9. 祠に残る詠唱と残響
翌日、準備を整えて、町を出発しようとすると、ハイマの父が見送りに来てくれた。
「ハイマ、無理だけはしないように。アドニスさん、お願いします」
「僕、しっかり出来ることをします」
固まった表情のハイマを見て、フローラが微笑む。
「ちゃんと私たちが守るから安心して」
ハイマはフローラの笑顔にドキリとして、慌てて目をそらしながら顔を真っ赤に染めた。
アドニスは地図を確認しながら悩んでいた。
「この谷、霧が常に出てるって話を町の人から聞いたんだ。普通の人は中に入れないそうなんだけど」
「昔からオーブに関する祠がそのあたりにあるって話を、教会の神父さんから聞いたことがあります」
「なるほど。だったらここに行ってみよう」
不安げに周囲を見回すハイマに、フローラがふと声をかけた。
「ねえ、ハイマ君って今、何歳?」
「あ、僕は…15歳です」
「へえ。そういえばさ、私ってアドニスの歳、聞いたことあったっけ?」
「え、どうだろ…僕、今年で25」
「え!思ったより年いってるのね」
「はあ?」
2人がふざけてにらみ合っているのを見て、ハイマは思わず吹き出しそうになった。
「お二人とも仲が良いんですね。うらやましいです」
「…そうなの?」
「町に、僕みたいな悪魔と他種族のハーフの子っていなくて。話が合わなかったり、浮いちゃったりすることがあるんです。関係ない話でしたね、ごめんなさい」
アドニスが、柔らかな声で言葉を返した。
「実は、僕は小学校の先生をしてるんだ。生徒の中にも、ハーフの子が何人かいたよ。でもね、その子たちには、他の子にはない特別な魅力があった。ハイマ君が他の子と違っていたとしても、それは弱さじゃなくて、君の魅力だよ」
「…ありがとうございます」
ハイマの顔に、少しだけ柔らかな笑みが浮かんだ気がした。
フローラも、ふと話し始めた。
「私が住んでる村もさ、他種族と関わりたくないとか言って、結界を張って閉じこもってたの。でもね、種族で判断するんじゃなくて、目の前にいる人がどんな人かで見ればあんなもの必要ない。人間と魔法使いが争っていなければ…私は今ごろ、両親と一緒に生きてたかもしれない」
「…そんな経験をされてたんですね」
「まあね。魔法使いって、あなたたちと違って長生きだから、その分いろんなことを見てきたわ。でも、ハイマ君と出会えたことは私にとって良い経験になってる」
「えっ…あ、ありがとうございます…?」
「ふふ」
フローラはいじわるそうに笑って、ハイマの反応を楽しんだ。
谷へと続く道は、やがて木々が深く茂る薄暗い森へと変わった。
霧は徐々に濃くなり、数メートル先も見通せない。
葉が揺れるたび、何かが潜んでいるような気配がする。
「このあたりから急に霧が濃くなってきたな…気をつけよう」
アドニスは剣に手をかけながら前を進む。
そのとき、前方の茂みが揺れた。
突如、霧の中から複数の魔物が姿を現した。
「出た!ハイマ、下がって!」
アドニスとフローラが同時に動き、魔物と対峙する。
ハイマは一歩引きかけたが、フローラの背中を見て、立ち止まった。
(僕だけ、後ろにいていいのかな)
魔物の1体が、横から回り込むようにフローラへと飛びかかろうとする。
「フローラさん、右です!」
ハイマの声と同時に、彼の放った小さな魔法弾が魔物の足元に炸裂した。
魔物の狙いは少し逸れ、フローラが体勢を立て直す時間が生まれた。
「助かったわ」
フローラが嬉しそうに振り返る。
ハイマは、まだ震えていた。
でも、逃げ出すことはなかった。
「…怖いけど、僕だって、ちゃんと戦えるようになりたいんです」
アドニスもちらりと振り返り、静かに頷いた。
「その気持ちがあれば、十分だよ」
小さな戦闘が終わり、霧の谷へと続く道を再び進む3人。
ほんの少しだけ、ハイマの背筋が伸びていた。
谷を抜けると、空気が一変した。
霧は薄れてきたが、代わりにひんやりとした風が肌を撫でる。
岩と苔に覆われた細道の先に、小さな祠がぽつんと建っていた。
「…ここが祠か」
アドニスが静かに呟く。
祠は古く、ところどころ崩れていたが、中央に据えられた台座だけは整えられたように小綺麗だった。
「この感じ…最近誰かが触った?」
フローラが慎重に周囲を見渡す。
「待って、ここ…」
アドニスが奥の壁に視線を向け、近づいていく。
壁には、魔法で刻まれた痕跡が淡く残っていた。
「これ、詠唱の痕じゃないかな…なんの魔法だろう」
フローラも壁に近づき、痕をなぞった。
「これは簡単なものじゃない。攻撃魔法以外の、例えば、召喚魔法的な…」
ハイマが、台座の上に残されていた紙片を手に取る。
「これ…誰かのメモみたいです」
風にさらされてか、文字はかすれていたが、数語だけ読み取れた。
「“封印…生成…オーブ…”」
アドニスの目が鋭くなる。
「この字は、ウィンのものにそっくりだ。やっぱり、ここにも関わっているんだ」
「やっぱりこの町の事件は、ウィンさんが絡んでるのね」
「あのオーブにどんな価値があったんだろう…」
静かに呟くハイマに、アドニスは少しだけ目を細めた。
「その答えを見つけに来たんだ。ここから先が、もっと大事になる」
「なんか…頭が痛い…」
ハイマはわずかな頭の痛みを感じた。
祠の裏側、草むらに隠れた狭い通路が続いていることに気づき、手掛かりを求めて進んでみることにした。
古い石畳のような道を進み、こつこつという3人の足音と風の荒々しい音が響く。
「気を張っておいて。こういう空間には、罠か何かがあることが多いから」
アドニスが前方を警戒しながら言う。
やがて通路は終わり、視界がぱっと開けた。
霧が薄らいだ先に、円形の石造りの広間があった。
先ほどの祠よりも何倍も広い空間だった。
床には魔法陣のような模様が広がり、中央には水晶のような丸い物体がぷかぷかと不自然に浮いている。
「…なんだ、あれ」
フローラが一歩前に出た瞬間、ずんと空気が震えた。
丸い物体から、どろりとした影のようなものが流れ出し、床の魔法陣を這っていく。
それはぐるりと回ってひとつの形を成し、巨大な影獣が姿を現した。
「うわっ…!」
「下がって!」
アドニスがすぐに前に出て剣を構える。
魔物はうなり声を上げながら、牙をむいて突進してきた。
アドニスとフローラが応戦する中、ハイマは足を止めていた。
(僕も、戦わなきゃ…でも…)
短剣を握るハイマの手が震える。
そのとき、魔物の尾が大きく振られ、フローラの方へ襲いかかる。
「フローラさん、危ないっ!」
叫びと同時に、ハイマが地面を蹴った。
ハイマが飛び出して、魔物の背に斬りつける。
フローラへの攻撃は止まったが、すぐに魔物が振り返り、怒りの咆哮を上げる。
「うわっ!」
魔物が尾を振り回し、ハイマを弾き飛ばした。
彼の体は地面を転がり、岩にぶつかって止まる。
「ハイマ!」
アドニスが声を上げる。
ハイマは呻きながらも、何とか起き上がろうとするが、足がふらついている。
「痛い…頭が痛い…!」
魔物が再びこちらに向き直る。
狙っているのは、まだ立ち上がれないハイマだった。
その瞬間、アドニスが前に飛び出した。
「ガナルト!」
電気をまとった剣を振り、魔物の前脚をはじく。
だが重たい一撃に押され、アドニスも体勢を崩しかける。
「くっ…!フローラ!」
「フランマ」
フローラが素早く詠唱を唱え、炎の矢が空中から降り注ぐ。
魔物はわずかに動きを止めた。
その間に、ハイマが再び短剣を手に立ち上がった。
「大丈夫か?オーブに近づいて、さすがに体がもたないんじゃないか?」
「僕も…まだやれます!アドニスさん、援護します!」
震える足を必死に支えながら、今度は自分が囮になるように魔物の横へと回り込む。
「こっちだよ…!」
ハイマの動きに誘われるように魔物が首を向けたその隙に、アドニスが力強く剣を振るった。
魔物の尾がきれいに切り離され、咆哮を上げる。
魔物の金属音のような叫びに、思わず顔をしかめてしまう。
「うああああああっ!」
魔物の咆哮を聞いたハイマが頭を抱えて崩れ落ちる。
「ハイマ!」
フローラがすかさず駆け寄り、背中に触れた。
体が大きく脈打ち、うずくまる力がどんどん強くなっていく。
顔はどんどん赤くなり、腕は血管が浮き出るほど力が入っている。
大きな黒目が魔物の方を向き、歯を食いしばりながら立ち上がる様子は、悪魔族の持つ力の一部を見せられているようだった。
「大丈夫?」
「…大丈夫です」
ハイマはとてもつらそうに立ち上がると、腕を魔物の方に伸ばした。
「この痛み、そのままあいつにぶつける!」
真っ黒な魔法弾を魔物の顔に向かって放つと、ひらりとかわされる。
しかし、意思を持つように方向を変え、魔物の顔に直撃した。
魔物が自分の顔を掻いている隙に、フローラとアドニスがダメージを与え続けた。
諦めたのか、魔物が咆哮を上げ、霧と共にどこかへと消えていった。
「ハイマ君!大丈夫!?」
「はい…はあ…はあ」
ハイマは息を切らしながらも、しっかりと前を見据えていた。
「制御されていない管理外のオーブに近づくと、悪魔族本来の能力を少しだけ使うことができるのかしら」
フローラは戦いながらも冷静に分析していた。
「苦痛の中戦ってくれて助かったわ。ありがとう」
ハイマは2人に向かって優しく微笑んだ。