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復讐するは我にあり  人の子よ、汝は神のいとし子であることを知るがよい  私のキリスト教遍歴ノートより

作者: 舜風人

「復讐するは我にあり」という言葉は、

新約聖書(ローマ人への手紙・第12章第19節)に出てくる言葉で、


その全文は


「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。

(しる)して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』」


beloved.do not avenge your selves.




(引用『』は申命記32:35。ヘブル人への手紙10:30もこの箇所を引用)。


口語訳  


愛する者たちよ。自分で復讐ふくしゅうをしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、


「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」

(vengeance is mine.i will repay.)


と書いてあるからである。

むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。

悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。




これは「悪に対して悪で報いてはならない。悪を行なった者に対する復讐は神がおこなう(参考;詩篇94:1)。」という意味である。 


酷い悪人が世の中にはいるものだ。連続婦女暴行殺人鬼。強盗殺人、ストーカー殺人、猟奇殺人鬼その他幾らでも出てくるだろう。

佐紀隆三の、犯罪物ノンフィクション、あるいはコリンウイルソンの「殺人百科」などには幾らでも恐ろしい犯罪者が出てくる。


でも、パウロはローマ人への手紙でこういう。


「復讐してはいけない、それはあなた方のすることではなく。神が行うことなのであるから。神は必ず、その報いをその悪人にもたらすであろう」と。


ほんとなのであろうか?悪に染まりきった者が世を支配し、悪道の限りをつくして、栄華のきわみを謳歌するということがあまりにも、この世には多すぎる。


悪が栄えて善人が虐げられているのが実態ではないか?

それでもなお、神は復讐してはいけないというのか?


確かに短いスパンで見る限り悪は栄えて善は虐げられている。


だがもし、それを神のスパンで見たならばどうだろうか?

私達の魂はただ一回の生を生きただけであとは雲散霧消してしまうのであろうか?


いいや。そうじゃない。


私達の魂は幾多の生を繰り返して永劫に輪廻転生を繰り返しているのだ。

我々の人生もいわば神の掌中の九柱戯遊びにすぎないものでもあるだろうか?

そこでは悪も善もいわば、空想喜劇の戯画でしかない。


宇宙時間で見たらば、人間の一生なんて、蟻一匹の全人生より軽いものでしかありえないだろうか?

その、あまりにも短い一生で人は何を悩み何を喜び、何を争い、何を嘆くというのか?

全ては朝日に溶ける草の葉の霜でしかないじゃないのか?


人生をあまりにも、重要視・絶対視してはいけない。

勿論、軽視はもっといけないが、、、。

人生とは、とんでもなく永劫の過去から果てしない未来へと続く、

ほんの一休み?にすぎないのである。

せいぜい気楽に明るく生きようではないか?

人には少しは優しくしよう。

自分をあまりに追い込んだりはしないようにしよう。

そして社会に少しは奉仕もしよう。

そうしてしごとにも精を出そうか。

それで一生が終わるとき、(それはそう遠い先ではない)

ありがとうと言って今生を去っていこうか?


エドガー・ケイシーは言う。


「あなたが何も悪いことをしないのにあなたが虐げられることはありません。

 貴方は過去生でイバラの種をまいたのです。だから今それを手に刺さりながらも血まみれで刈り取っているのです。

なぜなら、あなた方は蒔いた物はいつか必ず自ら刈り取らねばならないからです。」


(ガラテヤ人への手紙)

6:7まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。 6:8すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。 6:9わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。


この生だけで見たなら、確かに人生は不公平で不条理でもある。

しかし私たちはいつか必ず蒔いた種を刈り取らねばならないのである。


であるから、



「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。

(しる)して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』


といいうるのである。


なぜ私がここに生きていられるのか?


なぜ私は生かされているのか?


なぜ私の命の火はこうして保たれているのか?


それは神の愛によるとしか思えないのである。


神はカオスの海からまず大地と天を分かった。


そして7日7晩かかってすべてを創造して


そののち


大地の主として自分の似姿に泥から捏ねて


アダムを創った。


しかし人の子が一人でいるのはよくないとお思いになり、


アダムを深い眠りにつかせてその肋骨から


イブを作っためあわせた。


かくして


天地創造は完成されたのである。



アダムとイブはエデンの園で


何不自由無く暮らしていたが


ある時、エデンの園のたわわに実った禁断の実を


食べて、神の怒りに触れて


エデンの東カナンの地に追放されたのである。


しかし神は


人の子に産めよ増えよ地に満てよと


仰せられその後人類はまさに地に満ちるほど繁栄することになる。


だが人の子はその後


驕慢にもバベルの塔を建てて神の領域まで犯そうとした結果


神は人の子たちの言語を別ち、話が通じないようにされて、人類を各地に散らせたのである。





だが、、、。


創世記に語られる史劇は、実際の歴史というよりも象徴ドラマとしてみるべきだろう。


言ってしまえば深奥なファンタジーである。


その意味するところは何なのか?


人の子は神の被造物であり、


自らを神のごとく創造者として驕慢の罪を犯してはならないのだ。


神の領域を犯したとき必ず神はひどい劫罰を人類に下してきた。


愛の神はまた、ただの「好好爺」(気の良いおじいさん)ではなかったのだ。


神はまた怒りの神でもあったのだ。


だが怒りは、大きな愛のもとに成り立っていると知るべきだろう。


愛ゆえの怒りのすさまじさ。


神の火を盗んだものへの劫罰はあまりにもすさまじかったことを皆さんもご存じであろう。


あるいは、ソドムとゴモラは一瞬で焼き尽くされたのである。


また神は誠実な信仰者のノア一家以外はすべて大洪水で


全滅させたのである。


すべてを許す神、


それでは悪を肯定する神でしかない。


神はまた正義の実現者でもあるからだ、


神は言っているではないか。


『復讐するは我にあり」と、


悪を裁断することは正義であり、


神の領域である。


すなわちそれは神の大きな愛の実現に他ならないのだ。


悪が裁かれること、


それが愛の行為以外のなんだというのだろうか。


善人は信仰の証を嘉せられ。


悪人は神の裁断を受ける。


すべて神の大いなる愛の


証しにほかなるまい。


だから、人の死は、たとえ見かけはどんなに悲惨であっても、その人の罪業、因果、カルマの多寡に応じて、おそらく丁度いいように塩梅されているのだと私は思う。


生き恥を曝して無残に死なされる人もいるだろうし、子羊のようなイノセントなままに天に召される少年もいるだろう。人の死は千差万別みんな違った死に方・死に時をする。

が、、それでよいのだ。何故なら、、人間の曇った眼にはわからないがおそらくは、それが神の差配なのであろうから。


どの人もその与えられた死の時が、たとえどんなに早くて、残酷で、無残に見えても、神の目からすれば、それで一番よかった死であったのだとあえて、私は思うのである。


16歳で死んだ人、20歳で死んだ人、36歳で死んだ人。

それは身内の人にとっては悲しいが、しかし、宇宙的視点から見れば全てまっとうな丁度よい死であったのだと思う。

大変冷たい言い方にはなるが、

宇宙においてすべては起こるべくしておこりその意味ですべては正しい。


神の目から見ればそこには何の不条理も何もないのであろう。


ただ人間の曇った眼には、近視眼的に現世しか映らないから、

なぜ?こんなに早くと邪推するだけなのではないだろうか?

人の世に不可解なことは山ほどもあるだろうが。

例えば、、何故罪なくして善人が罰せられ、あるいは業病に苦しむのか?

あんな良い人が難病に取りつかれてなぜこんなに苦しまなければならないのか?

という人間次元での疑問になって表白されるのであろう。


しかし神(宇宙の眼)にはすべてが見えているのではないだろうか?。

神の目にすべてが起こるべくして起こっているだけにすぎないのではないだろうか?

「すべては起こるべくして起こっていたのである」

神の目から見たらそこには不条理も不公平も差別も一切ないのではないだろうか?


「復讐するは我にあり」と聖書にある。



神は必ずいつかあなたに成り代わってそれが本当に復讐すべきことなら復讐してくださるのである。


そうだ。罪はいつかは必ず罰せられるのである。

そこには何の不条理もない。

私は哀れなか弱い子羊にすぎない。

だが神の采配は過つことがない、

神はからず実現する。


起こるべくして起こりそれが罪であるならかならずや復讐してくださる。

たとえ今生ではうまく罪を免れたとしても、必ずや来世では其の報いを受けるであろう。

人の目は騙せても神の目は騙されることはありえないからである。


過去・現在・未来の壮大なスケールで神は其の、復讐を考えておられるのであろうか。


犯された罪にはいずれにしろ、いつかはかならず罰が下されるのである。


そこには逃れるすべはありえない。





「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。


録して


『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』


(vengeance is mine.i will repay.)


ロマ書12の18












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