天青石
天青石
大平原の真ん中に立っていた。
どんだけ周囲を見渡しても夜の闇。
星が瞬き、満月が南の宙。まだ天頂には届いてません。
闇をまん丸く切りとったみたいな満月は、雲の流れもはっきり見えるくらい輝いていました。
さわさわと草がそよいでます。
生き物の気配はまったく感じられません。獣も吠えず、夜鳥も虫も鳴かず。
身じろぎ一つできないです。呼吸や動悸すらこの静謐な空気を壊してしまいそうで。
どのくらいこうしていたのでしょう。
武器も防具も置いてきました。
着てる服は、顔と両腕が出せる穴を開けただけの麻のズタ袋みたいなのををかぶっただけ。
メガネも外しました。
妖精の輪は金属を嫌うそうです。
ホントは石もルールに引っかかるかもって忠告されたのですが、さすがに不安なのでポケットに忍ばせてます。
天青石。
青白く光る石は異界への入り口を開く。
真実か否かはさておいて、異界と交わるための儀式として受け入れました。
黒いだけの景色にポツリと浮かぶ金色の真円。
頼りなく手のひらにのせられた、いびつな青白い光。
黒いのに薄明るいぼやけた世界。
わたしは今、なんとも不安定な存在です。
現世を拒否るために外していたメガネは、現世とわたしをつなぐ大事な道具だったことを思い知らされてます。
「つながったかな。」
耳元で声がしました。
体半分下にある口から発せられたとは思えないくらいにハッキリした言葉でした。
この静寂だから魔法でもなんでもないのかもしれませんけど。
何ものも存在しないはずの草原の一部に、わずかに圧力の加えられたように円が描かれてました。
草原を照らす月が、地面すべてを照らしているのかと思ってたら違いました。
ぼんやりと光の円が一つ地面に落ちてます。
月灯かりの円が、草原の円と重なりました。
宙に浮かぶ光の円がそのまま草原に落ちてきたみたいに、地に円を描きました。
左下を見下ろしました。
はっきりとは見えませんが、シュフォラスらしきヒトカゲの東部らしき部位が縦に動きました。
大きく深呼吸。
「よき隣人たちにお願いです。わたしも踊りの輪に入れてください。」
満月を真南の宙に仰いで草原に請うたら、ぼんやりしていた視界がしだいにはっきりしてきます。
キラキラ輝く草の上で楽しげに踊り、歌う小さなヒトたち。
裸眼で周囲が見えたのはいつぶり?
大方のヒトビトにはあたりまえの視界なんだろうけど、わたしにとってはとっくの昔に失ったものです。
違和感にグルグルユラユラと安定しません。
さらに、グルグルユラユラしているのは視界だけじゃないようです。
思考もまとまらない感じです。まとまらないというか、頭に浮かんだ思考が生き物のように、真偽正誤の間をやっぱりユラユラと往復してる感じなんです。
みんな、服を着てるような、着てないような。肌をさらす恥じらいすら薄れていきます。
布きれ一枚の外界との鎧を脱がされ、触れあう皮膚さえ同化していく感覚に囚われます。
耳に聞こえる歌とわたしの心音。
目に見える踊りと光に切りとられた外の夜闇。
彼らが踏みしめるたびに漂う草の匂いと自分の匂い。口にたまった唾液も晒した肌の感じる空気もぜんぶ。
彼らとわたしの存在が混ざり合っていく錯覚に襲われました。
「キミはダレ?」
ダレが訊いたのかさえわからなくなる中、
「わたしは…」
自分の名前すらわからなくなりました。
このままわたしという存在が世界に溶けこんでいく感覚に少しだけ恐怖を覚えました。
さらに恐怖を覚えたわたしですら、彼らに溶けこんで…
「とりあえず自分を保とうか。」
耳元で声がしました。
ダレの声でしょう。
なんか聞いたことある声です。というよりぜんぶおんなじ声に聞こえてきます。
ダレでもいいか。
「キミは自分の記憶がホントに自分のものだと自信を持って言える?
自分の存在を疑ってない?
目的を見失ったら、進むべき先も今までの道程すら見失うよ。」
またダレかの声がしました。
ダレの声でしょう。ダレでも…
はたと我に返ります。
そうだ。ダレじゃない。わたしはわたしだ。
今はシュフォラスといて、あの言葉は先生の言葉だ。
「これって閉架図書に降りたときとおんなじじゃないですか。」
はたとグルグルユラユラが止まりました。
膨大に流れ込む感覚器官の情報量に自分を見失ってました。
図書室の膨大な知識量に自分を見失いかけたように。
わたしはわたしを思い出します。
コンプレックスだらけで、ホントは思い出したくない自分のほうが多い気がします。
でも、それがわたしです。
「わたしはスパイア・ル・ガードです。」
静かに穏やかに名乗りました。
とたん、妖精たちの歌と踊りが急にやみます。
そしたら、再び静寂が訪れました。
時待たずして輪の中の一人が声を発しました。耳元で聞こえた声とは別なものです。
「おや、珍妙なことです。”大きいヒト”と、なんと”世界をはぐれたヒト”まで来訪です。」
なるほど彼らにわたしを取り込もうという意図は存在してないようです。
意図的だったら文句のひとつ、げんこつのひとつでも、なんて考えてたんですけど。
ところで、その呼称はなんですか?
世界をはぐれたヒト?
あ、シュフォラスのことだ。大きいヒトはヒューマン族のこと。
そういえば彼が連れてきてくれたからわたしはここにいるんじゃないですか。
思考をさかのぼります。
で、彼が躊躇ってた理由ってのを思いだします。
「理由もなくシュフォラスをその忌み名で呼ばないでください。」
本当に忌み名なのかは知らないです。
でも差別してるように聞こえたから訴えました。
斜め左下のホビット族の男性を横目で見下ろしたら、驚きに見開かれた瞳がわたしを見上げてました。
すぐに優しく微笑んでくれました。
今度は前を見据えます。
一斉に射抜く瞳は、やっぱり驚きに見開かれていました。
「なるほど”大きいヒト”の正義となるわけです。認証しました。急ぎ訂正します。
では”世界を違えた仲間”と呼称を変換してもらいましょうか。」
他の一人が言いました。
正義って表現はどうかと思うけど、斜め下のかもしだす空気がちょっとだけ変わったからよしとしましょう。
「さて、貴女がたは踊りがご所望ですか?
我らが見聞するに、他の理由が存続するようです。」
言語変換がややおかしいみたいです。
王国内は〈通訳〉という言語変換システムが作用しているから、種族語等言語体系如何にかかわらず、誰もがそれぞれの主要言語で会話ができるはず。
ここだって地理的には王国内には違わないから、言語変換システムの影響下にあるはずです。
やっぱり時空的に異界との狭間なのが原因なのでしょう。
それにわたしにはおかしく聞こえたとしても、そんなのシステム化したヒューマン族の勝手わがままでしかないですし。
ヒューマン族とか妖精族とかいう種族民族の呼称だって、うちらのお偉いさん方が上から目線で決定しただけだし。
うん。
思考が安定してきました。
一人を除き他の妖精たちは踊りに戻っていきました。
「お気遣いいただきありがとうございます。
さっそくですが、わたしたちはあるヒューマン族を捜しています。」
あまりモタモタはしていられません。
妖精の輪の中は外と時間の流れが違うから、のんびりしてると平気で何日も経ってしまいます。
って先生が教えてくれました。
とその時、横から違う妖精さんが会話に割り込んできました。
「輪のルールを破棄してはダメです。
踊る目的以外の理由は、ここを愉悦させなければ認証できないです。」
とたん、わたしは円舞の中に連れ込まれました。
慌てたシュフォラスが手を伸ばすけどわずかに届きませんでした。
「さぁ、観覧させてくださいな。」
悪戯っぽく笑む表情はヒューマン族の子どもの無邪気さ。
けっこう可愛いけど、ちょっと憎たらしい。
「だいじょうぶです。想定済みですよ。」
心配げに口をパクパクさせてるシュフォラスに、カワイ娘ぶってウィンク一つ返しました。
おぉ、似合わねぇ!
自分にツッコミ入れてしまいます。
輪の中心に晒されたのに、わたしは不敵な笑みを浮かべてました。
ステージの中心なんて、通常モードならぜったいに全拒否するはずです。
不敵なっていうより、はにかんだ…いえいえ慣れないノリに笑顔がひきつってしまっただけなのでしょう。
「どうぞ!」
掛け声と同時に、ポンっとステップを踏みました。
音が追っかけてきます。
歌詞はなに言ってるか理解できません。
でも、そんなのはどうでもいいことです。
わたしは覚えたての歌を口ずさんでました。
メロディもリズムも全くちがかったけど、王国首都の街角でギターをかき鳴らしていた少女が歌ってた歌です。
最近はヘビロテで延々と聴いてたとはいえ、もちろん一字一句、おんなじように歌うことなんてできません。
テキトー。
楽しくなってきました。
足運びも軽やかに速度を上げてきました。
ジャズみたいに休符から動いてみたり、シンコペーテッドっぽくリズムをずらしてみたりもしてみました。
音に合わせらんないだけ、とも言えますけど。
だってロンドなんて知らないし。絶対音感は当然ないし。
リズム感だってここのだれよりも持ち合わせていない。
それでも一心不乱に体を動かしました。
初めは嘲笑もしくは苦笑だった妖精たちが、ちょっとずつ変わっていくのがわかります。
わたしのあまりの無様さに恥ずかしげに顔を伏せていたシュフォラスも、気づけばつま先でリズムを刻んでいました。
「私がわたしでいられるように」
街角の少女の歌。
あの娘の言う「わたし」ってなんだか知らないけど、そのフレーズには社会のしがらみの苦しみや喜びとか、明日の自分への期待や不安とか、自己嫌悪とか自己肯定とか、いろんな想いが込められていました。
どんな自分でもそれは全部スパイア・ル・ガードだよ。
忘れないで。
先生の言葉はそういう意味だったんだ、と今なら理解できる気がします。
「きらいなアタシもあたしだし
あの娘を愛するボクも
やっぱり僕でしかないのです」
輪を乱さないことで存在を一体化する妖精たちが、今はてんでバラバラに踊ってます。
だからこそ、ぜんぶおんなじ顔に見えてたのが個々に違うことに気づけます。
あっちは女の子っぽいし、あっちは少し大人びてます。白い服を着てるヒトもいたし、カラフルな衣装をまとってるヒトもいます。
なんで一緒くたに見えてたんだろうって首を傾げてしまうくらいです。
どんだけの時間そうしてたでしょう。
このままどちらかがぶっ倒れるまでの根競べになんのかな、なんて。
時の経過に関しては、少々諦めモードが頭にちらつき始めました。
自分の世界に戻ったら、エスさんが中年太りになってて、先生が白髪の教授になってたらどうしよう。
想像したら笑けてきます。
タタン!
笑けたけど、さすがにそれは困るので勝手にシメのリズムをかかとで刻みました。
刹那の静寂。
そして、満場の拍手。
また音楽が鳴りだして、今度はみんなでテキトーに踊りだしました。
わたしの体も自然とリズムを刻みます。
さすがに踊り疲れましたので、体が揺れるていどです。
照れ笑いを浮かべながらうつむくわたしの横にシュフォラスが駆け寄ってきました。
「よくできました。」
初めて見た満面の笑みでした。
妖精族の方々も満足していただけたようです。踊りの輪ならぬ、踊りの渦から外れたリーダーっぽいヒトが話しかけてきました。
「質問の権利を得た”大きなヒト”に尋ねます。
どんなヒューマン族を探索中ですか?」
やっぱりおかしな文脈。
わたしの踊りみたいです。
踊ってたそのままのテンションでわたしは彼らに尋ねます。
「三年前に取り替え子された女の子です。今はフレアライを名乗ってます。」
刹那。
音楽が鳴り止みました。
楽しげな歌声も、軽やかにステップを踏む響きも一斉にやみました。
じゃーん!
なんて音が鳴り響き、きれいなフィニッシュ。
そんなシーンを見ることもできませんでした。
カッコよく決めた…つもりだったけど想定外にマヌケなポーズで、わたしは夜に独りポツンととり残されてます。
いや、隣にはシュフォラスもいます。
見渡す限りの光の草原が急に闇に包まれてました。宙に浮かんだ満月が雲に隠れてます。
しばらくぼんやりと佇む草原。
再び顔を出した満月に照らされても、宵闇は真っ黒なままでした。
真夏の世の夢ってやつですか?
「…どうなってんの?」
ひとりごちたら、
「無礼をお許しください。」
虚空から声が響いてきました。
「フレアライは元親に返還します。
取り替え子の真名はキアナイト。我々ではない種族です。教授することは不可なので、これで失礼します。」
虚空の声は一方的にしゃべり続け、パッタリとやんでしまいました。
数秒後、夜は虫の音に包まれました。
いつの間にやら傾いた月灯かりの下、一人の女の子が安らかに寝息を立てていました。
「えっと…この娘がフレアライさんなんですかね?」
唯一残された妖精族のシュフォラスに尋ねてみます。
「たぶんそうなんだろうね。」
いつもの無感情なしゃべりは、けっきょく自分の世界に戻れなかったことへの寂しさが感じられました。
「えっと…わたしはシュフォラスとこっちにいれてうれしいですよ。
まだまだ教えていただきたいこともたくさんですし、こんな風にいっしょにどっかいったりもしたいですし。」
わたわたと手をばたつかせてるのを見て、シュフォラスはポカーンとしてます。
しまった。よけいなことを口走ってしまった。
と後悔すると同時に、彼は苦笑いを浮かべます。
「私はこっちの世界のほうを選んだんだ。
向うが拒否ったわけじゃないから。」
「あ、そうなんですね。」
素直に安堵のため息をつきます。
一抹の不安を片隅に、でも、わたしはシュフォラスの言葉を信じることにします。
「それよりもこの娘だろ。」
「すっごく失礼な考えですが、この娘はホントにチェンジリングされた娘で、フレアライさんで、キアナイトさんっていうのがエスさんのとこにいる妹さんなんですよね?」
「ホント、失礼極まりないね。
妖精族は嘘つかない。ってか、つけない。」
なんで?
世の中に嘘つかないヒトなんているわけないじゃないですか。
それになんでこの娘はいまだ成長してないんでしょうか。
「言いたいことはわかる。
異界でのヒューマン族がなんで成長しないのか。
それともチェンジリングのルールなのか。
私も知らない。知ってたら全部説明してるさ。
正直、チェンジリングした彼らにだって理解できてないんだろうね。
チェンジリングの理由も含めてね。
でもね、君も経験しただろ。
存在すら同化するような世界だよ。嘘も含め、思いを守ることってすごく力がいる作業なんだ。
誰かの、しかもヒューマン族の子供のことで嘘ついたって、疲れるばかりでなんらメリットがないでしょ。」
「まぁ、たしかに。」
あれが妖精界の本来の姿だとしたら、わたしのやったことは世界の崩壊です。
自他の同化が常識の世界に、個別の概念を持ち込んだのですから。
結果、あの世界がどうなったか、を今後知ることがあるのでしょうか。
さて、それはさておき。
自他を明確に区別された世界で生きる自分でさえ、形を保つことが困難だったんです。
ましてや自分を保つ理由すらない世界の住人が、嘘という自分だけの秘密を守ることがどんだけ大変か、想像すらできません。
「ってことは…あの、もしかして…」
とってもイヤな予感がします。
シュフォラスがすごく意地悪い顔で指さしてきました。
「うん。なに言いたいかわかる。
君の想いビトは…」
「しゃべんな!
バカ!」
もう立場も忘れてシュフォラスの後頭部をぶん殴ってしまいました。
「あ、ごめんなさい。」
はるか向こうまで転がっていった彼のとこに慌てて駆け寄りました。
いちおう赤児を抱いて。
「ふぎゃ…」
やばい。
目を覚ましちゃいます。
「と、とりあえず帰りましょう!」
わたしもシュフォラスも子供の世話なんてしたことありません。
あたふたするうちらの足元に哺乳瓶が転がってきました。
ついでにおむつが数枚と。
すぐに妖精さんの仕業…じゃなく気づかいということがわかりました。
「あ、みなさん、まだいるんですね。」
わたしたちの可視できる世界から隔離されただけで、妖精さんってのはそこらじゅうにいるようです。
そしてもう一つ言えること。
世界こそ違えたけれど、子供を想う心はおんなじみたいです。
「ありがとうございます。」
わたしは虚空に頭を下げました。
優しく風が頬を撫でていきます。
子供の成長は早いものです。
三日後には三歳児になってました。
異世界のどこぞやでは玉手箱の煙で実年齢になってしまうって昔話があるそうです。
もしかしたら玉手箱なんてなくても、異界を行き来したヒトはその世界での年齢になってしまう運命なのかもしれないな、なんてこの娘を見てて思います。
「フレアちゃん、今日の晩ご飯はなに食べたいですか。」
エスさんには報告しました。
でも、いまだ本当の妹さんはわたしといっしょに暮してます。
気がつけばすでに三か月が過ぎようとしてました。
「んっとぉ、ハンバーギュ。」
舌っ足らずな声で彼女は右手を上げてます。
エスさんの面影があるようなないような。
まん丸い顔とおっきなアーモンド形の目、なんとなく愛嬌のあるペチャ鼻、やたらと動く唇。
エスさんもおんなじくらいヒトなつっこくて、おしゃべりだったのかもしれません。
必要以上にオトナになっちゃった、みたいな。
だからこそ正反対に見えちゃうのかもしれません。
「スゥ、きいてんのぉ!
フリャ、ハンバーギュっていってんの!」
自分のことはフリャ。
わたしの呼び方はスゥ。
この場にはいないですけど、シュフォラスはニィです。
シュフォラスって名前のどの部分も発音できなかったのとちょうどお兄ちゃんくらいに見えてしまったからみたいです。
ハンバーグが大好物。
野菜はちょっとキライ。
まぁ、一般的なお子ちゃまです。
「またですかぁ。」
わたしがそう言うと必ずムツけます。
これもいつものやり取りになってます。
「あのさ、フレアちゃんがハンバーグ言ってんだけど、それでいい?」
部屋の奥へと声をかけます。
幼馴染の彼がまたきてたからです。いちおう。
「いいけど。ただ失敗作の剣で焼くのはやめてくんないかな。」
「なんで?
べつにいいじゃない。お皿にしてるわけじゃないんだし。」
火を扱うなら慣れた道具で。当たり前のことですよ。
「それにとうぶん鉄打ちできないんだから、形だけでも触れとかないと感覚鈍るじゃないですか。」
「…まぁ、そうだな…
そうなのか?
でも、まぁ、いいか…」
なんとも歯切れ悪く口をごもごもさせてます。
「で、結局、武器作成の請負っていつから復帰できそう?」
実家から派遣されてきたみたいです。
もちろん、わたしがお断りの手紙を送ったからです。
彼はさんざん急かしてきます。
あんまり時間を置くと復帰後も回せる仕事が減るとか、名指しの客がいるだとか、ホントかウソかわからないような脅しをかけられました。
「さてはてどうなんでしょね…」
わたしの決意は変わらないのに。
エスさんの二人の妹さんをわたしが守る。その決意です。
とはいえ、半分しかその決意は果たされていません。
そこがとても心苦しいのですが、今のわたしには力量不足です。
だから、フレアライちゃんくらいは護りたいんです。
ちょうど三か月前の夜のことを思い出して、もう一度こぶしを握りしめました。
マスクレス市の王国騎士団宿舎。
そこからもっと高台にあるお屋敷がエスさんの住まいでした。
普段ならわたしなんか足も踏み入れることができないような住宅街に、わたしとシュフォラスはいました。
エスさんに招かれたからです。
招かれたといっても手放しで歓迎してってんじゃありません。
むしろ請われた感じです。現状を見てほしいと。
正直、甘く見てました。
シュフォラスは最初一人で行こうとしてました。
ショッピングでもしてたらと提案する彼を睨みつけ、無理やりついてきたのです。
三歳児を連れてこなくてよかったです。
わたしたちが見せられた光景。
「悪魔よ、去れ!」
おそらく悪魔祓いの儀式と思われます。
奇妙なアイテム類をこれでもかと身に着けて、怖い顔をした人形だったり、神を模したような物体や鉱石類が床にばら撒かれてました。
壁には呪符がベタベタと貼り付けられていました。
「天青石は…こんな使い方しません…こんな使い方をしてもなんの効果もありません…だから、だからやめてください…」
わたしはどうでもいいことを口走ってました。
ツッコミどころはそこじゃない。
いや、ツッコミとかそういう話じゃない。
おかしい。
ってか、まったくもって意味を成してない。
魔法にそんなに精通しないわたしにだってわかることだ。
なんてことを考えながら。
思考回路が完全におかしくなったんです。
「天青石。別名セレスタイン。マインドパワーは情。生命への同情心と親愛の情をひきだすんですよ…そんなこと、そんなことしないでください。」
伸ばしかけた指先が震えているのが自分自身の目で確認できました。
けっして届くことのない言葉を発するわたしはなんて滑稽なんでしょう。
わたしの目の前では、インチキ魔祓い師そのものの格好した女性が、ふたまわりも小さな少女を激しく折檻していました。
すぐにでも止めるべきだ!
そう頭では理解しているのに体が動きません。
やめろ!
って言葉を発することができません。
無抵抗の少女とそれを必死に守ろうとエスさんの背を鞭打つ女性の姿は、陰惨な魔女そのものでした。
怖い…
女性が今度は棍棒みたいなのに持ち替えました。
エスさんが言葉にならない怒声をあげました。
女性の腕にしがみつき、刺だらけの棒を叩き落して女性と少女との間に両腕を広げて立ちふさがりました。
「何するの!
悪魔祓いの邪魔しないでちょうだい!」
女性がヒステリックに叫びます。
再び鞭を手にとり、半狂乱に振り回してます。
その瞳はもはや常軌を逸してました。
場違いなことに、旦那様に見捨てられた近所の奥さんがこんなだったのを思い出してしまいました。
「母さん、やめてくれ。」
エスさんの母親でした。
何度も説明された事柄を、他人事のように反芻しました。
完全に現実逃避する頭をメガネをかけなおすことで現実へと引き戻します。
母親としての理性のカケラを信じて諭し続けるエスさん。
一生懸命にわたしたちのこと、それから本当の妹さんのことを説明し続けてます。
「お前は悪魔の娘を二人も連れ込んだんだね!
お前は…お前は息子じゃないね!
息子よ、お前も私を裏切るんだね!
嘘までついて!
どこまで私を辱めるんだ!」
支離滅裂な主張にエスさんはとうとう黙りこんでしまいました。
悲しげに瞳を伏せた彼と半ば放心したように宙を見つめる少女を、母親の鞭が再び打ちつけます。
「本当のことを言いなさい!
神様の前で懺悔しなさい!
審判を受けなさい!
罰を受けなさい!」
ふらふらとわたしは折檻部屋から逃げ出しました。
豪奢なシャンデリア。
しわ一つない真っ白なテーブルクロス。
タンスもテーブルもチェアも有名クリエイター製。
毎年一本ずつ増えてく銀のスプーン。
整頓された白磁の食器。
レンガ積みの暖炉の上に飾られた笑顔の家族写真。
本来なら宿舎住まいの立場でしかないエスさんがそんなお屋敷に住んでいられるのは、彼のお母様のおかげです。
こんな状態になっても、こんなお屋敷に住んでられるんですから、もしかして幸せなのかもしれません。
わたしにはぜったいに訪れることのない理想の家庭がここにはあるはずです。
「やめてくれ!」
悲痛な叫びがか細く消えていきます。
やわらかくあたたかなランプの灯りを呆然と見つめながら、わたしは絨毯の上へへたり込みます。
手のひらから青白い小さな石ころが転がり落ちました。
それが三か月前の悪夢でした。