瞳(下)
そう思っても、僕の前に出現する彼女はそんな遠くから見たのとは似ても似つかない。
笹岡茉莉は笑顔を浮かべると、僕の顔を覗き込む。
「帰ろう」
「そっちのほうが似合っているよ」
彼女は首をかしげる。
「何のこと?」
「今日、教室に行ったら先輩を見た」
「え? 私に会いに来てくれたの?」
彼女は普通思っても言わないような事をあっさりと言ってくる。
「そうやって普通に笑っているほうがいいなって思っただけ」
「だって集団生活だと普通が一番なんだもん」
普通なんて彼女には似つかわしくない言葉だ。
「僕の前ではかなりの変人だと思うけど」
「久司君といると、何かそういう反応をしたくなるの」
「何でだよ。意識していないからか?」
「その逆でめちゃくちゃ意識をしているからだよ」
そう言うと、彼女は顔全体で笑っていた。
「意識って」
聞き流せばいいのに、彼女の言葉が胸に引っかかる。
「意識は意識」
そんな言葉を言い残して、彼女は軽い足取りで歩いていく。
僕はそんな彼女の後を追うように歩いていった。
その足が急に止まる。
「いつでもいいから暇なとき、電話をしてね。また明日ね」
手を振る彼女と交差点で別れた。
電話か。
だいたい翌日になったら好きなだけ話せるのに、わざわざお金を払って電話をするという神経が分からない。
僕は家の前の階段をあがり、ドアの前に来た。
いつもは静まり返った部屋なのに何か違和感がある。
ドアノブに触れると、鍵が開いていた。
僕はその事に気付き、身震いした。この家の鍵を持っているのは僕と彼女だけだ。たまに「恋人」に渡すことはあるが、どちらにせよろくなことはない。
さっきまで穏やかだった心の中に気持ちの悪い感情が蘇る。
入りたくない。
入るとしても遅い時間まで帰りたくない。
そう思うと、道を引き返していた。
そのとき思い出したのが彼女の言葉だった。
彼女とはいつもあの交差点のところで別れる。だから、家も分からない。もしかしたら家に帰った後かもしれない。
そう思っても、僕は彼女と別れた交差点まで戻ってきていた。
車のエンジン音や人のざわめきが残る街角に彼女の姿は当然ない。
先ほどと世界が何も変わらないことを告げるかのように車が走り抜ける。
そのとき、僕の携帯が鳴った。
発信者は今、僕が思い描いていた人だ。
思わずすぐに電話をとった。
「もしもし」
「元気?」
さっきと同じ明るい声を聞き、どこかほっとしていた。
「元気だよ」
今の気持ちを悟られたくなくて、わざと強い言葉で言った。
彼女のことをこんなときに考えていておかしいんじゃないか。
そう思ったとき、彼女の声が響いた。
「今から会いたい」
「会いたいってさっきまで会っていたじゃないですか」
「それでも会いたい」
何かを深く考え込んだような声。
そのとき、信号が赤から青に変わる。今は少なくなった音楽の流れる信号機。その音楽が人のざわめきを包むように流れている。
その音楽が携帯の向こうからも聞こえた。
僕は辺りを見渡す。
別にこのあたりでしかそんな音楽が流れないわけじゃない。まさかという気持ちがそんな行動に走らせていた。
せわしなく人が歩き続ける歩道に立ちすくむ一人の少女を見つけた。
彼女の視線はまっすぐ僕を見ていた。どこか物憂げで、悲しみを帯びた瞳。今すぐにでも涙が零れ落ちてもおかしくないと思った。
多分、今の自分と同じ瞳をしていた彼女にゆっくりと歩み寄る。
彼女の耳に当てられていた携帯が離れた。
彼女は早足で、僕のもとに駆け寄ってきた。そして、悲しみを帯びた瞳のまま笑う。
いつも幸せそうに笑う彼女の寂しそうな笑みが、ここまで僕を悲しい気持ちにさせるとは思わなかった。
「なにかあったんですか?」
「久司君が寂しそうだから」
「何言って」
「でも、会えたからうれしい」
彼女は僕の手にそっと触れた。
その手は優しくて、何かに包まれたそんな気持ちになったのだ。
「どうしてここに?」
「なんとなく戻ってきていたの。どうしてだろうね」
彼女のことだ。本当に理由などないのだろう。
だが、この時だけは毒づく気にもならなかった。
「わたしの家に来る?」
そんないつもなら聞く耳を持たない言葉に、うなずいていた。