知らない人
……全てがばからしい。
そう思っていた。
少しざわつきのある店内に静かな音楽が流れている。その音楽に耳を傾けながら窓の外を見ると、多くの人が行きかっている。それぞれの人にどこか目的地があるのか、皆足早に歩いていた。その背後には車がゆっくりと駆けている。ありふれた情景に飽き飽きし、今度は手元のコーヒーに目を向けた。
中を見通すことのできない液体から漂う香ばしい香り。少しだけ今の苛立ちを抑えてくれる気がした。
僕は視線の行き場を求め、窓の外に目を向けようとする。だが、僕のそんな行動を妨げるかのような、甘えた耳障りな声が聞こえてきた。
「ねえ、久司君ってば」
目の前に座っている青いアイラインを引いた女を見て、ため息を吐く。
彼女は先ほどからこびるような笑みを浮かべていた。
僕の隣に座っているのは、その女の隣にいるおとなしい印象の女と必死に話をしているクラスメイトの三田という男。
休みの日に強引に呼び出されていけば、見ず知らずに女が二人いた。
それでどういう状況かは自ずと分かる。こいつはこの女と仲良くなるために、要は僕を利用したのだろう。
……くだらない。
こいつと口を聞くのさえ、ばからしい気がしてくる。
「久司君は彼女いないんでしょう?」
彼女は反復運動のように先ほどから何度も目を見開く。
そうした行動を可愛いとでも思っているのだろうか。そう考えると笑いがこみ上げてきた。
「どうしたの?」
笑顔を浮かべたのが打ち解けた合図だと思ったのだろう。身を乗り出して僕の顔を覗き込んでくる。
返事をするのもばからしい。そう思って目の前にあるコーヒーに手を伸ばしたときだった。
僕の手を誰かが掴む。
機嫌が悪いのに喧嘩を売っているのか。
そう思って手の主を見る。
「ひどい。久司君。わたしに内緒でこんなところにいるなんて」
少女のようなあどけなさを残した声が響く。
手をつかんだのは大きな目をした少女だった。
彼女の茶色の瞳が僕をまっすぐ見ていた。続いて、肩まである瞳と同じ色をした髪の毛が揺れる。
知らない女。
「ていうか、誰? あんた」
「知らない振りまでして。信じられない。もう、来てよ」
信じられないのはこっちだ。 女は僕の手を引っ張る。本来なら振り払っても可笑しくない。知らない女にこうやって手を引っ張られているわけだから。
でも、そこである考えが頭を過ぎる。このままこの変な女についていけば、この忌まわしい場所から逃げられるのではないかということだ。見たところ、彼女は細身で、筋肉どころか贅肉さえ十分についていない。何かあってもこの程度の女はすぐに振り払える。
そう考えると答えは決まる。
「茉莉先輩?」
そう言ったのは隣に座っている三田宣夫だった。
三田の知り合いなのか?
一瞬、そう思ったが、ここで逃げるチャンスを見逃しては困る。
僕は彼女の手をつかむ。
「悪いな。じゃ、帰るよ」
この女は三田と僕を間違い、僕の手をつかんだのだと気付いた。だが、ここから逃げるためには彼女の存在が必要不可欠だ。
僕は彼女が本当の事を口走る前に、彼女の腕をつかむと、引っ張るようにして、テーブルの間を潜り抜ける。
少々の抵抗は予想していたが、彼女は抵抗どころか腕を動かすことさえしなかった。彼女を連れたまま、店の外に出ると、息を吐く。
後は家に帰ればいい。そう思ったとき、凛とした声が響く。
「ちょっと、手が痛いんだけど」
背後から聞こえてきた声。
振り返ると、あの女が不機嫌そうな顔をしていた。
「ああ、悪い」
その女の手を解放する。
「あんたが人違いをしてくれて助かったよ。じゃあな」
そう言って去っていこうとした僕の手をつかむ。
「人違いってなによ。わたしはあなたに用があるのよ。藤木久司君」
「何で人のフルネーム知ってんだよ」
「何ででしょう」
彼女は口角を挙げて微笑んだ。自信たっぷりの絶対に見破られないとでも言いたそうな笑みだ。嫌な女だ。
「お前は三田の知り合いなんだろう? 僕に用があるのか?」
「三田?」
「隣に座っていた男」
「隣の男? 知ってはいるけど、用事はないよ」
なんとなくそこまでの会話でこの女が変で嫌な女だとは分かった。
こういう女とは係わり合いにならないのが一番だ。
「帰るから。じゃあな。一応、礼を言っておく」
「またね。久司君」
彼女の言葉に最大限の嫌な予感を感じながら、その理由を聞くことはしなかった。面倒事には関わりたくないためだ。
春の暖かい風が僕の傍を駆け抜けていく。その風の後先を追うように振り返る。そして先ほどの嫌な女の姿を自然と探していた。
彼女のことが気になったわけではなく、あくまで振り返ったついでに、だ。
彼女はまだあの場所に立っているのかもしれないと思ったからだ。
だが、先ほどまでいたはずの彼女の姿が忽然と消え、見たことのない人達が視界に入る。僕は首をゆっくりと回し、凝りをほぐすと家に帰ることにした。
家に電気がついていないとほっとする。そう感じるようになったのはいつからなのか覚えていない。
中学に入ったくらいから、そう感じることがたびたびあった。だから、そう最初に感じたのは小学生くらいからなのだろう。
電気がついていないのを確認し、鍵を差し込む。鍵の開く音が聞こえると、ドアノブを捻った。
彼女が家に戻らなくなって一ヶ月。やっとあの匂いが気にならなくなった。
このまま永遠に戻らなくてもかまわない。それほど彼女の身体から漂う匂いが嫌いだった。
手を洗うと、居間の窓を半開きにする。生暖かい風が部屋の中に飛び込んできた。
そして、やっと一息吐く。
窓を開けておくのは、万が一彼女が帰宅してもその匂いがこもらないようにするためだった。
吐き気を誘うためにあるかのような強い香水の香りや化粧品の匂い。全てが嫌悪感を刺激するものでしかなかった。その匂いが彼女の存在の全てであり、大嫌いだった。
その彼女に面影がある自分の顔も嫌いだった。見るたびに嫌悪感が増していく。
その匂いが嫌いになって分かったことがある。自分がいかに狡猾で打算的な人間だということだ。
その匂いから逃れるために家出を考えたこともある。だが、十二、三で家出をしても補導をされるのが分かりきっていた。万が一、逃れきったとしてもその先に何があるかなどそのくらいの歳になれば自ずと分かる。
だから決めたことがあった。嫌悪感を示しても何もない。
自分で一人で生きられるようになるまで、どんなものにも耐えようということだった。
聞きたくないものには耳をふさぎ、見たくないものは見えないものとして扱ってきた。ただそんな毎日をずっと繰り返してきたのだ。
テレビの中の評論家は模範解答があるかのように生きないといけないという。だが、そんな人生に意味など見出せなかった。