マイファミリー
「息子よ。上靴で踏まれたような頬の痣はなんだ? まさかイジメ……」
「隣の家のハルカさんにやられました」
「またまた。あんないい子がそんなことするはずないじゃない」
「母さんはハルカのことを美化し過ぎなんだよ。何も分かっちゃいない」
「そうかしら?」
「そうだよ」
ハルカ信者のマイマザーはあくまでハルカ側の人間。
五分に戦うのならば、マイダッドを味方に抱きこむ必要がある。
「なんかハルカちゃんは昔から小悪魔的な部分があるからなぁ……」
「さすがは父さん! 分かってらっしゃる!」
「これだけは言っとくが、あの子と結婚するのなら尻に敷かれるのを覚悟しておけよ。経験者の俺が言うんだから間違いない」
遠い過去を懐かしむような顔をしてマイダットはそう言った。
漂う走狗としての風格。やはり経験者は違う。
父の轍は踏まない。
心の中でそう誓った俺は無意識のうちに胸に手を当てた。
「経験者……? それはどういう意味かしら?」
「いや、特に深い意味なんてないよ……」
マイマザーに威圧されてあからさまに怯むマイダッド。
その姿はいたずらした犬がご主人様に怒られている風にしか見えない。
ここで流れを変えないと父は為す術もなく再び母の走狗に成り下がるだろう。
仕方がないのでマイダッドに助け舟を出すことにした。
「そういえば昔の母さんってどんな感じだったの?」
「昔の私?」
「いや、父さんに聞いてるんだけど……」
食事中にする話かはどうかは置いといて以前からなんとなく気になっていた。
職場結婚だというのは知ってたが、それ以外のことはほとんど何も知らない。
マイマザーは恥ずかしがってそういった話を誤魔化すタイプだったので、ここは父にダイレクトアタックして母を牽制する。これで流れが変わると信じたい。
「昔は涎が出るぐらいの美人だった」
「ふーん、昔はね……?」
「いえ、今でも充分にお美しゅうございます」
「ちょっと、母さん。横槍入れるのは後にしてくれよ」
マイマザーには席を外してもらいたかったが、当の本人は聞く気満々といったご様子。おそらくはマイダッドが余計なことを言わないよう監視の意味合いがあるのだろう。
その所為か場の空気は少しピリピリしているように感じた。
「一言でいうならバリバリのキャリアウーマンだったな。美人で愛嬌があって頭がキレる。当時は今と違って男尊女卑の文化が強かったから実力相応の出世こそできなかったものの、周囲はみんな認めてた。もちろん俺もな」
「へえー……すごかったんだ」
「すごいなんてもんじゃないぞ。俺と結婚してお前を妊娠して寿退社するまでの営業成績は全国どの営業所をも抑えてダントツのトップ。それが今なお更新されてないってんだ。仮に復職するのならどのポストでもつけてもらえるだろうよ」
初めて知った母の社会的な評価。それを聞いて驚かなかったと言えば嘘になる。俺が知ってるのは、普段はだらしなくソファーに寝転がって煎餅をカジりながら昼ドラを見る痩せてるトドみたいな姿だけだ。
ゆえに解せない。どうしてそうなったのか。
「なんでそんなすごい人と父さんが結婚したんだ?」
「そりゃ、俺が男前だったからに決まってるだろう」
「あー……そう」
「うそうそ。真面目に話すからゴミを見るような目でみるのはやめてくれ」
あながち嘘は言ってないと思うがウザいとは思った。
マイダッドは俺の表情から瞬時にそれを察したのか慌ててそう取り繕う。
「きっかけはとある部門の新規開拓の時だ。今思えば大仕事だった。なんせ同業他社に大きく遅れをとっていたからな。そこで最初に大口契約をとってきたのが母さん、次に俺だった。俺も母さんも当時は若くてな。お互い競り合うように契約合戦している間に気付けば敵対しながらも信頼し合う関係になっていた。それからしばらくして俺の方からプロポーズして結婚って流れだ」
予想以上にドラマチックな二人の馴れ初め――。
話を聞く分では恋愛映画やドラマ並のカッコよさだが、今はもう見る影もない。
……どうしてこうなった?
「同僚には悪いが正直勝ったと思ったね。なんせあの頃の母さん……美咲は滅茶苦茶モテた。俺もたまにデートに誘われることがあるが、俺の比なんてものじゃなかったぞ。会社員時代の美咲の誕生日会は盛大で――――……」
「ちょっと待って、あなた」
「なんだい? マイハニー」
「たまにデートに誘われるってどうことかしら? そこんとこ詳しく聞かせてもらえる?」
「……ん? あッ!? しまっ――――――ッ!?」
母からの指摘を受けて我に返ったのか、見る見る青ざめるマイダッドの顔色。 凍てつく場の空気は俺に消えろと囁いていた。
「さてと、そろそろ宿題をする時間だ。続きはまた今度聞かせてもらうよ」
「何!? それなら俺が教えてやろう! たまには家族のコミュニケーションも必要だろうしな!」
「アナタは私と話し合うことがあるでしょう?」
魔王のようなオーラを纏いし母に肩を掴まれその場に留まることを与儀なくされた父は顔面蒼白で震えていたが、俺に父を救えるだけの力はなかった。
「ありがとう父さん。でも、勉強はまた今度教えてよ」
「たのむ……見捨てないでくれ……」
「灯馬は勉強頑張ってね」
「はい!」
母の満面の笑みは噴火直前の火山といったところか。
俺はリビングの扉を静かに閉めると急ぎ自室へと避難を開始する。
「それにはわけが……ぎゃあああああああああああああああああああッ」
階段を昇ってすぐに聞こえてきた父の断末魔――。
俺は嵐が過ぎ去るのを待つ羊のように小刻みに震えることしかできなかった。