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12月1日加筆しました
「マリエは!?」
扉の後に侍従長の眼前に現れたのは、血走った翡翠の瞳。あまりに近すぎてひとつに見える。
そんな一歩どころか指一本分間違えれば大変なことになる状態にもかかわらず、避けたり仰け反ったりなど体勢を崩さず、表情も変化させることのない侍従長。背後に庇われた格好になった医師の方は、入ってきた相手が誰であるかを第一声で知り、相手の行動に溜息を禁じえないのだが。
平素の様子を崩さない相手に焦れたのか、闖入者は少しだけ顔を離す。それは腰まで伸びた長い黒髪を無造作に首の後ろで束ねて麦藁帽子を被り、薄らと土埃をまとわせところどころに土の跡がついた動きやすそうな服装に身を包み泥で汚れたブーツを履いた、手にはなぜか鍬を持った男。
よく見れば十人中十人が見惚れるほどの、どちらかといえば線が細い女装をさせたら似合いそうな美貌の主のようだが、その両頬から鼻頭についた、おそらくは腕で汗を拭ったと思われる泥の跡がいろいろと台無しにしている。そして立場上きちんと手入れされているであろう艶やかな黒髪は、今はその面影もなく絡みまくって、ところどころに雑草が絡み付いている。
他の国であればそんな格好を男のような立場の者がしていようものなら侍従長が諌めていただろうが、生憎この国ではそんな常識は鼻で笑われる。
「お静かに願います。陛下」
農夫のような格好に言及することなく、平坦な声で大声を諌める言葉を発した侍従長の言の通り、彼は紛う事なくこの城、ひいてはこの国の主である皇帝陛下である。すなわち。
「むっ、娘が階段から転げ落ちたと聞いて平静を保てる親がいるか!」
ベッドの住人となっている子どもの父親である。
「それで話を聞いた途端、取るものもとりあえず走ってこられたわけですか」
郊外の畑から、鍬を構えたまま。
そのどこか棘のある言葉を聞いて、ちょっと怯む皇帝。しかし怯んだことを振り払うように頭を強く振り、指摘された鍬を手放すどころか両手でぐっと握り締めて再び相手に詰め寄る。
「ええい、そんなことはどうでもいいから、マリエの状態はどうなんだっ」
「階段から落ちられた際、頭を勢いよく壁にぶつけられたので脳震盪を起こしておられるようですが、それ以外に目立った外傷はございません」
「なにっ」
あまりに詰め寄られて嫌になったのか、どうでもいいと言われたことが癇に障ったのか、それまで表情を崩さなかった侍従長の眉が僅かに跳ね上がり、唾を飛ばさんばかりにがなり立てる主が求めているであろう答えを返す。それでも声に感情が現れることはなかったのは、彼の性質によるものだと思われる。
しかし対する相手はとてもわかりやすく表情を驚愕と心配の色に染め、ぐるりと体の向きを変えてベッドに突進した。
鍬を持ったまま。
血相を変え、両手に鍬を持って突進する様は鬼気迫るものがあり、娘を心配する父親というよりは重税を課す悪徳領主を打ち倒そうと突進する農夫のようである。
そんな父親から彼の娘を守るべく、寝台の傍らに付き添っていた侍女長がさっと彼の進路上に立ち塞がる。次の瞬間。
ばっしゃん!
皇帝の頭上から大量の水が落ちてきて彼をずぶ濡れにした。
当然彼の動きは一瞬で止まり、侍女長から丁度2メートルほどの位置でビタリと石と化す。
突然水を被ったせいでもあるが、何より今自分に水をかけた人物が誰なのか、瞬時に理解してしまったから。
そして、自分が開け放ったままの部屋の扉の前へその何者かが到着したことに、否応なく気付かされたからだ。
「そんな恰好で病室に入るなんて感心しませんよ、あなた?」
落ち着いた優しげな声で扉の外から声をかけたのは、シンプルな優しい色合いのエプロンドレスに身を包み、柔らかなウェーブを描く大き目のリボンでまとめられた栗色の髪と、声を裏切らない優しい印象を与える紫水晶の瞳を持った女性。全体的にほっそりとした印象を与えながら出るところは出て引っ込むところは引っ込んだ、世の女性が憧れる体形の持ち主だ。
ただ、現在はその下腹部がぽっこりと張り出しているように見受けられる。
にっこりとほほ笑んで皇帝に魔力でもって水をぶっかけるという、ちょっと考えれば恐ろしい行動をとったこの女性。言葉からもわかるとおり皇帝陛下の正妃で、この部屋の主である子どもの母親だ。
少し膨らんだお腹を庇うように両手を当て、静かに部屋の中へ歩みを進める彼女の足元はヒールのないぺったんこの靴。それだけで彼女の中に新しい命が息づいていることが察せられる。
「話を聞いて慌てていたのでしょうけれど、その恰好はいただけませんわね」
病室に入るには相応しくないのではありませんか? 勿論、妊婦の前でも同様ですよね?
優しく諭すような口調なのに、そこには言葉にできない有無を言わせぬ迫力がある。その証拠に、皇帝は水を被った状態のまま髪の一筋すら動かしていない。
それだけでこの夫婦の力関係が判るというものだ。
「お風呂に放り込んできてくれる?」
優しいはずなのに無情な皇妃の一言に、どこからともなく現れた侍従たちが石化したままの彼を抱え上げ、頭上に掲げ数人がかりで運んでゆく。……皇帝の手には鍬が握られたままの状態で。
ご丁寧に一礼した後に扉を閉じて去っていく彼らを見送ることもなく、皇妃はベッドに近づく。進路上には皇帝が立っていたのだが、子どものために敷き詰められた柔らかな毛並みの絨毯には、水滴の跡などまったくない。彼女にしてみれば夫への仕置きで子どもの部屋を汚すなどもっての外なので、被害を被ったのは皇帝一人なのである。ちなみに侍女長は彼女が現れた時点で元の位置より離れた場所に控えている。当然彼女にも被害はない。
寝台の中で苦痛に顔を歪めることもなく、安らかな寝息を立てている我が子の頬に触れ、そのぬくもりにほっと安堵の息を吐く。
案ずることはないと聞いていても、実際その温もりに触れるまでは当初の不安が払拭されることなどないのだ。
「まったく、お転婆なんだから」
今お母様を驚かせたら、おなかの赤ちゃんもびっくりしてしまうじゃないの。
優しく咎める声は、寝ている我が子には届かない。けれど頬に添えられた馴染んだ温もりに反応したのか、幼子は身動ぎしてその手に頬を摺り寄せた。
その稚い仕草にふふっと笑った皇妃は、しかし次の瞬間には憂いを帯びた表情を浮かべる。
「この子は……大丈夫よね?」
そこに込められたのは、決して階段から落ちたことによる身体的な心配ではなく。
察した侍女長が思わず声を発する。
「皇妃さま」
「たとえどんな相手からどんな守護を受けていようと、それでも」
皇妃が憂うのは、勘のいい者は察したであろう娘の守護について。
娘が強い守護を受けていることは、状況を聞くだけでも察せられる。息子を安心させるためとはいえ、医師は使用人たちの前で娘の状態を告げた。仕方のない処置だったとはいえ、信用置ける者たちであろうと危惧を抱かずに居られない。人の口に戸は立てられないのだから。
守護の力を受けたこの世界の者は、それ相応の役割というものが存在するのだ。守護が強ければ強いほど、大きな役割を担わなければならない。そして皇族としての役割以上に、そちらのほうが重要視されることとなる。
守護が大きいほどに、人々の寄せる期待は重くなる。
だから敢えて、彼女は言葉にして宣言する。
「あなたは私たちの大切な、娘よ」
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