(7)巨大な舞台の上で
「オリヴァー……」
呼ばれて顔を上げると首筋に両手が伸びてきて、エドワードの唇がオリヴァーのそれに重なった。口づけはどんどん深くなり、舌が絡み合う。息が弾むエドワードの唇が離れた瞬間、そっと肩を押された。
「オリヴァー?」
「やはりダメです。これ以上はあまりにも危険です」
金髪と黒髪が混じるように額を寄せ、苦しげな吐息を吐き出す。
「私はあなたに一生を捧げると決めたのです……あなたの名誉を汚せば、私は貴方に仕えることができなくなる」
「……まだ早い、と言うのか?」
こくりと頷くオリヴァーに、わかったと小さくエドワードが答えた。
「私が焦りすぎたようで、すまない」
乱れた襟元を慣れた手つきでオリヴァーが整える。
「私の貴方を思う気持ちは、ずっと変わりません。ですから安心して時が満ちるのを待ってください」
エドワードは微笑みながら、絨毯の上に落ちていたソネット集を拾った。
「なら、今夜はこの詩を読んでくれ。ソネット116番、シェイクスピアの言葉だ。『愛は動かぬ標』、君の光は、私の過去を超える」
オリヴァーがソネット集を受け取り、ページを開く。
「『嵐にも揺らがぬ』……私と貴方は、父上の帝国も、法も超える」
窓の外は相変わらず霧が濃く、遠くのガス灯の光もぼやけたままだった。
タウンハウスの静寂の中、暖炉の火がゆっくりと燃え尽き、ソネット集を手にした2人の影が1つになった。
ロンドンの朝靄の中、高級な住宅街で知られているベルグレイヴィア地区の一角で、ハリントン家のタウンハウスが目覚めた。
ビロードのカーテンとマホガニーの家具、壁には肖像画が並んだ邸宅の朝食の間では、銀のティーポットが湯気を上げている。
エドワードは白いリネンのシャツに、濃紺のベストをまとい、朝食が並ぶテーブルで新聞を広げた。金髪が朝日に輝き、青い目は紙面を急ぎ足で走る。
銀のトーストラックには焼きたてのパンが並び、ゆで卵やベーコン、ソテーしたマッシュルームなど多品目の料理がどれだけ魅力的な芳香を放っても、彼の目は新聞へ釘付けになっていた。
若主人の配膳を済ませたフットマンが部屋から居なくなると、階下からオリヴァーが現れる。
「何か面白い記事でもございましたか?」
「逆だ。何もない」
通常であれば、主人の食事の間は部屋に数人のフットマンを配置し、食事の世話をさせるのだが、エドワードの一任でそれを全てオリヴァーに担当させている。そのおかげで、朝食の間にはエドワードとオリヴァーの2人きりの空間ができあがっていた。
「今日も父上は早くに出かけたようだな」
「はい。エドワード様の朝寝坊にはうんざりしていたご様子でした」
朝寝坊の原因は夜遅く暖炉の前で起こったことだと気がつき、ハリントン家の後継者の頬がほんのり色づいた。
誤魔化すようにエドワードは紅茶をすすり、そして新聞をめくった。
「例の活動家のメイドの話がそろそろ出てくるのではないかと期待していたが……ないようだ。プロジェクト・サフランと言ったか? あの話もない」
プロジェクト・サフラン。インドのマハラシュトラ州の反英勢力を、一体どんな組織が武力で鎮圧したのだろうか。制圧し、強制収容した土地を綿花プランテーションを拡大するためには、財力も必要だ。
「ロバート卿なら、新聞社に圧力をかけることも可能でしょう」
オリヴァーの穏やかな声が、静かなタウンハウスに警戒の鐘のように響いた。
モンタギュー家の晩餐会の後、ロバートはサー・ヘンリーと共に宿泊した。事件をもみ消すための算段をしていた可能性も高い。
エドワードは、青い目を失望で曇らせて新聞を畳もうとした。その時、新聞の中に見慣れぬ封筒が紛れていることに気づいた。
封筒は粗い繊維の毛羽立ちが目立ち、インクも滲んでいる。紙の質が明らかに悪い。イギリスの書簡とは異なる存在感だった。宛名も住所も、そして切手も貼られていない封筒の隅に、点と線を組み合わせた模様のようなものを発見して、エドワードの視線が鋭くなった。
「オリヴァー、これを見ろ」
封筒を手に持ち、暖炉の火にかざす。
「これは……モールス信号ですか?」
封筒の隅に書かれた点と線の模様は、モールス信号だった。
「父上が軍で使っていたと聞いたことがある。私も少し教わったのだが、ここは『危険』と書いてある」
くるりと封筒を裏返す。
「こちらは『至急』だ。危険が近づいてきていることを知らせているのだろうか?」
オリヴァーは封書の開封用のナイフを片手に持ち、目を細めた。
「慎重に開けてみます」
「気をつけろよ」
ざっと紙が切断される音。粘りのある頑丈な紙がナイフに絡まるが、開封できたものをエドワードに手渡した。中に入っている折り畳まれた紙を広げる。
「……噂をすれば、だ」
手紙にはプロジェクト・サフランの詳細――マハラシュトラ州のどこの土地を収用したのか、強制労働の証となる斡旋業者への支払い額、モンタギュー家を含む貴族からの投与関与の詳細――を暴露するものだった。
走り書きの文字にはいくらかの焦りを感じた。
文末に署名はないが「裏切り者は裁かれる」と脅迫めいた一文も添えられている。
「モンタギュー家の晩餐会で、父上が不自然だった理由はこれか。あの夜、サー・ヘンリーと密談し、隠蔽しようとしていたんだ……そういえば、ハリントン・ホールにいた頃、父上が急にロンドンに行ったことがあったな。あれも、もしかすると、このような書簡がここに届いた、とか?」
オリヴァーも手紙を手に取り、文章を確かめた。
「匿名の告発者か……モールス信号を使うなど、英国側のやり口でしょう」
タウンハウスの朝食の間が静かになり、遠くの使用人の足音が聞こえる。
エドワードは立ち上がった。
「今すぐ新聞社へ行こう。この手紙を渡せば、プロジェクト・サフランは終わる!」
だが、彼の腕をオリヴァーが掴んだ。
「待ちましょう、エドワード様。それはあまりにも無謀です」
刑罰の宣告を待つような不安をまぶした灰色の目が、鈍く光る。
「これを公にしたら、ロバート卿のみならず、貴方の将来まで潰れることになります。今までにも似たようなことはあったでしょう。それをやすやすと握りつぶす手腕の持ち主です。証拠隠蔽のためなら手段を問わない。あるいは、私をスケープゴートにすることもありえます……」
「そんなことは……いや、あの父上ならやりかねないな」
力を失ったエドワードは、すとんと椅子に腰を落とした。
「まずはこれが本当のことなのかを確認しましょう。元英軍通訳でインド出身の私の大学自体の知り合いがロンドンにいます。プロジェクト・サフランのことも何か知っているかもしれない」
どうすることもできない巨大な影に押しつぶされまいと、エドワードは体に力を込めて頷いた。
「アビジェート・シン、彼はインドの声を代弁する者です。彼ならこの手紙の裏をも読み解けるでしょう。モールス信号の送り主も特定できるかもしれない。晩餐会の陰謀にも、繋がるはずです」
「信頼しているんだな」
「……嫉妬ですか?」
オリヴァーはエドワードの前に片膝を付き傅いた。
「私はエドワード様に一生を捧げております。どうか……気を静めてください」
硬くこわばったエドワードの手を両手で包み込み、甲にキスを落とした。
「……オリヴァー、君って本当にわかってないな」
「どうしましたか?」
「気を静めるどころか、そんなことをされたら昂ぶるじゃないか」
2人はコートを羽織り、タウンハウスの扉を開ける。
霧はいくらか薄くなったが、まだ1ブロック先の景色も見えない。せわしなく行き交う馬車の車輪が、石畳を軋ませている。
エドワードはソネット集に手紙を挟んで握った。
アビジェートの待つブロックウィル書肆までは、徒歩で行くことにした。歩いて30分ほどになる。
「アビーとは、本当に何もなかったんです。信じてください」
「わかった。もうわかったから」
カツカツと音を立てて石畳の上を歩くエドワードは、苦笑いを浮かべた。
「そんなに何度も繰り返されたら、僕が悪者みたいだ」
オリヴァーは眉を上げただけで、何も言い返してこない。
子どもじみた嫉妬だと、エドワード本人だってわかっている。なのに、自分の心が上手くコントロールできない。こんな風になるのは、初めての経験だった。
複雑な心境のまま歩いていくと、煤けたレンガ造りのブロックウィル書肆が姿を現した。
ディスプレイにはミルトンの『失楽園』が控えめに飾られている。
「アビーの部屋は2階の隠し扉の奥にあります」
「隠し扉だって? まるでディケンズの小説みたいだ」
オリヴァーが微笑む。
書肆のドアを開くと軽やかな鈴の音。女主人は2人の姿を認めると、小さく頷いた。オリヴァーが何も言わず人差し指を上に向けると、彼女はカウンターのカウベルを鳴らした。カランコロンと、可愛い音がした。
狭い階段を上り、2階の書棚の奥へと進む。オリヴァーがシェイクスピア全集の2巻の背を押すと、鈍い音とともに隠し扉が開いた。
埃と蝋燭の煙が漂う小さな部屋に、アビジェート・シンが立っていた。
30代半ば、褐色の肌に黒い髪、英軍の古い制服を改造したコートを纏っている。インドの伝統的な模様が施されたショールを椅子に掛けている。机には地図と書簡が散らばり、インドの村のスケッチが壁に貼られている。
「ウェイド。久しぶりだな」アビジェートがオリヴァーに手を差し出した。
「アビーは大学の頃から、何も変わっていないな」
再会の挨拶は短かった。アビジェートの鋭い目が、植民地の傷と抵抗の炎を宿して、エドワードに向けられたからだ。
「ハリントンの後継者か。父の悪行をもみ消しにきたのか?」
英軍での訓練を想像させる逞しいアビジェートに怯えることなく、エドワードが封書を差し出した。
「これが我が家に届いた。父には知らせていない。これについて君の意見を聞かせて欲しい」
アビジェートは封書を開き、モールス信号の記号を一瞥した。
「『危険』……そして『至急』、内部の者の仕業か」彼の顔が硬くなる。「プロジェクト・サフラン。土地を奪い、村を綿花の奴隷に変えた。強制労働、飢餓、事故死……モンタギュー家が資金提供をしている」
エドワードの青い目が衝撃で揺れる。
「やはりモンタギュー家が計画に加わっていたのか……。クララはこれを知って、私に近づいてきたのだろうか」
アビジェートは冷たく笑った。
「クララ嬢は知らされていないだろう。だが、彼女の父、サー・ヘンリーは首謀者の1人だ。ロバート卿と結託し晩餐会で隠蔽を企てた。サファイアの首飾りが狙われていることを知っていたからな」
あの日の晩餐会で起こった出来事は、新聞にも掲載されていないはずだ。だというのに、目の前の褐色の男は見てきたように語った。一瞬にして彼の言葉に真実味が増したようにエドワードは思えた。
オリヴァーは「手紙の送り主はわかるか? モールス信号を使うところを見ると、軍関係者だと思われるが」と聞く。
彼は地図を指した。
「心当たりがある。ロバート卿の側近、元軍人だ。裏切りを恐れて、こうやって密告したんだろう。今夜、会ってこよう。報告を待て」
彼はコートを羽織り、隠し扉の奥に姿を消した。部屋の暗がりで隠れた場所に、裏口があるようだった。
「父の悪行、か……。だが、知った以上は対策を取れる。オリヴァーの言った通り、ここに来て良かったよ。君の知恵とアビジェートの証拠で、忌まわしき作戦を終わらせよう」
「ですが慎重に。霧の向こうには敵がいますよ」
オリヴァーに促されて、隠し部屋から退室した。
書肆を後にした2人は、馬車でハイド・パークへ向かった。社交シーズンのまっただ中、公園は着飾った貴族に彩られ、生気に溢れていた。
プロジェクト・サフランのこと、いや、インドで苦しみながら生活している者たちがいることなど、みじんも想像していないような人達が集い戯れている。エドワードは公園に集まったこの貴族達のように、素直に振る舞えなくなっていることを感じていた。
午後の陽光が芝生を金色に染める。貴族令嬢たちが馬に乗り、白い乗馬服とヴェールで優雅に闊歩する。屋根なし馬車では、パラソルを掲げた令嬢たちが笑い声を響かせ、紳士達の視線を集めている。花壇の薔薇が咲き乱れ、湖の水面にはアヒルや鴨などの野鳥たちが漂う。
贅を尽くした貴族たちの振る舞いに心は惹かれなかったが、エドワードの青い目は別の側面を見ていた。
馬車の上で若い伯爵が、令嬢に詩を読み、彼女が扇で顔を隠して笑う。風に吹かれて飛んだ令嬢の帽子を拾った紳士が、返す振りをしてこっそり手を握りしめる。
そんなハイド・パークの景色がいちいち気になる。おおっぴらにしていい愛の営みに、羨望を抱いていたのだ。
エドワードは、馬車という狭い空間の中で、オリヴァーの肩に寄りかかり囁いてみることにした。
「あんな風に君へ愛を囁きたいものだ」
「エドワード様。朝のハイド・パークは貴族が出演する舞台のようですね。誰もが求められた役を演じている」
エドワードはそっと従者の手を握ろうとしたが、素早く手が退き、触れることができなかった。
「……ケチ」
馬車の中なんだから、少しぐらいいいじゃないか、という主の不満一杯の声に、オリヴァーは苦い笑いを浮かべる。
馬車を降り、湖畔の小道を歩くことにした。エドワードのフロックコートの裾が風に揺れた。貴族令嬢の視線が、エドワードの金髪に注がれた。パラソルの影で、彼女たちが囁く。
「ハリントン卿のご子息よ……なんて魅力的なのかしら」
「隣の従者も……エキゾチックは雰囲気で素敵よ」
湖畔の小道は、池に沿ってゆるく曲がっている。ハイド・パークの中にある池は、人工的に作られたもので、ボートを楽しむこともできる。近くで様子をうかがおうとする不埒な貴族が、ボートでエドワードの近くまで寄ってきた時、オリヴァーは自然な仕草で主人をエスコートしてそれらから遠ざけた。
「見せつけてやればいい」
「いけません。エドワード様はご自身の存在について、過小評価しすぎです」
オリヴァーがため息をついた。
「エドワード様へのお誘いの手紙が1日にどれほど届くかご存じですか? レディ・エレノア、ミス・キャサリン、伯爵夫人の姪……そのどれもに私が丁寧にお断りの文章を綴っているのです。インクの減りが早いと、トマスに注意されました」
エドワードは驚いた。
ロンドンに拠点を移してから、まだ一度も晩餐会に招待されていないことに気づいてはいた。その理由がこんなことだったなんて、想像もしていなかったのだ。
「断りの返事は、君が書いてくれていたのか」
君の知性をもってすれば、お断りの文章も秀逸な言葉選びに無駄のない修飾語で、物語のように素晴らしいのだろうな、とからかうとオリヴァーが苦笑した。
「従者の仕事としては当然のことです。ですが、正直……彼女たちの手紙を読むたび、胸が締め付けられる思いです。誰もが貴方を愛している」
エドワードは立ち止まり、オリヴァーの肩を掴んだ。
緑の香りを含んだ風が、頬を撫でる。
「オリヴァー、もしかして……嫉妬してるのか?」
いたずらに光った目が、すぐに真剣な色に変わった。
「僕もだよ。書肆で、君の過去を聞いた夜、グレアムとかいう男を想像して……君を誰かに奪われるような」
「いけません、それ以上は」
手袋をしたオリヴァーの指が、そっとエドワードの唇に触れた。
「聞いてしまったら、私の理性が保てなくなります」
2人は湖畔のベンチに座った。
ハイド・パークの喧噪が遠ざかり、咲き始めた薔薇の初々しい芳香が漂う。
貴族令嬢たちの笑い声、パラソルの影、馬の蹄の音、どれもが遠く別の世界ようにも思える。
エドワードはそっとオリヴァーの肩に頭を預けた。
「アビジェートは上手くやってくれるだろうか」
オリヴァーが頷く。
「ええ。きっと上手くやってくれます。それを願いましょう」
夏の予兆を感じさせる陽光が、金髪と黒髪を輝かせる。
湖の野鳥が、何かに怯えて急に飛び立った。
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