第五十二話
「ちがう、マイラ、悪く、ない!」
マイラの上に重なって倒れていたショウハは、ぴょいと跳んで素早く立ち上がった。実に身軽だ。
「わたし、がっ、知りたい、言った! マイラ、いっしょ、心配って!」
「あのねぇ」
溜め息をつきながら、ハンジュは天を仰ぐ。
「盗み聞きとか、一国の姫様がたが他所の国の宮廷でやることじゃあないんだよ」
「だって!」
ショウハはハンジュに駆け寄ると、抱き付いた。
「ハンジュどの、つらいの、ダメ、いやだ」
半泣きの少女に、仮初めの皇妃は困った顔になる。
「気持ちは嬉しいよ、ショウハどの。でも、王になるからにはね……多くの民のために、切り捨てて、堪えなければならないこともある。これは最初の試練なんだよ。リュセイだって、皇帝になるとき大好きなトウキと離ればなれになってる。そういうことなんだ」
「ちがう、ダメ! 家族、好き、かんたんに、捨てる、よくない! ずっと悲しい!」
「ショウハどの」
「ダメだ!!」
立ち上がったマイラは、扉を閉めて数歩、前へ出た。
「ハンジュ様。デアーシュの陛下……ヤハジャ様は、自ら討たれようとしているのですね?」
マイラをちらりと見た鮮やかな赤紫の目が、すぐ逸らされる。
「おそらくは、そうだろうね。直接はっきり聞いたわけじゃないけど」
ハンジュは泣きそうな顔でしがみついているショウハの頭を撫でて離れると、窓際まで移動して、外を見た。空は薄曇りだ。
「ヤハジャの噂を、知っているね?」
ゆっくり、静かに、話し出す。
「粗暴で感情的、勝手気ままに振る舞う、卑しい成り上がりの家の娘を母に持つ、王の庶子――まぁ大体合ってはいる。頭がよくて術だって結構使えるのに、勉強が嫌いでいい加減でワガママでうるさくて。……っていうけどね。実際は、母君の家はここ三代くらいで莫大な財を成したけど古くからある立派な家だし、ヤハジャも王が婚前につい手を出してしまったそこの娘との間にできた子というだけ。父は責任感が強かったからそれを引き取ったわけだけど、変に身分があったり名が知れているといらん尾鰭が付きやすい。マイラどの、貴女も身に覚えがあるだろう?」
父の教育方針の結果。破談になった相手とのやりとり――確かに、領地の外の民は、事実以上のことを妄想して好き放題語っていた。
「そう、ですね」
「……父は、確かに病死だったんだよ。見栄っ張りだから無理してたけど、私たちが子どもの頃からもう体を壊していた。亡くなるとき、たまたまそのとき傍にいたのがヤハジャだけでさ、私も母もヤハジャの母君も死に目に会えなかった。だからヤハジャが父を殺したんじゃないかだなんて、変な噂が立って。そんなことするはずがない、父上はヤハジャにも目を掛けていたし、ヤハジャも親父どのって呼んで慕ってた。それなのに、否定しなかった。……変だとは、思ってたんだ」
窓掛けに添えていた手が、力一杯握られる。
「私を差し置いて勝手に即位したときは本当に腹が立ったよ。ずっと親父どのの言う通り自分は王の器じゃない、私が即位するのが楽しみだ、って、それなのに、って。…………だけど、私が嫁がされる日にさ、あいつ言ったんだ。『|ちゃんと整えて待ってる《・・・・・・・・・・・》から俺を殺しに来い』って。喧嘩売ってんのかって最初は思った、けど……多分、違う。言葉そのままの意味なんだ。ヤハジャは、自分を殺させることで私を王に仕立て上げるつもりなんだろう」
「そんな、お命を、なんて、そこまでしなくても」
「民には必要なんだよ」
振り返ったその表情は険しい。
「確かに私は王となるべく父上から教えを受けてきた。だからそれなりに上手くやっていけるつもりだ。でも傍で見てきたわけでもない民にとっては、そんなの知ったことじゃないのさ。若い女が王になる、ただそれだけで不満を持つ者は少なくないし、そこから更に謂われのない悪い噂も勝手に生まれて広まっていく。だから、」
「『悪い王を討ち、国を救った“英雄”』、『民のために自ら兄を討った悲劇の妹』を作り上げなければならない」
ハンジュの言葉を遮り、立ち上がったノウルが言い放つ。
その声は大きくはないはずだが、静かな部屋の中では妙にはっきりと聞こえる。
「そういう劇的な物語でもなければ、民は『歳若い女子を王と認め付いていく』ということに、納得できないのです。ヤハジャは、マスハーシ様が身罷られた直後に、その覚悟を決めました。……本当は、ハンジュ様にも内緒にしておけ、自分が全て上手くやるからと言われていたのですが、」
窓際の皇妃に目をやり、
「おそらくハンジュ様がそれに勘付くのも、その上でその通りに事を進めようとするのも、見越していたのでしょう。そういう男です」
そっと苦笑いすると、
「そりゃそうだよ。私のことを一番よく知っている男だ」
目が合った皇妃も笑った。それを見たマイラは二人にとってあのヤハジャ・デアサという男がどのような存在であるのかを悟る。
ヤハジャの言い分はわからなくもない。しかし。
いくら民のためとはいえ、このようなことがあっていいのか?
(もっと何か、別の方法が……)
思考を巡らせ始めた、そのときだった。
「話は全部聞かせてもらった!」
ばん、と大きな音を立てて扉が開き、同時に入ってきたのは――
「へーか」
「そうだ俺だ陛下だ」
皇帝リュセイ・トゥガ・クォンシュその人であった。
リュセイはずかずかとハンジュに近付くと、
「お前なぁ!」
ぺちり、と両手で頬を軽く叩く。
「水くさいぞ俺とお前の仲だろうが! 何でそういうことを早く言わない!」
従兄の叱責にハンジュは俯いた。
「いや、その、でもさ、これは……デアーシュの……」
「そうだなデアーシュのことだ。でもなぁハンジュ、」
名ばかりの妻の頬に添えた手に、少し力を入れる。ハンジュの顔のやわらかな輪郭が変形する。
「お前なら、もっと上手くやれるだろ。悲劇なんかにしなくても」
「……しょんな、の、」
「俺はできるぞ」
「え」
手を離したリュセイは、
「劇的な物語ってやつは、|でかければでかいほどいい《・・・・・・・・・・・・》。だろ?」
実に愉しそうに、にんまり笑った。
◎ ◎ ◎
食事休憩を終え、またデアーシュ軍陣営を見張るための位置に戻ってきたトウキだったが、違和感をおぼえて辺りを見回した。この感覚は――知っている。
「どうかした?」
代わりに見張りをしていたシウルが振り返ると、トウキは一言、
「来る」
放った。それを聞いた途端、シウルもそれを感じ取ったらしく、
「あ」
素早く椅子を持ち上げて、その場から少し離れる。
と、
「ちょっ、ちょちょちょはいはいごめんよぉっ!」
キクロが慌てた様子で駆けてきて、丁度シウルが椅子をどかしたその位置に術杖でぐるりと大きな円を描く。
「よし来いっ!」
とん、と杖を鳴らすように地面を突くと円が赤く光り、
「ぅわっ」
「ひゃっ」
どちゃり、とその中に二人の娘が落ちてくるように現れ、その横に黒い獣が上手に着地した。キクロは、ふぅ、と息をつく。
「あぁ、よかった間に合ったぁ」
違和感――転移術の気配から何となくそんな気はしていたものの、想定していたのと違う妻の帰還方法にトウキは困惑する。
「…………おかえり、と、しばらく、ぶりです」
円の中で重なっていたマイラとショウハは、同時に見上げて、
「ただいま戻りました旦那様!」
「また、きた! よろしくたのむ!」
元気に挨拶してすぐに身を起こした。本当に元気だ。
「旦那様!」
駆け寄るなりマイラはトウキの手を取った。相当疲労しているはずなのに、何かに高揚しているのかそう見えない。
「どうした、何故転移術なんかで」
「お義母様に送っていただきました」
「母上? 大丈夫だったのか? 母上もそろそろ」
「ええ、そろそろお生まれになるとか。楽しみですね」
「いや、前より気が立っていたんじゃ」
確かに龍女アルマトであるのなら複数人と獣を都からウェイダ領まで飛ばすのは容易いのだろう。しかし、頼んだところで素直に聞き入れてくれなさそうであるし、以前会ったときは体調のせいかいつも気まぐれなのが輪をかけて感情的に不安定そうだったのだが。
「お義父様が仲介して下さいました。お義母様もご健勝で『活きのいいのを産むから生まれたら見に来い』だそうです」
臨月なこともあって父に言い付けられているのか、おとなしくしているらしい。マイラの言い方からして両親とも元気そうだ。トウキは安堵した。
「そうか。よかった」
「話は変わりますが旦那様、今回のことで陛下から一仕事仰せつかったのでお借りしたいものがあるのですけど」
トウキは一転、顔を顰める。
「あいつ、お前が疲れていると知っていながら」
「大丈夫、大丈夫ですよ旦那様、私の丈夫さはこんなものではないです、まだまだいけます余裕です。……それに、」
取ったままのトウキの手を己の頬に当てたマイラの目は、
「これは多分、現状私にしかできない大仕事です」
きらきらと、星を含んだ夜空のように輝いていた。
◎ ◎ ◎
それは奇妙な戦であった。
国境付近で待機していたデアーシュ軍とクォンシュから出陣した皇妃ハンジュ率いる部隊が衝突したのは、クォンシュ帝国ウェイダ領の領主の妻が領地に帰還した翌々日の昼前のことだ。
しかし迎え撃つデアーシュ軍が構えるのは、なまくらどころか修練によく使われる硬木でできた武器。一方攻め入ったハンジュの部隊も鞘から抜かないままの剣や、これまた木製の簡素な棍棒などで軽く打ち合うだけ。
誰も死なない、死人が全く出ない。
流石にこの報告には、
「はァ?」
デアーシュ軍全体はもちろん、本陣にいた王ヤハジャも「何かおかしい」と思った。
「何でだよ、ここまで整ってりゃ殺しに来るだろ普通」
「その、陛下。ネハート将軍がハンジュ様に漏らした、という可能性は」
連れてきていた禁衛軍の兵の一人が進言すると、ヤハジャは、ぎゅっ、と目を閉じた。
「あり得る……あいつ俺のこと大好きだけどハンジュのことも大好きだからなぁ……くそっ、ノウルの奴あれだけ言ったのに最後の最後で感情に流されやがったな。これじゃ計画が台無しになっちまうじゃねえか。……ちっ、立て直ししてえな~でもなぁ~」
「陛下、恐れながら今都に戻ればハンジュ様ではなく」
都を出てくる直前、わざと民を煽るような悪評を流してきた。真に受けた民たちはヤハジャに対して敵意を向けている。
「それな~! あーどうしよ、ハンジュ以外の誰かに殺されるわけにはいかねえのに! ここで死ななきゃ親父どのに顔が合わせられ」
そこまで言うと、
「わ、わっ……なっ……!?」
「えっえっ!?」
周囲を護っていた兵数人の、戸惑いの声。こんなときに限って何事かと問おうとした瞬間、
ざ、ざぁっ
目の前に、真っ白くて大きな獣が飛び出してきた。突然の闖入者に、その場の全員が愕然とする。
その背には、これまた純白の薄衣を重ねてその身に纏い、銀鼠の薄い布と白銀の冠で長い髪を飾った、若い娘。
幼い頃、本で見たことがある。これは雪獅子という獣だ。
それと共にいる、青みがかった銀髪に碧い目――ということは。
「スニ、ヤ……?」
信じられない気持ちでその名を口にすると、娘はにこり、微笑んだ。
「命を粗末にするものではありません。大事に思う人に幸せになってもらいたいのなら尚更」
「え」
聞き覚えのある声だ、とヤハジャは即座に気付いたが――
「あっ!?」
時既に遅し。素早く動いた雪獅子に腰帯をしっかりと咥えられてしまう。
「行って、スニヤ」
娘の小さな声と合図に、雪獅子は大きく跳躍した。ぐん、と景色が動き、たった今までそこにいたはずの本陣はあっという間に遠く離れ、小さくなっていく。
「ぁわ、あっ…………ああぁっ!?」
それは奇妙な戦であった。
デアーシュ王ヤハジャが、戦の最中に、雪の女神スニヤ(?)に拉致されてしまったのである。




