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夜を乗り越えたソネットたちは  作者: 佐海美佳


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(2)ダークロードの瞳は太陽に似ず

 エドワードは、ハリントン・ホールの自室の窓から眺めていた。

 ゴシック様式の壮麗な館、大理石の大階段やシャンデリアが輝く舞踏室、広大な庭園。それがハリントン・ホールを形容する言葉だ。

 産業革命によってイギリスは、世界の富を集めることができた。しかし、搾取され続けている植民地はどんな状況なのだろうかと、常々エドワードは憂慮している。

 晴れ渡った青空のように澄んだ瞳が、煙で曇った。

 豪奢な館に住むことができるのは、その植民地を下敷きにしているおかげなのかと思うと、自分自身が汚れているようにも思えた。


「仕事には慣れたか?」

 ハリントン・ホールの2階にある、エドワードの自室で身支度を手伝うオリヴァーは、主人の質問に少しも手を止めずに答えた。

「おかげさまで、トマスさんにはよくしていただいております」

 シュル、と小気味の良い音を立てて、シルクのクラヴァットが結ばれる。

 オリヴァーの神経質そうな細い指が、器用に形を整えていくのを、エドワードは眺めるしかなかった。

 経歴上家庭教師をしていただけだという割に、トマスが一度やってみせると従者の仕事を完璧にこなし、次々とマスターしていった。衣服の扱い方、靴の手入れ、銀食器の磨き方。いずれも、現役執事と肩を並べるほどの技術を身につけるのに時間は要しなかった。

 もしかすると、生まれながらの従者ではないかとエドワードは密かに思っていた。

 仕事が終われば、休憩時間はほとんど図書室にこもっている。無駄なおしゃべりも、世間話さえも、ほとんど聞いたことがない。トマス以外の使用人たちと、交流している場面も見たことがない。

 よっぽど本が好きなんだな、とエドワードが軽くからかった時も「本の世界があれば生きていけます」とあしらわれた。無駄なおしゃべりの相手になるよりは、エドワードとしても好ましかった。

 おまけに、記憶力も申し分ない。

「本日の午後、毛織物業の会合へ挨拶に伺う予定です」

「午前中は時間があるということか」

 ふぅん、と何事かを考えている様子のエドワードに、オリヴァーは首を傾げた。

「何か問題のあるお仕事でもございましたか?」

「いや……というか、何も気にならないのか?」

 深い青の瞳を曇らせながら、オリヴァーの顔を見上げる。エドワードよりも少し背の高い彼は、何か思いついたような気配を見せたがとぼけた。

「質問の意図がわかりません」

「気づいているんだろう? 君のことを噂する使用人たちのことには」

「それでしたら、特に問題はないかと思います。言わせておけばいいのです」

「意外と図太いんだな」

「エドワード様の従者としてのお仕事が滞りなく行えて、かつ、本を読む時間があれば私は満足です」

「……本の虫め」

「何かおっしゃりましたか?」

 ふっと、口元を緩めるオリヴァーの笑顔は、妙に心を惹きつけられるから、エドワードは嫌いになれないでいた。


 執事のトマスが、厨房で噂を聞いたとエドワードに忠告してきたのは、数日前のことだった。

 トマスはオリヴァーのトレーナーとして関わっていることもあり、同情的だった。若主人に対して敬意を示すように、目を伏せて報告してきた。

「使用人たちの軽率な言動が、彼を傷つけているのではないかと心配で」

「具体的にどんなことを?」

 額の生え際がやや後退した薄茶色の頭を傾げ、トマスは声を低く抑えて状況を伝えた。

「オリヴァーの黒い髪や灰色の目が、東洋的だと言い始めたのは馬丁のジョンです。それから、インド人の血が入っているのではないかとか、気取った態度を取る異邦人だとか、厨房主任のメアリーまで同調しております」

 この頃のイギリスでは、植民地出身者や東洋系の人々に対する偏見が根強く、特に使用人階級の間では外国人への猜疑心が強かった。

 オリヴァーの特徴的な黒髪や灰色の瞳が、中傷の種となり、根も葉もない噂が広がっているようだった。

「これはハリントン家の名誉に関わる問題かと存じます」

 体裁と名誉を重んじる貴族階級の執事らしい回答をするトマスに、エドワードは頷いた。

「確かに良くないな」

 自分たちと違う文化を、受け入れがたいという気持ちはわかる。だが、目の色や髪の色を理由に、人を差別するのは許しがたい。

 産業革命による経済発展で、世界の覇権を握る大英帝国の繁栄の裏には、『異邦人』の国と協力してきたつながりがある。理想主義と笑われるかもしれないが、彼らを見た目だけで差別しているようでは、この先の帝国には未来はない。エドワードはそんな風に思っていた。

「ロバート様のお耳に入らないよう、また表沙汰にはしないよう、こちらでも注意しておきます」

 父はどう考えているのだろう。

 エドワードは一瞬考えてみたが、大英帝国の権威そのもののような姿を思い出し、あまり良い方向に予想結果は転がらなかった。

「父の件は頼んだよ。僕はなんとか解決する方法がないか、考えてみる」


 なんでも器用にこなすオリヴァーにも、欠点がある。

 人付き合いがほとんどないおかげで、使用人仲間から距離を置かれてしまっているのだ。それに拍車をかけているのが、彼の見た目である。

 漆黒の髪は孤高の美しさを誇っていたが、金髪や赤髪の中ではどうにも目立った。涼しげな目元は鋭利な美しさを際立たせたが、人を寄せ付けなかった。

 隙の無い美しさは、人を魅了もするが、拒絶もする。

 従者としての仕事さえ無事にできればいいが、孤立してしまってはそれも難しいことがある。

 本人は気にしていないようだが、主としてはこのまま黙って見過ごす訳にもいかない。

 確かに、オリヴァーはとっつきにくい雰囲気なのだが、冗談がわからない堅物という訳でもないし、人並みに優しさも持ち合わせている。偏見という色眼鏡がなければ、使用人達ともそれなりに付き合っていけるはずだと、エドワードは思っていた。


「父上は今日も昼餐会に参加するのか?」

 着替え終わったエドワードは、控えているオリヴァーに向き合った。

「いえ。今日はロンドンに出かけております。昨日、ロンドンのタウン・ホールに残していた使用人が、とある貴人からのメッセージを受け取りまして、大旦那様は朝早くに出発されました。明日には戻ってくるかと」

 部屋の小窓を開けると、緑の濃い空気が流れ込んでくる。柔らかなウェーブを描くエドワードの金髪が、ゆらゆら揺れた。

「では、今日の昼は大広間で使用人たちの労を労う会を開こう」

「はい?」

 突然の提案に、オリヴァーは切れ長の目を大きく見開いた。

「トマスにそう伝えろ。そして、君は図書室から我が家の家系図を探しておくように」

 悪戯が思いついたようにウィンクしながら指示を出す若い主に、オリヴァーは驚きながらも頷いた。

「かしこまりました」


 それから、使用人達はトマス主導で大広間のセッティングに忙しく立ち働いた。

 普段は貴族のゲストを招いて食事を行う場所に、ハリントン・ホールの使用人が集うことになった。それは使用人達にとって、晴れがましく、また名誉なことでもあった。

 ベージュのクロスを敷いた長い机に、真っ白なダマスク織りのクロスを重ねる。ナプキンは折り紙のように畳んで、それぞれの席に並べた。

 テーブルの上には、色とりどりの花やシダ、ツタ、フルーツを飾った。自家の果樹園で、庭師達が丹精込めて育てたリンゴや杏、チェリー類がガラスの器に盛られている。あり合わせの材料で作られたスープと、シンプルなパンも添えられている。

 フラワーアレンジメントも、館の庭師が手がけた。小ぶりの花が花瓶に形良く収まり、テーブルを華やかにする。

 それら全ての作業を、執事であるトマスが監督していた。フットマンやメイドたちが整えるテーブルをチェックし、料理の献立を厨房主任と相談して決める。貴族同様とはいえないまでも、普段よりも豪華な食事にありつけると、厨房の中は活気に溢れていた。


 全ての準備が整うと、トマスがエドワードを迎えに来た。

「準備が整いました」

「オリヴァーの準備はどうだ?」

 図書室から何冊かの本を抱えて、彼は静かに頷いた。

 3人が大広間に降りると、いつも料理を運んでいるフットマンたちが、本当に椅子に座っていていいのかと自信なさげに視線を彷徨わせている。その他の使用人達は席についていた。

「配膳は我々3人で担当しよう」

「若主人様、そんな!」

 ハリントン家自慢の若主人に、そんなことはさせまいと厨房主任のメアリーが立ち上がった。

 メアリーはハリントン・ホールの料理を担当している。この土地の美味しいものに精通しており、農家との付き合いも上手くこなして、素朴だけれど華やかな料理でハリントン家の胃袋を満たす。

「いいんだ。今日は皆の労を労うための会だ」

 黒いウールのドレスを着たメアリーの肩を、エドワードがポンと叩く。

 田舎に住む料理上手な母親、を形にすればこうなるという見た目で、全体的なシルエットは丸く角がない。

 申し訳なさそうに座った彼女が、料理の説明をしている間に、エドワードとトマスとオリヴァーは次々と料理を運んだ。

 貴族が集う正式な昼餐会ではないので、皿の数もそれほど多くない。手分けすれば、厨房との往復も数を抑えられることができた。

 館の使用人は、全部で約20名。いつもは着飾った紳士淑女が集う大広間に、仕事着のまま使用人たちが着席しているのが、常にない景色であった。自分で言い出したにも関わらず、エドワードは楽しげにそれを眺める。

「では、神に祈りを捧げよう」

 食事の前の儀式は家長が行う。今日はロバートが不在のため、エドワードが主導して行った。

「諸君、ハリントン家の名誉は皆の働きにかかっている。だが、名誉とは何か? それは多様な血と知恵が織りなすものだ」

 祈りを終え、軽やかな口調で始まった若主人の言葉を、使用人たちは緊張しながら耳を傾けた。ざわめきが静まると、暖炉の火音が響く。

「ここに我が家の家系図がある」

 オリヴァーが持っていた本に挟まっていた紙を、エドワードが広げた。古びた紙はところどころ破れて、赤茶けていた。

 ――いい感じに古びて文字が読めなくなっているな。

 エドワードは内心ほくそ笑みながら、片手にそれを掲げた。

「我が祖先には、17世紀にインドの交易商と縁を結んだ者がいた。ハリントン家の富は、そのスパイス貿易が基となっている。だから、もし誰かに『東洋の血』があるとすれば、それは私だ。どうだ、諸君、私を異邦人と呼ぶかい?」

 明るい口調で話すエドワードに、使用人達は半信半疑ながら笑った。粗末なエプロンの端を握りながら、メアリーも合わせるように微笑んだ。馬丁は泥だらけのブーツの踵を、機嫌良さそうに鳴らした。

「ハリントン家は、異なる出自を敬う家だ。噂や偏見は、館のスープに塩を入れすぎるようなものさ。味を損なうだけだよ」

 スープを飲んでいたジョンは、喉を鳴らして飲み込んだ。メアリーも、膨らんだ赤ら顔で照れ笑いをしている。

「それに、これは秘密の話なんだが」

 整ったエドワードの顔が近づけられたメイド達は、照れて顔を伏せた。

「父上にはインド人の愛人がいらっしゃるんだ」

「まあ」

 年若いメイドたちは、愛人という単語だけで頬を赤らめた。その様子を見守りながら、トマスは残り物のワインをフットマンたちに分け与えた。エドワードの後に控えていたオリヴァーは、困惑した表情をゆっくりと緩める。

「坊ちゃまも大きくなられた」

 泣きそうな顔のトマスから、オリヴァーはワインの瓶を受け取った。使用人達のグラスに注ぎ、ワインの瓶を空にする頃には、それまであった使用人達の間にあったわだかまりが、ほろほろと解けているように感じた。


 昼食会が無事に終わり、着替えを済ませたエドワードとオリヴァーは茶会の形式で集められた毛織物業の会合に向かうため、馬車に乗っていた。

 なんとか上手く切り抜けることができた、とエドワードは安堵した。

 少々芝居じみた演説をしてしまったことは恥ずかしいが、それで使用人達の偏見が薄れたのなら。オリヴァーが今後少しでも仕事がやりやすくなったのなら、それでいい。

 エドワードはお気に入りの詩集をポケットから取り出した。

「オリヴァー、この一節を読んでくれ」

 手渡されたのは、シェイクスピアのソネット集だった。黒い革装丁に金箔の装飾が施され、表紙にはシェイクスピアの紋章が刻印されている。背表紙はすり切れ、黄ばんだ羊皮紙も所々折れた痕がある。エドワードの愛読の跡がうかがえて、オリヴァーは引き締めていた口元をほんの少し緩めた。

「どれがよろしいでしょうか」

「……127番がいい」

 馬車に揺られながら、オリヴァーは丁寧にページを捲った。

「美しさの基準。かつて、黒は美のうちに入らなかった。ものの数にはあっても、美の名を与えられなかった」

 127番はシェイクスピアが恋したと言われる、ブラック・レディについてのプロローグと解釈される。黒い髪に暗い肌を持つ女性の美しさを詩にしたものだ。

 オリヴァーの黒髪は、イギリスにおける異邦人の象徴だった。エドワードは短い付き合いではあるが、この従者をイギリス人と比較して劣るものだと思ったことがない。何でも器用にこなすし、書物への造詣も深い。

 執事のトマスの見習いをしているが、頭の回転が良いのでなんでもすぐに理解してしまう。あまりにも本を愛するあまり、人付き合いが多少おろそかになる傾向はあるが、ウィットに富んだやりとりもできる。

「私はレディではありませんよ」

 詩を読み終えたオリヴァーがそう言うと、エドワードが優しく微笑んだ。

 会合は町の教会の庭を使って行う予定だった。馬車は、春の雨でぬかるんだ道を進む。その間、完璧なイギリス英語の発音で詩を読み上げ終えたオリヴァーは、車窓を眺めていたエドワードに本を渡しながら言った。

「家系図の話は、半分でっち上げでしょう」

「なんで気づいた」

「なんで、でしょうか。よくわかりません。私の祖父には、4分の1ほど日本人の血が混ざっています。父は金髪に碧眼を持っていましたが、なぜだか私には引き継がれませんでした。それで、小さい頃からよくからかわれました」

 寂しげにうつ伏せたオリヴァーの睫毛が揺れた。

「僕は余計なことをしただろうか」

 エドワードの言葉に、オリヴァーは首を横に振った。

「いいえ。とんでもない」

 詩集の表紙に刻まれた槍の紋章を、オリヴァーは指でなぞる。

「あなたの機知に救われました。私はあなたのために一生を捧げることを誓います」

 荒れた道を行く馬車が揺れると、撫でつけた黒髪からはらりと一筋落ちてきた。しかし、それを直すこともせず、従者は黙ってエドワードの顔を見つめた。

「家を守っていくものとして、当然のことをしたまでだよ。そんなに重く捉えないでくれ」

 気にするな、と明るく言い放つエドワードは、続けてこう言った。

「君の声はとても魅力的だな。また良かったら詩を朗読してくれないか」

「いつでもご用命ください」

「さぁ、会合の場所に到着したみたいだ。山ほど名刺を手渡されることになるぞ。全ての管理は任せたからな」

 頼りにしている、と言われて、オリヴァーは気を引き締めるように背筋を伸ばして顎を引いた。

お読みいただきありがとうございました。

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