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茉莉花の少女  作者: 沢村茜
第二章
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じめじめとした梅雨


 父親と彼女を見た後、本能的に自分に対する態度の違いを感じ取っていたのだろうか。家に帰ってもその姿が頭から離れず、泣いていた。そんな僕を見て、彼女は嫌悪感を露わにして怒鳴りつけた。


「いちいち泣くんじゃないよ。鬱陶しい。だいたいあんたのせいで離婚することになったんだから、そのことをしっかり胸に刻んでおくことね」


 そう冷たく言い払う。


 母親にとって離婚の原因は僕だったらしい。


「お金のために生んだんだから手間をかけさせないでよね」


 母親の嫌な面を見続けた僕がショックをうけることはなかった。


 だが、目からあふれる涙はただ増え続けていた。




 赤い艶やかなトマトが僕の目の前に差し出される。彼女は僕のお箸でトマトを器用につかむと、僕の顔に近付けてきたのだ。


「はい、あーん」


 僕はトマトを手でつかむと、口の中に放り込む。トマトの甘味と酸味が口の中に広がる。


「一度やってみたかったのに」


 彼女はあからさまにショックそうな顔をして、肩を落とす。


 僕は彼女から箸を受け取った。


 彼女のこの変な性格はどうにかならないのだろうか。僕の前ではこんな感じなのに、他者の前では真人間を演じているのが何だかおかしい。


「別の人でやってください」

「それなら二度としないから敬語やめてくれる?」


 考えてもみなかった方向に話を切り出してきた。


 これが狙いだったのではないかと思うほど、確信を込めた笑みで僕を見る。


「ダメなら今度は別のでする」


 一度僕に渡した箸を取り返したかったのか手を伸ばしてくる。


「分かりました」

「分かったでしょう? 敬語禁止だよ」


 早速、得意げな笑みを浮かべ訂正してくる。


「分かった」


 彼女は満足そうな笑みを浮かべている。


 彼女が成績優秀だということは疑っていたが、確かにそうだった。彼女が受けたという模試の点数を見せてもらうと、確かに彼女の成績は良く、明らかに学年で上位に入るレベルだろう。この近くにある国立にも普通に合格できそうだ。


 彼女は進学するつもりで勉強をしてきたのだろうか。そうだったのなら、もったいない気がした。


 彼女が気にしていないのなら、気にするのもおかしいのかもしれないが、なぜという疑問が胸中に湧き上がる。


 彼女は卒業してどうするつもりなのだろうか。就職をするのだろうか。留学などをかんがえているのだろうか。何でも聞いてもないのに自分のことを話す彼女から唯一聞かされないものは、彼女の卒業後の進路だった。


 彼女と一緒に過ごすのは彼女が高校を卒業するまで。実質あと半年程度で、僕が気にする必要はないことくらい分かっていた。だが、僕が彼女を気にする時間は日に日に増えた。


 このとき、僕は自分の気持ちに気づいていたのかもしれない。だが、僕にはその自分の気持ちを正直に見つめる事ができなかった。


 彼女と交差点で別れ、雲の合間から覗き込む太陽の光に目を細めた。まだ梅雨なのでそこまで暑くない。だが、むしむしとした大気が体の水分を奪い去ろうとする。僕はそのまますぐに家に帰った。


 鍵も閉まっていて、家に帰って一息つく。今日も彼女が家にいないことに胸をなでおろす。だからこそ、油断をしていたのかもしれない。鞄を机の上に置き、教科書を取り出そうとしたとき、金属のこすれる音が耳に届いた。


 ドアが開く音だ。「彼女」が帰ってきたと理解する。


 恐怖ではない。嫌悪感から寒気を感じ、まだ残っている胃の内容物が逆流し、出てきそうになる。


 既に家の中にいる僕には、あのときのような逃げ道はない。せめて彼女が一人でないことを願っていた。恋人が一緒なら、そうしたら僕にかまわないからだ。


 彼女は自分が大好きなんだと思う。何か成果を成し遂げれば、それは自分のお蔭だと口にする。だが、失敗した時に反省点を省みるのではなく、その責任を常に僕に押し付けてきた。お金を使いすぎて足りなくなったとき、父親の婚姻中に他の男と関係を持っていたのがばれたとき、恋人に逃げられたとき。これらはすべて僕の責任だと結論付けられていた。一度も会ったことはない相手であろうと、その決断は覆らない。


 僕のいる部屋のドアが開き、酒と化粧とタバコの匂いが室内に押し寄せてくる。


 高鳴る心臓と共に、全身の脈の鼓動が早くなる。


 気持ち悪い。そんな言葉を喉の奥に押し込む。


 アイラインを引き、真っ赤なグロスを塗った彼女が僕を見て、笑みを浮かべる。


「ただいま」


 僕は無言でうなずいた。


 彼女の視線が室内を滑り、僕の机の上で止まった。


「そんなに勉強ばかりしてどうするの?」

「別にあんたにもメリットがあるからいいんだろう?」

「そうだけどね。わたしのために頑張って」


 彼女はそう言うと笑った。


 すぐに女を作った父親だったが、彼も彼女との間に子どもができないかもしれないことを念頭に置いていたのだろう。


 彼は離婚に際して母親に条件を突きつけた。それは僕を大学に入学させたとき、無事に卒業させたときにそれなりの金銭を払うというものだった。当然、養育費は僕の大学卒業まで払い続ける。


 その金は父親の収入で捻出できなくもないが、新しい家庭を持つ彼には厳しいはずだ。だから、その金は彼の両親が準備したものだろう。僕は母親に大金を渡すか否かの決断権を持っていた。要は僕に一役を担わせることで、彼女から身を護るための防護壁のようなものを作ろうとしたのだろう。


 そうした条件が重なり、彼女は僕が勉強をしているとある程度は個人を優先してくれた。だが、実の父や祖父母の選択が、愛情から来ていると考えるほど、おめでたい性格ではない。ただ、彼女には効果的な方法だったのは間違いない。


 その条件がなければ彼女は僕に学生として生活を送らせていたかは甚だ疑問が残る。僕の母はそんな女だった。


 彼女は千鳥足で部屋から出て行く。僕は襖が締まるのを待ち、ため息を吐いた。



 朝、起きると彼女はリビングで寝ていた。テーブルの上にはインスタントの食品が中身が空の状態で転がっている。


 テレビはつけっぱなしで、ちょうど天気予報のコーナーに入ったところだった。僕はテレビを消すと家を出た。


 彼女の脳内には今の彼女に僕が嫌悪感を示していて、お金の受け渡しを拒否するという考え自体がないのだろうか。ある意味おめでたい人間だと思う。



 梅雨のじっとりとした空気が僕の体の水分を奪っていく。早く梅雨が明けれくれればいい。僕はため息を吐くと、天を仰いだ。


「おはよう」


 晴れやかな声が響く。


 いつの間にか笹岡茉莉との待ち合わせ場所に来ていたようだ。酒の匂いも、化粧の匂いも、整髪料のような匂いも、タバコの匂いもしない。髪の毛も染めていない。けれど、わずかに甘い香りが漂っていた。


 僕はほっと胸をなでおろす。その理由は母親を見たからだろう。


 彼女が公園で植物の観察をしていた日から、毎日一緒に学校に通っている。彼女は僕よりも遅く来ることはまずない。


「おはよう」


 僕は彼女を一瞥すると、歩き出す。

 すぐ後に彼女の足音が聞こえた。


「何かあった?」


 彼女は何も言ってないのに僕の変化にすぐ気づく。今まで誰もそんなことに気づなかったのに。


「何でもないよ」

「そっか。でも、私でよかったら話をしてね」


 いつもと同じ声色で彼女はそう語る。そのいつも同じ声がなんだか心地よかった。


 君はいつも僕になにかあったらすぐに気づく。けれど、君は何があろうと顔に出すことはなかった。


 だからだろう。君の本当の気持ちや迷いに僕はなかなか気づけなかった。そんな僕に対しても君は常に笑顔でいてくれて、僕はそんな君にただ甘えていたかったのかもしれない。


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