8話
「おはようございます、姫」
目覚めは、至って平穏なものだった。
寝所で侍女に起こされ、着替えて朝食を摂り、茶を愉しみ、楽器や剣術の稽古に励む。
春の国は、一年中桜が咲き誇る優雅な国だ。
気候でいえば、一年中春が続く。国民は義に厚く、礼儀正しいことで有名だ。
また、彼らが操る独特の剣術は、他の三国にも一目置かれている。
他国の王子が教えを請いに来たほどで、彼らの技量は非情に高度だ。
旅人が見れば、何処か懐かしさを感じながら『和』だな、と言うに違いない。
春の国に生まれたものとして、たとえ女性であっても武術の稽古は怠らない。
彼らはれっきとした戦闘民族。
大陸に於いて最速・最強と名高い、サラッブレッドなのだ。
「精が出ますね、エレナ」
一心不乱に剣を振り続けるエレナへ、姉のセレーネが声をかける。その表情は幾分か朗らかで、エレナに対する親愛の情が、視てうかがえた。
「姉上」
「久しぶりにお相手致しましょうか?
可愛い妹がどこまで成長したのか、姉は気になります」
その言葉を聞いて、エレナは嬉しいような悲しいような、複雑な表情を見せる。
剣を振る腕は止まり、体はセレーネの方を向いていた。
「御冗談を。私の状態は、姉上もよく知っているはず。
――やはり私には、才能がないのでしょうか」
「そんなことはありませんよ。自分に自信を持ちなさい」
セレーネの激励を受けても、エレナの表情は変わらない。
「ありがとうございます。……でも、本当にうまくいきません。それが的だとわかっていても、目を閉じれば生きた人間であるような気がしてならないのです」
「――エレナは本当に、優しい子ですね」
春の国の剣術とは、つまるところ殺人剣である。
目にもとまらぬ速度で敵を斬殺するその剣術は、達人の手にかかれば不可視の域にまで到達する。
――曰く、春の国の始祖、剣士エアルは。
剣を鞘から抜き放つことなく、あらゆるものを両断したと言う。
「私も、父上や姉上の期待に応えたいです。
――ですので、引き続き精進します。いつか必ず、エアルの絶技へ辿り着くために」
「その意気です。貴方の場合、足りないものは心だけ。体も技も、もはや私達を超えているのですから」
――心技体。
技術は遺せるものだが、心と体は自らが鍛える他ない。
そして何より、心を鍛えることは非常に困難である。
エレナのような場合はとくに難しい。真剣を振るい人間と殺し合う心構えは、心優しい彼女には付きようもないからである。
かといって、彼女を外へ連れ出すこともできない。
彼女は『春の神子』。千年に一度生まれる、比類なき力を秘めた存在だ。
彼女こそが、伝承に謳われた境地へと辿り着くことの出来る唯一の剣士。
一族の悲願として、春の国は総てを犠牲にしてでも、彼女を守らなくてはならなかった。
このままでは永遠に、剣士として覚醒しない。
しかし、千年に一度の神子を、外へ送り出すことなどできない。
一度だけ、父親は手を打った。
配下にエレナを襲わせて、その能力を覚醒させようとしたのだ。
――しかし、結果は失敗。
エレナは剣戟を受け流すのみで、一向に自分からは攻撃をしない。
いくら傷を負っても剣を振らない彼女を見て、王は攻撃を辞めさせた。
以後、彼はエレナに対し、特に何かすることはなくなった。
「心、ですか……。
これは本当に、武者修行へ出る必要がありそうですね」
「ダメですよ。神子のあなたを、この国から出すわけにはいきません。
本当はそうしてあげたいのですけど、どうか我慢してくださいね」
「わかっています。でも、どうにも八方塞がりなんですよね」
うーん、と唸るエレナ。セレーネも困った表情のまま、次の言葉を繰り出せないでいた。
「……やっぱり、一年ほど抜け出しちゃだめですか?」
それは、単なる冗談だった。
意図的なものではない。ただ、何となく思いついただけの、その場しのぎの発言。
――しかし、それは現実のものとなった。
ドォン!!!
突如、けたたましい爆音が鳴り響く。
数瞬遅れて爆風がエレナたちのいる修練場を襲い、
「エレナ様、セレーネ様!
ここは危のうございます、早くお逃げ下さい!」
どたどたと入り込んできた侍女が、急展開を告げた。
「分かりました。森への道は開いているかしら?」
「はい、仕掛けまで整っております」
「そう。……では行きますよ、エレナ」
「行くって、何処に?」
セレーネは侍女の方から振り返り、状況に見合わぬ優しい表情を見せた。
「貴方の行きたがっていた場所。雪の国へ」
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春の国の王城には、迷路のように入り組んだ地下通路がある。
どんなところからでも逃げ出せるように、国内の様々な場所へ続く抜け道へと繋がっているのだ。 春の国は、内乱が多い国である。
古くから続く王家はただの一度も敗北したことは無いが、城へ攻め込まれた際の策は周到に用意されていた。
その通路を、二人の王女が走っている。
随分と大軍勢である様だ。侍女も応戦に駆り出されるほどだから、相当なものである。
「いったい、何が起こっているんですか」
エレナは訳が分からないという表情で、セレーネの後に続く。セレーネは振り返らずに、妹の問いに答えた。
「わかりません。しかし、貴女を逃がさなくてはならないことは確かです」
「私達も応戦に回ったほうが良いんじゃ」
「貴方は役に立たないでしょう」
「なっ……」
先程とは真逆の、厳しい言葉を受けたエレナが硬直する。
一瞬、足が止まった。
本来ならば些細な、気にするまでもないその隙は――
「危ない!」
――致命的な、空白を生んだ。
地下通路に響く、鋼の二重奏。
旋風と共に繰り出された刃が、エレナを狙う凶刃を弾き飛ばす。
「……姉上」
「貴方は先に行きなさい。その剣を離さないように!」
妹の無事を気配だけで確認して、セレーネが地を蹴る。
弧を描き飛来する四本の暗器を、
「――はぁっ‼」
纏った風で吹き飛ばしながら、弾丸のような速度で敵へと迫り――
一閃。
短刀を構える時間すら与えず、振り抜く刃で刺客を両断した。
「……うっ」
エレナは、わけがわからずに動けなかった。
動けなかったからこそ、見てしまった。
両断される胴体。
むせ返る血の匂い。
悲鳴が無かったのは、僅かながら救いだろうか。
今、目の前で一人の人間が死んだ。
その事実に恐怖し、猛烈な吐き気が押し寄せる。
「まだいたのですか。
――早くお行きなさい。死体を見て嘔吐するなど、春の王族として相応しくありませんよ」
「……わかり、ました」
喉までせり上がったものを呑み込んで、エレナが抜け道を走り出す。
「どうか、貴女に風の守りがありますよう」
セレーネの言葉は、地下通路の闇に呑まれて消えた。
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エレナは走った。
姉の命に従い、その驚異的な身体能力で、ずっと走り続けた。
セレーネの言葉には、若干の嘘があった。
森へと続く抜け道。
春の国において、一般に森というのは、王都エアルの近郊にある森のことを指す。
無論エレナも、抜け道はそこへ続くと考えていた。
しかし実際は、そんな近くへの抜け道ではなかった。
彼女の通った抜け道は、冬の国の森へと通じている。
彼女は、一種の錯乱状態に陥っていた。
目の前を見ているようで、何も見ていない。
後ろで轟音がしたことも、
来た道が瓦礫で塞がれたことも、
姉がついてきていないことも、全て。
唯一残っていた判断力は、壊れた靴を脱ぎ捨てることくらいだった。
抜け道を出ても、ひたすらに走り続ける。
踏みしめる雪の感触も、急速に冷えていく体の感覚も、何もかもわからない。
限界を解らぬまま走り続け、唐突にやって来た疲労が、全身から活力を奪い去る。
そして、彼女は倒れ伏し。
――幸運の風が、かの旅人を呼び寄せた。