1. ナリア村のとある兄弟
いつもの夜が、ゆっくりと終わりを告げる。
東の空が少しずつ明るくなり始め、世界が静かに目を覚ます気配を帯びていく。
カーテンの隙間から差し込むやわらかな朝の光に誘われて、アドニスはそっとまぶたを開けた。
草原に広がるアネモネが、風に揺れてふわふわと踊っている。
窓を少しずつ開けると、穏やかな風と日光が部屋の中へと入ってくる。
深く息を吸い込んで、背中をそらすように大きく伸びをする。
こんな朝が、こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
そう思わずにはいられなかった。
「ウィン、朝だよ」
目をこすりながら、早起きが苦手な弟の部屋をノックすると、かすかに布団のこすれる音がした。
「…もう?」
「おはよう、先下行ってるな」
「はあい…」
「おはよう、母さん」
「ウィンは?」
「声かけたからすぐ来ると思う」
ぺたぺたと裸足で廊下を歩く音が上から聞こえてきた。
「おはよう、お母さん、兄さん」
「あら、ウィンおはよう。最近二度寝が少なくて助かるわ」
「へへ…兄さんのおかげだよ」
「よし、ウィン準備できた?僕もう行くよ?」
「はーい!あと水筒入れるだけだからちょっと待ってー」
アドニスが扉を開けると、ポカポカした陽気が開ききっていない目を刺激する。
「おはようございます」
「おはよう、みんな」
アドニスを見つけた教え子たちがどんどん集まってくる。
「え!ウィンさんだ!」
幼いころからの夢であった教師になって、もう5年が経った。
楽しそうに登校する子供たちを見ると、自然と笑みがこぼれる。
この仕事をしている瞬間が、一番自分らしくいられる時間だ。
「じゃ、またねー」
ウィンが働いている村役場と、アドニスが働いている小学校の分かれ道まで2人で歩くのが毎日の日課だ。
「今日の授業はここまで。また明日」
「先生!お母さんから聞いたんだけどさ、先生って、あの伝説の勇者のお兄さんなの?」
「え!そうなの!?」
「おれ今日の朝会ったよー!」
「そうだよ。まだ授業で扱ってないところだから、知らない人もいるよね」
弟のウィンは、10年前に世界征服を企む魔王を討伐した英雄なのだ。
ナリア村の誇り高き剣士として、これから何十年も語り継がれるだろう。
教師になってから毎年、生徒にはこの質問をされる。
「ええ!?すげー!」
「言われてみれば顔似てるかもー!」
「先生と勇者ってどっちの方が強いの?」
「戦ったことあるの?」
「さすがに先生じゃない?」
「どうだろうなあ、ウィンはとっても強いからね」
優しくて、頼りになる弟が大好きだ。
剣士としての実力も見事で、純粋に尊敬している。
しかし、魔王討伐以来、周りの人たちの僕を見る目は変わった。
弟が勇者なら、その兄もまた英雄であるべき。
そんな期待に応えられない僕は、時に影のような存在になった。
「あ、ただいま」
家の庭の手入れをしている母に声をかけた。
「…」
母さんもまた、英雄の誕生を待っている。
持って帰ってきた資料をリビングで整理していると、作業が終わった母がこちらをちらりと見た。
「あんた、将来の事考えているの?」
「え?将来って、何の話?」
「初等学校の教師なんて誰でもできる仕事じゃなくて、家柄に恥じない仕事に就きなさいって、何度も言ってるわよね」
「だから言っただろ、教師は立派な仕事だって」
「一流剣士のエルステッド家として、ウィンだけ結果を残して、長男であるあなたがそんな普通の仕事をしていては、曽祖父から続く家に泥を塗ることになるのよ?」
母はテーブルに広げられた資料を雑に拾い上げた。
「僕は、自分の能力を最大限世のために生かせる仕事をしているつもりだ。教師という仕事に誇りを持っているし、決して恥じるような仕事ではない」
「どんなにいい先生をつけても剣術の才能は伸びない、実技でウィンに勝ったこともない。どれだけの人を失望させたと思っているの?しかも、最近あなた様子がおかしいじゃない?」
拾い上げた資料でアドニスの胸を軽く叩く。
アドニスは、不機嫌を見せつけるように資料を奪い取った。
「それは、ただ英雄を育てた母親の称号が欲しいだけだろ?僕は頑張ってる。いい加減、僕を僕として見てくれよ」
アドニスの声で扉の開く音がかき消され、いつのまにかウィンはリビングに入ってきていた。
「ただいまー」
「あ、ウィン…」
しんと静まり返った空間を見て、何かを察したウィンは、アドニスと母親の顔を何回も確認した。
「ウィンおかえりなさい。あなたには関係ない話だから気にしないで」
「…そう?」
ウィンは、だんだんどちらと目を合わせるべきなのか分からなくなった。
「こんなこと、言わせないでくれよ」
「ちょ、話の途中…」
母を無視して、アドニスは自分の部屋へと向かった。
「…ん」
気持ちを押し殺そうとして、ベッドに横になっていたら、いつのまにか寝てしまっていた。
電気を付けていないせいで、部屋の中は真っ暗だった。
「やっべ、今、何時…?」
時計を見ると、まだ明日を迎えてはいないようだった。
「はあ、全然眠くねえな…」
体を動かして眠気を呼び起こそうと思い、静かに家を出た。
朝とは打って変わって、ひんやりとした風が肌に触れる。
家の窓から漏れる光や、街灯、月明かりによって照らされているので、寂しさは不思議と感じなかった。
アドニスは、部屋の窓から見える花畑に向かうことにした。
「あれ、兄さんだ」
「びっくりした、ウィンか」
ベンチに体を預けたウィンは、アドニスに笑顔を向けた。
ウィンの隣に座り、一緒に村と花畑を眺める。
最初に口を開いたのはウィンだった。
「…あのさ…」
「うん」
「…」
「どうした?言いづらい…?」
「…いや」
「…」
「俺が、もし、歴史改変魔法をしに行くって言ったらどうする」
「…は?」
「『デウスリゼクト』、知ってるだろ?」
ウィンは、なぜか泣きそうな顔でアドニスを見つめた。
『デウスリゼクト』。
この世界で起きた事象、歴史を自由に書き換えることができる魔法。
世界に多大な影響を与えるため、膨大な魔力が必要。
詠唱は長い時間を要し、詠唱を始めるだけでも世界の均衡が崩れていく。
沢山のデメリット、詠唱条件の難しさから、この魔法を発動させる無謀な人間はこの世にいない。
「あれをやりに行きたいって言ったらどうする?」
「…理由による、かな」
「ああ、そっか」
「…え、理由は?」
「言わない」
「納得できる理由を話してほしい」
アドニスが言うと、ウィンはベンチから立ち上がった。
「…」
いきなり、ウィンはアドニスを頬を平手打ちした。
「!!…いっ…何だよいきなり?バカじゃねえの?」
「俺は、変えたい事実がある。どうしても変えなきゃいけない」
「だったら、今、力づくでも止めるぞ」
アドニスは、ウィンの腕をつかんだ。
しかし、すぐに振りほどかれてしまう。
「お前だったら、ちょっと考えればわかるはずだ。俺が何を変えたいのか」
「…」
アドニスは目を見開いて、何も言わない。
「なあ、分かるだろ?」
「…俺にはさっぱり」
「何を考えているんだ。何をするつもりなんだ」
「何を…とは?」
「とぼけるな。そのままの意味だ」
「…」
ウィンは勢いよくアドニスを突き飛ばす。
草の上だから痛みはないが、体に衝撃が加わりせき込んだ。
「そういうことだから」
「…ちょ、ウィン、ウィン!」
名前を呼び掛けても、振り返ってくれることはなかった。
ウィンが村を離れてから1週間ほどが経った。
突然息子が姿を消したことに母は驚いた様子だったが、アドニスは無視して生活を送っていた。
明日の授業の準備を済ませ、ふと窓の方を向いた。
「…雪?」
きらきらと光るなにかが空から降っているのが見えた。
窓に近づき、手を伸ばして確認すると、
「…そうか」
虹色に輝く雪の結晶が、ゆっくりと宙を舞っていた。
この現象は…。
何の不満もなかったはずの世界が、徐々に変わり始めていった。




