第二十話
お互いに準備が必要だろうということで、一旦ウェイダに帰ってから迎えをよこす旨をルコ・ナンヒに伝え術士院を後にしたアヴィロ夫妻は、そのまま市場へ向かった。トウキがウェイダを出る前に言っていた「街での用事」を済ませるためである。
「何かお買い求めになるのですか?」
馬車の小窓から外を覗くマイラがうきうきした声で言う。昨日もいろいろあったのに、全く疲れた様子を見せない。
「お前の馬をな」
「うま」
振り返ったマイラの顔が、ぱっと晴れやかになる。
「いいのですか!?」
「お前が出掛けたいときにシャンドがいなかったら不便だろう」
マイラにも自分の馬がいたが、高齢のため嫁ぐ際に連れてこられなかったので、トウキが警備の任で国境に赴くとき以外であればと愛馬のシャンドを貸している。屋敷にいる馬の中では最も賢く穏やかで、馬の扱いに慣れているマイラとの関係も悪くはない。
くるんと踊るように身を翻してトウキの横に腰を下ろす。
「仲良くできる子がいたらいいのですけど」
「お前なら、どんな馬でも上手くやれる」
ところが。
「あまりいい馬が仕入れられませんで……」
店の裏の厩に案内してくれた年老いた商人は残念そうに言う。
クォンシュ国内にある馬の産地オントルはここ数年具合が悪いらしい。雨が多すぎて牧草の育ちがいまいちなのと、ぬかるみに足をとられて怪我をしてしまった馬が何頭も出たのだそうだ。その中にはいい種馬もいたのだという。
店頭に並ぶ馬は一見問題なさそうだが、都に古くからあり軍の者もよく通うこの店の主がそう言うのでは間違いはないのだろう。シャンドもこの店から紹介してもらった先で生まれた馬だ。
「今年はこの子らがやっとの出来でしてねぇ。ちょっとばかし、冷えにも弱くて」
馬を見ていたマイラも、難しそうな顔をした。
「少し、細いですね。落ち着きも、ちょっと……うーん、神経質な子たち、なのかな……」
「ウェイダは山だし涼しいからな、連れて行って走らせるには不安があるか」
「申し訳ありませんトウキ様、せっかくお立ち寄りいただきましたのに」
表の店舗に戻りながら老店主が深々頭を下げるのに、トウキは苦笑で返した。
「天のことは神の御心次第、草も馬も恵みが受けられなかったのは哀れだが、どうにもならないことでは仕方がないさ。それより店は大丈夫なのか?」
「はい、お陰さまで、馬具や蹄の手入れで何とか細々と。将軍やオーギの若様にもよくしていただいております」
「そうか、それならよかった。……このまま手ぶらで帰るのも何だ、この手綱をシャンドへの土産にもらおうか。今のもだいぶ古びてきたしな」
店頭で選んで手に取った手綱は、深紅に染めた革に黒い紐が編み込まれている。一粒だけついた雫型の青い龍星石は守り石か。さりげない装飾性もあり、それでいて丈夫そうな品だ。
「取り付けは」
「自分でできる、大丈夫だ。何よりシャンドを連れてきていない」
「はは、馬が怖いと将軍に泣きついておられた頃がお懐かしゅうございますなぁ」
「何年前の話をしている」
また、旦那様の昔の話を聞けた――マイラは嬉しい気持ちになる。
「旦那様、次は、どこへ参りますか?」
馬を得られなかったにも関わらず楽しそうな妻に、トウキも気持ちが和らいだ。
「何が見たい?」
「えぇと、」
言いかけて、そのままぴたっと静止してしまった。
「……マイラ?」
「あの、いっぱいあって、何をどうしていいのかわからなくなっちゃいました」
好奇心旺盛な子供のような混乱に、トウキは思わず吹き出す。
「落ち着いて、順番に、できるだけ見ていこう。ほしいものがあったら言ってくれ、ウェイダにないものを買ってやれるのは今のうちだ」
「はいっ」
夫婦のやりとりを見守っていた老店主がにこにこしながらマイラに何かを差し出した。
「トウキ様も将軍に似てきましたなぁ。あぁ、奥様、よろしければこれを」
掌に乗る大きさの缶。蓋を開けると、真っ赤な宝石――ではなく飴玉が入っている。
「ここにいらっしゃるたび、トウキ様に差し上げていたものです」
「ふふ、そうなのですか」
「だから今幾つだと思っているんだ、いつまでも子ども扱いして」
摘まんで口に放り込むトウキは、言い方は不満そうだが嬉しそうに見える。マイラもひとつ口にした。馬が手に入らなかったこと自体は残念ではあるものの、不思議と気落ちしないのは、程よい酸味の木苺味の彼の思い出の一粒を味わっているからかもしれない。
そうでなくとも、急いでいるわけでもない。のんびり待とう。
縁は必ず、どこかで繋がっているはずなのだ。
◎ ◎ ◎
声が、聞こえた。
『来てあげたわ』
『あんたのことは気に入らないけど、彼が言うから』
『私とあれだけやり合えた腕は認めるし、彼が言うから、ね』
気の強そうな少女の声。
姿は見えない。
ただ、暗闇の中にいることはわかる。
そして、言うほど敵意がないことも。
『だからほら、』
『早く迎えに来なさいよ!』
目が覚める。薄暗い部屋の中に、窓から月明かりが差し込んでいる。まだ夜だ。
昼間は移動距離はさほどでもないが長時間外出していた。疲れたからぐっすり眠れるだろうと思っていたが、目も頭も冴える。
行かなければ。
そっと寝台から抜け出ようとすると、手を掴まれた。
「どこへ」
マイラは夫の手に己の手を重ねる。
「お手洗いに」
「俺も行く」
「お手洗いですよ?」
「……少し、気になる夢を見た」
「夢、ですか」
そういえば、自分も何か見たような――しかし、どんな内容だったのかは全く思い出せない。
「気にはなる、が……実は、よくわからないんだ」
「わからない?」
「……知らない少年がいた。知らないはずなのに、よく知っている気がした。……何か、言われた気がするんだが……」
何となくわかる気が、と言いかけて、我に返る。
何がわかる?
黒。
暗闇の、中に。
それなのに全く怖くはなくて。
「マイラ?」
声を掛けられてはっとする。
「いえ、あの……その、ちょっとついてきていただけませんか」
急いで準備を。
準備? 何の?
でも必要だから。
出掛けるときにいつも持って歩いている小さな巾着と水差しを持つと、
「参りましょう」
夫の手を引いた。
手洗いにも行かず、マイラは黙ってトウキの手を握ったまま足早に先へ先へと進んでいたが、トウキも何故、どこに、とは訊かなかった。
何故なのかはわからないが、行かなければならない気がしたのだ。
厩のある裏庭に出る。深夜の静寂は、未だ満ちていない月の光をも眩しく思わせる。
すると、スニヤのいる小屋の前に、影よりも黒いものが蹲っていた。
二人が足を止めると頭を上げる。
「黒牙獣……!?」
身体能力の高い獣、しかもこんな夜更けとはいえ、いつの間に宮廷内に潜り込んだのか。身構えるトウキの腕に、マイラが手を添えた。
「旦那様、大丈夫です。彼女は昨日の子ですが敵ではありません」
「彼女?」
何故かはわからない。
が、その個体は“彼女”であるのだと確信していた。
マイラはゆっくり黒牙獣に近付き、膝をつく。
間近で見ると意外と大きい。大人二人を背に乗せられるスニヤより一回りほど小さいとはいっても、大きな体躯の部類に入る肉食の猛獣、よく戦って無事だったものだ。
「昨日はごめんなさい。傷、痛むよね」
傍らに水差しを置き、袋から携帯用の傷薬と油紙、細く割いたやわらかい布を取り出す。どうしてかと言われれば説明はできない、しかし、何となくそうした方がいいと思って持ってきていた。
手当てをされると理解したか、黒い獣は右の後ろ足を、ぐ、と伸ばす。切り傷がある。手応えが軽かったからそんなに深くはないはずだとは思っていたが、想像以上に軽傷だったようだ。ほっとする。
「ありがとう。よかった、もう一撃入れようと思ってしまっていたけどできなくて。歩くのが大変になってしまったらつらいものね。……少しだけ、我慢してくれる?」
そう言って足を手に乗せ、傷周りの土やゴミを払う。あまり汚れていないのは、自身でも舐めたのだろう。それでも一応、と傷口を洗ってさっと水分を拭き取り、毛が傷口に触れないように退けてから、軟膏状の薬を指先に少し取る。傷に直接触れた瞬間、痛むのかびくりとしたが、体温で薬を融かす要領でそっと掌で包み押さえて馴染ませてから、傷の周囲を指先で少し刺激し血流を促進、油紙を置いて、布を巻いていく。
その間、黒牙獣は丁寧に行われる応急処置をじっと見ていた。
足先に触れながら、マイラは袖を引き裂かれたときのことを思い出していたが、どの足も爪が出ていない。害する気持ちが全くないことを認めてくれているらしい。しかしそうしてくれるだろうこともわかっていた──何故か、は、全くわからないのだが。
手当てを終えてすぐ、黒牙獣は立ち上がった。マイラも立ち、互いに見つめ合う。
夜の闇の欠片のような黒。
月光がつやつやと照り返る。
匂いを嗅ぎ取ろうとしているのか、鼻先を上げ、すん、と鳴らすので、手の甲を近付けてみる。黒牙獣は唸りも噛み付こうともせず、素直に鼻を近付け、一瞬だけ付けるとその場に座った。
まるで儀式のようだ、とマイラは思った。
「……仲良くしてくれるの?」
小さく声を掛けると、黒牙獣はまた立ち上がって背を向け、かと思うと尻尾でマイラの手を思い切り叩き付けた。結構な力なのか、ぱんっと音が響く。
「いったい!」
「マイラ!」
「だいじょうぶ、大丈夫です旦那様、問題ありません、大丈夫です」
そのまま黒牙獣は、スニヤの小屋の扉を前足で掻く。中からスニヤの声か聞こえる。マイラはトウキの傍に駆け寄り、袖を引いた。
「会わせてあげて下さい」
「……あぁ」
何かを察したか、トウキから驚きや不安といった色が消えた。二人で連れ立って小屋の前まで来ると、閂を外して扉を開ける。スニヤは人慣れしているどころか、主人の親しい者と知れば誰でも撫でてほしくて甘える。下手をすれば馬よりも扱いやすい獣であるので閂どころか扉も必要ないのだが、宮廷内の者のほとんどはそんなことは全く知る由もない。不安を与えないための措置だ。
待っていたらしく、スニヤは扉の前にちょこんと行儀よく座っていた。喉も鳴らしている。図体は大きいが、本当に「ちょこんと」というのがよく似合う。
スニヤの姿が見えると黒牙獣はトウキの横をすり抜けて、スニヤの顎に己の頭をぶつけた。応えるかの如く、スニヤも黒牙獣に頬擦りしてから、今度はトウキに密着して全身を擦り付けるように周りを回る。トウキの手が鬣に触れると、スニヤの長い尾がぴんと立ってから、揺れた。
「お前が呼んだのか」
うるん、スニヤが鳴く。
「……そうか、お前は女神スニヤの愛し子、慈愛をもたらす獣だったな。それで、」
黒牙獣の方を見て。
「何をしに来たんだお嬢さん。まさかうちの小僧に惚れたのか?」
問い掛けに、闇の如き美しい獣はひとつ瞬きをして、足を進めた。
マイラの真横まで来て座り、尾の先を器用に使い先程叩いた手の甲をくすぐる。その瞬間、
『来てあげたわ』
たった一言、頭の中で弾けた。
「……そっか、来てくれたんだね」
黒牙獣を抱き締める。あたたかい。脈打つ音と呼吸を感じ取りながら、滑らせるように首元を撫でる。
大事な、大事な存在だと思った。
「縁を取り持ってくれたスニヤにも、結んでくれた貴女にも、御礼をしなくちゃ」
怪訝な顔で、
「マイラ?」
歩み寄るトウキに、
「旦那様。きっと昼間、いい馬と出会えなかったのは、こういうことだったんだと思います」
振り向いて、にこりと笑う。
「この子、私を乗せてくれるそうです。ね、レイシャ」
月の冠を被り、星の散る薄絹を纏う、麗しき夜の乙女――その名を受けた黒き獣は、こてん、とマイラの頭に己のそれを寄せた。




