。
「君の朗読は、何度聞いても素晴らしいよ」
「……」
シェイクスピアのソネットを朗読したあの日を思い出し、迷っているオリヴァーにアビジェートは言う。
「お前が監獄に行ったら、一生仕えることはできないぞ」
オリヴァーは決意した。
例え、自分がどうなっても構わない。けれど、せめて。あの人だけは救いたい。
自分の出自について何も聞かず、救ってくれたあの人だけは。
ロンドンの新聞社といえば、タイムズ新聞社だった。古い顧客層を持ち、盤石の経営体制を整えている。
それに対抗するように現れたのが、イラストレイテッド・ロンドン・ニュース(ILN)である。名前の通り、精細な図版で労働階級の人間でも分かりやすいと評判になり、徐々に売上げを伸ばしていた。
オリヴァー・ウェイドは馬車でオックスフォード・ストリートを疾走し、迷うことなくILNのオフィスに向かった。
騒然とした雑居ビルが立ち並ぶ中、場違いなほど光り輝く存在がILNのオフィスの前で、オリヴァーを待っていた。
「やはりこちらに来たか」
「エドワード様」
馬車から降り立ったオリヴァーは、駆け足で近寄る。
「こんなところに居ては危険です」
「私の危険など構うな。それよりも証拠は持ってきたのか?」
青い瞳が、睨み付けるように上向いた。
「ここに」
上着の内ポケットの場所を、掌でポンポンと叩くと、エドワードの顔がぱっと明るくなった。
「いいぞ」
オリヴァーは、アビジェート・シンから受け取った封筒――プロジェクト・サフランの決定的な証拠を携えている。
これがあれば、ロバート・ハリントンらが関わる一連の搾取が明らかになる。
「行こう」
「……しかし」
自分1人が犠牲になればいいと決心してやって来たオリヴァーは、ためらった。
「君と一緒でなければ、もうどこにも行かないぞ」
「……しょうがないですね」
「ふん……やはり、君の笑顔は悪くないな」
悪戯した子どものように微笑まれて、オリヴァーも釣られて笑った。
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