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夜を乗り越えたソネットたちは  作者: 佐海美佳


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(3)サファイアも金箔の碑も

 それから一月ひとつきほど、二人の距離は、主従という言葉で縛るにはあまりに脆く、そして濃密なものへと変わっていった。


 ハリントン・ホールでの朝は、決まって銀の盆に乗せられた熱い紅茶と、オリヴァー・ウェイドの静かな足音から始まる。かつては当然の権利として享受していた身の回りの世話が、近頃、エドワードにとっては甘美な拷問に等しい時間へと変貌していた。


 姿見の前に立つエドワードの背後で、オリヴァーが手際よくリネンのシャツの襟を立てる。鏡越しに視線が絡みそうになり、エドワードはあわてて視線を自分の喉元へと落とした。

 オリヴァーの手が、糊の利いたクラヴァットをエドワードの首に回す。

「失礼いたします」

 低く、落ち着いた声。それと同時に、オリヴァーの細い指先がエドワードのうなじをかすめた。

 ――熱い。

 ただの生理的な体温に過ぎないはずなのに、触れられた箇所から心臓まで、直接火をつけられたような錯覚に陥る。エドワードは反射的に肩を強張らせ、肺の中の空気を止めた。

 オリヴァーは主人の動揺に気づかぬ風を装い、至近距離でクラヴァットのノットを整えていく。彼の灰色の瞳は、手元のシルクの布地を冷徹なまでに見つめていたが、その長い睫毛の影がエドワードの視界を支配した。

 ふと、オリヴァーが顔を上げた。鏡の中ではなく、現実の、わずか数センチ先で二人の視線が真っ向からぶつかり合う。

 オリヴァーの瞳に映る自分は、誇り高き貴族の顔をしていなかった。熱に浮かされ、何かを乞うような、ひどく無防備で生々しい男の貌をしていた。


「……エドワード様?」

 オリヴァーの声が、戸惑ったようにわずかに揺れる。彼の指先が、仕上げとして襟の形を整えるために、エドワードの脈打つ喉仏のすぐ横に留まった。

「襟が、少しきつうございますか? お顔の色が……」

「いや」

 エドワードは、震えそうになる声を無理やり喉の奥で抑え込んだ。

「……そのままでいい。直す必要はない」

 むしろ、もっと指を立てて、そのままでいてくれ。

 そんな従順でない願いが口から零れそうになり、エドワードは自分の内に芽生えた醜いほどの独占欲に戦慄した。

 オリヴァーが指を離そうとした瞬間、エドワードは無意識に、わずかだけ顎を引いてその指を自身の肌へと押しとどめてしまう。指先がピクリと跳ね、二人の間に、春の嵐の前触れのような、重苦しい沈黙が流れた。

 やがてオリヴァーは、何も言わずに深く頭を下げ、指を引いた。

 離れていく体温を惜しむように、エドワードは鏡の中の、完璧に整えられた自分の首元を忌々しく見つめた。この端正な装いが完成するたび、自分と彼は「主人」と「従者」という、越えがたい境界線の中へと引き戻されてしまうのだと、痛いほど理解しながら。


 4月の復活祭まで1ヶ月となり、田園地帯を見下ろす丘の上にあるハリントン・ホールはにわかに騒がしくなっていた。

 英国議会が始まる時期は、ロンドンのタウン・ホールに拠点を移す必要が生じる。そのため、荷造りや移動の挨拶などやらなければならないことが多々あった。

「これでも、うちは母上が居ない分、荷物はそうとう少ないはずだ」

 着替えを収める大きなカバンが、50個ほど積まれた玄関ホールを、エドワードは階段の上から眺めて言った。

 母はエドワードが幼い頃亡くなった。出産という体力を削り取られるものに、華奢な身体が耐えられなかったのだろう。エドワードは乳母の手で育てられた。父ロバートは何度か復縁を勧められていたようだが、どれも上手くいかなかった。

 結局、父1人、子1人。そして家の外に数多くの愛人が点在している。

 英雄色を好む、と言えばまだ聞こえはいいのかもしれないが、エドワードはそんな父があまり好きではない。

「女性は着飾ることが仕事でございます。荷物が多くなるのは必然です。しかし、男性が着飾る場面も大事ですよ」

 上等な生地で仕立てられた黒の燕尾服を着せかけながら、オリヴァーは憂鬱そうな顔の若主人を励まそうとしてくれているのがわかる。憂鬱な気分を振り払うように、荷物の山から視線を外した。

「オリヴァーもそれなりの格好を……」

 エドワードは、一瞬言葉を失った。

 主人よりは格を落とす服装ではあるが、控えめな華やかさが彼の美点と合わさり、相乗効果を生み出している。ジャケットは新しくしつらえたものだ。細やかな織り目がオリヴァーの黒髪と馴染み、一層上品に見せた。糊の利いたパリっとした白シャツに、グレーのベストを合わせると、元々上背がある紳士の体躯がさらに美しく見える。

「君がそれなりの格好をしたところを、初めて見たぞ」

 物珍しいものを見るように、オリヴァーの頭から足の爪先まで何度も視線を往復させた。

「お仕えするようになって1月ほど経ちますが、エドワード様が社交嫌いのため、この姿を披露することができなかっただけです」

「社交が嫌いとは言わないさ。ただ、無駄だとは思っている」

「同感です」

 硬すぎる襟を指で撫でながら、オリヴァーは笑った。

「しかし今日は断れない相手だから」

 ドサッと音を立ててソファに座り込んだエドワードは、窮屈そうに腕を回した。


 今日の晩餐会の主催は、モンタギュー家である。

 モンタギュー家は、そもそもインドの綿花と紅茶貿易で財を築いた振興貴族。ハリントン家ほどの伝統はないが、富と影響力で社交界でも台頭してきた。

 インドという共通項もあり、ロバートとサー・チャールズが近しい付き合いをするようになったのは、エドワードが生まれるよりも前だった。ハリントン家には息子が、モンタギュー家には娘が生まれ、本人達が知らぬ間に父親同士で縁談が決められていた。

 モンタギュー家の娘クララは、社交界の花とも呼ばれるほど眉目秀麗な女性である。エドワードにも好意を示している。親同士も了承しているのだから、すぐにでも結婚できるのだが、彼のあと一歩が足りなかった。

「ピンと来ないのは、おそらく母上の呪いなんだろうな」

 ぼそりと呟いたエドワードに、オリヴァーは片眉をひょいと上げた。

「なんですか、その非科学的な根拠は」

「いや、なんでもない。気にしないでくれ」

 ふう、と息を吐き出したエドワードは窓、春風に揺れる庭の緑を見た。

「昔からのお知り合いでしたら、それほど気を使うこともないでしょう」

「だから今日は参加するんだ。家族同士の会ということだし、参加する人数もそれほど多くない。確かに、気楽ではある。ああ、君のことも紹介しておかないとな」

「失礼のないよう心がけます」

 その時、階下から声がかかった。

「出発のご準備はよろしいですか」

 執事トマスの声だ。晩餐会には、ロバートに付き添う形でトマスが、そしてエドワードにはオリヴァーが付くことになっていた。

「すぐそちらに向かう」

 いつもの溌剌さが弱いエドワードの声に、苦笑いを浮かべながらオリヴァーが後に続いて階段を下りた。

 つぼみを大きく膨らませたマグノリアが、ハリントン家の家紋が輝やく馬車の後で揺れていた。

「我が息子よ。少し早いが出発しよう」

 ロバートの薄い唇が僅かに緩んだ。晩餐会に相応しく、黒の燕尾服に白いリネンのシャツ、金の懐中時計の鎖がベストに輝いている。軍人らしい引き締まった体躯をしているが、戦争で傷つけた足の調子が悪く、黒壇の杖に体重を乗せるように立っていた。

「慌てなくとも、クララは逃げたりはしませんよ」

「クララは逃げないかもしれないが、お前が逃げるかもしれない」

「私よりも、投資家の方が逃げ足は速いでしょうね」

 ロバートのこめかみがぴくりと震えた。

 晩餐会では、令嬢クララ・エリザベス・モンタギューの縁談を勧める一方、ロバートとサー・チャールズは投資家との結びつきを強めたいという目的があるのだろうと予想していたが、その反応を見る限り当たっていることをエドワードは確信した。

「流石、我が息子。政治家にとって必要な素質が眠っているようだ」

「勘弁してください。私は政治家になるつもりはありませんよ。領地を守るだけで手一杯です」

「エドワード。ハリントン家の未来はお前次第なのだよ」

 ロバートの青い目が鋭く光る。期待はされているのだろうけれど、どこか冷たく、そして重い。エドワードは父の言葉に距離感を感じてしまう。

 よい恋愛をし、よい結婚をする。よい子育てをしながら、ハリントン家を守る。それこそがお前の生きる道なのだと押しつけられているようで、気も重い。

「よろしいですか?」

 トマスは、細い腕で馬車のドアを押さえていた。ロバートとエドワードが乗り込むとドアは閉められ、馬車の後方にトマスとオリヴァーが並んで立った。御者が馬に鞭を振るう。

 穏やかな春の夕方は、霧深い夜を連れてこようとしていた。


 白亜の大理石と鉄柵に囲まれたジョージアン様式の邸宅が、晩餐会の会場だった。

 左右対称で直線的なデザインはシンプルで洗練されていて、ガス灯が門を照らしていた。小さな窓には重厚なビロードのカーテンが見え、玄関の柱には繊細な彫刻が施されている。

「エドワード、今日は来てくれたのね」

 重厚な玄関の扉を開くと、正面には左右へ広がる大階段がある。軽やかな足取りで、クララが降りてきた。

「永遠の美の緑が登場した」

 エドワードの賞賛に、オリヴァーは一歩下がったところで頷く。

 クララ・エリザベス・モンタギューは、エメラルドグリーンのシルクのドレスを着用していた。細い肩が映えるオフショルダーに、スカートの裾にはたっぷりのレース。肩まで伸びる栗色の巻き毛を、真珠があしらわれたピンで優雅にまとめて、サファイアのネックレスが彼女の気品を際立たせている。

 ロバートとの丁寧な挨拶を終えると、緑色に輝く瞳をエドワードに向けた。

「紹介するよ、こちらは新しい私の従者、オリヴァー・ウェイドだ」

「初めまして」

 しなやかな動きで、エチケットを完璧にこなしたおじぎをして見せるクララは、好奇心で瞳を輝かせた。ドレスのレースが軽やかに揺れた。

「もしかして、この間までグリーヴス家の家庭教師をなさっていた方?」

「その通りです」

「今日は、アーサー卿もいらっしゃるわよ」

「そうですか。では、ぜひご挨拶をしなければ」

 エドワードは、親しげに会話をするクララとオリヴァーと共に、大食堂に隣接するサロンへ移動する。春とはいえ、まだ寒い夜に備えて暖炉には火がくべられていた。窓からは闇に飲み込まれたウィルトシャーの田園風景が見える。

 ――私と会う時よりも、クララが楽しそうだ。

 エドワードは釈然としなかった。

 クララはこの婚約には賛成をしていたはずだった。自分の見た目も気に入っていると言われたこともある。それなのに、私よりも従者を選んだことがチクリと胸を突き刺した。

「父から家の未来を担うため、と私も家庭教師から文学と歴史を学んでいたのですよ」

 クララの言葉に、オリヴァーが灰色の目を穏やかに細める。

「学問は身を助けます。お美しいレディにも、必要なものです」

「まあオリヴァー、私もその考えには同感だわ。なのに、社交界で出会う令嬢達は誰も肯定してくれないの。そんなのって、おかしいと思いません?」

「おそらく、エドワード様はご同意いただけると存じます」

 名前を聞いて思い出したように、クララが振り返る。サロンの至る所に飾られている小さなバラの溢れる芳香が、エドワードの鼻をくすぐった。

「知識は令嬢を輝かせる宝石ですが、クララ嬢のネックレスもまた、素晴らしい輝きですね」

 ネックレス、という単語に引き寄せられるように、サロンの来客の視線が集まった。

 ガス灯の光が反射し、輝くサファイアには星型が浮き上がる。その15カラットのスターサファイアには「スター・オブ・マハラシュトラ」という名がつけられていた。エメラルドグリーンのドレスに、クララの微笑み、スター・オブ・マハラシュトラの紺碧の輝きに「まるで天国の星」とゲスト達が囁いた。

「お祖母様から受け継いだ家宝ですわ」

 クララが恥ずかしげにうつむいた。

 クララの祖父サー・ウィリアム・モンタギューが1851年のロンドン万博で公開し、大英帝国の至宝と賞賛されたスター・オブ・マハラシュトラは、サファイアの周りに12個の小さなダイヤモンドを花弁のように配置し、金の台座に嵌まっている。繊細な金の鎖に吊され、胸もとで優雅に輝いていた。

「お噂はかねがね」

 オリヴァーが、心配そうに眉根を寄せながら言った。

「とても素敵なネックレスですが、華奢なクララ様の首には、少々重いのでは?」

「そうね。晩餐会が始まれば、部屋の金庫に戻しておくわ。何かあったら困りますもの」

「それがよろしいかと存じます」

 社交界の花が、好意的な笑みを浮かべるのをエドワードは静かに見つめた。

 自分に向けて咲き誇る笑顔が、今日はオリヴァーが独占している。それが、なぜか気に入らなかった。

 

「おお、モンタギュー家の誇りよ」

「お父様!」

 サロンに現れたのはクララの父、サー・チャールズ・モンタギュー。コルセットに引き絞られたクララの細い腰に手を回して抱きしめた。ふくよかな体格で、白髪交じりの栗色の髪は短く刈り込まれ、後頭部に薄く残っている程度。クララと似ているのは、深い緑色の目の色だけかもしれない、と密かにエドワードは見比べた。

 黒の燕尾服に、モンタギュー家のバラ紋章が刻まれたカフリンクス。赤いベルベットのベストはボタンが窮屈そうにしている。

「スター・オブ・マハラシュトラの輝きに負けないほど、クララは素晴らしい」

「……溺愛がすぎるわ」

 美しい形の眉を少しだけ歪めて、クララが反論しながら身を翻した。そのまま部屋を出て行く。

「エドワード君、いらっしゃい」

「サー・チャールズ様、お元気そうでなによりです」

 2人は握手を交わした。

「ありがとう。君の父上とよく会っているせいで、君とも会っている錯覚をしていたよ。無沙汰をしてすまない」

「それはこちらのセリフです」

「スター・オブ・マハラシュトラのことを話していたようだが、私からも少し話をさせてもらいたい。良いかな?」

 おそらく、止めたとしても話すだろう。と言えるはずもなく、エドワードは深く頷いた。

 サロンにはほぼ全ての招待客が揃い、主催の言葉を待っている。

「インドのマハラシュトラ州の鉱山で眠っていたサファイアを掘り起こしたのは1840年。私がまだよちよち歩きをしていた頃だ。その後、まさか私もインドの綿花と紅茶という宝を発掘することになろうとは、思いもしなかったよ。モンタギュー家の富はインドにあり」

 軽妙なトークに、サロンが静かに沸き立つ。しかし、それを冷ややかに見つめるオリヴァーの視線に、エドワードは気づいていた。

 この頃のインドは、イギリスに支配されていた。

 幼少期から、ハリントン家の富が帝国の栄光と結びつくことは当然であると、父ロバートから言い聞かされていた。社交界での会話も、大英帝国の拡大は秩序と進歩の使命と談笑する投資家に話を合わせることもあった。

 けれど、エドワードはこの反映の恩恵が貴族に偏っていることに漠然と疑問を抱いていた。冷ややかな視線を隠すこともしないオリヴァーの視線で、その思いはより一層強いものとなった。

「お父様、そろそろ時間ですわ」

 父親の話の前に退室したクララがサロンに戻ってきた。胸もとを飾っていたスター・オブ・マハラシュトラが無くなっている。先ほどオリヴァーがアドバイスした通り、部屋の金庫に戻してきたらしい。

「うん。では晩餐室へご案内しよう」

 招待された、貴族、投資家、そして軍人など約15名は、それぞれ男女のペアとなって晩餐室へと向かうことになった。


 しかし、その時は誰も想像できなかった。

 大英帝国の至宝が、何者かによって盗まれることになろうとは。

お読みいただきありがとうございました。

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