第三十四話
払暁。
マイラは一人、誰もいない薄暗い台所で、大鍋を使い朝食の汁物を煮込んでいた。本来ならその日の当番の女中の仕事なのだが、早くに目が覚めてしまい落ち着かなくて、皇妃ショウハの泊まる客室をそっと出てきたはいいものの、手持ち無沙汰になってしまったのだ。
昨晩、ショウハが語っていたことを思い出す。
夫によると、シウルも皇帝を想っているのだという。今は引退してしまっているが、父は先々代、先代と今上の三代に渡って皇帝に直接仕えた侍従長、その娘であるシウルも、皇后は無理だとしても皇妃として迎え入れられても不自然ではない、のだが――
「うーん……これは、どうしたら……」
独り言を零しながら鍋をかき回していると、
「何をどうしたいんだ」
背後、いや、頭の斜め上ぐらいの位置から、声がした。振り返ると、そこには左半面を仮面で覆った赤髪の男。
「旦那様」
マイラは鍋をかき混ぜていた大きな柄杓を置いて抱き付いた。一方のトウキは妻に突然飛び付かれて戸惑う。
「あ、あの、マイラ、火の傍は、危ない」
「あっ、そうですねごめんなさいっ……へへ、昨夜一晩別々だっただけなのに、何だかすごく久しぶりみたいで……お顔が見られて、嬉しくなっちゃいました」
離れるとにこにこしながら、夫の両手を取る。妻の言葉にトウキもまた嬉しいことを言われて舞い上がってしまいそうな気持ちになったが、表には出さない。
「な、何も、問題はないか」
「ショウハ様から大変なことを聞いてしまいました」
「大変な、こと」
今なら他に誰もいない。夫婦は手を取り合って向き合ったまま、二人きりでの会議を始めた。この場を逃せば、またショウハとウティラによって妨害され話をする機会を失ってしまうかもしれない。
「ショウハ様は、シウルさんを陛下の元へ連れて行きたいのだと仰っていました」
「シウルを? 何故そんな」
皇帝リュセイに想いを寄せるショウハは、皇帝が政治的な立ち位置とは全く関係なく唯一愛する女性であるシウルを嫉視していたのではないのか。
「ショウハ様は……本当に、陛下のことが、大好きなんです。だから、多分、陛下のお傍にも、陛下が大好きなシウルさんがいてほしいんじゃないでしょうか」
「……そうか」
トウキは俯く。
「俺が、連れてきてしまったからな。リュセイとシウルを、引き離してしまった」
「旦那様」
「俺が、頼りないばかりに」
暗い表情になってしまった夫の手を握る、力が少し、強くなる。
「シウルさんは、嫌々旦那様についてきたのではありません。そのときのことを私は知りませんが……でも、陛下も、シウルさんを引き止めなかったということは、貴方のことが大切で、シウルさんのことも、ご自身の代わりに傍にいてあげてほしいと、とても信頼しているからではないですか? 貴方の『せい』ではありません。あのお二人のことです、きっとちゃんとお話されて、それが一番いいと決めたはずです。そんな顔を、なさらないで下さい」
「そんなことは、わかっている」
振りほどく、とまではいかないが、トウキは手を引っ込めた。マイラは理解した。そう、二人と幼い頃から親しい彼には、わかっているのだ。
「……ごめんなさい、余計なことを」
沈んだ顔になってしまった妻にはっとして、トウキは慌てた。
「あっ、ちがうっ、そのっ……そうじゃ、なくて、その……」
妻は、自分を元気づけるために言ってくれたのに。思わず今度はトウキから手を取る。
「……やはり、つらいだろうか。リュセイも、シウルも。そう思ってしまうんだ。シウルはああだから、そんな素振りは全然見せないが……リュセイは、酒が入るとときどき言う。『シウルに会いたい』と」
「左様で、ございますか……シウルさんは、どう思っているのでしょうか」
「直接訊いたところで、はぐらかされるだろうな」
手を繋いだままで、夫婦は考える。
シウルの気持ちは?
あの気の強い皇妃ショウハはどう動く?
答えも対処法もなかなか出ないまま、考え込んで沈黙していると、スニヤの鳴き声が聞こえた。甘えたいのと空腹とでちょっぴり切なげなその声に、トウキとマイラは顔を見合わせて苦笑いする。
「呼ばれた」
「私も行きます。レイシャにもごはんあげなきゃ」
手を離したマイラは、大鍋をかけてある竈の薪を火かき棒でかき回して調整すると、台所の奥にある氷室に前日準備しておいた肉を取りに向かった。
◎ ◎ ◎
クォンシュ軍事務長兼皇帝直属術剣士隊『白梅』隊長キクロ・ファローシェ・オーギは物見遊山でウェイダ領を訪れたのではない。国境警備隊の視察に来たのである。
「うん、じゃあ、三人ずつ見ようか」
裏の修練場に集合した警備任務中でない隊員たちは、聞くなり全員嫌そうな顔をした。しかしキクロは、よーし頑張るぞ、などと言いながら、術士然とした袖や裾の長い生地の薄い羽織り物を脱いでいく――のだが、脱いだその下も、とても剣士とは思えないだぶついた袖の衣を着ている。トウキは嘆息した。
「手加減してやってくれ、使い物にならなくなったら困る。明日以降も国境の警備はあるんだ」
「術で治せばよくない?」
「よくない。兄さんだって気力が無尽蔵なわけじゃないだろう」
「何で僕だけが治療するのさ。……あれ? ここって医療術使える子いない……そんなわけないよね、僕ちゃんと医療班も作れるようにしたはずだし」
「……それは、まぁ、そう、だけど」
「ここは国境、攻め入られれば真っ先に戦場になる場所だ。そういう訓練もちゃんとしなきゃダメだよ」
仕方なく、トウキは医療術の使える隊員を五人ほど指名して待機させると、キクロから羽織り物を受け取る代わりに透き通った大きな石のついた杖を手渡した。キクロの術杖は術士が使うにしては変わった形状をしている。手を守る護拳と鍔が付いているそれは、彼の「得物」でもある。
呪文を唱えることなく、 持ち方を変えただけで、彼の背丈よりも大きなそれはぐん、と縮まり、「杖」から「剣」へと変わった。柄頭の石の中には青白い炎に似た光がゆらゆら揺れている。
変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべたまま、
「全員本気で来なさい、僕を殺すつもりでね。なぁに大丈夫さ、この龍女アルマトの直弟子キクロ・オーギ、ちょっと術が使える程度のきみたちにはそう簡単にやられやしないよ」
キクロは言い放った。
修練場から一番近い櫓の上で、皇妃ショウハは目を輝かせていた。見学をするのは構わないが、特にキクロが派手に術を使うおそれがあるので少し離れた場所から見るようにとトウキに言われたのである。
「じむちょ、強い、へーか言った。見る、できる、嬉しい!」
マイラは慌てて身を乗り出すショウハの腰に腕を回して支える。
「ショウハ様、危ない、ですっ!」
「マイラ。見る、あった?」
無礼と怒るでもなく、にこにこと笑う。本当に強き者が戦う姿を見るのが好きなのだろう、ご機嫌だ。
「私も、初めてです。キクロ様の……いえ、術剣士の、まともな戦いを見るのは」
そうこうしているうちに、ウェイダ領国境警備隊の模擬戦が始まった。
開始早々、火の手が上がったり、霧のようなものが出たり、警備隊の面々が吹き飛ばされたりしている。転移術を細かく駆使しているのか、キクロの姿が瞬時にあちこちに現れたかと思うと、次々人が倒れ、運ばれて、入れ替わる。目で追うのが大変だ。トウキの言うとおりの派手な戦闘――なるほど、確かにこれは近くで見るのは危ない。
「術剣士。ヴェセンには、いない」
感心した顔と声で、ショウハは呟く。
「ヴェセン、術士、少ない。剣と使う、できる、もっと強い?」
「そうですね。ですが、この辺りでは、あまり好ましく、思われていないようです」
「なぜ?」
こちらの言葉で説明するのはまだ少し聞き取りづらいかもしれない。マイラはヴェセンの言葉に切り替えた。
「ただ武器を使うだけの者とは『差』ができてしまうと考える人が多いのです。腕のいい術剣士は、牽制や目くらましや防御など、補助として術を使って戦うことが多いと主人が言っていました。そういう戦い方は、卑怯なやり方であるという認識が根強いのでしょうね。……でも、ほんのちょっと術が使える程度では、気力を使うのに消耗してしまうから、剣だけ振り回していた方がましなんだそうですよ」
「くだらん」
ショウハは呆れた。素に戻ったか、言葉も母国のものになっている。
「戦場では卑怯も何もない。運良く生き残れることもあろう、が、多くは勝つか死ぬかだ」
「ショウハ様は、戦場に立たれたことが?」
「初陣は十歳だった。こちらに嫁ぐ少し前にも、父と共にウウィヤンのガヒの討伐に行った。もちろん勝ったぞ。その勝利こそクォンシュへの最大の手土産だった。陛下も褒めてくれた、まぁ当たり前だがな!」
ウウィヤンは、ヴェセンの西側からデアーシュ北部に広がる山岳地帯で定住せずに季節ごとに少しずつ移動しながら生活している部族だが、その中のガヒという男が率いる集団が、山の麓の町や村を襲ったり、街道を通りがかった貴族や商人を襲い荷を奪うなどの蛮行を繰り返しており、数年前から何とかしなければと周辺諸国で度々情報交換が行われていた。結果、武に長ける者の国ヴェセンに頼ることとなったのである。
「ガヒは、強かったですか」
「というよりも、奴らは山をよく知っている。地を利用した策はなかなかのものだった。が、所詮は寄せ集め。我らヴェセンの民とて幾度となく山で戦っている。あんな山賊崩れに負けるものか」
戦士の国の姫君は、この上なく誇らしい顔で言った。マイラ自身は戦などなければよいと考えているが、彼女はそういう場所に生まれ育ち、それを常としてきた。ゆえに、こういうどこか血なまぐさい思考は抜けないのだろう。
しかしクォンシュは少なくとも現在は比較的平和である。国主の妻となったということは、友好の証でもあるが人質的な意味合いも含まれているから、よほどのことがなければショウハがヴェセンに帰るということはない。
これから先、今まで生きてきた時間よりも長くこの国で過ごすことになるだろう彼女が塞いでしまわないか――昨日から話を聞いていたマイラはそれを案じて、求められたらできるだけショウハの相手をしていければと思っていたのだが、
「ガヒなどよりも、この国の将軍の方が強いと思う。陛下が話を通してくれて、ときどき手合わせしてもらうんだ。我が父よりも軽い剣だがその分速い。あれは速さで翻弄して確実な一撃を狙うための剣なんだな」
意外と心配はいらないようである。やはり皇帝は彼女の性質を見抜いていて、そのような振る舞いを許しているのだ。そしてショウハもそれを知っていて、だから皇帝を慕っている。
話していて想う人を思い出したか、櫓の囲いに頬杖をついて模擬戦を眺めながら、ショウハはふぅ、と息を吐いた。
「ままならんな、男女のことは。戦のようにわかりやすくない」
たった十三の娘が言う生意気な言葉だが、マイラは笑わなかった。
「あのシウルという女、何故陛下の傍に来ないのだ? この国一番の男だぞ?」
さすがにこの言い分には笑ってしまう。それを見てショウハは口を尖らせた。
「マイラ。お前、まさかあの女の味方か?」
「何とも、申し上げられません」
笑顔にあぐねる色が加わる。
「お二人で決めて、今こうなっているのでしょう。他人がどうこう言うことではないと思います」
「でも陛下はそうそうこんなところまで出てこられないんだぞ。だから私が来たのではないか」
「それは、陛下が望まれたことなのですか?」
「…………違うが」
合点がいった。「喧嘩をして飛び出してきた」というのはそういうことだったのか。
しょぼくれて俯いてしまったショウハに並び、マイラは共に模擬戦に目をやった。夫は忙しなく医療班に指示を出しながら、隊員たちを指揮している。あれが国境警備隊の隊長の務め――あんなことを、領主と兼任しているのか。帰ったら労いたいところだが。
「ショウハ様。陛下は、ご自身が命じればシウルさんをお迎えするのはたやすいと、わかっていらっしゃるはずです。それでも、そうなさらない。シウルさんが、都のご実家を出てここにいることを、尊重されているのではないですか」
「だがっ」
マイラの顔を見たショウハの目は、潤んでいた。
「私たちばかりが陛下によくしてもらってる、そんなのはよくないことだ! 陛下はずっと、この国のために生きねばならんのだぞ!? 少しくらいいい思いをしたってよいではないか! 陛下は欲がなさすぎる! 手に入れても何の問題のないものに、何故手を伸ばさない!?」
ぽろぽろと、雫が落ちる。
夜の乙女に仕える星の精のような少女の強い瞳から零れる露は、あまりにも美しいが、少し哀しい。
「何故リュセイ様は、自らの幸せを願わない? シウルとやらもだ。互いに想っていることを知っていて、何故共にいようと思わない?」
目元を拭うことなく、皇妃ショウハは睨むように下の戦場に再度目をやった。
マイラには、その問いに答えることができなかった。




