(10)永遠の詩の中で君は
ILNのオフィスは、インクと髪の匂いが充満する喧騒の渦だった。
活版印刷機のガタガタという音、記者たちの叫び声、校正刷りの紙束が、報道の熱気を漂わせる。
編集長のウィリアム・イングラムが2人を迎え、机に散らばるイラスト原稿を押しやりながら顔を上げた。
「うちにどういったご用件ですか?」
エドワードが封筒を差し出した。
「プロジェクト・サフランという非人道的な計画の詳細だ。ロバート・ハリントンたち貴族の罪、マハラシュトラの民を奴隷にしていた証拠だ。すぐに記事にして欲しい」
オリヴァーが書簡を広げる。編集長の目が惹きつけられた。
「イングラム氏、時間がない。ロバート卿は捏造証拠をタイムズに持ち込み、私を首謀者に仕立てようとしている。真実を先に印刷すれば、帝国の偽善を暴ける」
編集長のウィリアム・イングラムは書簡を読み、目を細めた。
「マハラシュトラの血……これは大スクープだ。印刷の版を今すぐ組む。霧が晴れる前に、ロンドン中に届けよう!」
彼が声をあげると、数人の記者がデスクに集まってきた。
ILNがタイムズ紙よりも先に動けば、売上げは倍増する。その1点で編集長の血は騒いだ。それに応えるように、印刷機が唸りを上げる。
「上手くいくだろうか……」
不安げな様子のオリヴァーの背に、エドワードがそっと手を添えた。
「さぁ。これで我々のできることは終わった。後は……何をすべきだと思う?」
新聞社の社員の邪魔にならないよう、2人はビルの非常階段に移動した。遠く空は夕焼けに染まり、シルエットは1つになった。
同じ日の夜、タイムズ新聞社のオフィスでは、ロバート・ハリントンが編集長ジョン・ウォルター3世と密談していた。
彼が捏造書類――オリヴァーをサフランの首謀者にしたてるための偽の契約書と手紙――を差し出す。
「ウォルター、これを1面に掲載して欲しい。もちろん、タダでとは言わない」
編集長ジョン・ウォルターが書類を見て、眉を上げた。高圧的な態度をとるロバートの様子に、表情を曇らせる。話を聞いたときから、変な焦りを感じるのだ。
世間を騒がせるようなスクープを独占したい気持ちはある。このところ、他社の新聞に売上げを横取りされているので、部数を増やすためにはいいネタだとウォルターは思っていた。だが、それが嘘だとしたら……。一日で新聞社としての信頼を失うだろう。
慎重に事を進めなければならない。それが、編集長としての決断を揺らがしていた。
「ロバート卿、疑う訳ではないのですが、証拠は確かなのですか?」
「裏付け? 私の言葉が証拠だ!」
ロバートが杖を床に叩く。だが、ジョンは怯まなかった。
「金は倍にしよう、急げ」
その場に居るものたちは誰も、他の新聞社が正しい証拠を持って動いており、霧の向こうで真実が印刷されていることを知らなかった。
「もう少し確かな証拠がないか、うちの記者が今探しておりますので」
「ふん……貧相な記者たちが探し出せるはずないだろう」
猥雑とした新聞社の空気が肌に合わないのか、ロバートは大きく息を吐き出した。
朝の陽光がテムズ川の水面を金色に染める頃、ILNのオフィスでは活版印刷機が最後の唸りを上げ、インクの濃厚な匂いが漂っていた。
校正刷りの紙束が記者たちの手で束ねられ、号外が完成した。表紙には、太いゴシック体の見出しが躍る。
『プロジェクト・サフラン暴露! ハリントン家とモンタギュー家の植民地搾取』。
マハラシュトラの村のスケッチが木版顔に、アビジェートから提供された書簡の抜粋が、鮮やかなインクで浮かび上がる。
編集長ウィリアム・イングラムは、汗とインクで汚れたエプロンを外し、大きく体を伸ばした。
「ロンドンの朝を切り裂くぞ」イングラムの叫び声がオフィスに響く。
「新聞売りに急げ! オックスフォードからコヴェントガーデンまで、号外をばらまけ!」
少年の新聞売りたちが、平たいキャップとすり切れたズボンでオフィスに押し寄せ、号外の束を肩に担いだ。
印刷機の熱が冷めぬまま、ILNの号外がロンドンの町へ飛び出す。
号外を抱えた少年たちが、弾かれたように街へ散っていく。遠ざかる「サフランの真実!」という叫び声を聞きながら、エドワードとオリヴァーは新聞社の裏口から、まだ眠りの中にある路地へと滑り出した。
数時間後には、ハリントン家の名誉は地に落ち、ロバート卿は審問会に引きずり出されるだろう。それは同時に、エドワードが築いてきた貴族としての特権、富、そして将来の爵位のすべてが霧散することを意味していた。
「後悔は、されていませんか」
隣を歩くオリヴァーが、不安げにエドワードの横顔を覗き込んだ。エドワードは立ち止まり、朝露に濡れた空気を深く吸い込んで、いたずらっぽく微笑んだ。
「後悔? まさか。こんなに体が軽いのは生まれて初めてだ。母上の呪いも、父上の金箔も、すべてあの印刷機が粉々にしてくれたよ。これからは、ただのエドワードとして君の隣にいられる」
エドワードはオリヴァーの手をとり、その指先にそっと唇を寄せた。
「オリヴァー、君が言っていたあの書肆を覚えているかい? ロンドンの片隅でも、あるいは君の故郷に近い静かな村でもいい。二人で小さな本屋を開こう。君は一日中本を読み、私は君のために紅茶を淹れる。夜には君の朗読を聴きながら眠りにつくんだ。……どうだろう、そんな退屈な一生は」
オリヴァーの灰色の瞳が、驚きに、やがてあふれんばかりの慈しみに濡れた。彼はエドワードの手を強く握り返し、その胸に顔を埋めた。
「最高に贅沢な……幽閉ですね。私の……エドワード」
テムズ川を渡る風が、二人のコートの裾を揺らす。歴史の教科書には、没落した貴族と名もなき従者の愛など一行も記されないだろう。けれど、二人がこれから綴る物語は、金箔の碑よりも永く、シェイクスピアのソネットのように色褪せることはない。
昇りはじめた太陽が、寄り添う二人の影を石畳の上に長く、一つに繋ぎ合わせていた。
「死の手が君をその影のなかに誘いこむこともない。 不滅の詩のなかで、君は、時とともに成長してゆくのだから」 ——シェイクスピア・ソネット第18番より
お読みいただきありがとうございました。
評価☆、感想などいただけますと、とても嬉しくて励みになります。
語字脱字のご連絡、大変助かります。
公開した後も、適宜修正が入りますのでご了承ください。




