誕生日(上)
◇
母親に促され、あの家を出た。荷物自体は新しい家に送ってたため、手にしていたのは昨日まで使っていた日用品のみが入った旅行バッグ一つだ。寒い冬の日で、門を出る前に振り返ると、誰もたっていない玄関が視界に飛び込んできた。
そんな僕の手を彼女が握った。彼女がそうしたのは、不安な気持ちになった僕を元気付けたかったわけじゃない。金になる僕の存在を絶対に抑えておきたかったからだろう。
それから、新しい家での彼女との暮らしが始まった。彼女は僕の顔を見たらお金の話を繰り返し、今まで以上に僕を邪険に扱うようになった。彼女と過ごす時間が増えるにつれて、より彼女の嫌な面を見る機会が増えていく。
だからこそ、父親ならこうしたことは言わないのではないかと、自分をさげすんだ父にもわずかに期待していた心があったのかもしれない。だが、「父」をそれから二ヵ月後に見た時、彼の傍には見たことのない女の人がいた。
そのときはよく分からなかったが、彼は僕にも母親にも見せない笑顔で幸せそうに微笑んでいた。彼には他に大切な人がいたのだと分かった。
今から考えると、それが彼が僕との血縁を否定した理由かもしれない。
彼女との間に子供を作り、その子に全額を相続させたかったのだろう。
◇
「先輩の誕生日? 十月二十三日よね」
僕が彼女の誕生日について尋ねると、林の口からすっと言葉が出てきた。
「十月二十三日?」
全然近くないじゃないか。
あの女にそれを言うと、一ヶ月くらいたいした問題じゃないとか言いそうだ。
「知りたかったら、本人に聞けばいいのに」
林は呆れたような顔で僕を見る。
「クイズだって言われたんだよ。誕生日をあててみてって」
林は、ああと言うと笑顔を浮かべた。
「茉莉先輩はそのままだからね」
「何が?」
「名前が誕生日を意味しているの。少し違うけどね」
「どこが? 笹岡茉莉だろう?」
十月は神無月で、彼女の名前にそうしたものは含まれていない。日付に対しても尚更だ。
林は肩をすくめていた。
「あまりこういうことに詳しくなさそうだよね。茉莉花って花を知らない?一般的にジャスミンって呼ばれているものだけど」
蘇ったのはあの強いにおいのお茶。
「昨日、彼女の家で飲まされたやつだ」
彼女は目を細める。
「だから彼女の名前が茉莉だと思うよ。茉莉花からとって。そのまま茉莉花だと言いにくいしね」
「その茉莉花がなんで彼女の名前なんだよ。関連性が全く分からないんだけど」
「彼女の誕生日、十月二十三日の誕生花が茉莉花。だからってことでしょう?」
「そんなの普通知らないって」
「でも、気づいてほしかったんじゃない?」
「そうかな」
ただからかっていたとしか思えないけが、他に良い日付も思いつかなかったので、今日、彼女に聞いてみることにした。
「茉莉先輩の誕生日って十月二十三日?」
帰りがけに僕は彼女にそう問いかけた。その言葉に彼女の表情が明るくなる。
口にして、茉莉と呼んでいたことに気づいたが、後の祭りだった。林と話をしていたせいだろう。
「正解。どうして分かったの?」
「クラスメイトに聞いた。先輩のクラスの林先輩の妹から」
「そうなんだ。でも、まあ、いいか」
彼女は残念そうな笑みを浮かべていた。
「でも、名前が誕生花ってすごい凝っているよな。考えたのは母親?」
「そう。実の母親。乙女チックでしょう?」
そのとき引っかかったのが実のという言葉だった。
僕のように親を拒否していてもなかなか使う言葉じゃない。そもそも実じゃない親がいないのだから、使いどころもないのだけれど。
「わたしは養女なの。五歳くらいのときに笹岡家に来たから」
彼女は深刻な話をあっさりと言ってしまった。
「兄と血が繋がっていないのか?」
「ま、そういうことかな。でも、お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ」
「そうだけど」
もっとこういう話題は深刻そうな顔をしてするものだと思っていたのに、目の前の彼女はあっさりと言い放つ。軽い口調で聞けばいいのか、深刻な話としてとらえればいいのかも分からない。
「大変だったりとかしなかったのか?」
頭をフル回転させた結果、それだけを聞くのが精一杯だった。
「全然。だってお兄ちゃんもお父さんも優しいから」
彼女は笑顔で返す。
幸せしか知らない幸せな人間だと思っていたが、それだけでもないのだろう。
彼女の兄や父がどんなにいい人間だったとしても、彼女が養子になったのには何か経緯があるはずだ。彼女の表面だけを見て、幸せしか知らないと決めつけていたことに、軽い罪悪感を覚えていた。
「もしかして聞きたくなかった?」
「そんなことはないけど、僕にそんな話をしていいのか?」
そんなことをクラスで言いふらすかもしれないのに。言うかといわれたら言わないけれど。
「だって久司君のこと信用しているから。それにわたしのことをもっと知ってほしかったの」
彼女はそう言うとまた笑顔だった。
信用していると言われたからだろうか。彼女の言葉を聞き、胸の奥が熱くなるのを感じていた。今まで感じたことのないような熱いものだった。
「今日、また家に来ない?」
「でも、先輩のお兄さんから」
「大丈夫。もう許可は貰っているから」
兄の許可だろうか。
家に住んでいる彼女が大丈夫というので大丈夫なことは大丈夫なのだろう。
「いいですよ。少しなら」
あの重苦しい家の中にいるくらいなら彼女と一緒のほうがまだいいと思ったのだ。