瞳(上)
他にも、彼女の目論見は外れていたようだった。
父親と別れて家を離れた後、母は幾度となく男を家に連れ込むようになった。彼女は僕がいようといまいと、男に甘い言葉を囁き、身をゆだねていた。そんな姿を見ていて、母親の浅ましさに嫌悪した。
もう少し成長して、彼らが何をしているのか理解したとき、吐き気がした。女が猫をかぶる生き物だと知ったのもその頃だった。
母親は僕には金属音のような暴言を吐くくせに、男の前ではどこから出しているのかと言いたくなるような、猫なで声をだす。
今まで僕に言い寄ってきた女達と同じような甘えた声だった。
だから女はそんなものだと思っていた。
試しにつきあうどころか、遊ぶ気にもならない。
近くに寄り付かれるのも吐き気がした。
彼女達に責任がないことは分かっていたが、受け入れることができなかったのだ。
……でも彼女は違う。
その理由は僕のことを好きではないからだろう。
◇
そう思っていたのにさっきの台詞はどういう意味なのだろう。
桜の花びらの舞う中、彼女の残した言葉が頭の中で木霊する。
「久司?」
僕は突然、名前を呼ばれて顔を上げると、三田が目を細めからかうような顔を浮かべている。
「何だよ」
なんとなく、彼女のことを考えていたのを知られたくなくて、顔を背けた。
「恋煩い?」
その彼の声よりもキーの高い声が聞こえてくる。
彼の隣を見ると、同じクラスの林利奈が立っていた。
彼女は髪の毛をショートカットにしている子で、明るく、さっぱりしたイメージがある。
綺麗な二重の瞳をしていて、すっきりとした目元が彼女の見た目の年齢を押し上げていた。
二十歳くらいでも十分通用すると思う。
「別に」
なぜか彼女は僕によく話しかけてくるが、その話し方に媚びは一切見られない。そのため、話しやすい存在でもあった。
「何か悩みがあったら聞くよ?」
姉御肌とでもいうのか、人が悩んでいるとほうっておけないタイプなのだろう。良く僕にそんなことを言ってくるし、人の相談に乗っているのを見たこともある。
「何もないよ」
「顔に書いてあるけどね。先輩のことを考えていましたって」
なんとなく、教室内から向けられる視線の数が増えた気がする。
それに林も気づいたのだろう。
「外で話そうか」
僕は彼女の言葉にうなずいた。
人通りの少ない廊下までいくと、林が先に口を開く。
「本当は好きでつきあっているわけじゃないんだよね」
「どうして」
「わたし、聞いちゃったんだよね。茉莉先輩が藤木君につきあってと言っているところ。もちろん誰にも言わないよ」
彼女は言葉を選びながら話をしていると思った。
「今まで誰からもそんなことを言われて、OKしなかったでしょう?でも、茉莉先輩なら何でOKだったのかなって気になっていたの」
その理由が僕には分からない。
「茉莉先輩が綺麗だから?」
それは違うと思った。
「お弁当のこと? でもきっと作ってきてくれる子は多かったと思うよ」
「正直、よく分からない。でも、彼女が見たいものを知りたかった気がする。多分、それだけだから」
「それが分かったら別れるの?」
「そうなると思うよ。そういう約束だから」
彼女は心なしか、胸を撫で下ろしているように見えた。
「そっか。安心した。でも、どうして先輩のことで悩んでいたの?」
彼女は忘れていた話を引き戻してきた。
半ば忘れていたのに。
「いや、何で彼女ってあんなに変なのかなってずっと考えていた」
無邪気ながらも計算をしていそうで、実際は計算など全くしていない。
それでいてとにかく目立つ。
料理もできないくせに、わざわざ僕のために作ってこようとする。
前日から準備をしてまで。
僕のやり場のない問いかけに笑い声が返ってくる。
「茉莉先輩が変人なんて、そんなことあるわけがないじゃない」
そんなことを言うのは三田や、彼女を好きな人だけかと思っていた。
彼女は笑うのをやめると、寂しそうに笑う。
「素敵な人だと思うけど。たまに完璧すぎて嫌になるけど。でも、運動は苦手みたいだね」
見た目限定ならともかく、完璧なんて程遠いと思う。
料理は、まあがんばっているみたいだから触れないようにして、今朝だって意味なく植物の観察をしているような女だ。
「今朝も、植物の観察とかしていたんだよ。補習をサボって」
その原因は僕にあることは分かっていたが、あえて触れずに事実を並べる
。
林の目が輝くのが分かった。
「先輩らしいね。他には」
「学校帰りにケーキを食べたりとか。それもパフェとケーキを一つずつ」
「意外と大食いなのね。あれだけ細いのに」
林は長い指を唇に当て、目を丸めた。だが、すぐに目を細めると僕に人差し指を向ける。
「学校での茉莉先輩を見に行かない?」
「でも、三年の教室なんて行ったことないよ」
「大丈夫。わたしの姉が茉莉先輩と同級生なのよ。だから、自然に行けるって」
そもそもそういう問題なのか分からないが、林が言うならそうなのだろうか。彼女に見つかったら全てパーになりそうだが、普段の彼女に興味がなかったといえば嘘になる。
僕は林につれられて、階下にある彼女の教室まで行くことにした。
三年生といってもそんなに違いがあるわけでもなく、ざわついた感のある普通の教室だった。
林は適当な人に声をかけ、姉を呼び出してもらうように頼んでいた。
よくもまあ、そんなに声をかけられるなと思う。
すぐに出てきたのは彼女に良く似た、髪の毛をロングヘアにした黒髪の女性。彼女は僕を見て、含みのある笑みを浮かべた。
「もしかして彼があの子?」
「そうよ。かっこいいでしょう」
何か前から話が通してありそうな雰囲気が漂っていた。
だが、僕は二人の会話には興味がなく、彼女がいる教室に視線を送る。
その中でクラスメイトに話しかけられて優しく微笑んでいる彼女を見つけた。
僕といるときより、雰囲気がやわらかい気がする。
「どう?」
と言ってきたのは林のお姉さん。
「別に」
その時、彼女は髪をかきあげ、口に手を当てる。だが、僕の前で笑うように顔を崩して笑うことはない。仮面をかぶったような笑顔のように思えてきた。
もっといつもみたいに笑えばいいのに。
「いつもあんな感じだよ。彼女はね」
僕が何を言いたいのか分かったのだろう。
彼女は笑顔でそう告げた。
そのときざわついた廊下を駆け抜けたチャイムの音に背中を押され、僕と林は教室に戻ることになった。
「茉莉先輩のイメージってどんな感じ?」
「可愛くて、綺麗で、成績優秀なんだけど、運動が苦手で、おとなしい人かな」
僕の問いかけに、彼女は階段をあがりながら、そう答えた。
今日、僕が見た彼女はまさしくそんな感じだったのかもしれない。