君の願い
家に帰って一時間ほど経過した頃、僕の携帯が鳴った。発信者は優人さんだった。彼は簡単に挨拶をすませるとすぐに話を切り出してきた。
「茉莉がそっちに行ってないか?」
「いえ。いませんけど」
気持ちに踏ん切りはつけたはずだった。だが、家に帰って一人になると心が空っぽになったみたいに涙も出てこなかった。彼から電話がかかって来るまで刻み続けるときに身をゆだねることしかできなかった。彼の言葉で少し頭が働き出す。
「家にいないんだよ。あいつのことだから大丈夫とは思うけど。もし、来たら教えてくれるか?」
「分かりました」
僕は電話を切る。
茉莉はどこにいったのだろう。そう考えた僕の脳裏を過ぎったのは、悲しそうな彼女の姿だった。
彼女は意外としっかりしている。だから大丈夫だとは思う。
そう思っても僕は家を飛び出していた。
彼女の家周辺は優人さんが確かめているだろう。
だから、僕は学校、公園など、彼女と行った場所を駆けずり回っていた。だが、彼女の姿どころか、彼女がいたという痕跡さえも見つけられなかった。
「どこに行ったんだよ」
もう全て彼女と言った場所は探した……そう思った僕の脳裏にあの茉莉花を見つけたあの場所のことが横切る。
あれから一年近くたち、その間一度もあそこには行っていない。購入者が決まっていて、あの花はないのかもしれない。だが、彼女がまた別の奇跡を望んでいるならあそこに行ってもおかしくはないと思ったのだ。
僕はその場所に行くために茉莉の誕生日に過ごした公園を駆けていく。今度はあの茉莉花を見つけた場所に駆けつけるために。
その場所を視界に収めた僕の足は自ずと止まる。そこには小柄な少女が更地の前に立ち尽くしていた。
「茉莉先輩」
僕は彼女の傍に行くと、肩をつかむ。
その肩をつかんだとき、その細さに心臓をわしづかみにされたような気がした。
振り向かない彼女の体の向こう側にはあの茉莉花が、ひっそりとたたずむように咲いていたのだ。
彼女の視線は茉莉花に注がれている。
押し殺したような声が僕の耳に届いた。
「勝手だよね。つきあおうって言って、実は結婚しますとか。結婚するって言っていたのに、そのことを迷ってしまうなんて」
「そうするしかなかったんだよな」
「あの家を売りたくなかった。わたしの家だったから。家族だったから」
彼女は家族を失っている。心のどこかでそのことに対する恐怖があったのかもしれない。
本当は僕がその家族になれればよかった。なりたいと思っていた。
でも、できなかった。
「会社が潰れたら借金も残るし、働いている人も困る。あのとき秋人さんに即座にお金が準備できれば会社は持ち直せるって言われたの」
「だから婚約をしたのか?」
茉莉はうなずいた。
「その後、言われたの。秋人さんに。自分から婚約を解消するって。本当はそのつもりだったから気にしなくていいって。自分のせいにしてしまえば火の粉が飛ぶこともないからって」
彼女は言葉を搾り出すようにそう告げた。
もしかすると、それが彼の悲しげな瞳の真実だったのかもしれない。
「嫌いじゃなかった。あの人を傷つけたくなかった。そういう形で利用したくなかった。だから、どうしたらいいのか分からなかったの」
そこで言葉を切る。
「久司君がわたしを好きになってくれたとしてもそんなことをすることはできなかった。結局、どっちつかずで二人とも傷つけてしまったんだと思うから」
彼女はずっと苦しんできたのだろう。僕が彼女に想いを伝えた日からなのだろうか。それとも、僕と一緒にいるときから、傷ついていたのかもしれない。
僕が彼女のことを好きにならずに、ただ契約を履行するだけの関係なら彼女は苦しまなかったのだろうか。
だから彼女は自分を無垢でないと否定していたのだろう。
だが、本当にそうでなければ、こうして傷つかないだろう。自分の好きなように振りまったり、僕に何も知らせずに婚約を解消して僕の傍にいようとしたり、逆に一方的に結婚したと別れを告げた気がする。だが、そんなことが平気でできる彼女なら、僕は好きならなかっただろう。
「茉莉が決めたんだろう? あの人と一緒になるって」
茉莉はうなずいた。
彼がもっと嫌な人間だったら、迷わずその話を破棄して、自分の傍にいるべきだと言えただろう。だが、そんなことを言えないかった。
彼も彼女を守る覚悟をし、どれほど彼女を想っているのか知ってしまったのだ。
茉莉は茉莉で自らをずっと責めてきたのだろう。
「茉莉花の花言葉の清浄無垢は茉莉にぴったりの言葉だと思うよ。本当に嫌な人間ならそうやって傷ついた振りをしても、本当には傷ついたりしないと思う」
彼女の肩が小刻みに震えていた。彼女が泣いているのだと分かったが、気持ちを伝えるには今しかないと思っていた。
「僕は茉莉に会えてよかったよ。それは今でも変わらない」
きっと彼女は僕を選んでも彼を選んでも傷つくのだろう。そういう子だから。
誰かが傷つかないといけないなら、僕が傷つけばいい。それが一番だからだ。
彼女に会ったことは後悔しない。
後悔するなんて感情がバカらしくなるほど、君と過ごした時間はかけがえのないほど幸せで、一生分のぬくもりをもらった気がした。
だから、僕はもう大丈夫だと思えたのだ。
「茉莉の誕生日に一緒に過ごそう」
それが君の望みなら、今の僕にでも叶えることができる。少しでも君に笑っていてほしいと思ったのだ。
「ごめんなさい」
彼女は僕のいいたかったことが分かったのか、そう小さな声でつぶやいた。
僕は首を横に振る。
それが彼女の僕へ一番伝えなければいけない気持ちだったのだろうか。
だが、僕が今、一番伝えたいのはそんな言葉じゃない。その言葉を探し出し、口にした。
「いろいろとありがとう」
それが今の僕の君への最大の気持ちだった。君がいなければ笑うことさえできなかった。人を信じることも、誰かのことを想いやることもできなかった。それを痛いほど感じていた。
僕は彼女を見て、微笑んだ。
彼女の瞳がみるみるうちに涙で溢れていく。彼女は荒れた唇をそっと噛む。
「わたしこそ、ありがとう」
そう言った彼女の目から涙が毀れ落ちていた。




