君の笑顔
僕の目の前に差し出されたのは青のモノトーンの弁当を入れる袋だった。
笹岡茉莉は笑顔を浮かべる。
「食べて」
「手作り?」
彼女は困ったように首をかしげる。
「きっとおいしいよ」
「断られると思わなかったのか」
契約した日に、手作りの弁当を持ってきているなんて、普通はあり得ない。
彼女はそんな僕に弁当袋を渡し、隣に座る。
中にはきちんと箸まで入っている。
僕は弁当箱を開け、売り物のような弁当に正直驚く。とりあえず玉子焼きを箸で一口サイズに切って食べることにした。口に運んで、思わず箸を止める。
「もしかしてまずかった? そんなことないと思うけど」
「いや。そんなことはない」
いつ振りだろう。人が作ってくれたごはんを食べたのは。
まだ、父親の家にいた頃は彼女は料理をしてくれていた。
すぐに思い出せるのは、そんな昔の記憶だった。
「おいしい」
「本当に? よかった」
彼女は肩を落とすと、安堵の息を吐いたようだった。いつもは自信たっぷりな表情がなんだか崩れていた。
僕はそれ以上は何も言わずに弁当を食べることにした。
しかし、半分ほど食べて気づく。
笹岡茉莉は僕の顔を覗くだけで、何も食べようとはしなかった。
「食べないのか?」
そのとき彼女の表情が一瞬、引きつる。
その表情を見て、嫌な予感がした。
「もしかして、これあんたのじゃ」
「そんなことはないよ。ちゃんと久司君のために作ろうとしたの」
もう名前で呼んでいるし。
「それなら飯は?」
彼女は傍らに置いていた鞄から弁当箱を取り出した。
僕に渡したものよりも一回りは大きい。
確かに食べないよりは食べたほうが健康的だろう。
しかし、彼女はお箸を握ったまま、それを開けようとしない。
「教室に戻って食べようかな」
「お腹が空いていないのか?」
「そうなの」
そう言うのを待っていたように彼女のお腹が鳴った。
しっかりとお腹が空いているんじゃ。
彼女は頬を膨らませると、顔を背けた。
その白い肌が少しだけ赤みを帯びている。
「食べたら?」
「何も聞かないでくれる?」
「聞くなと言うなら」
どう考えても彼女の行動はおかしい。
そんな行動を取られて、興味が湧かないわけがない。
彼女は弁当箱に触れる。しかし、なかなか手を動かそうとしない。
「動物の死体でも入っているのかよ」
そんな彼女の仕草につい言いたくなってしまった。
どう考えてもそんなことはありえないと思うけど。
「そう。だから」
無理がありすぎる。
僕は彼女の弁当を取り上げる。
そこまでして見られたくない弁当って一体どんなものなのだろう。
彼女は小さな悲鳴を上げていた。
「見たらダメだって」
僕はそんな彼女の言葉を無視して、弁当をあけた。
そこに入っていたものを見て、僕に差し出された弁当の中身と見比べる。
一方は本の見本にでもできそうなお弁当。もう一方はまず玉子焼きの形からおかしい。ところどころ黄身が焦げているだけではなく、その形も長方形ではなく台形を形作っていた。
その隣には少しこげたウインナー。これはそんなものだろう。その隣には焦げた野菜が詰められていた。おにぎりを見ると多角形のような形になっていた。
それはそれで弁当なのだと思うが、僕に渡した弁当を作った人が作ったものとは思えない。
「何も聞かないで」
「で、この弁当を作ったのは誰?」
「……わたし」
沈んだ声だった。彼女はあっさりと認めていた。
そうだろうなとは思う。
「これは?」
僕は自分に差し出された弁当を見せる。
おおよそ母親が作ったものなのだろう。しかし、どうせなら二人分を作ってもらえばよかったのに。
「お兄ちゃん」
兄?
意外な言葉に彼女を見た。
「ごめんなさい」
僕が何かを言う前に彼女は謝った。
「今朝はそのつもりでお弁当を作ったの。いつもお兄ちゃんが作ってくれていて、きっと簡単だからって思った。でも、実際作ったらこんなのしかできなくて、お兄ちゃんに頼んで作ってもらった」
聞く手間を省いてくれるほど、丁寧に答えてくれた。
そういうわけか。
「別に隠さなくてもいいんじゃないか。その上、自白して」
「だって不恰好だし、久司君にこんなのを見せたら捨てられそうな気がして。でもお兄ちゃんは作ったからには食べろって言うし。夜、食べると言っても聞いてくれなくて」
この女は僕に対してどんなイメージを持っているんだろう。
しかし、彼女の兄の言うことは正論だと思った。
「お前はこの弁当をどうやって作ってくれって頼んだんだ?」
「今日、彼氏になる予定の人に弁当を渡したいけど、失敗したから今日だけ作ってって」
それで作る彼女の兄も彼女の兄だ。
こんな変な女の兄が変でない可能性は極めて低いが。
「料理したことなかったんだ」
「あるよ。調理実習なら」
最初は強い調子だった言葉が次第に弱くなっていく。
自分の言い分が不利だと思ったのかもしれない。
それが弁当がこっちのほうが大きかった理由なのか。
「箸、貸して」
彼女は握っていた箸を僕に渡す。
「こんなに食べられないだろう?」
彼女はこくんとうなづいた。
僕はとりあえず、二個入っているおにぎりを自分の弁当箱に移す。
「無理に食べなくていいよ。形もおかしいし」
彼女は挙動不審になっていた。
自信を持っているように見えた彼女が、ここまで変わるのがおもしろかった。人は第一印象では分からないのだと改めて思う。
「普通の米をまずいおにぎりにするほうが難しいって」
僕は彼女に弁当を返すと、それを食べた。
「おいしい?」
不安そうに僕の顔を覗き込む。
「まずく作るほうが難しいって言っただろう?」
「おいしくなかった?」
この女は。普通考えたら分かりそうなものなのに。しかし、そんな泣きそうな顔をされて、頷けるほど鬼でもない。
味がとりわけおかしいわけでもなかった。
「おいしいって言ったんだよ」
彼女は顔を崩して笑う。
「気を遣ってくれてありがとう」
自分で何度も聞いて、それかと頭が痛くなってきた。
「もっと早く見せてくれれば、それでよかったのに。
こっちには箸を入れてしまったから」
さすがに自分が食べたものをほぼ見ず知らずの女に食べさせるのはどうかと思うから。
「そしたら、明日はちゃんと自分で作ってくるから、食べてくれる?」
「分かった」
「ありがとう」
彼女はまた笑っていた。
何でそんなに笑うのだろうと不思議に思うほど。
それもお世辞でも綺麗な笑い方とは言えない。
でも、彼女の気持ちを如実に表しているような笑みだ。
「嫌いな食べ物ってあるの?」
「好き嫌いはないよ」
「アレルギーとかは?」
「ない」
そこまで聞いてくるってことは意外としっかりしているのかもしれない。
「分かった。明日はもう少し上手に作ってくるから期待してね」
さっきの泣きそうな顔など一気に消し飛んでいた。
なぜか彼女の笑顔を見て、胸を撫で下ろしていた。
理由は分からない。でも、そう感じていたのだ。
そのとき、強い風が吹く。
彼女の頭上に白い桜の花びらが舞い降りるのが見えた。
彼女は自分の作った弁当を食べていて、そんなことに気づいた様子もない。
なんとなく、そんな彼女を見て、少しだけ笑っていた。
その笑いが今までと違うことはなんとなく分かっていた。
教室に戻ると、一気にざわめきが消えた。
いつもはそこまでない。僕の噂でもしていたのだろう。
僕が席につくと、童顔の男が傍らに立つ。
彼の名前は奈良秀一。名前どおり成績はかなりいい。
昨年から同じクラスになって、やけに話しかけてくる。
「茉莉先輩とつきあっているって本当?」
またその話か。どうせそういうことになっているなら黙っていても無駄だろう。
「本当だよ」
教室内でざわめきが起こる。
そんなに人の私生活に興味でもあるのだろうか。
欠伸をかみ殺すと、教科書を取り出した。
もう一つの影が現れる。
「茉莉先輩はどうだった?」
「どうだったと言われても」
兄が作った弁当を僕に食べさせたとでも言えばいいのだろうか。
奈良は苦笑いを浮かべると、補足するように言った。
「三田は茉莉先輩に振られたんだよ。だから気になるんだと思うよ」
そんなことをあっさりと話してもいいのかと思い、三田を見た。
彼はさほど気にしていないようだった。
三田と奈良は仲がいいので、その辺りは気にすることさえないのかもしれない。
「元気そうだったよ」
でも、それくらいしか言うことはなかった。彼女が自信たっぷりに言った一緒に見たいもの。それは一体何なのだろうか。
僕はなんとなくそのことを考えていた。