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読んでも読まなくてもどっちでもいい

酩酊野郎は北を目指す

作者: 阿部千代

 かつては彼女の寝息のリズムで幸せになれたのだ。その幸せがきっと長く続かないことはわかってはいたけれど。

 実際、その幸せはひと月と持たなかった。彼女の寝顔を見下ろしながら、この女のどこをどう好きになったのだろうか、彼は真剣に考えた。

 オレはいつもそうだ。すぐに女を好きになってすぐに好きじゃなくなる。好きになった瞬間は覚えている。はっきりと覚えてはいるが、理由は思い出せないし、好きじゃなくなった瞬間も思い出せない。もしかしたらそれが今なのかもしれないけれど、だいぶ前から、そうだな、好きになった次の日にはすでに好きじゃなくなっていたような気もする。

 彼は素っ裸でぼんやり立っているのを止めて、カーテン越しにさしてくる明け方の薄明かりの中、自分の衣服を探しはじめた。まるで泥棒みたいじゃないか。眠っている女の横でごそごそと。靴下。パンツ。Tシャツ。ボタンダウンシャツ。ジーンズ。なんだかぞくぞくしてくるな。脱獄犯ってこんな気持ちなんだろうか。彼は考える。

 彼は彼女を起こさないように細心の注意を払いながら、服を着て、申し訳程度に髪を整えると、彼女の部屋を出る。スズメが二羽、さっと目の前を横切っていった。アパートの階段を降りて道に出ると、彼はなんだかとても自由になれた気がして思いきり放屁した。

 スマートフォンを取り出し、以前に一度だけ関係をもった女に電話をする。

「……もしもし?」

「ああ、ごめん、寝てた? オレだけど」

「寝てるに決まってんじゃん、何時だと思ってんの」

「ほんとごめん。あのさ、今近くにいるんだけど、千円貸してくんないかな」

「ハァ? なに言ってんの? バカじゃん?」

「この辺で飲んでたんだけど、道で寝ちゃったみたいで。起きたら記憶もないし金もないしでちょっと困ってんだよ、頼むよほんと、千円だけ……」

 唐突に電話が切れた。彼はもう一度だけ電話をしようとしたが、思い直してジーンズのポケットの中にスマートフォンをねじ込んだ。ポケットの中で煙草の箱が潰れた感触がした。ざまあみやがれ。

 彼の頭の中ではシャラシャラとホワイトノイズが響いていて、歩くたびに軽いめまいがした。熱があるのかもしれない。

 明け方の商店街。シリアスな顔で闊歩するサラリーマンの横で、ハードコア風のガラの悪い酔っぱらいたちが笑顔で取っ組み合いをしている。電信柱の横の吐瀉物をつつくハシボソカラスと目が合う。——よう、やってる? と彼が尋ねる。

 ——ご覧のとおりさ、カラスが答える。これが結構イケルんだ。ビールとワインと焼酎をちゃんぽんして、締めにラーメン食べたんだね。んーんんーん、バカだねー。

 ——いいなあ、きみは。オレ、きみらが東京で最強だと思うんだけど。

 ——いやいや、オオタカにはかなわないよ。あいつらの中にはぼくらを目の敵にするやつがいてさ。大変なんだよぼくらも。実際問題、体格がほとんど変わらないやつに絶対に勝てないってかなり屈辱的だよね。どんなに頑張ったって無駄さ。やつらの戦闘能力ったらハンパじゃないんだから。

 ——そいつは、ずいぶん……ヘヴィーだね。ヘッヴィーな話だね。

 手首をきゅっきゅと絞りながら、彼は赤いGショックをちらり見る。一昨年のクリスマスに当時付き合っていた女に買ってもらったものだ。三万円近くした。買ってもらったばかりの頃はあんなに魅力的に見えたのに、今となっては仮面ライダーの変身ベルトよりも格好悪く思える。というよりもだ。仮面ライダーの変身ベルトは格好いいだろう。あんなベルトが似合う大人になりたかった。昔は自分に忠実に真っ直ぐ生きていればヒーローになれるもんだと信じていた。その結果がこれだ。無一文でラリラリでカラスと会話している。

 ——仕事にいかないのかい? カラスが少し心配そうに首を傾げながらいった。

 ——なんか、頭がぐらぐらするんだよねぇ。昨日も遅刻したし、もう辞めちゃおうかな。だって、オレん家まで歩いて二時間はかかるし、もう間に合わないよ。いいや、もう。バックレバックレ。あーあ、どっかに覚醒剤ないかなぁ。

 ——覚醒剤だけはよしとけってきみの親父さんがいってただろう。本気で手を出すつもりなんてないくせにさ。きみって本当に偽悪的だなあ。ぼくはそういうのムカつくな。ぼくなんかきみらに不当に嫌われて、普通に嫌だからね。ただ生きてるだけなのにさ。頭つっつくよ。仲間を呼んで何度も何度も頭つっついて目玉をほじくり出してやろう。

 やめて、といいながら彼は走って逃げた。やっぱりカラスは怖いよな。オオタカも怖いかもしれないけれど、オオタカの怖さってヤクザの親分みたいなもので、カラスの怖さは近所の凶暴で有名なワルみたいな怖さだ。

 だけどカラスはただ生きてるだけなんだ。オレと一緒だ。カラスが人の頭をつっつくのは卵を守る時だけだって前にダーウィンが来た!でいってたな。


 彼はすこしでも近道をしようと、知らない道を進んでいった結果、道に迷っていた。太陽の向きを基準に大体の方角だけは掴んでいたが、道は斜めにのびたり、突然カーブしたり、行き止まりだったりで家に近づいている実感が湧かない。プラモデルのような建売住宅に囲まれて、じっとりとした暑さの中、水分も不足していた。彼は水道のある公園と鍵のかかってない自転車を探していたが、そのどちらも見つからずただのろのろと歩く。

 小銭はないかとジーンズのポケットをまさぐってみたが、いつのものかもわからない飴玉がひとつ見つかっただけだった。小梅キャンディ。小梅ちゃんは本当にかわいいよな。こんな女の子が近くにいたら、ずっと好きでいられるのに。でも、小梅ちゃんが好きなのは御曹司だから、オレなんてはなから相手にしないに決まってる。小梅ちゃんの恋も、オレの恋も、いつまでも報われないんだ。帰ったら赤色エレジー読もう。でもあれ引越の時に売っちゃったんだっけか。

 彼は小梅キャンディの包みを開けて、道の端にぽとりと落とした。

「これより、蟻寄せの儀を行う」

 宣言し、彼はちょっとしたステップを踏みはじめた。道行く人は不審な目で彼を見るが、彼は構わずステップを踏む。スタタンスタタン、ダッダッダ。息はあがり汗が吹き出しはじめた。彼はいつでもどこでもステップを踏める男だ。踏みたい時にステップを踏める男だ。特技とまではいえないが、彼はどんな状況でもステップを踏める自分を誇りに思っていた。

 昨日の仕事もステップを踏んでいて遅刻してしまったのだ。更に興奮していた彼はオナニーもしていた。職場には自転車が壊れたと適当な言い訳をしたが、もちろんそれが嘘だと見抜かれてはいたが、職場の誰もが遅刻の理由がステップを踏んでオナニーしたからだとは思っていないだろう。誰も思わないだろう。

 彼はそんな部分もひっくるめた自分の全てを好きだといってくれるような女性がいれば、その女性がどんなに醜い容貌だろうがなんだろうが自分の全てを賭けて愛したいと思っている。だから、次にいい感じになった女にはいおう。オレってステップ踏んで興奮したからそのままオナニーして仕事に遅刻しちゃうような男なんだけどどう思う? じわっと染み込むように彼の顔に微笑が浮かんでくる。オレはほんとに馬鹿だ。どうしてこんなに馬鹿なんだろうか。こんなにくだらないことばかり考えて生きてるのはオレだけか? 真面目くさった、例えばあそこのネクタイ締めたサラリーマン、あいつみたいなやつでも、今すぐ家を出なきゃ時間に間に合わないけれどオレはするねオナニーを、というような状況になったりするのか? するんだろうな。するに違いない。SFが好きだっていっててもギブスンのニューロマンサーは何度読んでも後半に何が起こってるのかさっぱりわからなくなっちゃったり、スタージョンの法則をさも自分の持論のように飲み屋で語って次の日に恥ずかしくて頭を抱えたりするんだろう。

「あんたもなかなかいい感じじゃないか」

 彼はたまたま通りかかった真面目そうな男にそう声をかけた。男は困ったような顔をしたが、すぐにはっきりとした声でいった。

「うん、ありがとう」

 男が彼に右手を差しだした。握手を求めていた。彼は嬉しくなって両手でうやうやしく、男の右手を包みこんだ。男の指先にはティッシュのかすが付着していた。

「悪いんだけどさ、二百円くれないか。喉が渇いて死にそうなんだ」

 彼はばつが悪そうにいった。

 男は黙って二つ折りの財布を懐から取り出し、小銭入れをさぐったあとに五百円硬貨を差しだした。

「これしかないんだ」

 彼は五百円硬貨を受け取り、信じられないといった表情で目をしばたたかせた。

「おい……なんてこった。こんなでっかいもん貰っていいのかい? オレはどうやってこの借りを返せばいいんだ?」

「きみがその気なら、ぼくは毎朝この道を歩いている。またここに来ればぼくに会えるさ。……ぴったり同じ時間とは限らないけれど、ね」

 男はいたずらっ子がするみたいなぎこちないウインクを彼にむけていった。

 彼は感極まったように両目をつむり、両手で五百円硬貨を掲げて誓った。この先なにがあろうと、この人にだけは五百円以上のものを返そう、と。具体的にいえば千円を。

「ほら、見たまえ」

 男が道ばたを指差した。まるで大衆を導く聖者のようだ、と彼は思った。オレは世の中クソみたいなやつらばかりだと思っていたけれど、特にこういうネクタイ締めたやつらは死んでしまえ奴隷根性丸出しのクズどもがと思っていたけれど、こいつらが権力持ってる連中に尻尾振ってニヤニヤしているせいで鬱屈とした閉塞感と目に見えないけれど強烈な社会的な圧力でそりゃ死にたくなるか殺したくなるかどっちかになるよなって国になってるって思っていたけれど、この人みたいに、朝っぱらから道でステップ踏んでる明らかにキチガイなオレにちゃんと真心こめて対応してくれるやつもいるんだから、オレは生き方考え方やり方、そう、あらゆる方法を変えなければいけないのかもしれない。だってオレが思い描いているような無差別テロルを実行した場合にゃ、こういう人も巻き込んでしまう可能性も十分にあるわけだ。そいつはよくない。まるでよくない。どうにかして心根の綺麗汚いを感知する毒ガスとか作れないものかな。ただ、心根が綺麗とか汚いとかの基準はオレが決めちゃっていいのか。いいのか。いいか。おいおい、オレって責任重大じゃないか。一歩間違えりゃポル・ポトだよ。

「ほら、見たまえよ」

 男がもう一度いって、道ばたを指差した。彼が落とした小梅キャンディを男は指差しているのだった。飴玉にはおびただしい数のアミメアリと何匹かのクロヤマアリが群がっている。彼と男は目を合わせ、ほぼ同時に深くうなずいた。

「会社に遅れるぜ」

 しゃがみこみ、蟻たちを見つめながら彼はいった。男もまたしゃがみこんでいる。

「いいよ。時間に間に合うかどうかなんてぼくの仕事にとって重要なことじゃない。十分や二十分遅れたからってなんだというんだ。そんなことより、ぼくはあの蟻たちに名前をつけてあげたいね。あそこでうろうろしているやつは蟻太郎、あいつは蟻ノ助」

「働き蟻にオスはいないよ。みんなメスだ」

「ほう。きみは現代のファーブルか」

「よせやい。見た目どおりのただのボンクラだぜ。……なあ、オレが大好きな小説のラストで、といっても二部作の一部目、もっというと二部作の更にその続きもあるんだけど、とりあえず一部目のラストで、主人公たちが肩を組んで歌うんだ。「虹の彼方に」をさ。今こそそのシーンを再現するべきだと思うんだけど、一緒にどうかな。なにしろ一人じゃできないんだ。……だって一人で「虹の彼方に」を歌ったって、そりゃただの「虹の彼方に」を歌っているだけの人じゃないか」

 男は顎に手をあててしばらく考えこんでいたが、ぱっと立ち上がり、彼の目を真っ直ぐに見ていった。

「いや、やめておこう。なにしろぼくはその小説のそのシーンを知らないんだ。よかったらその小説の名を教えてくれないか。ぼくは小説を好んで読みはしなかったが、俄然興味が湧いてきた」

「ハイペリオン……作者はダン・シモンズだ」

「わかった。読んでみよう。読んで、その時がくればぼくはきみと肩を組んで「虹の彼方に」を歌おうじゃないか。……さて、ぼくは会社にいかなくちゃ」

 彼も立ち上がり、男に向かって手をさしだし、男はその手を握った。

「ごきげんよう、お会いできてよかった。短いあいだとはいえ」

「さよなら」

 男は振り向いて、足音を響かせながら南へ歩いていった。男が引き返してきて、仕事は休もう、今日は蟻を見ていたいんだ、といってまたしゃがみ込むのを彼は期待して、しばらくその場で立ち尽くしていたが、やがて意を決したように、雲ひとつなく晴れわたったコーンフラワーブルーの空の下、ふらふらとおぼつかない足取りで歩きはじめた。五百円硬貨をしっかりと握りしめながら。

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