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夜を乗り越えたソネットたちは  作者: 佐海美佳


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(1)君を春の日に例えようか

 エドワード・ハリントンの運命の歯車が動き出したのは、田園地帯に春が訪れようとしていた季節だった。


 グレーター・ロンドンの西に位置するウィルトシャーのブラッドフォード・オン・エイヴォン。町中には運河が張り巡らされており、雪解け水によって徐々に嵩を増していた。

 河川水を動力源とした毛織物工場が町の主たる産業だった。小さな町工場が点在しているが、英国の産業化のスピードはすさまじく、あっという間に機械化が進んだ。

 そうして、美しい田園風景に、石炭と蒸気機関が生み出す悪魔のような煙がまき散らされるようになったという訳だ。


「ご主人様がお帰りになりました」

 階下から響く声は、執事のトマスだ。

 エドワードは声を合図に、階段を下りて父親を出迎えることにした。出迎えをしなければ、食事の際に叱られることは明白だった。

 父、ロバート・ハリントンは軍人らしい厳つい体格を、持て余したようにゆっくりと馬車から降りてきた。貴族ハリントン家の誇りや、相応しい権威に満ちあふれている。

 ロバートは伯爵であり軍人でもある。インド大反乱の際に、手柄を立てたことが自慢だ。政治にも積極的に関与しており、この日も土地の有力商人たちとの昼餐会に参加してきた。

 上等なワインをたっぷり飲んできたらしい赤ら顔のロバートの後に、見慣れぬ人間が1人付いてきていることに、エドワードは気づいた。

「トマス、あれは誰?」

 隣に一歩控えて立っていた執事は、少し楽しそうな笑顔を見せて答えた。

「ご主人様からご説明があると思いますが、全てはエドワード様のためを思ってのことです」

 自分のため。その言葉は幼い頃からよく聞かされている。

 ハリントン家の世継ぎとしてのものであって、個人を見据えたものでないことを知っている。親子の情愛のように傍からは見えるかもしれないが、本人は全くそう思っていなかった。

 エドワードの心は、雪解け水に冷やされたのよりも冷たくなる。

 父ロバートのことは尊敬しているが、冷たく光る青い目を見ていると強い畏敬を抱くこともまた事実だ。

 複雑な表情で考え込んでいるエドワードを見かねて、トマスが口を挟んだ。

「悪い話ではないとワタクシは思いましたよ」

 トマスは忠実な執事である。特にロバートのことを尊敬し敬っている。

 一人息子であるエドワードのことも大事に扱ってくれた。子どもの頃は、よく遊び相手にもなってくれたものだ。楕円形の顔に、柔和な茶色の目が穏やかに輝く執事のトマスを見れば、エドワードにはわかった。あまり期待してはいけない、ということを。

「おかえりなさい」

 ロバートの顔が、息子の声に笑み崩れた。

 その後を歩いてくる青年は、こちらにほんの少し頭を下げる。烏のような黒い髪、薄い灰色の目は理知的でやや冷たい印象を感じさせた。上等なものとは言いがたいが、手入れされた流行遅れの服。踵のすり減り方からして、中流階級でも下の方なのだろう。それでも、背筋をしゃんと伸ばし、堂々とした態度で父の後を歩いてくる様子は、エドワードの興味を惹いた。

「エドワード。お前の家庭教師を紹介しよう」

「家庭教師?」

 エドワードはもう大学も卒業し、父の事業を少しずつ継いでいる立派な成人男性である。

 そんな自分に家庭教師とはどういうことなのかと疑問に思っていると、ロバートが豊かな体躯を揺らしながら笑った。きっちりと撫でつけられた鉄灰色の髪が、威厳を損なわない程度に乱れる。

「おっとすまない、ついお前を子ども扱いしてしまって」

 一つも自分が悪いとは思っていない態度に、エドワードは頬の内側を噛んだ。

「父上? どういうことですか?」

「そろそろお前に専属の従者を1人つけようと思ってな。彼の前職が知り合いの家庭教師だったので、つい間違えてしまったんだよ。すまないな、こちらはオリヴァー・ウェイド君だ」

 紹介されたオリヴァーは、完璧な角度でお辞儀をしてみせた。

「エドワード・ハリントン様、以後よろしくお願いいたします」

「ああ、よろしく」

「しばらくはトマスの元で技術を学んでもらうつもりだ」

 執事のトマスは、恭しく頭を下げる。

「承知いたしました」


 紹介が終わると、ロバートはトマスと共に館へと消えた。

 後に残された、若者2人はふっと顔を見合わせ、息を吐き出した。溌剌とした笑顔を見せて、エドワードが口を開く。

「ようこそ、ハリントン・ホールへ」

「急な話だったようで、申し訳ございません」

 ふむ、悪くない返事だとエドワードは表情を和らげた。

 確かに、トマスに言われた通り、悪い話ではないのかもしれない。同じ年頃の人間がいれば、話し相手ぐらいにはなってくれるだろう。

「きっと部屋は3階だよね」

 この屋敷には大勢の使用人達が働いている。男女合わせて20数名だが、男性の使用人は3階に部屋が割り当てられている。

 フットマンの1人であるジョージが馬車からオリヴァーの荷物を1つ抱えてきた。ジョージはまだ15歳で、体格も出来上がっていない。荷物が重いのか、少し足がよろけている。

 見かねて、オリヴァーは長い手を差し出した。

「ありがとう。後は自分で運びます」

「重そうだね、何が入ってるんだ?」

 革でできたカバンは、所々ほころびているが、オリヴァーは大事そうに抱えている。

「本です」

 エドワードは、愛嬌のあるえくぼを作りながら頷いた。

「家庭教師というよりは、学者みたいだ」

 主人自らが案内するとあって、断ることもできず、オリヴァーは大人しく後をついて階段を上った。

「前は家庭教師だったの?」

「はい。政治学と経済学を学んでいたので、それを教えていました」

「なるほどね。父が好きそうなものばかりだ」

 3階まで到着すると、左右に廊下が伸びている。エドワードは迷わず左に曲がった。

「それで、一体なんのために従者になんかなろうと思ったの。家庭教師でもそれなりに稼げるだろう。それに君の得意分野ならなおさらだ」

 家庭教師と従者を比較すれば、従者の方が給金は高い。高いが、その分仕事はハードだ。

 仕える主人の身の回りの世話一切に責任を持たなければならない。衣服の管理や、外出時の帯同、旅行時の荷造りなど全ての管理を任される。もちろん、貴族社会におけるルールにも精通し、ある程度の外国語もできることが望ましい。

「家庭教師は教える人が成長すれば、必要がなくなるので職場が変わります。けれど、従者であれば家庭教師よりも比較的長く勤めることができますし、なによりこちらには貴重な本がたくさんあると、伯爵様に教えていただきました」

「君は本に釣られてうちにやって来たの?」

「ええ、そうですが、なにか?」

 使用人達が使っている部屋に到着したエドワードは、眉をしかめた後、声を出して笑った。

「本のために生きているんだな、オリヴァー・ウェイド。そんな人、僕は初めてだよ」

 部屋にはベットが4つ、左右の壁に2つずつ並べられていた。そのうち、出入り口に近い右側が空いているとエドワードが指示すると、オリヴァーは本が詰まったカバンをゆっくり下ろした。

 装飾品もなく、必要最低限の家具のみが置いてある部屋だ。オリヴァーの部屋と同じ屋敷の中にあるのが不思議なほど、殺風景な異空間だった。

「この間、父が狩猟へ出かけた時に使用人が1人負傷してしまってね。それで代わりを探していたんだが、狩猟は?」

「いえ。全く。ですが、ロバート様には違うものを狩って来いと仰せつかっております」

 オリヴァーは、荷物がなくなった手を身体の側面に沿わせて、若い主人と向き合った。短く切りそろえた爪を揃えた様子は優雅さすら漂わせており、丁寧で几帳面な性格を表しているように思えた。

 けれど、その優雅さはエドワードの心を完全には慰めなかった。

「ああ……なるほど、そういうことか」

 憂い顔さえも美しい若者は言葉を続けた。

「もうすぐ社交シーズンだから、か」

「ええ」

 ため息とともに顔を歪める若主人は、何かを追い払うように頭を振った。

「私に早く結婚して欲しいから、嫁を狩って来いということなんだね」

 24歳となったエドワードは、成人した頃からずっと、父親に早く結婚しろとせっつかれていた。名門令嬢を何人も紹介されたが、結婚どころか、交際にも発展しない。

 金髪に深い青の瞳、彫刻のような端正な顔立ち。燕尾服が似合う長身の貴族らしい体格。礼儀正しく、社交場での振る舞いは非の打ち所がない。ロンドンの社交界では、引く手あまたであるにも関わらず、である。

「もちろん、僕にその気がない訳じゃないんだ」

 ハリントン家の次期当主として、結婚はしたほうがいいと思っている。けれど、ピンとこないのだ、と呆れながら呟いた。

「オリヴァー、君には迷惑をかけることになるかもしれないけれど、よろしく頼むよ」

「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 基本的に朗らかで、人とのコミュニケーション能力に長けるエドワードではあったが、オリヴァーにすんなりと悩みを打ち明けられたことにこの時は気づいていなかった。

「そうだ。良かったら、図書室も案内しようか」

「よろしいのですか?」

「ああ。君を図書室に閉じ込めておくから、その間に僕がトマスに声を掛けておくよ」

「ありがとうございます。なんて素敵な幽閉でしょうか」

 館へ到着してから、一番顔を輝かせたオリヴァーを楽しげに眺めて、エドワードは歩き始めた。

お読みいただきありがとうございました。

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