第四十九話
「奥様、奥様ぁ!!」
奥方様たちの無事の帰還を聞いたモユは、本来なら最初に出るはずの侍女長エシュを差し置いて真っ先に屋敷の玄関を飛び出し、主人たちを迎えた。言葉にならない歓喜の声を上げ泣きじゃくりながらマイラを抱き締める。置き去りにして一人だけ帰ってきてしまったという罪悪感と不安とをずっと抱えていたのだろう。受け止めたマイラはモユの背に手を添えた。
「モユさん、ただいま戻りました。ごめんなさい、ずっと心配お掛けしてしまって」
「無事だってぇっ、わかってたけどぉ! おくさまっ……ごめんなさいあたしっ、ばっかりっ……」
「私がそうお願いしたんですからモユさんは全然悪くないですよ。寧ろこっちが御礼を言わなきゃ。旦那様とレイシャに伝えて下さって、ありがとうございました。ユーイに約束してたご褒美もらって下さい」
ね、と後ろに控えていた女装の廻者に投げ掛けると、おう、と笑う。
「後で俺の部屋来な、緋露二つと、あと紅も一個付けてやる」
「いいの!? ユーイくんが持ってるのみんな高級品じゃん!」
「ったりめーよ俺の美貌は安くねーんだ。似合うの選んでやるからあんたも美女になれ」
「し、師匠~!」
今度はユーイに抱き付く。
「おい、ちょっ……」
ユーイは少しだけ困ったような顔で横にいるタシアを見やったが、タシアはにやにやとユーイを見るだけだ。
「何とかしろよあんたの姪!」
「え~知らねぇ~」
と、後方にいたノウル・ネハートが家臣を引き連れモユの前に進み出て深く頭を下げた。
「先日は大変失礼を。無事に帰られたと聞き安心しました」
モユははっとしたかと思うと警戒の色をあらわにしたが、ユーイがだいじょぶだよ、と小さく声を掛けながら肩を優しく叩くと、ゆっくりユーイから離れた。ぷ、と頬を膨らます。
「すっっっごく、怖かったんだから!」
「申し訳ない」
「……でも、貴方たちも大変だったんでしょ?」
トウキの顔を窺い、捲った袖で涙を力強く拭って笑う。
「旦那様、この人たちってお客様ね? お夕飯頑張って作んなきゃ! お酒とかお出しした方がいいかな?」
「いい、今夜中に都に発たなければならない」
「了解です! んじゃ失礼しまっす!」
元気に駆けていく女中を見届けながら、ノウルはばつが悪そうな顔をした。
「本当はもっと恨み言をぶつけたかったでしょうに」
「いや、あれは大丈夫だ」
トウキが苦笑する。
「長年この国境の地で暮らす民の娘。都で護られ生きてきた私など比べものにならないくらいにしっかりしている。エシュ、ノウルどのの家臣の方々を客室へ案内してやってくれ。ノウルどのは少々お時間をいただきたい。……マイラも、来てくれるか」
「はい!」
奥方様は元気に返事をした。
「でもその前に、お茶を用意してきます。お話するときの水分は大事です。先にお部屋へ行っていて下さい」
◎ ◎ ◎
「大っっっ変申し訳ないそしてありがとうマイラどの!」
開口一番皇帝リュセイが盤の向こうで頭を下げたので、マイラはおろおろした。
「い、いえ、陛下、たまたま運が良かっただけです私は何もっ」
「その運というのも個人の持つ力のうちさ。貴女がトウキの嫁さんで本当に本当に、本っ当によかった。何か御礼……御礼……ダメだ、うち今まだ貧乏なんだ……金持ちのファンロンの姫君にあげられるものなんて……あ、あのでっかい龍星石……」
「いけません陛下! あの石はうちの大伯父が!」
「わかってる冗談だよ、あれはよっぽどのことがない限り手放すわけにはいかないものだ」
先代のファンロン王から贈られた巨大な宝石は、トウキとマイラの結婚をきっかけとした正式な国交の証である。マイラに与えてしまうのはそれを“突き返す"ことに他ならない。
「いや、でも、今回のことはちゃんと何らかの形で返さなければならないな。何か望みがあればいつでも言ってほしい、叶える努力はする」
「今は私のことよりもこちらが先です陛下」
ずい、とノウルを前方に押し出す。直接ではないとはいえ突然の隣国の国主との対面に、ノウルは身を竦ませる。
「え、あぁ、っとっ……おっ、お初にお目に掛かりますっ、手前っ、」
名乗ろうとして跪くと、リュセイは苦笑した。
「見えない見えない、しゃがむな。それから今のこれは公式な場じゃない、そこまで畏まらなくていい。……ノウルどのといったな、大儀だった。ハンジュ」
呼ばれて第一皇妃がひょっこり顔を出す。そしてノウルを見るなり、
「全く何をやっているノウル・ネハート!!」
声を張り上げた。その場にいた全員がびくっとしてしまう。
「お前が判断を誤ったお陰で予定が狂った。何日遅れたと思っている!?」
「は、はっ、申し訳ございませんハンジュ様っ!」
先程皇帝に言われたばかりなのに、ノウルはその場に素早く跪き頭を下げた。臣下を見るハンジュの目は厳しい。
「本来なら首をかき切って責任を取らせるところだが今はそれどころではない。お前にはまだやることが残っている。速やかに我が元へ来い」
「はっ!」
すっかり恐縮しきった禁衛軍の長を見たリュセイは、はぁ、と嘆息する。
「ハンジュ、そうカリカリするな。まずは彼の無事を喜べ」
「そうも言っていられないよ、遅れた分だけデアーシュに残っている母上や味方になってくれる人たちの身が危険に晒される。さすがにあのバカでも何がどうなっているのか多少は理解しているはず。……ノウルくん、今言った通りだ。疲れているところ悪いけど、できるだけ早く来てほしい。こちらは準備が整っている、あとはきみが指揮をとるだけだ」
真の主君となるであろう姫君の言葉に、
「御意!」
ノウル・ネハートは武人らしい引き締まった声でそれに応えた。ハンジュは今度は術具越しの従兄に目を向ける。
「トウキ、そちらに転移術を使える術士は」
「いるにはいるが無理だ」
「キクロくんはできるのに」
従妹の言いたいことを察してかぶりを振る。
「ウェイダから都までなんて、銀冠持ちでも飛ばせるのは極少数だ。キクロ兄さんを基準に考えるのはよくない」
「そうか……術なんてごく簡単なものを二つ三つ使える程度の私じゃ全然わからないけど、そういうものなんだな」
「残念ながら馬で行ってもらうしかない、んだ、が……薄々勘付く民や、ヤハジャ王の廻者もいるかもしれない。できるだけ怪しまれずに行動する必要がある。……というわけで、だ」
さっ、とマイラが手を挙げた。
「私が同行致します!」
迷いのない申し出に、リュセイがぎょっとした。
「や、ちょっと、トウキ、マイラどの、それはちょっと、何言って」
「陛下。事は急を要するのです」
「とはいっても! とはいっても、なんだよ! 貴女は人質ではなくファンロンからの大事な預かり物だ。無茶なことをさせるわけにはっ……第一、マイラどのも長旅で疲れて」
「ですから。手を携えるクォンシュの緊急事態にファンロンの者として、そして夫の大切なご友人に、力をお貸ししたいのです。本来は夫がやるべきなのでしょうが、夫には国境を護る務めがあります。私では国境警備隊の皆さんを束ねることはできません。それに私は元々異国の出、見慣れぬ者を連れていても違和感はございませんでしょう?」
やわらかで丁寧な言葉と表情の割に圧を感じる――皇帝陛下は、親友にやや呆れた笑みを向けた。
「有無を言わせる気がないなこのお嬢さんは。トウキ、お前、惚れた女にこんな酷なことをさせるのに抵抗はないのか?」
トウキも笑って返す。
「ちゃんと話し合って決めた。言っておくが俺の妻はできるぞ」
「惚気てくれる。……わかった、ショウハが招いたことにして下に話を通しておこう。あの子は困らない程度のワガママをちょくちょく言ってくれるから周囲も納得しやすい」
ありがとうございます、とマイラは頭を下げた。
「必ずノウル様を無事にお連れします!」
◎ ◎ ◎
夕食から二刻ほど経ってから、マイラ・シェウ・アヴィロとノウル・ネハートは屋敷を出発した。ウェイダから都までは通常なら二、三日かかるがそれは馬車を使った道のりでの話で、夜のうちに足の速い馬を飛ばせば、休憩を挟んでも日が昇る頃には都の隣の小都市フェロには到着できる。フェロからは皇帝リュセイが用意した馬車に乗り換え、皇妃ショウハに招かれた客人として宮廷に入るという寸法だ。
万が一のときのために、マイラはレイシャも同行させていた。レイシャは黒牙獣、見た者が驚いたり危険とみなして攻撃してくる可能性もあるので、馬と並走させずに街道から少し外れ、しかし呼べばすぐ出てこられる距離を保って二人についてきている。
チェグル領の郊外にある街道沿いの丘の上に辿り着いた頃、二人は一回目の休憩をとった。深夜も稼動させている工場が多いチェグルの町明かりを見下ろしながら、ノウルは木筒の水を一口、飲む。
「流石は大陸屈指の糸と布の都とよばれるチェグル。真夜中でもこんなに明るいとは」
「私たちが向かうフェロはもっと栄えていますよ」
馬の汗を拭きながら応えるマイラは、長い髪を高い位置で結い、腰の両側に剣を提げている。その姿はまるで少年だ。祖国で大伯父の葬儀を終えて帰路についていたその途中でノウルたちと遭遇し、予定よりも遅れて嫁ぎ先の屋敷に戻り、ろくに休まぬまま出てきたというのに、疲れた様子はほとんどみられない。これが若さか、とノウルは感心していた。ウェイダに向かう道中で自身の半分くらいの年頃と聞いたときには驚いたものだ。
「その、姫君」
「名でお呼び下さいノウル様」
「え、あ、はい、マイラ様」
「何でしょうか?」
「貴女は……怖くないのですか? あの、女中の、モユどのは、その、あんなに」
そういえば、夜通し真っ暗な街道を馬で走って帰ってきたのだとトウキから聞いている。
「生まれ育った領内という限られた範囲でではありますが、夜中に馬に乗ったことがありますから」
「そう、なの、ですか」
「父は、私にさまざまなことを教えてくれました。領主として必要な知識、心得、司法の仕事、基本的な剣と弓の使い方、馬の乗り方……あと、夜の狩りの仕方も」
「えっ…………それ、は、」
まるで男子のよう――と、口に出しかけたが、何とか飲み込む。そんなことを言うのはあまりにも無礼だ。
しかしこの姫君はそれもわかっていたようである。
「私は、父が大伯母から譲り受けたツァスマの領主となるはずでした。でも、弟が生まれて、その子に継がせることになりました。父は私に継がせたかったようですけど、いろいろ……家庭と親戚の事情というものが、ありまして。一応王族なので。へへ」
へにゃ、と笑った顔を見て、不思議な娘御だ、とノウルは思う。やはり一国の姫君には見えない。しかし平民にも見えない。
「弟君に、奪われたと……思ったことは、ないですか?」
受け継ぐはずだったものを兄弟に取って代わられたのは、ハンジュと同じではないか。そう問うが、
「ないです。『私は領主にはならないのだなぁ』、と。与えられればその役目を全うしたい、という気持ちはありました。でも、やりたくてやりたくてたまらない、というわけではなかったのかなって。……もしかしたら、私に領主という立場が向いていないのを、天の神はお見通しだったのかもしれません」
マイラは笑う。
「ハンジュ様は、すごいですね。ご自分の意志で、領主どころか、一国の主になろうとなさっている。きっと、あの方のことですから、それが険しい道であるだろうこともご存知の上でなのでしょう。……ノウル様は、ハンジュ様が王となられることに、異存はないのですか?」
角灯の明かりに浮かんで見える、夜空のごとき深い色の目。その中の僅かな光が星のようだ。
意識が、吸い込まれそうな。
心の奥、裏側まで見られてしまいそうな。
しかし、ノウルは真っ直ぐ見返した。
「……いえ。ハンジュ様こそが、デアーシュの王となるべきお方」
怯まず返答。意志に偽りも躊躇いもない。
「手前は、ヤハジャとは乳兄弟。付き合いはとても長い、互いにいいところも悪いところも知っている無二の友だと思っています。ですが……それでも、王としての資質はハンジュ様の方が勝っている。デアーシュをどう守っていくか、何が必要か、優しいだけではいけない、冷徹さ厳しさも必要だと幼い頃から先王からよく学んでおいででした」
語り口を見て、マイラはノウルが兄妹それぞれと親しかったのだと悟る。
王の子ではあるが出自の関係で遠ざけられてきた息子と、女子ではあるが後継者として育てられた娘。その周囲にある者も互いに壁を設けていた中で、腹違いの兄妹の架け橋になろうと彼なりに努力してきたのだろう。
友と信じる者が敵対している現在の、ノウルの心境は如何ばかりであろうか。
「ヤハジャは……いや、あれも、何も考えていなかったわけではないのです。ただ、」
そこまで口にした瞬間。
茂みから、レイシャが飛び出してきた。
「ひっ!?」
まだ慣れないノウルが後ずさると、レイシャは二人を護るかのように出てきたのとは逆の方向の茂みを睨み、唸る。警戒心の強いレイシャが何かを察知した――マイラも剣に手を掛け構える。
「おっかねぇな、なんてもん飼ってやがるんだ」
力を持つ者の自信から出る、腹の底からの声。ノウルの表情が変わる。
「な、え……? なんで、ここにっ……」
その言葉に、マイラは声の主が何者なのか察した。ノウルを庇うように前に出ると、男もゆっくりと、暗がりから姿を現す。
頭を覆っていた頭巾を取る。
金色の髪、金色の装飾品。よく見れば暗い色の丈の長い外套にも、金の刺繍が入っている。獲物を狙う鳥のように鋭い赤みがかった紫の目は、皇妃ハンジュによく似ている。
「ただ、何だって? 言ってみろよノウル」
ここにいるはずがない、いてはいけないはずのその存在は嗤い、その友は見据えて名を呼んだ。
「……ヤハジャ」




