第四十八話
突如現れた黒く大きな猛獣に、ノウル・ネハートとその家臣たちは驚きおののいて固まった。何しろその獣は人や家畜を襲うことがある。しかし予期せず遭遇した異国の姫君はというと、
「レイシャ、ありがとう、本当にありがとう、来てくれて嬉しい」
慣れた様子で名を呼び、愛おしそうにその頭を抱きながら撫で、頬を寄せている。そして獣もどこか気持ちよさそうに目を閉じる。よく見ると尾の先端がぶれるように控えめに、だが素早く動いている。怯えるでもなく近付いてきたユーイがそれを拾い上げて軽く握り、流すようにまた地に放った。
「お前何でいつも嬉しいの我慢すんの、姫様のこと好きなんだろ遠慮すんなよもっと思いっきり振れよ」
レイシャの尾が力強く地面を叩き、ぱんっ、と大きな音が鳴る。ノウルと家臣はびくりとするが、姫君と従者(?)と御者は慣れているのか落ち着いたものだ。
「あっ、奥様、もしかしてレイシャの分の飯もいります? 肉足りるかな……」
「ありがとうございますタシアさん、大丈夫です。……レイシャ、ちょっと待っててね」
マイラは馬車の中に駆け込んだ。腰を抜かしたままのノウルは息を飲む。おそらくこの場でこの獣を使役し得る唯一の存在はあの元気な姫君だ。それが今離れたとなると――
「だいじょーぶだっつってんだろ、こいつはな、姫様のとっておきだ。滅茶苦茶頭いいんだぞ。な!」
からから笑いながらユーイがレイシャの背を叩いた。尾は不愉快そうに地面を叩いている、が、レイシャはユーイに襲い掛かるような素振りは一切見せず、おとなしく座っている。
それでもノウルは戦慄した。どこからどう見ても黒牙獣、人慣れすることはないといわれている獰猛な獣であるのに、撫でるどころか抱き締めていたあの姫君は、そして馴れ馴れしくしているこの美しい若者は一体何者なのか。
程なくして、マイラが馬車から出て駆けてきた。油紙で巻いた細長いものを持っている。
「これを、なるべく早く旦那様に届けて。スニヤと同じくらい速い貴女なら、あっという間にウェイダまで帰ってくれるでしょう?」
鼻先に差し出されたそれの匂いを嗅ぐと、レイシャは、ぐ、と首を伸ばした。
掛けられている銀糸と最上の青で染められた糸で組んだ飾り紐に、大粒の氷晶石。
まさしくひとつ輝く星を抱く黒髪の乙女。牙さえも細い月に見える。
思わずノウルは見蕩れた。
「お願いね」
手巾に包んだ書簡を首飾りに括り付けられ、額に口付けを受けた黒牙獣が駆け出す。
首元の石が、流れ星のように瞬いた。
「……すごい、ものを、手懐けていらっしゃる」
夜色の使者を見送り、ようやくのことで腰を上げると、マイラは微笑む。
「手懐けるだなんて。夜の乙女が遣わして下さったのです」
「夜の乙女が……」
「きっと私の友人が少ないのを心配なさったのでしょうね」
「えっ」
何言ってんだよ、と先の漆黒の獣とは対照的な明るい色彩の女装の若者が、拗ねるように口を尖らせる。
「俺も姫様の友達じゃねーの?」
「……うん、そう。そうだね」
並んで手を繋いだマイラとユーイは、目を合わせるとにこにこ笑った。
(男……女……? いや男…………のはず……)
ノウルは内心混乱していたが、黙っていることにした。
◎ ◎ ◎
身軽で俊敏な黒牙獣レイシャは、背にマイラを乗せなければ道を選ばずに駆けることができるので、全力で走れば馬よりも速い。その日の未明に屋敷を出たかと思えば日の沈みきる前に戻ってきたが、疲れた様子は全く見られないのは元々長時間狩りをして生きている獣であるゆえか。
労おうとしたが余計なことはするなとばかりに唸られ、仕方なく礼として麦鳥の大きな肉の塊をやるように侍女長エシュに命じたトウキは、妻からの書簡に目を通すなり急いで術具を通じていとこたち――皇帝と第一皇妃を呼び出した。
「マイラが例の亡命者と遭遇したそうだ」
報告に、リュセイとハンジュは顔を見合わせ、同時にまたトウキに注目した。
「マイラどのが」
「ノウルに?」
「クォンシュに行きたかったのに通り過ぎてファンロンまで行ってしまって、路銀が尽きたところに帰りがけのマイラと居合わせて、今一緒にウェイダに向かっているらしい」
マイラからの手紙を読んだトウキは合点がいき、そして安堵した。「妙に育ちがいい賊」とは、デアーシュの禁衛軍を束ねていた男だったのである。それならば心配しなくていいと自信を持って言うだろう。
マイラは王である兄を支え政に携わっていた祖父や、官吏である父からいろいろと教育を受けて育ったと聞いている。いつの間にか自国の権力争いに巻き込まれたようなぼんやりしている自分とは違い、異国の要人と接するのにさほど苦労はしないはずだ。
聞いたハンジュは大きな溜め息をつきながら、顔を覆ってしまった。リュセイの笑顔も引き攣っている。
「あぁ~、もう! 昔っからそういうとこあるんだよなぁノウルくん!」
「マイラどのがいてくれてよかった……そうか、いや、でも、……ウェイダか……遠回りだな」
顔から手を離したハンジュが悩ましそうに唸る。
「ノウルが連れているのはネハート家の家臣、しかもごく限られた者だけだろう。だとすれば武人じゃないし、街道を外れるのは危ない。帰りがけのマイラどのと会ったということは、ファンロンの都からも離れてしまっているだろうしね。都方面に戻る方が時間がかかる」
「禁衛軍はどうしてるんだ、ネハートどのの部下じゃないのか?」
「連れてこられるわけないだろう、王の身を護る禁衛軍だよ?」
一抹の不安をおぼえたらしいリュセイは、少し思案すると思い切って質問した。
「……ハンジュ。俺もお前には王の器が備わっていると思ってる、だから全面的に協力するつもりではいるけど……お前の味方は、実際どのくらいいる?」
「書簡によれば、こちらの味方として確実なのは軍の五分の一弱ぐらいだそうだ」
「三分の一もいないじゃないか!」
しかしハンジュは冷静だ。
「禁衛軍はわからないけど軍全体で五分の一、充分なくらいだよ。文官を含めばもっと多い。ヤハジャを見限りたくても表立ってそうできない者もいるし、迷ってどっちつかずの者もいる。そういうのは時が来れば勝てそうな方につく。この場合は私。何故なら悪い国主に絶望したら、たとえ女でも希望の持てる方に縋り付きたくなるからだ。私だって十年近く何もしなかったわけじゃないよ、リュセイも知ってて力貸してくれてたんじゃないの?」
「そりゃそうだけど! でもクォンシュは表立って味方できないんだぞ、戦にするわけにはいかない」
「わかってるよ、だからデアーシュだけで片を付ける。私にはそれができる。……信じてくれるね?」
自信満々の笑みに、リュセイは苦笑した。
「お前がデアーシュの王じゃなければほんとに女房にしたかったよ」
「全部終わったら胤だけくれてもいいんだよ。クォンシュの皇帝の子なら跡継ぎとして申し分ない」
「それはこっちが揉める元になるからやめよう、継承問題でごたごたするのはもうたくさんだ」
な、と同意を求められたトウキも、経験者としてはぎこちなく笑うしかない。察したハンジュも少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「まぁ、そうだね。そういうのをなくしていくのが、私たちの仕事だな。上に立つ者が安定していなければ、民も安心できない。……そんなことよりトウキ、奥方のことさぞ心配だろう? 迎えに行ってあげなよ。一応非常時なんだ、手形なんかなくてもリュセイが何とかしてくれる」
「いや」
トウキは、椅子から立ち上がった。
「万が一のこともある、国境の護りを固めます。陛下、そんなに多くなくていいので少し応援を。ネハートどのがこちらに到着次第連絡します」
「わかった、早急に将軍に話をつけてこよう。……トウキ・ウィイ」
「ん」
「こんなときに言うのも何だが」
皇帝陛下は、にこ、と笑った。
「何だか逞しくなったな、ちょっとだけ」
「うるさい」
やや顔を顰めたトウキの手が盤面を撫でると、いとこたちの映像が消えた。傍に控えていたルコが動き出す。
「非番の隊員の皆さんに連絡を」
「今日はチュフィンは詰所にいる、ここから一番近いのはスウォロだ。スウォロなら通信術で一気に連絡できる」
「行ってきます」
「頼む。エシュ」
同じく控えていたエシュは姿勢を正した。
「はいっ!」
「話は聞いていたな。家に帰ってナルテアに伝えてきてくれ」
「父に、ですか?」
「ナルテアなら万が一のときに住民に上手く説明できるだろう。軍属の経験もある、何をどうすればいいのか俺よりもよくわかっているはずだ」
「あの、旦那様」
エシュの表情が不安に曇る。
「……戦に、なるんですか?」
「ハンジュは頭も要領もいい、しかもリュセイに負けないくらいに国主の素質と度胸がある。これまで入念に準備をしてきたはずだ。あれがあそこまで言うということは多分大丈夫……とは思うが、備えるに越したことはない。ここは国境だからな。悪いが、ナルテアに伝えたらすぐ戻ってほしい。避難先や食糧の確認……とにかく、うちのことを頼む」
「はい!」
小さいが頼もしい侍女長の肩を叩くと、トウキは足早に執務室を出た。
向かう先は――国境警備隊の詰所。
◎ ◎ ◎
マイラ・シェウ・アヴィロが故郷であるファンロン王政国ツァスマ領の領主の屋敷に到着したのは、黒牙獣レイシャに書簡を預けた丸二日後のことである。屋敷に到着すると、母ルゥナと共に見覚えのある少年がに迎え出てきた。
「奥様、お待ちしてました。お帰りなさい」
「ウァルトさん、どうしたんですか?」
ウェイダ領国境警備隊最年少隊員ウァルトは、ほっとした顔で、はぁ、と息をついてから、笑顔を向ける。
「隊長に頼まれてお迎えに上がりました」
「お迎え?」
「術で警備隊の詰所まで転送します。こちらへ」
玄関先の少し広く空いた場所に馬車と馬、そして一行がまとまる。ウァルトは術杖のような得物でそれを囲むように大きく円を描いていった。それが終わると今度はその内側へ入り、足元に指で小さな術陣を描く。
「僕たちが行ったら自然に消えますので。おいしいお茶とお菓子、ご馳走様でした。領主様とご子息によろしくお伝え下さい」
ルゥナにぺこりと頭を下げる。ルゥナもそれに応える。
「本当は少し休んでいってもらいたいところだけど、それどころではないですものね。次はこんなでないときにいらしてね」
「是非。それでは」
ウァルト・サミは術剣士である。滅多に抜くことはなくいつもはほぼ術を操る杖のようにしか使っていないが、得物はあくまで“剣”だ。鞘から引き抜いたその身には、刃が付いている。
古い言葉を唱えつつ、その切っ先で足元の術陣の真ん中を突き刺すと、剣がほんのりと光り、点滅した。光は地面を伝い、大きく描かれた円の線をなぞるように走る。その間も口は呪を紡ぎ続ける。
「母様!」
マイラは叫んだ。
「近いうちに、また来ます! 旦那様を連れて! こちらにも、父上と一緒に来て下さい! すごく素敵な場所が、いっぱいあるんです!」
「ええ、きっと、必ず」
ルゥナが言い終えた瞬間、そこにいたはずの、あったはずのものたちは、ふっと消えた。
術者が言っていたとおり、地面に描かれていた大きな円すら残っていない。
静まり返った中、ルゥナ・シェウは、
「すごい。本当に、行ってしまったのね」
初めて見た大がかりな術に感心しながら、娘たちがいたはずのその位置まで出て、しゃがんで地面をそっと撫でた。
「ふふ、ふ。あの男の子みたいだったあの子が私よりもずっと、ちゃんと、辺境の領主の妻をやっているなんて」
顔立ちはあまり似ていなかったが、脳裏に浮かんだ娘の姿が一番親しかった友人と重なる。
「サエラ、貴女の娘は力一杯生きているから安心してね」
瞬きをしている間に風景が変わる。転送先は、国境を越えたクォンシュ帝国ウェイダ領国境警備隊詰所の修練場。詰所に待機中だった隊員たちが、ぴしっと整列して出迎えた――かと思われたが、それも束の間。
「お帰りなさい奥様、よかった怪我とかないですね。隊長ー、奥様ですよー!」
「おー、タシア無事だったかまぁそりゃそうだよな!」
「ウァルトお疲れ、めっちゃ気力使ったろ休んどけ休んどけ」
「厩今どのくらい空いてんだー? 馬当番確認ー!」
「はーいすんませんちょっと確認しますねぇー……いーち、にー、さーん、し……おし! 六人! と、奥様タシアユーイちゃん! これで全部だな! よしよし!」
一斉に動き出し、騒がしくもてきぱきと対応する。バラバラに見えるがまとまっているその動きにノウルと家臣たちは戸惑ったが、マイラとユーイとタシアは慣れたものだ。
「ご心配お掛けしました、ただいま戻りました。何か変わったことはないですか?」
「変わったことも何も、俺ら聞いたのついさっきですよ」
呆れた顔をするのは副隊長チュフィン・ロウである。
「ほーんとしっかりしてるかと思ったら奥様ものんきなんだから……ぽやぽやしてんのはトウキ様だけで充分だってんですよ全く。国際問題ですよわかってますか奥様」
「えへ、へへへ」
「えへへじゃねーんですちゃんと叱られてもらいますからねっ」
ずいっと押し出されたのは、半面を仮面で隠した赤い髪の男。しかし、
「あ、うぁ」
困惑している。
約半月ぶりに見るいつも通り彼のその姿に、マイラの表情が明るく輝いた。
「旦那様!」
助走もないのに跳んだその高さは、まるで翼があるように。
飛び付いてきた妻の体をしっかりと受け止めた、が、勢い余ってその場に倒れ込んだトウキ・アヴィロは、
「おかえり」
本当は叱るつもり満々だったのが、もうそれらしい台詞のひとつも考えられずに、ただ無事に戻った妻の頭を撫でるだけだった。




