(6)恐れることなかれ、我らの秘密を
霧がロンドンの石畳を白く染める夕暮れ、チャリング・クロス通りの裏路地にひっそりと佇むブロックウィル書肆の扉を、エドワード・ハリントンとオリヴァー・ウェイドがくぐった。
入り口の木製ドアは重く、開けると小さな鈴がチリンと鳴った。棚にはぎっしりと本が詰まっており、通路は狭く迷路のようだった。
ガス灯の淡い光が、店内の革装丁の本と誇りの香りを照らし、知の聖域を浮かび上がらせる。本は様々な著者が入り混じり、ラテン語の哲学書の隣にインドの旅行記が置かれている。
この書肆は、オリヴァーが大学生の頃から通っていた秘密の場所でもあった。
そんなことを知らないエドワードの金髪は、霧の湿気を帯びて柔らかく揺れた。青い目は、書肆の薄暗さでも好奇心が隠せない。燕尾服の内側から匂い立つような貴族の優雅さの中、少年のような緊張感のかけらを零している。
「ここが君の隠れ家なのか」
オリヴァーは黒いウールのコートを着込み、控えめな微笑みを浮かべている。黒い髪が額に落ち、革装丁の本を片手に佇む様子は、元からそこにあったように調和していた。
「ハリントン・ホールの書斎より、ずっといいよ」
エドワードは、書肆の本棚の間を歩きながら言った。
「あの書斎は、帝国の金箔がギラついていましたからね」
英国らしい皮肉に、お互い笑みを深める。
従者として傍らにいるオリヴァーも、寡黙で格好良くて素敵だが、本当に好きなものに囲まれてリラックスした様子の彼も年相応の青年らしくて良い。
エドワードはそんな風に思いながら、店内のあちこちを見て回った。
「やあ、オリヴァー。久しぶりじゃないか。元気にしてたかい?」
声をかけてきたのは、この店の女主人、エミリー・カーター。
細い輪郭の顔に知的なはしばみ色の目、それらが旧知の仲であるオリヴァーとの再会に光り輝く。
「ご子息の従者を、オリヴァーが勤めているんだって? 噂話なんてこれっぽっちも信じてなかったんだけど、どうやら本当らしいね」
オリヴァーの隣に立つエドワードも視界に収め、顔の右側をくしゃりと歪ませた独特の笑顔で歓迎の意を表しているようだった。
エドワードも悪い気はしなかった。
「上に行っても問題ないだろうか」
「もちろんだよ、オリヴァー。久しぶりに来たんだから、ゆっくりしていきなよ。ハリントン家のご子息もね」
「ありがとうございます」
貴族の完璧な笑みを真正面から浴びたエミリーは、照れを隠すように赤みがかった髪を直した。
そのまま2人は、狭い木の階段を上った。鍵のかかった扉が見える。ここは、許可された客だけが入れる希少本の部屋だ。
ギイと音を立ててドアを開くと、硝子ケースに入れられた初版のシェイクスピアや中世の写本が並べられている。埃っぽい空気と、かすかなインクの匂いがオリヴァーには懐かしい。
窓は1つだけで、色あせたカーテンが無造作にかかっていた。数少ない蝋燭が、頼りなげに揺れている。
それぞれ気になった本を手に取り、中を改めていると1階から階段を上ってくる足音が聞こえた。書肆の女主人、エミリーの声が響く。
「オリヴァー、お客様だよ。あなたを知ってるって」
彼の手が一瞬凍る。灰色の目が、戸惑うように揺れた。
「もしかしたら、旧友じゃないのか? 私のことなど気にしなくていい」
エドワードの声を遮るように扉が開き、男が現れた。
灰色のフロックコートに金の懐中時計。顔は細く、口ひげが整えられ、目は鈍い緑色の中年の紳士だった。
知的で優しげな男性の姿に、エドワードは意外そうに眉を寄せた。オリヴァーと比較すると、やや年上だったからだ。旧友だと思っていたが、予想を外してしまったらしい。
オリヴァーは冷静に一礼して口を開いた。肩が僅かに硬直しているのを、エドワードは見逃さなかった。
「ミスター・グレアム。久しぶりですね」
グレアムと呼ばれた男は、緑色の目を細めた。まるで、オリヴァーを舐め回すような湿度で。
「ウェイド君、久しぶり。オックスフォードの学生が、こんな立派な大人になったとはね」声には、懐かしさが含まれていた。
エドワードがオリヴァーに視線を送る。彼は静かに、その視線の意味に応えた。
「エドワード様。こちらはミスター・グレアム。私の学生時代の……知人です。ここで何度か会ったことがあります」
オリヴァーの言葉は淀みなくすらすらと流れていった。しかし、グレアムの微笑みは意味深に歪んだ。
「何をそんなに紳士ぶっているんだ、ウェイド君。君が本を買う金を得るために、路地裏で私と過ごした甘い夜を忘れたのか?」
空気が凍る。
蝋燭の炎が揺れ、エドワードの青い目が驚愕で見開かれた。
「過去は過去だ、グレアム。私は貧しさから抜け出すために選んだだけです。あなたも、私の知識に金を払った。それだけのことだ」
グレアムは低い笑い声をあげた。
「潔いな。だが、君の灰色の目は今もあの夜と同じだ。鋭くて、どこか寂しい」
エドワードは拳を硬く握った。青い目を彩る長い睫毛が震える。「オリヴァー、彼は何を――」
言葉の途中で、オリヴァーが彼の手を軽く押さえ、遮った。
「聞く必要はない。過去を恥じてなどいないのです。オックスフォードの奨学金では足りず、書肆の本を買う金が必要だった。私の体は、詩と知識への道だったんですよ」
冷静にオリヴァーが言い放つと、グレアムの顔から笑みが消えた。
「立派だな、ウェイド君。君の噂を小耳に挟んで、懐かしくてつい来てしまったけれど、今日のところはこれで失礼しよう」
彼は一礼し、階段を下りる。足音が遠ざかって、静寂が書肆に戻ってきた。
エドワードの青い目が、オリヴァーを捉える。
「オリヴァー……君がそんな過去を……なぜ黙っていた?」
「貴方に知られたくなかったわけじゃない。だが、貴族が私の過去をどう受け止めるか、怖かったんです」
オリヴァーの指がソネット集の背表紙に伸びたかと思ったら、寸前で止まった。
この時代、イギリスにはソドミー法があった。ヘンリー8世時代の1533年に同性愛による性交は重大犯罪と規定され、同法による有罪宣告者には死刑が科されることもあった。
取り締まる必要があったということは、それを楽しむものが多かったというのも事実である。
「怖い? 君が? 過去が何であれ、君の知性と心は変わらないじゃないか」熱を帯びたエドワードの声に、オリヴァーの灰色の目も感化されたように揺れた。
「ありがとうございます。ですが、貴方はハリントンの後継者です。私の過去が、貴方の名誉を汚すことになるかもしれない」
それでなくとも、従者となってからは『東洋風』の見た目で様々な偏見が露呈した。従者が主に対して、余計な仕事を増やしているのではないかと、オリヴァーは思っていたのだ。
エドワードは首を振る。
「名誉? 父上の帝国の金箔のことかい? 僕には君の詩があればいい」
オリヴァーの手に重ねるように、エドワードはソネット集を棚から抜き出し、ページをめくった。
「でも……どうやら君に私の秘密を打ち明ける時がきたようだ」
オリヴァーの眉が上がる。「秘密?」
互いの声が低く小さくなった。
「僕は……女性を愛することができないんだ。クララ・モンタギューも、どんな美しい令嬢も、心を動かさない。何故かって? それが母の呪いなんだよ」
何度か聞いたことのある言葉に、オリヴァーが息を飲む。
「社交界の規範を守り、父上の期待に応えられるように生きてきた。けれど……私は自分の愛は呪われているんだ」
エドワードの母親は、幼い頃に命を落とした。原因は産後の体調不良だった。
世継ぎを産むという、重大な仕事を終えた彼女は、安心したように息を引き取った。乳母に育てられたエドワードにとって、母親の記憶はほとんどない。生まれてすぐのことだったからだ。死因もはっきりわからなかった。そもそも華奢な体つきで、体力がなかったのかもしれない。
母の呪いが判明したのは、エドワードがセント・ジェイムズ宮殿の接見会に参加した後のことだった。
接見会とは、女性たちにとってのデビュタントと同じような意味合いを持ち、男性が君主に拝謁を賜る儀式のことである。英国皇太子が主催する会で、無事に接見を終わらせ、タウンハウスに戻ってきたエドワードに親戚等たくさんの知り合いが挨拶に来た。
その中の、母親の親戚筋であるエドワードの叔母が、ついぽろりと言葉を零したのだ。
「この歳になって、まだ女性とお付き合いしたことがないですって? 何かの呪いじゃないかしら」
相手は軽口のつもりだったのかもしれない。本気ではない、あるいは緊張していたエドワードをほぐそうとしていたのかもしれない。
けれど、その言葉でわかってしまったのだ。この年まで女性に心がときめかないのは、誰かの呪いなのだと。
同性愛を禁ずる法律のある国で、異性を愛することができなければ、それは呪いだった。そして、呪った相手は誰なのかを考えた時に、一番最初に思い浮かんだのが母親だった。
顔も声も感触も覚えていない。だが、彼女を殺したのが自分だとすれば、呪われても当然。
それに気づいた時、これまで自分の身に降りかかってきた出来事――舞踏会で必要以上に接近してきた令嬢の失望の眼差しや、何度か晩餐会で隣合った令嬢から急に冷たくあしらわれたことも――全ては呪いのせいだと思えた。
エドワードの見目麗しさと家柄に惹かれて近づいてくる令嬢たちは多かったが、彼の心が自分に向けられないと悟った時、掌を返すように態度を変えて去っていった。
こんなにも女性に嫌われるのは、呪い。母の呪いなのだ、と。
自分は愛を得ることなく、また、愛を与えることもなく生きていかなければいけないと思っていた。
「君を愛することで呪いが解けたような気持ちだ」
書肆の店内に灯された、数少ない蝋燭が、2人を祝福するように照らした。
いつからだろう。オリヴァーのことが好きになったのは。もしかしたら、出会った日からその予兆はあったような気もする。
オリヴァーの口角が、ほんの少し上がった。
「エドワード様、貴方の告白にはとても感謝しています。けれど、心配は増えましたよ」言葉は冷静だった。
「どんな心配だ?」エドワードは驚いた。
棚から取り出したソネット集をペラペラと捲り、シェイクスピアのソネット116番をオリヴァーが指さす。
「『愛は動かぬ標』と詩は言う。けれど、貴方が私を愛するなら、イギリスの闇が君を飲み込むでしょう。君の家の名誉、社交界の偏見……私の過去も、危険の要因にしかならない」
動揺を隠すように唇を噛むオリヴァーを見返しながら、エドワードは微笑んだ。
「君の過去も、私の呪いも、大英帝国の虚飾にすぎない。マハラシュトラの民の涙だ。僕らはそれを正そうじゃないか」
「エドワード様は、私のことを詩人探偵だなどとバカにしておりましたが、よっぽど貴方が詩人ですよ」
「そうかな?」
オリヴァーの顔に血色が戻ってくる。溶けたような、甘い笑顔が広がった。
霧深いロンドンの夜が、書肆の硝子越しに広がっている。蝋燭の光が、ソネット集と絡み合う2人の指を照らす。ガス灯の遠い光が、影を1つにした。
「君の過去も、僕の呪いも、一緒に超えていこう」エドワードが囁く。
「そして、真実で帝国を」オリヴァーが落ちてきた前髪を払った。
チャリング・クロス通りで馬車を拾い、ハリントン家のタウンハウスへ戻ることにした。
馬車の軋む音が、2人の沈黙を包み込む。
ブロックウィル書肆での出来事――オリヴァーの過去の告白とエドワードの呪い――が、新たな親密さを産んでいたことは確かだった。
馬車という狭い空間に、密着した互いの体から伝わってくる体温が、今までとは違った意味を持っていた。
霧深いロンドンの夜を駆け抜け、タウンハウスの前に到着した。重いオークの扉を開いて、邸内に入る。使用人達は既に退いているため、とても静かだった。残された暖炉の小さな熾火が、応接間のビロードのカーテンとマホガニーの家具を赤く染めている。
エドワードは燕尾服の襟を緩め、オリヴァーに近づいた。
「君は今夜、私の秘密を聞いた。そして、僕も君の秘密を知った。もうお互いに隠すものはないだろう?」
だが、オリヴァーの灰色の目の奥には、貴族のエドワードを汚してしまうのではないかという恐れが生じていた。
「エドワード様のために、私は……私の一生は捧げると決めたのです。けれど私の存在が、貴方の名誉に影を落とすことになるかもしれない」
「名誉? 帝国の虚飾なんて必要ない。オリヴァー、僕には君の詩があればそれでいい」
エドワードが微笑むと、暖炉の火が目に反射する。青い目が燃えた。
そのまま彼はゆっくりとオリヴァーの手を引き、暖炉の前に導いた。毛足の長い絨毯が、足音を吸収し、霧が窓硝子に白い模様を描く。
見上げるようにエドワードは、オリヴァーの頬に触れ、指先で唇をなぞった。
「君の目は、書肆で出会ったあの男に見せたのと同じか?」
好奇心と愛が混じり甘い音色のようだと、従者は感じていた。
「グレアムのことがそんなに気になりますか?」
「ああ。もちろん。僕の知らない君のことを、彼は知っているんだからな」
オリヴァーがエドワードを引き寄せて抱擁した。黒いコートが、燕尾服と触れ合う。
「汚したく……なかった……でも」
オリヴァーの呟きは、エドワードの唇で封じられた。
暖炉の前で抱き合い、濃厚な口づけが始まる。舌が唇を探り、禁忌を焼きつくす熱さで溶け合った。オリヴァーの手が背に回ると、エドワードのポケットに入っていたソネット集が絨毯に滑り落ちた。
何度か触れ合い、熱を交換した。口づけが途切れると、青い目が、灰色の目を射貫いた。
「教えてくれ。君の過去を。どんな夜を過ごした? どんな男だった?」声は熱を帯び、嫉妬と愛が交錯していた。
一歩下がったオリヴァーが苦しそうに言葉を吐き出した。
「なぜ知りたいのですか。私の汚れは、貴方の未来を曇らせるだけなのに」
エドワードが首を振る。金髪が揺れ、燕尾服のボタンを外した。
「君の過去が汚れだなどと思わない。君の全てを愛したいんだ」
オリヴァーはため息をつき、暖炉の前に座った。絨毯に膝をつき、ぽつりぽつりと言葉を選んで過去を語った。
「オックスフォードの学生時代、奨学金は授業料と生活費に消えました。本――シェイクスピア、ルソー、バーク、それらを買うお金は早々に尽きた。それで、路地裏で男達に体を売ることにしたのです。グレアムはその1人です。金持ちの商人で、書肆の常連だった。彼は私の知識に金を払い、夜が明ければ本をくれた」
エドワードも、オリヴァーの隣に膝をついた。
「どんな夜だった? 君は……感じた?」
「感じる? エドワード様。あれは仕事です。冷たい石畳、霧の匂い、男たちの息。心は本棚へ置き去りにして、シェイクスピアのソネットを暗唱しながら夜を耐えたんです」
皮肉に歪んだオリヴァーの唇が、陶器のようなエドワードの頬にそっと寄せられる。
「私が感じるのは……今、ここにある尊い存在だけです」
エドワードの手がオリヴァーの首を滑り、再度口づけを求めた。
暖炉の火が2人と影を壁に投じて、ビロードのカーテンが霧の夜を閉ざす。
いつしか、オリヴァーの唇がエドワードの首筋に降りてきて、緩めた襟の隙間をこじ開けた。
「……あっ」
「感じますか?」
「熱くて……溶けてしまいそうだ」
「こんな子どもの戯れで?」
オリヴァーは重いコートを脱ぎ捨てる。白いリネンのシャツが暖炉の火に透けた。見せつけるようにゆっくりとボタンを外し、胸もとを大きく開く。オリヴァーの無駄のない象牙色の肌が、エドワードの目の前にさらされた。
「君はマハラシュトラの星よりも美しいな」
エドワードの囁き声は、サファイアの首飾りの冷たい輝きとは対照的な温かさを持っていた。
オリヴァーはそんな彼を絨毯の上に優しく押し倒し、口づけを深く交わした。
「汚してくれ、オリヴァー」
「……本気ですか」
「君になら……いや、君でなきゃ嫌だ」
「貴族がわがままだという噂は……本当だったんですね」
あの夜、男たちがオリヴァーの体を暴いていったように、エドワードの体を暴く。
細く繊細な従者の指が、主の腰を撫でた。ズボンのウエストのラインをなぞるだけで、エドワードの腰がびくりと震えた。
お読みいただきありがとうございました。
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