かけがえのないもの
◇
その頃から僕は変わったのかもしれない。前みたいに空が晴れていても不快感を味わうことはなかった。楽しそうにしている人を見ても、いらだつことはなくなった。笑顔で話しかけられても、昔のように冷めた気持ちになることも少なくなっていた。
それは心が広くなったというよりは周りのことがどうでもよくなったからだ。僕は彼女がどうしたら笑ってくれるのかを考え、少しでも一緒の時間を過ごしたいと望むようになっていた。
母親と何度か顔を合わせることはあったが、昔のように胃の中身を全て吐いてしまいたくなるような嫌悪感もなくなっていた。それも母親に関心がなくなったからだった。
◇
二学期が始まって二日目に帰り支度を整える僕のもとに林がやってきた。
彼女は目を細め、大げさに肩をすくめた。
「なんか変わったね」
「そんなことないよ」
そう否定したのは、彼女が何を言いたいのか理解できなかったからだ。
彼女は心の奥まで見透かしたような瞳で、僕を見据える。
その瞳がゆっくりと細められ、同時に言葉がこぼれた。
「分かった。茉莉先輩のこと好きになったんだ」
僕は戸惑いを露わに彼女を見る。なぜ気づかれてしまったのだろうか。あれだけ彼女に興味がないと伝えた林に。
「そんなに変わった?」
「だって、前みたいに刺々しくなくなって、優しくなった」
優しいというのは良く分からないが、刺々しさがなくなったのには自覚がある。
彼女が僕にとっての全てだったから、他のことを考えるまで気が回らなくなったのだ。他のことを考えるくらいなら、彼女の一挙一動を目に刻み込んでおきたかったのだ。
林は呆れたような笑みを浮かべ、髪の毛をかきあげた。
その彼女の目線が僕の机に落ちる。
「先輩のどういうところが好きなの? 顔じゃないよね?」
「まぬけなところかな」
あえてそんなことを言った。変な顔をするかと思っていた林は笑顔を浮かべる。僕にとっては意外な反応だった。
「飾らないところが好きなんだ。まあ、先輩は珍しいくらいあるからね」
「何で分かるんだよ」
まるで心の中を見透かされたように、ピンポイントで言い当てる。
「顔に書いてあるよ」
気恥ずかしさから、僕は苦笑いを浮かべるしかなかった。
そのとき、僕の携帯に彼女からメールが届く。そこには一緒に帰ろうね、と記されている。あと残すは終礼のみで、すぐに会えるのにそんなことを送ってきた彼女のメールに苦笑いを浮かべていた。
彼女はたまにどうでもいい、分かりきったことをメールで送ってくる。ここ最近、それを迷惑だと思ったことは一度もない。それだけ僕にとって彼女が特別な存在となっていたということなのだろう。