泡沫には名前をつけて。
黒猫の右耳に触れると
小さくにゃあと鳴いた。
それが、嫌だ、なのか
嬉しい、なのか気にするほど
黒猫を大事には出来ない。
桜の木の影で、こほん、と
咳をしたら、黒猫は返事に困って
すりすりと体を寄せた。
それが、好意なのは分かっていた。
だけど、足元に散った花びらを見て
むず痒い気持ちが湧いた。
日が落ちれば、どこかへ帰るその黒猫を
愛おしく思うほど強くはなかった。
季節が過ぎれば散ってしまう
この春の命と同じ事だと思った。
ふと、思いついて
さくら、と声に出したら
また黒猫はにゃあと鳴いた。
冷たい風に運ばれて、夜が近づいていた。
そこらじゅうに夕日の香りが
漂うほど庭の隅々まで赤く染まっていた。
黒猫は片目を細め、こちらを見て
またいつものように背中を向けた。
ゆらり、ゆらり、尻尾を揺らしながら
この庭から出てゆく。
もう戻ってこないのか。
風が、薄闇と黒猫の境界を消した。
夜の始まり、庭に一人。
猫の面影を眺める。