第四十七話
「旦那様。モユさん寝ましたよ」
宿直当番の女中が仮眠をとるための部屋から出てきたエシュの呼び掛けに、廊下で少し俯いて思案しながら待っていたトウキは顔を上げた。
「何か、言っていたか」
「昨日ずっとヤッケス走らせてきたから、夜怖かったって言ってました」
街道とはいっても、特にツァスマからウェイダにかけては休めるような町などない山道、日が暮れれば辺りはすっかり闇に包まれる。無法者や獣に襲われるかもしれないという危険性を考えれば、出歩かない方が吉というものだ。そんな中、モユは一人、必死に馬を駆ってきたのである。彼女が目覚めたら、また改めて労ってやらねばなるまい。
「それだけか」
「あと……賊が変だったとか」
「変?」
並んで食堂へ向かい歩き始めたトウキとエシュだったのだが、
「賊の割に育ちが良さそうだったんだそうです。いきなり襲ってくるんじゃなくて、声を掛けてきて、奥様の身分を確認してから、申し訳ないけど金目の物を全部じゃなくてできるだけ出してくれって」
「育ちがいい、賊……?」
思わず立ち止まり、二人で考え込む。全く想像がつかない。
「育ちがいい……のに、賊……?」
「元々いい家で生活してて、没落した、とか?」
「だとしても……」
どうも何かが引っ掛かる――再度思案するとそんな感情が表に出ていたか、エシュが首を傾げながら主人の顔を窺った。
「どうかしました?」
「……そもそも、賊が出るという情報がファンロン側から流れてきていなかったのが気になる。わかっていたらこちらにも警戒するよう注意勧告が来るはず。マイラにも警備隊から何人か付けられた」
「ファンロンが、賊のことを隠してたってことですか?」
「いや、それはない。俺もマイラを連れ戻し改めてデアーシュの王に嫁がせるためにそんなことをしたのかとも思ったが、ファンロン側に利がなさすぎる。元々クォンシュにとってもファンロンにとっても、俺とマイラの婚姻は国家としては盟約が目に見えて確実なものとなる両手を挙げて喜ぶべき出来事だったからな。軍事力がそう高くないファンロンにしてみれば、守ってくれるクォンシュの手を離すような真似はしないはずなんだ」
「じゃあ、モユさんが言ってた賊って」
「急に出てきた……一体どこから……?」
また二人で考え込んでいるところへ、ルコが走ってきた。
「失礼します。トウキ様、遠視盤が反応しています。陛下からでは」
「わかった」
三人は足早に執務室へと向かった。
ルコの言ったとおり、連絡をよこしたのは皇帝リュセイであった、が。
「トウキ。そっちにデアーシュの者が何人か来てないか」
術具越しの皇帝陛下は、何やら疲れ切っている。しかし彼が政務に追われながらも息抜きと称して酒を飲みながら愚痴を零してくることはよくあるので、疲労についてはトウキは心配していない。僅かに顔を顰めるだけだ。
「は? デアーシュ?」
「……その様子じゃ来てないんだな」
「どういうことだリュセイ、何でデアーシュの者が」
「すまないトウキ、私から説明するよ」
リュセイをぐいと押しのけた女が正面に座る。ややふっくらとしているが、きりっと強い光をたたえる赤みを帯びた鮮やかな紫の瞳は意志の強さと聡明さ、そして高貴さを含んでいる。意外な人物の登場にトウキは目を見開いた。
「ハンジュ」
「久しぶりにゆっくり話せるってのにこんな話で申し訳ないね。顔の怪我は、もう大丈夫?」
皇后ファーリに次ぐ第一皇妃ハンジュは苦笑した。彼女はデアーシュから嫁いできた現国王ヤハジャの異母妹で、クォンシュの皇女を母に持つトウキとリュセイにとっての従妹にあたる。幼い頃から度々クォンシュにやってきているため親しく、トウキとリュセイが兄弟のように育ったことも知っている数少ない友人の一人だ。
「あ、あぁ、まぁ、もう十年以上経っているから……そんなことよりハンジュ、何かあったのか?」
「うん。デアーシュから亡命者が出てね」
「亡命者?」
トウキの問い掛けにハンジュは頷く。
「名はノウル。ノウル・ニディ・シャワラヤ・ネハート。デアーシュの将軍の一人、王に一番近い禁衛軍の長……ヤハジャの乳兄弟だ」
「王の……!?」
地位的にも個人の立場的にも腹心といえる人物ではないか。そんな者が国を出奔したともなると――トウキの続けようとした言葉を、ハンジュが口にした。
「そう、きっと今頃王宮も軍部も大変なことになっているだろうね。しかもノウルは私がいないデアーシュで唯一といっていいヤハジャを諫められる存在だった。母上が言うには最も信頼する男がいなくなったヤハジャは荒れて暴れているって話だ」
「それは……大丈夫じゃないやつじゃないのか……?」
「まぁ、大丈夫ではないな」
「冷静に言ってる場合か!」
「うん、だから、とうとう私の出番というわけさ」
こんな状況下にありながら不敵に笑うハンジュの横から、リュセイがにゅっと顔を出す。
「今だから言うけど、俺とハンジュの婚姻は表向きのものでな。だから子も作ってない」
「表向き?」
「ハンジュを迎えた頃はとっくにお前はウェイダの領主だったし、一応国と国の内々のことだから話すに話せなかったんだ。何か、……ごめんな」
「それは仕方がない。お前は皇帝、俺は臣下だ」
いくら実の兄弟のように育った親友同士とはいっても、一国の主という立場ならどうしても話せないこともあるだろう。トウキもそこは理解している。リュセイは嬉しそうに笑んだ。しかしすぐに表情を引き締める。
「でも頃合いのようだし、できるだけそうならないようにするつもりだけど、デアーシュに近いウェイダも巻き込むことになるかもしれないから明かしておこう。お前、元々デアーシュはハンジュが王位を継ぐはずだったことは知っているな」
「ああ、だからまさか、ハンジュがお前の皇妃になるだなんて……皇后でもなく……」
実は不安定なのはイノギアだけではない。デアーシュにも不穏な空気が流れていた。十年ほど前、先代の王であるマスハーシが不審な死を遂げたのである。それまで目立った病気などしたことがなかったのが、突然臥せったと思ったらそのまま三日ともたずにこの世を去ったのだ。
そしてマスハーシが崩御するや否や、それまで目立たなかった王子ヤハジャが急に力を振るい始めた。
ヤハジャは、マスハーシが未婚だった頃に手を付けた商人の娘を母に持つ、いわゆる庶子だった。が、第一子しかも一応王子ではあるものの、庶子であることとその気性の荒さからマスハーシはヤハジャにはあまり愛情は注がず、後から正妃に迎え入れたクォンシュの皇女との間に生まれた女子ハンジュを可愛がり、利発なその姫を次代のデアーシュの王であると定めた。ヤハジャとその周囲の者にとって面白くない話であるのは当然だ。
そんな背景があったのと、王の死と王子の台頭の重なりから、マスハーシはヤハジャによって殺されたのではないかという疑惑が沸いた。その証拠が見つからないのは、デアーシュでも屈指の財力を誇るヤハジャの母の家が金に物を言わせて揉み消した可能性が高いからだといわれている。
更にヤハジャは、そのごたごたに乗じてハンジュの身近にいた者たちをどんどん自陣へ取り込んだり、遠ざけていった。孤立したハンジュは王位の継承権をも奪われ、王となったヤハジャによりクォンシュへ嫁がされた。そして現在に至る。
それは邪魔者を排除するという当たり前の行為であったが、ある意味ヤハジャによる温情だったのだという話もある。ヤハジャは異母妹のハンジュに対しては何故か溺愛ともいえる態度をとっており、激しく憤っていてもハンジュに諫められればすんなりとその怒りを収めたり、自身に縁談がきたときもハンジュの顔を見るなり即座に断ってしまうほどだったという。そのような愛しい妹であるからこそ、隣国のよく見知っている相手の元へやったのだということらしいが、その真相は定かではない。
「皇后はファーリ様に決まっていたからね。ファーリ様はクォンシュに並ぶ大国ビツィニアの姫君、私はクォンシュから自治権を何とかもぎ取った歴史の浅い領地上がりの小国の娘。皇后なんてなれるわけがないよ。なる気もないけど」
ハンジュは笑った。さっぱりとした明るさはリュセイとよく似ている。伴侶というより気心の知れた友人のような彼女の夫は、その隣で苦笑しながら咳払いをした。
「ハンジュ。話を」
「あぁ、すまない」
「ハンジュがクォンシュに嫁がされたとき、ハンジュに従っていた者はヤハジャが金で釣ったり遠くへ飛ばしてしまったりでバラバラになってしまっていたんだけどな、……ほら、ヤハジャがああだろう?」
「バカだからね」
「そうバカ……ってこら! 曲がりなりにもヤハジャは兄上だろ!」
しかしハンジュは不快そうにそっぽを向くだけだ。
「あんなの兄だなんて認めない、兄じゃない」
「いや一応マスハーシおじの息子」
「その父上を殺した男だ。絶対に赦さない」
朗らかだった顔つきが一瞬で変わり、トウキはぞくりとした。とても可愛がられて育った姫君のする表情ではない。
これは、本来上に立つべき者。
そして復讐者だ。
リュセイも彼女の奥にある静かに激しく燃え続けているものを感じ取ったか、ハンジュに直接言葉は掛けずに、宥めるように肩を軽く叩いた。
「まぁ、あの壮健だった先代があっさり逝くのはおかしいというのは誰もが思っているし、いくらイノギアが弱っているからといって、じゃあ攻め入ろうなんて考え足らずにも程がある。デアーシュだって戦力自体はイノギアとそう変わらないんだから、下手したら喧嘩吹っ掛けたくせに逆に痛手を負って終わるだけだ。だから今、不満を募らせてヤハジャから離れる者が続出しているらしい。ノウル・ネハートもギリギリまで傍にいたようだけど……見限ったんだな。それでハンジュに、デアーシュに戻ってほしいと密書をよこした」
「戻るって……それ、って、つまり」
「ああ」
皇帝は、にやりと嗤った。
「正統なる女王の帰還だ」
◎ ◎ ◎
マイラたちは、街道から少し外れた開けた場所で、昼食の準備をしていた。ファンロンの街道沿いの町トウミまではまだ距離がある。ツァスマの山中で泊まりがけの狩りを経験して育ったマイラが、万が一野宿になっても困らないようにと天幕や毛布、鍋や金物の食器、更に弓まで荷物に追加していたので、外での寝泊まりや食事に困ることはない。
そして隣国の元将軍ノウルはというと、マイラに一緒に行動すればクォンシュに入れると誘われたこともあり、非礼の詫びにと護衛を兼ねて家臣五人と共に同行している。が、それによりマイラたちの旅程は大幅に遅れてしまっていた。モユを帰すのに馬車の馬を一頭使ってしまったためノウルは代わりに自らの愛馬を馬車に繋いだのだが、ノウルの馬が馬車を牽くのに慣れていないのと、他の馬との相性がよくないのか進み具合が遅くなってしまっているのだ。しかしマイラはそれをノウルに伝えずにいた。何となく、彼を責める気にはなれないのである。
「それは見通しが甘いってもんだぜ将軍」
完全に呆れた顔で腕組みをするとても偉そうな態度の廻者の前で、隣国の元将軍は恐縮し俯いた。
「う、うむ……」
「いくら金持ってたって、これまで通りの感覚で使やそりゃすぐなくなるわ。その上不当に入国して表立って動けないからって物盗りの真似事しようだなんてさ、そんな上手くいくと思ってたわけ?」
「べ、別に完全に奪おうというわけではっ……ちゃんと所在を聞いて、後日っ、返すつもりでっ……」
「だからそういうとこだっつってんだよ。突然得体の知れない奴にそんな都合のいい話されて信じられるか? あと地図! 持ってねーとか何考えてんだ誰か一人くらい準備しとけよな! そういうのちゃんと指示しろあんたそれでも将軍か!? お坊ちゃんにも程がある!」
「う、ぬぅ」
すっかり肩を落としてしまった主に、タシアの指示で石積みの竈を作るのを手伝っていた家臣たちが声を掛ける。
「だから申し上げたではないですか、もう少し手持ちがあった方がいいと」
「我々も殿と違い武人ではないのです、剣など持たされても」
「街道を行くのは目立つからと言ったのは殿ですよ」
「ううぅ」
噴出する不満。どうやらただ従順なだけの者たちというわけではないらしい。やはりどこかの誰かとその家の者たちと似ている――そんなことを思いながら、マイラはもう何度目かわからない溜め息をついたユーイを諫めた。
「ユーイ。貴方の言うことは尤もだけど、ノウル様にも事情が」
「事情なぁ」
目の前のしょぼくれる元将軍に送るその眼差しは、呆れを通り越し冷めている。
「そんで、どーするよ姫様。あんたのことだ、ウェイダに着いたらはいここまでですさよなら、なんてする気ないだろ」
マイラもノウルを見た。失敗に完全に意気消沈しているかと思われたが、まだ少しだけ表情に硬さがある。
「貴方は『行きすぎた』と仰いましたね。ただ出奔するのならファンロンでもよかったはず。行くのがクォンシュでなければならない理由があるのですか?」
「…………ハンジュ様に、お会いしなければならないのです」
ノウルの口から出た名に、マイラは思わず目を見張った。夫の親友たるクォンシュ皇帝の妻の一人ではないか。そういえばデアーシュの出身だと聞いてはいるが――
「ノウル様……貴方は、何を」
ノウル・ネハートは、顔を上げるや否や、その場に跪き、礼をした。それまでのどこか抜けている「いいとこの坊ちゃん丸出しの武人」ではない、肩書き通りの禁衛軍を束ねる者の姿。
「このままではデアーシュに先はない。ハンジュ様に王になっていただくために、お迎えに上がる……そのために参りました。姫君、どうか、どうか……力をお貸し下さい」
皇妃ハンジュをデアーシュの王に迎える。
つまり今ある王ヤハジャを廃すると。
何か大きなことが起ころうとしている――マイラが何と声を掛けようか考えかけたそのとき、
ザッ
茂みから何かが飛び出してきた。
闇に似た黒く大きなそれは二人の間に着地し、ノウルを睨み付けながら遠雷のような唸り声を口の端から漏らす。
「…………えっ、いっ、ひあぁっ!?」
突然目の前に現れたその恐るべき存在に、ノウルのビシッとキマっていたはずの礼が崩れ、その場に尻餅をついた。マイラは無意識のうちに喜色を浮かべ、夜色の友の背に手を添える。
「この人は敵じゃないよ、大丈夫。ノウル様、驚かせてしまって申し訳ありません。人慣れ…………しているとは言えない子ですが、私がお願いしない限りは危害を加えたりはしないのでご安心下さい。……レイシャ、来てくれてありがとう」
真っ黒で体も牙も大きなマイラの友が振った尾が、ひゅん、と打ち付ける鞭のように空を切った。




