空の笑顔を喰った魔物
――彼は、笑顔を喰らう生き物だ。
何故笑顔でなければならないのか、何故己がそんな在り方を強要されているのかわからない。
ただ、食べなければ生きていけないから食べていた。ただそれだけ。
それはただの、あたりまえな営みの一つだった。
ふとした瞬間、彼は気が付いた。
『笑顔を探さなくても作ればもっと食べられる』
人が作物を育てて発展したように、自分も食べ物をつくればいいのだ。
彼は小さな箱の中で人と思われる笑い声を浴びせられる男性を見ていた。
彼はそれを見て決意した。
そうだ、人を笑わせよう――
◆
それから何年経っただろうか。
とある国で人気コメディアンが生まれていた。
ある時はピエロ、ある時は大きな蝶ネクタイの紳士、あるときは狂人。
そんないくつもの仮面を駆使して彼は笑いを生み出した。
ありとあらゆるパフォーマンスを研究して生み出された芸の数々は人々を飽きさせることなく魅了させ続けていた。
彼がテレビに出れば視聴率はうなぎのぼりとなり、街を歩けばサインを求めに子供たちが駆け寄っていく。
誰もが彼のことを天才と呼んで称えた。
だが、その人気にも影が出始める。
『テレビでは面白いが、個人のショーに行くと驚くほど無感情になる』
そんな評判が回り始めたのだ。
テレビで見ることができるパフォーマンスは相変わらず面白いと高評価で、視聴率も高いままだ。
だが個人のショーは面白くない。笑顔になれない。何故笑顔になれなかったのか、観客ですらわからない。
根拠不明の評判はそれでも確実に広がって、彼は『偽りの天才コメディアン』と呼ばれるようになった。
◆
テレビではまだまだ人気。本も飛ぶように売れている。
だが、彼は芸の世界から去った。
疲れ果てていた。
人の世で生きることに。
自分で生み出した笑顔を食べることに。
最初にスポットライトを浴びた時、彼はただ眩しいなと思った。
眩しくて笑顔がどこにあるのかわからなくて邪魔だなとすら思っていた。
だがいつからだろう、その明かりが好きで好きでたまらなくなっていた。
熱いほど浴びる光、それに負けじと輝く自分。そんな自分に向けられる万雷の拍手と歓声。そして食べきれないくらいの笑顔。
食べきれないくらいの笑顔を見て初めて、笑顔を笑顔として見ることができた。
いつ食べてもおいしいそれは、ただそこに咲いているだけでも素晴らしいものだった。
彼はもっと笑顔が好きになった。
そこで生きることが楽しくて、自分が人でないことすら忘れていた。
生きるために始めたコメディアンという仕事。
気が付けばコメディアンという仕事の為に彼は生きていた。
だが、食べなければ生きていけない。
人の食べる「ヤサイ」や「ニク」と違い笑顔は保存できない。
その人に咲いたその一瞬が唯一の食べごろだった。
だから彼はコメディアンを続けるために笑顔を食べ続けた。
それは人が「リョウリ」を食べることと変わらない日常の営み。
だが、それを全国に映すテレビの前でやってはいけないと彼は理解していた。
だからこそ、金にならない小さな規模の個人主催のショーを度々開いては笑顔を喰っていたのだ。
クライマックスのその瞬間、空気が最高に熱を孕むその瞬間、彼は喰った。
輝いていた目が、無になる。笑っていた口が閉じられ、拍手も歓声も消える。
あんなに楽しんでいた人たちが、熱を忘れて去っていく。
仕方ないことなのに、辛くて仕方がなかった。
小さな小屋でやるショーのチケットをもぎ取って見に来てくれたファンたち。
遠くからやって来て、触れ合えるような距離であのスターに会えるんだと胸を高鳴らせていた子供たち。
彼にとって金は無意味のものだった。
彼の必要なものは金では買えないから。
だがそれが人間にとっていかに大切なもので、いかに得ることが大変なのかは理解していた。
彼らが大切なものを対価に自分のショーを見に来てくれていることを、彼は理解していた。
だから、疲れ果ててしまったのだ。
奪うばかりで与えられないショーを行うことに。
彼はもう、笑顔を喰らう魔物である前にコメディアンになってしまっていた。
喰い物である笑顔を、愛してしまっていたのだ。
ステージへの未練はあったが、スターであることを捨てることに未練はなかった。
山のようにある金も財産も真の意味で自分には意味がない。
彼はまた街をさすらう魔物に戻った。
◆
それまで食べることに苦労していなかった彼だが、魔物に戻ってからは常に飢えとの戦いだった。
街は思っていた以上に笑顔が少なかった。
冬だったことも原因かもしれない。
厳しい寒さの中、笑っている人など極少数だったのだ。
彼は道行く人の笑顔を見つけては喰って飢えをしのいだ。
だがそうすると、ただでさえ笑顔が少ない町から笑顔が消える。
笑顔を喰うたびに明りを一つ消してしまったような苦しみを彼は覚えていた。
彼は、笑顔を愛しているコメディアンだった。
◆
彼は飢えていった。
笑顔を喰うことをコメディアンの心が拒否していた。
このまま死んでしまおう。
自分は一つの命として矛盾してしまっている。
食べ物を愛してしまって飢えているなど、それこそ笑ってしまう。
それで笑顔が減らなくなるなら、こんな寂しい生き物は死んだ方が良い。
彼は、そう思いながら公園にたどり着いていた。
――変な子供だな。
寒空の下、ベンチに座る幼い子供を見てそう彼は思った。
氷点下、空は低く厚い雲に覆われている。そのうち雪も降るに違いない。
なのにその子供は、長袖のシャツと薄手のズボンだけであまりに薄着だった。
靴も履いていない。
肌はなんだか死人のようで、その年頃ならふっくらしているはずの頬は影がある。凍ってしまったかのようにベンチに座ったまま動かない。
そして、一番奇妙なのは笑っていたことだ。
その子供は薄く笑っていた。
だがいくつもの笑顔を作り喰ってきた彼にはわかった。
笑っているけど、笑っていない。
口は緩く弧を描き、目は虚ろ。
心が枯れている。
餓死しかけていた彼は、その笑顔を喰ってしまった。
その笑顔は、笑顔でなかったから。
彼は無我夢中でその笑顔をむさぼり食った。
彼が一時期でも人であったと信じられないほど、魔物そのものの姿だった。
この笑顔は――美味しくない。しょっぱくて苦くて、量の割にすっからかんだ。
彼は少しだけ腹を満たして我に帰った。
誓いを破ってしまった。
空の笑顔だったとはいえ、本能に抗いきれずに笑顔を喰ってしまった。
あんな空の笑顔をする子供から、笑顔すらも奪ってしまって――どんな顔をしているのだろう。
恐る恐る、彼は子供を見た。
目の前の子供は、泣いていた。
泣いて泣いて泣いて泣いて、泣いて泣いて泣いていた。
虚ろな目から大粒の涙がこぼれる。
微笑んでいた口が大きく歪んで嘆きを叫ぶ。
ぬくもりを求める悲鳴がグレーの街中に響いた。
彼は気が付いた。
子供は笑っていたのではない。
泣き方を忘れていたのだと。
悲しみの嘆き方を忘れていたのだと。
涙を流すことを、諦めていたのだと。
子供の泣き声に、大人が駆け寄ってきた。
彼は慌てて隠れた。だが、放っておくこともできずにひっそりついていく。
◆
子供には、親がいなかった。
子供のことなど忘れてしまったのか、死んでしまったのかそれはわからない。
ただ一つ、子供が孤独であるということだけが確かだった。
止まらない涙に、大人たちは救いの手を差し伸べた。
たくさんの優しさが、子供を守ろうとし始めていた。
あたたかな毛布。子供のために作られた温かな食事。
人のぬくもりを忘れた小さな体を必死に抱きしめる優しい腕。
それでも子供は泣き続けていた。
きっとそこに、求めている者は一つもなかったのだ。
およそ幸福な光景とは思えなかった。
でも、彼は思った。
空虚な笑顔で枯れているより、ずっとずっと良いと。
空の笑顔より、心の叫びの方がよっぽどあたたかい。
悲しい涙の方が、きっと命に溢れている。
その後の彼の姿は誰も見ていない。
◆
世界で一番、泣き虫の街と呼ばれる街がある。
――空っぽの笑顔を張り付けていると、魔物が食べに来てしまうよ
そんな風に、親は無理をしている子を慰める。
そんな街で、一つの魔物が死んでいた。
『もう自分にできることは何もない』
誰も聞こえない声でそういって、汚い水たまりに映る自分を見た。
最期の食事は、甘くて甘くてとろけそうで、あたたかだった。
でも、誰もそれを知らない。
孤独な魔物に涙を捧げた者はいなかった。
誰かが遠くで、笑っていた。