第五十三話
雪獅子は駆ける。まるで春先に吹くまだ冷たいが花々に目覚めを呼びかける強い風のように。
雪獅子は跳ぶ。まるで名手がつがえて放った矢のように。
ヤハジャは自身に何が起こっているのか理解できなかった。ときどき顔や体に枝葉が当たっていたが、それを気にする余裕などない。目に映る景色はこれまで見た何よりも速く、速く、後ろの方へ流れていく。
「陛下、口を閉じて下さい。舌を噛みますよ」
呼び掛けられて我に返り、ふと前方を見る。
陸が途切れているように見えるが、まさか。
「わ、あああぁっ!? や、やめっ」
「大丈夫ですから口閉じて下さい! 跳びますよ! いち、にの、さんっ」
合図に合わせて、口と共に目まで閉じる。浮遊感ののち、着地と己の重さからなる衝撃。咥えられている帯が少し裂けたような音が聞こえたが、どこも痛くはない。すぐさま雪獅子が駆けだした。そっと目を開けると、遙か後方には結構な高さの断崖――あれを飛び降りたのか。鳥肌が立った。
「あ……あ……」
「すぐ着きますから、もう少しだけ我慢して下さい」
「なっ、のっ………………おい!」
疑問と恐怖が突き抜けて逆に冷静になったヤハジャは、雪獅子の背に乗る娘に向かった声を張り上げた。
「一体何の真似だ!? お前っ、こないだ会ったファンロンのお嬢ちゃんだろわかってんだぞ!」
「違います」
「嘘つけ軍の奴らは初めましてだったからおめェが誰だか見抜けなかったとしてっ、おゎっ! ……いきなり跳ぶな喋ってんだよこっちは!」
「また跳びますよ、はい、いち、にの、」
「後で覚えとけよ小娘ただで済むと思うな」
「さんっ!」
「よぉぅっ!?」
また雪獅子が大きく跳び、ヤハジャはぎゅっと目と口とを閉じ、体もできるだけ小さく縮める。滞空時間が長い。臓腑が、きゅう、と圧を受け、見ていなくても落下しているのを感じる。そして先程のものより強い衝撃。その勢いで、膝を地面に打ち付けてしまった。
「いっ……ぅわあ!?」
文句を言う間もなく、また弾みをつけて上へと引き上げられる感覚。ヤハジャは目を瞑る。二回、三回、雪獅子は跳ぶと、ようやく立ち止まった。複数の人の声が聞こえる。
「陛下。到着しました」
そっと、目を開ける。
そっと、下ろされる。
目の前には、顔の左半分を仮面で覆った赤い髪の男と、親友、そして約十年ぶりに見る腹違いの妹が立っていた。
その周囲には、武器を携えた若い男たち。
敵の陣中だ、とヤハジャ・デアサは悟った。
ハンジュが前に出る。
ヤハジャは何と言葉を掛けるべきか考えた、が、何も出てこない。
と、
「あっははははははは!」
ハンジュは大声を上げて笑うと、ヤハジャの前でしゃがみ、跪いたままの兄の額を指で、ぐい、と押した。
「久しぶりだねヤハジャ。どうだった? 雪獅子に運ばれた気分は」
そうだ、敵陣でたった一人――そうか、そういうことか、とヤハジャは嗤う。
「あ……は、そっか、そうだな、こうした方が殺しやすいもんな。俺の首を掲げての凱旋。いいじゃねえか」
「何言ってるの、殺さないよ」
「は?」
「ここはクォンシュだよ、こんなところで兄妹喧嘩したらリュセイに迷惑かかっちゃうじゃないか」
「……クォンシュ!? そんな、えっ」
「あの辺りから来たんだよ」
ハンジュが指す方には、遠く見える山々の連なり。クォンシュとデアーシュとの国境は山にある。
「…………うそだろ」
馬を全力で走らせても一刻はかかりそうな距離だ。さっと攫われて少し離れた場所に移動してきただけだと思っていたが、かなり遠くまで連れてこられたらしいと知り、ヤハジャは呆然とする。
「お初にお目にかかります、陛下」
別の声に振り返ると、赤い髪と仮面の男が膝をつき、礼をした。
「クォンシュ帝国ウェイダ領領主、トウキ・アヴィロと申します。皇妃殿下……ハンジュの従兄にあたります。ようこそ、ウェイダ領へ」
「トウ、キ、アヴィ…………あっ、雪獅子っ……お前かお嬢ちゃんの旦那はっ!!」
すたっ、と軽快に立ち上がり、ヤハジャはトウキを睨む。
「おッめェなぁ! ちょっと嫁を自由にさせすぎなんじゃねえのか!? 何女神騙らせてんだよ不敬にも程があるだろうが!」
「え、えぇと、は、はは」
食って掛かられてトウキは困惑して苦笑いつつ、少し驚いた。自分の身分と容姿を知って尚全く臆せずものを言ってきたのは、妻に次いで二人目だ。成程、剛胆な男のようである。
「別に騙ってないですよ」
雪獅子の方のスニヤから降りて労っていた雪の女神に似せた装いの娘は、頭から冠と布を取った。華やかで神々しかった銀の髪と碧い目が、暗い色へと変わる。やはり何日か前に会った少年のような面立ちのファンロンの姫君だった。
「私はただ、元の姿を隠して名乗らずにいただけです」
「屁理屈言うなそんなカッコで雪獅子乗るとか狙ってやったとしか言いようがねえだろ! ちゃんと祠行って謝れスニヤにごめんなさいしろ!」
呼ばれたと思ったか、スニヤが近付いてきて連れてきた異国の客人に頭を押しつけた。
「ちょ、なっ……おまえっ、何だ!」
明らかに敵意はなく、甘えてくる獣に罪はない。つい両手で鬣をかき回す。
「……フカフカだなお前……」
珍しい客人に構ってもらえるスニヤは嬉しそうに喉を鳴らしたスニヤは、更に全身を使ってぐいぐい押してきた。その力強さによたついたヤハジャの体が、
「おわっ」
ハンジュにぶつかる。
ハンジュも、隣に立ちスニヤを撫でた。
「女神様が、『死ぬな』って言って連れていった――これで私は貴方を殺せなくなった。そんなことしたら、私は神の意志に逆らった悪い王になっちゃう」
そういうことだったか――ヤハジャは舌打ちした。
「そんな、都合のいい話」
「民は信じるよ」
ね、と投げかけられたスニヤは、うるるる、とご機嫌な声を出した。
「『悪い兄を斃して国と王位を取り戻した妹』は、強い王に見えるかもしれない。でも、それよりも、『兄を斃そうとしていたけど神に導かれ赦した王』の方が、懐が広く見える。畏怖の力は強いもの、だけど、それは心を繋ぎ止めるには心許ない。民は王様にはできれば偉大でいてほしいと願うものだからね」
ヤハジャの手が止まる。不満そうな顔だ。
「……せっかく、ずっと頑張ってきたのに」
「ごめんね。でもさ、」
止まったままの兄の手に、妹の手が重なる。
「私、兄様のこと殺したくないよ。……死んでほしくないよ」
揺れ、小さくなっていく声。
それまでずっと外に出すのを我慢してきた気持ちが、溢れてこぼれ落ちていく。
「何で相談してくれなかったの。何で一人で決めちゃったの。父上は、私のこと支えてやれって言ってたのに。何で支えてくれようとしないの。何で離れていっちゃおうとするの。何で死のうなんて考えちゃうの。安易なんだよバカ」
「だ、って、さ、俺、」
「もう父上いないんだよ? 誰も何も教えてくれないんだよ? たくさんの人たちの命とか生活を背負うんだよ? ほんとはちょっと怖いんだよ、一緒にいてよ」
「お前な、何いい歳して子どもみたいな」
「一緒にいてくれるって約束したでしょ、生きてよ兄様のバカ」
睨むハンジュの鮮やかな色の目から生まれた雫が、ぽろぽろと頬の曲線を伝って転がり落ちる。
「バカ」
「何度バカって言うんだよバカ」
あぁ、そうか。
妹は強いと思っていた。
実際自分なんかより、ずっとずっと強い。ずっとずっと賢い。
それでも。
衣の長い袖で荒く涙を拭ったヤハジャは、妹を抱き締めた。
「ったく。お前に生きろって言われたら、生きるしかねえだろうが」
「雪の女神じゃなくて?」
「ニセ女神に言われてもな」
目が合ったニセ女神が満足そうににこにこしているので、つられて笑ってしまう。
「……で? ここまではいいとして? この後どうすんだ陛下。このままデアーシュに戻っても、民はみんな俺のこと殺せって言うぞ。俺を殺すより難しい道選んじまったんじゃねえか?」
離れたハンジュは、
「そりゃあ、何とかするさ。王だからね」
自信満々の笑顔を向けた。もう涙は出ていない。
「さて。兄様にはもうちょっと姿をくらましていてもらわないといけない。時が来たら連絡するから、それまでここで待っていて」
「え、ここ、で? って、クォンシュじゃねえか」
ヤハジャの疑問に、進み出たトウキが会釈する。
「陛下……いや、殿下には、しばらくうちで待機していていただきます」
「え、何で」
「壮大な物語の締めくくりのために」
雪獅子公のその笑みを見たマイラは、
(あ、)
この前の皇帝陛下に少しだけ似ている、と思ったのだった。
◎ ◎ ◎
デアーシュ初の女王ハンジュ・テー・デアサは、先王亡き後異母兄に王位の継承を妨害され、クォンシュの皇帝の元に嫁がされたが、身勝手な振る舞いが多く国を乱した兄を廃し王位と国を取り戻すために立ち上がり、見事その悲願を果たした勇敢な王であった。
その、ハンジュの王位奪還に際しての異母兄のことについては、さまざまな話が残されている。
妹のハンジュに討たれたという説。
国外に逃れたという説。
また、少し不思議な話もある。
ハンジュの率いる軍勢と衝突したときに、ハンジュの異母兄は雪獅子に跨がった女神スニヤに攫われた。主を失った異母兄の軍勢は敗れ、ハンジュがデアーシュの都に帰還し即位したが、その直後に目の前にスニヤが現れ、異母兄を置いていった。ハンジュは「神が匿った者を殺すわけにはいかない」と異母兄の命を奪わず、国外に追放したとも、追放したと見せかけて名を変えさせ、宰相として傍に置いたともいわれている。
何故現れたのが雪の女神スニヤとされているのかは、不明である。
戦場になったのがデアーシュとクォンシュの国境である山岳地帯で、その近くにスニヤを祀る祠があったからであるとか、そこから程近いクォンシュ側の領地が雪獅子公トウキの所領であったために情報が変に入り混じってしまったからである、というのが有力な説だ。また、戦に加わったとある兵が雪獅子とスニヤを見たと語ったという記録も残されているが、その真偽は定かではない。
女王ハンジュの異母兄については、これより後、何の記録も残されていない。
◎ ◎ ◎
「やっと終わったな」
普段は按摩される側のトウキがマイラの足を揉む。最初は遠慮していたマイラだったが、いざ揉まれてみると気持ちがよく、やはり疲労が溜まっていたのだと実感しながら寝台の上で脱力している。
「旦那様」
「ん?」
「その、最中は必死でやっていたんですけど…………私があんなに介入してよかったんでしょうか」
自分のようなことを言う妻に、トウキは思わず笑った。
「どうした、珍しい」
「いやぁ……だって……下手をしたら私デアーシュの歴史に残ってしまうようなことをしちゃったんじゃないかなって……私であって私ではないとはいえですね……」
「問題ない。ちゃんとスニヤの祠にも参ってきたし、そもそもお前の考えではなくリュセイの入れ知恵。責めがあるならあいつが全部負ってくれるさ」
マイラがデアーシュの将軍ノウルをハンジュの元に送り届けた日、皇帝リュセイは言った。
「ヒトがやるから文句を言う奴が出るんだ。だったら、神様のせいにしてしまえばいい」
その場にいた全員が理解できずに顔いっぱいに疑問を呈したが、リュセイは更に続けた。
「マイラどの。前にトウキから聞いたんだけど、変装用の術具を使ったときスニヤと同じ色になったそうだな」
スニヤと言われて一瞬雪獅子の方を思い浮かべてしまったが、彼が言っているのは女神の方だとすぐに思い直す。
「あ、はい」
「トウキのところにも丁度よく雪獅子がいる。うん、ものすごく丁度いい。そんなわけでだマイラどの、ちょっとスニヤになってヤハジャを攫ってくれないか」
にこにこしながらとんでもないことを言う皇帝陛下に、マイラは戸惑った。
「えっ!?」
「神隠し、ってやつだ。神に攫われてしまえば、誰にも、どうにもできなくなる、つまり神が相手じゃどの国も介入できない。で、ハンジュが即位した直後に、また女神様が現れて攫ったヤハジャを送り届ける。……死地にあったはずの男を神が連れ去って、全てが終わったら元の場所に返す。神に匿われていた奴を殺せなんて言う不敬者はまずいない、これで劇的で壮大で神秘的な物語の出来上がり、ってな。どうだハンジュ、デアーシュ初の女王が後世語られる逸話としてはなかなか立派なもんだろ?」
あまりにも大胆な作戦に、ハンジュは呆れつつ――笑った。
「リュセイ。それ、ほんとにイケると思ってる?」
「俺ならイケるけど、お前はどうだろうな」
その挑発的な言葉の中には、信頼と、これから国の頂点に立つ者への声援も含まれているのがわかる。
「大好きな兄様が大事なら何とかして守れ。そのくらいできないんじゃ、国主は務まらないぞ」
ハンジュの目に燃えるような強い光が宿った。
「ああ、じゃあ、やってやろうか!」
「それにしても人使いの荒い陛下どもだ」
僅かばかりに腹を立てる夫に、もういいですありがとうございます、と声を掛けたマイラは笑う。
「戦らしい戦にならず、皆さんのお役に立てたのなら本望です」
「マイラ、リュセイが言っていた礼は好き放題にふんだくってやっていいからな。あいつは貧乏ぶっているが父上に育てられたから個人で結構貯め込んでいるぞ」
「今のところはそんなに大きなほしいものはないので、できたら奏上してみますね。…………そんな、ことよりも、です」
改めて正座し、真っ直ぐ見つめる。対するトウキもつい畏まる。
「どうした」
「あの、あのですね」
「うん」
「先に謝っておきます。ごめんなさい」
「んゎっ!?」
応えるが早いか、マイラがトウキに飛びついた。
その勢いのまま、二人で倒れ込む。
突然のことにトウキは言葉を失った、が――力一杯しがみついてくるマイラの体温に我を取り戻し、そっと、背に手を添える。
「どうした、何か、あったのか」
「旦那様」
「ん」
「何だかものすごく、久しぶりな気がします。こうするの」
考えてみれば、一月近くもマイラは飛び回っていたし、トウキもハンジュの出陣を報されて以降は緊急事態として領内を駆け回っていた。結婚してからまだ一年と経っていないが、こんなに長々と離ればなれになっていたのは初めてだ。
マイラの腕に、力が入った。
「もう、こんなこと、ないといいですね」
今回は運良く何とかなった、が、一歩間違えれば大きな戦になっていたのは確かだ。
「陛下が旦那様に何度も戻ってこいって仰るのは、やっぱりご心配なさっているんだと思います。真っ先に戦場になってしまう場所、ですから」
「そう、かもな。……でも、役目、だからな」
「はい」
「……お前は、都へ戻れとは、言わないのか」
「共に生きましょうって言ったじゃないですか」
見合わせたその顔は、夜なのに陽光のようにあたたかく輝いて見える。
「貴方がここで生きるというのなら、私もここにいます。妻ですから。それに、私、ここが――ウェイダが、大好きです」
「…………そうか」
「はい。……旦那様」
「何だ」
「涼しくなってきたら、弟君にも、会いに行きましょうね」
「え…………う、ん、」
「やっぱり都に行くのは嫌ですか?」
「…………うん」
「ふふ。仕方のないひとですねぇ」
「すまない」
「いいんですよ」
ふたりは、ぎゅう、と抱き締め合った。




