家(下)
その拍子に彼女の髪の毛が揺れる。
僕は彼女を見つめていたのに気づき、目をそらす。先ほどの記憶を半ば強引に引っ張り出した。
「変なこと聞いていい?」
僕は彼女に問いかける。
彼女は首をかしげて、僕を見る。
「内容次第」
「どうして大学に行かないのかなって気になったから」
「都合が悪くなってしまったの」
そう言うと、彼女は微笑んだ。少し前に見せた笑顔とは別物の笑顔だ。
寂しそうな笑顔は、それ以上聞かれることを拒んでいるように見えた。
無神経なことを聞いたのだろうかという考えが頭を過ぎり、何も言えなくなってしまった。
彼女は肩をすくめ、寂し気に笑う。
「変な話はやめて、これを飲んでみよう」
彼女はそう言うと紅茶を差し出した。その紅茶から放たれたと思う強い香りが鼻腔をつく。
「この紅茶って匂いが強くないか?」
「うん。そういうものだから」
彼女はそういって笑顔を浮かべる。
僕はそれをとりあえず飲んでみるが、香りが強くて、お世辞でもおいしいとは思えない味だった。
だが、顔をあげるとうれしそうな笑顔を浮かべている彼女が視界に入り、さっきのこともあって、本当のことを言っていいのか分からない。
最大限にとりあえず、ほめることを試みることにした。
めんどうだけど、自分で蒔いた種だ。
「香りが強くて」
強いはちょっとまずいか。
香りが何だろう。
そう考えると言葉に詰まる。
「あまり好みじゃなかったかな?」
彼女は笑顔のままそう聞いてきた。
「どうして?」
「そう顔に書いてあるから。気を遣わせてごめんね」
意外と見ていないようでしっかりと見ていたんだ。
「悪い。飲みなれてないからかもしれないけど」
「好みが分かれると思うよ。わたしのお兄ちゃんもこれ嫌いなの。今までおいしいって言ってくれたのは一人だけだから」
「そうなんだ」
自分だけではなくてほっとしていた。
「本当は普通の紅茶にしろって言われたけど、飲んでほしかったの」
「どうして?」
「この花も匂いも好きだからかな」
そう言って、笑顔を浮かべた彼女の姿に一瞬時間の流れを忘れてしまっていた。胸中に湧き上がる違和感を抑えながら、彼女に問いかける。
「これ、どんなお茶?」
「ジャスミンティ」
「名前は聞いたことあるかも」
彼女は自分の分のお茶を飲み干すと、僕が持っていたカップを取り上げた。
「新しいお茶を入れてくるね。変なことをしてごめんなさい」
「いいよ。飲む」
お世辞でもおいしいと思えないお茶を飲みたい気分になり、目を瞑って、それを一気に飲み干した。
程よい香りが口の中に広がる、といったような生易しいものではなくて、一気に増殖したような感じだ。
「無理に飲まなくてもよかったのに」
彼女は不安そうに僕を見ていた。
「大丈夫」
飲みたいと思ったのは単純な理由だ。彼女と同じ気分を少しでも味わいたいと思ったから。
そのとき、部屋のドアがノックされ、彼女はドアを開ける。
そこに立っていたのは彼女の兄だった。
彼は僕を見ると、ため息を吐いた。
「だから普通のにしておけって言ったのに」
「ごめんなさい」
彼女は肩を落として落ち込んでいるように見えた。
彼女の兄は持っていたお盆を渡した。
そこに入っていたのは、かぎなれた匂いの紅茶だった。
「入れてきてくれたの?」
暗かった彼女の声が一気に明るくなる。
「お前の趣味につきあえるのは秋人くらいなんだから、他のやつに無理強いするなよ」
秋人という聞きなれない名前に首をかしげる。
「気をつけます」
彼女もその秋人には触れずに、兄の言葉に明るい調子で答える。
彼女の友人なのだろうか。女性の名前には思えないので男性なのだろう。その正体が気になるが、問いかけることができず、彼女の後姿を眺めるだけになっていた。
彼女は明るい顔で僕を見た。
「一緒に飲もうか」
僕は頷くが、心の中ではさっきの名前が幾度となく繰り返される。
だが、そんなことを気にしているのがまず間違っていると思ったのだ。ただの後輩の僕には彼女に男の友人がいようが気にするべきではない。
僕の前に紅茶が差し出される。
「飲んで。今度は大丈夫だと思うよ」
いつもは僕の気持ちに気づき、勝手にフォローしてくる彼女が何も言わなかった。
「ねえ」
彼女は自らのコップの紅茶を飲み終え、僕を見る。
「何?」
「私の誕生日って分かる?」
「分かるわけないだろう。この前会ったばっかりなんだし」
「ちょっと頭を使ってみてよ。多分、比較的楽に分かると思うよ」
言われて考えてみる。
彼女に出会った日。
つきあおうと言われた日。
それか今日くらいしかないよな。
「ちなみに今月ではないからね」
僕の心を見透かしたようにそう告げた。
「それならお手上げ」
「難しいかな。簡単なのに」
何をどう考えて簡単というのか分からない。
心を読まない限り、相手の誕生日が分かるわけがないはずだ。
「しばらく考えてみてよ」
「絶対、無理だから」
「それでも」
「久司君の誕生日は?」
「十一月二十九日」
「意外と近いんだね」
「十一月三十日?」
「そんなに単純じゃないよ。でも、久司君の誕生日はきっと久司君にぴったりな誕生日だよ」
「どういう根拠でぴったりなのか分からないけど」
「まあ、いろいろ考えてみてよ。頭の体操にもなるででしょう?」
「分かったよ」
とりあえず林にでも聞いてみよう。
「家、帰りたくないの?」
彼女は突然、僕にそう話しかけてきた。あの匂いを思い出し、胃の辺りがむかむかする。
「どうして?」
「なんとなく。あそこに戻ってくるとは思わなかった」
「先輩だっていたよな?」
「わたしは買い物をしていたの。本屋でね。お店を出たら久司君がいたから驚いたよ」
だから彼女があそこにいたのかと納得した。
あのとき彼女がいなかったら、電話をかけてこなかっただろう。
「別に」
母親がいたから。だが、そんなことを言えるわけがない。
それに、今考えるべきことはどうやって彼女と顔をあわせずにすむかだ。
夜になれば戻るしかないことは分かっていても、彼女がまだどこかに出かけてくれればいいと思っていた。あのときから僕の家はあそこしかないと決まったし、大学に入るまではそうするしかない。
彼女は目を細め、物憂げな瞳をしていた。
「わたしが傍にいる限りはいつでも聞いてあげられるから、いつでも相談してね」
こんな世の中の幸せしか知らないような彼女に相談しても仕方ない。
彼女は軽蔑したりはしないのはわかっていた。逆に深い同情を寄せるだろう、と。だからこそ、彼女には言えないと思ったのだ。
家に帰ると母親の姿はどこにもなく、胸を撫で下ろしていた。