第四十三話
片田舎とはいえ身分ある者の家の侍女長としては主家に忠実であらねばならない、とエシュ・ツェイリーもうすぐ十八歳は常日頃考えている。
「と、そういう、ことなんです……あ、えぇと、すぐにお伝えしなくて申し訳ありません、その、いろいろ、考えちゃって……」
正直なところ、嫌がるだろうしそれ以上に絶対に心配されるしであまり言いたくはなかったのだが、客人との間にあった会話の内容を出勤直後に朝一で伝えると、主家の奥方様は唸りながら腕組みをした。
「なるほど……なるほど……それは……なるほど……」
案の定気乗りしない上に親しく大事な侍女長も厄介なことに巻き込んでしまった――渋い顔で苦悩している。エシュは申し訳ない気持ちになった。しかし黙っているわけにもいかない。自分の力だけでどうこうできる問題ではないというのはわかっている。
「どうして、あの人が私……エシュターナ・ツコラのことを知っているんでしょうか?」
解せない顔で零すと、奥様の隣に立つ旦那様も顎に手を当てて悩んだ。
「そもそも、“『イノギアのエシュターナ・ツコラは一歳にもならないうちに死んだ』ことになった”はず。亡命先で縁者がいたクォンシュならともかく、イノギアと隣り合っていない上距離もあるファンロンの都に住む者がそれを知っているなんて……」
「そうですよね、そうですよね!? ……でも、ファンロンにも、誰か知っている人が亡命したのなら、そういうことも……あるんですかね……」
「まぁ、その可能性も、全くないとは言い切れないが……」
トウキはちらり、と妻の様子を窺い、
「あれはまだなのか」
小さく問うた。マイラは、
「遅い、ですよね」
姿勢も表情も変えぬまま答える。あれとは何なのか。しかしエシュは何となく訊けない。おそらく夫婦間でしかわからない何かがあるのだ。
「エシュ」
マイラは同じくらいの大きさのエシュの手を取った。
「貴女のことは、私が絶対に守ります。だから、ウーリェス様のその申し出は、受けましょう」
「でも、奥様」
「大丈夫」
ぎゅっ、と手に力を入れて。
「もし、ウーリェス様が何か変なことをしたり言ったりしてきたら、私が責任を持って…………投げます」
きりっとしたキメ顔で言うマイラを、
「それはやめなさい」
トウキが真剣に止めた。
◎ ◎ ◎
朝食後、マイラはウーリェスを温室に招いた。父アデンはトウキが相手を引き受けてくれている。ちょうど橋の工事について領主同士で話すことがあるとのことだ。
「へぇ! これはこれは」
ウーリェスはまるで子どものように感激して温室を見回した。彼はファンロンの学術院、つまりファンロンにおける学問の最高峰の長の孫で、自身も学術院を遊び場のようにして育ち、そのまま高度な教育を受けてきた人物である。植物が育てられているだけでなく、小さいながらも机や器具、本棚が設置されているちょっとした研究室のようなそこは、彼の好奇心をくすぐるものであるようだ。
「小さいけど池もある……学術院の植物棟みたいですね。あそこを参考にされたのですか?」
「え、ええ、まぁ」
それが他の者であれば楽しそうに話に乗っただろうが、生憎相手は苦手とする人物、マイラは心中複雑であった。そして因縁ある二人と共にいるエシュも気まずい。
娘二人の何かに堪えるような顔を見て、ウーリェスは微笑んだ。
「そんな、身構えなくとも。申し上げたように、私は貴女方に伝えるべきことを伝えたいだけです」
胡散臭い――出そうになった言葉を飲み込んで、エシュは冷茶の入った木製の小さな椀を持っていた盆から机の上へと移した。
「少し蒸しますので、よろしかったらどうぞ」
「ありがとうございます。……そうだなぁ、まずは殿下の方から話した方がいいかな」
呟いて茶を一口飲んだウーリェスは、一歩下がって最上の礼をした。
「今更ではありますが、マイラ殿下。その節は大変申し訳ありませんでした」
破談のきっかけになったという出来事のことを指しているのか。記憶が蘇ったか、マイラは笑わずに跪くウーリェスを見据えた。
「過ぎたことです。倒れた貴方に代わってご両親からお詫びの言葉をいただきましたし、謝っていただく必要はありません」
「いえ、それもなのですが…………あの縁談は、表向きのこと。元々破談にするために、私は敢えて貴女に嫌われるようにしていたのです」
硬かったマイラの表情が僅かに崩れた。
会っていたときのことを思い出す。
父の話では、ウーリェスは優秀ないい子で伯母にあたるマイラの生母にも可愛がられていたということだったが、実際に会ってみるとうるさいくらいによく喋り――しかも、自分のことを話してばかりで、マイラの話など聞こうともしなかった。いや、聞いてはいたようだが、すぐに自分の話にすり替えてしまう。話の内容自体は興味深かったものの、鼻にかけたような物言いを繰り返すウーリェスにマイラはいつもモヤモヤしており、会う日はいつも少し憂鬱だった。
それが、わざとだったと?
「何で……そのようなことを?」
ウーリェスは立ち上がると、膝に付いた土を払った。
「貴女という人は魅力的だと思っています。一緒になれば、きっと互いに研鑽し合えるでしょう。ですが、私は貴女とは結婚したくなかった」
「何故です?」
「好きな人がいたからです」
予想外の返答。確かウーリェスは、女癖が悪いとも噂されていたはずだが――しかし数多く付き合った中にそういう人がいてもおかしくはないか、とマイラは思い直す。
「だったらそうだと」
「貴女に明かせば、貴女はアデン殿下やアレド殿下に喋るでしょう。そして私をその人と添わせるようにと進言してしまう。違いますか?」
言い当てられて、思わず詰まる。
「……違い、ません」
「それでは困るから言わなかったのです」
「困るって、どうして」
「私個人としては、貴女と結婚したくはなかった。しかし、ファンロンという国のためには、縁談をすぐに破談にしてしまうわけにもいかなかった。そういうことです」
そこまで聞いたマイラは、あ、と声を上げた。
そういうことか。
「あのとき……私を他の方に嫁がせることがあってはならない、そういう理由が、あったのですね?」
ウーリェスは、にこり、笑った。
「流石はアデン殿下と伯母上のご息女、本当に聡明な方だ。……当時、貴女はデアーシュのヤハジャ王に求められていました。しかしシュイリ様……ファンロンの国王陛下はデアーシュとは親密になりたくなかった。理由はおわかりでしょう?」
「ヤハジャ王は、何年も前からイノギアに侵攻しようとしていますね」
「そう。イノギアと戦をするために、デアーシュは資金源を確保したい。だからファンロンと縁を結んでおきたかったわけですが、ファンロンとしてはよその国同士の戦になんて関わりたくないし、デアーシュの財布にもなりたくない。断るにはファンロン王室唯一の未婚の女子だった貴女はもう嫁いでしまったから嫁には出せないということにしなければならない。しかも貴女に知られれば丸く収めるためにデアーシュに嫁ぐと言い出すでしょうから内密に……それなのに、」
少し呆れた顔になる。
「貴女という人は、せっかくお父君とお爺様が考えて手を回して下さった縁談をことごとく……シャドゥイどのもラヤーデ殿下も困り果てていましたよ、手に負えない姫君だと」
ウーリェス以前の縁談相手の名を出され、
「う」
マイラはまたしても詰まった。裁きについての議論を持ち掛けたのも、狩りに誘ったのも、相手を少しばかり試そうとしたところが全くなかったわけではないが、マイラとしては本当は一緒に楽しめればと考えていたのである。
「それは……その……」
「シャドゥイどのは確かに司法官ですが、そんなに仕事のことばかり考えていたくはないでしょう。ラヤーデ殿下だって王族の中では馬の扱いが上手い方とはいえ、貴女のように馬上で弓を射るという技術は都では軍にでも入らない限り学びませんよ」
「う、うぅ」
珍しくずけずけ言われてマイラが押されているのを見て、エシュは少しだけ、ウーリェスに感服してしまった。なるほど、頭のいい男だ。
「とはいえ、相手に寄り添おうとする点は、貴女のいいところです。……話を戻しましょう」
茶をまた一口飲んで、椀を机に置く。
「そのように貴女は二人の聟候補を撃沈してしまったわけですが、最後の砦とされてしまった私は、前のお二人とは違って貴女と結婚する気はなかった。しかし貴女をヤハジャ王に嫁がせることはできない。できることといったら、ヤハジャ王が何らかの理由で貴女との結婚を諦めるか、貴女の適切な聟候補が他に見つかるまで時間を稼ぐぐらいです。とはいえ、あまり時間をかけて交流してしまえば多少は情が湧いてしまうのも確か。特に貴女は私のような学問に長じている人畜無害な者にはすぐ懐いてしまうでしょう。……そこで私は、貴女との距離をある程度保ち、貴女からの嫌悪感を徐々に蓄積しつつ、その機会が来たら一気に幕を下ろそうと画策したのです」
「そういえば、貴方と破談になる少し前、ヤハジャ王は西の方からお妃をお迎えしましたね。……そういう、ことだったのですか」
「ただ、」
「はい」
目の前のキラキラした男は苦笑した。
「引っぱたかれるぐらいは予想していましたが、まさか投げ飛ばされるとは思いませんでした」
「う……ごめん、なさい……つい……」
恥じ入るマイラに、ウーリェスはくすくす笑う。
「まぁ、こちらも両親も納得せざるを得ない程度の破談理由にはできましたし。……でも、それはそれ、不本意であるとはいえ、貴女には長らく精神的苦痛を味わわせてしまいました。本当に、本当に、申し訳ありませんでした」
再度跪くウーリェスに、今度はマイラも両膝をついて応じる。
「いえ、そんな、私もウーリェス様がそんなにいろいろと抱えているとは思わず……私のせいで、貴方と貴方の家の名に傷が」
「それはいいのです」
ウーリェスは跪いたままでけろりとした顔を上げた。マイラは戸惑う。
「え……いえ、でも」
「おかげで勘当されましたし」
「かっ……!? いえ、よくないですよね!?」
立ち上がったウーリェスに手を差し出され、マイラも立ち上がる。胸の内を明かしてくれたからか、以前のような嫌悪感はない。
少し蒸す温室で喋り通しは喉が渇くか、ウーリェスは失礼、と断りを入れてまた茶を一口だけ飲んだ。
「申し上げたではないですか、私には好きな人がいると。だから丁度よかったのです。……ここからはエシュ殿のことになりますが」
それまで他国の話をしていたと思ったら急に話を振られて、エシュはびくりとした。
「はひっ!?」
その反応に、ウーリェスは笑いを堪える。
「そこに隠れている方も、出てきていただいて構いませんよ。貴方も聞きたいでしょう、盗み聞きでなく堂々と」
「え」
本棚と大きな鉢植えからできた物陰から、のっそりと出てきたのは――チュフィン・ワバール・ロウだった。




